テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「忍辱修行」

瑞浪市 増福寺 住職 辺見智光 師

忍辱ということばをご存じでしょうか。忍辱とは「我慢する」「耐え忍ぶ」ということで、佛教の大切な修行の一つです。

思えば私たちの住むこの世界は生きて行くだけでも我慢し、辛抱することだらけの世界でもあります。

私達は人間関係や暑い寒いといった自然環境、自分の身体であっても病気になったり、年をとったり思い通りにならないことばかり。そんなとき私達は我慢したり、辛抱したりしなければならないことに出会います。

それでも自分のことばかりでなく、他者を思いやり調和をとることや、自然の移り変わりや自分の身体とも上手に付き合っていく方法を探していきます。そうしたことが忍辱ということでありましょう。

今はちょうど彼岸の時節、この忍辱は彼岸に実践すべき修行、六波羅蜜という6つの修行の一つでもあります。

昨年からの新型コロナウイルスの流行以来、私はこの忍辱修行ということを思わずにはおられません。今はみんなで自由に集まって飲食したり、旅行にでかけたりすることもできず、マスクの着用や密集・密接・密閉をさけることをみんなが徹底しております。一人一人が自分だけでなく他者のことを思いやり社会全体の事を考え、我慢し、辛抱し新型コロナウイルスの流行と戦っております。

これまでの日常を取り戻すもうしばしの間、忍辱修行、みんなで共に耐え忍んで参りましょう。

「どこかで誰かが見ていてくれる」

高山市 正宗寺 御住職 原田太石 師

映画やテレビの時代劇で、斬られ役の名優といわれた福本清三さんが、昨年お亡くなりになりました。数年前、娘が、小学校の国語教科書に紹介された福本さんのことを話してくれたことを思い出しました。福本さんは,五十年以上もずっと日本刀で刺されたり,斬られたりしてきました。観ている人が、「あれ? 大丈夫?」となるような斬られ方ができる方でした。斬られ役を見事に演じきる姿は世界的に認められ、アメリカのハリウッド映画にも出演されました。

後日、娘の学級通信には、クラスの女子児童の日記の一文が紹介されていました。

「私の係は、台ふきです。あまり目立つ仕事ではありません。 でも、私は台ふきがとても好きなので、いつもさぼらずやります。そしたら、『係の仕事、がんばっているね。』と掲示板に書かれていました。その時、私は、今日の福本さんの話と同じように、『どこかで、誰かが、見ていてくれるんだな』と感じました。」

さて、今年のNHK大河ドラマの舞台となっている鎌倉時代、大本山永平寺をお開きになられた道元禅師は、弟子たちに次のようにお示しになりました。

「たいていの人は善いことをすると、他人に知られようと思い、悪いことをすると知られまいと思うものです。しかし、間違いは悔い改め、真実の徳は内に隠すのです。どのような役割であっても、自分の利益を意識せず、生きとし生けるものに利益を与えるよう努力することが、仏の道に生きる者のあるべき姿です。」

コロナ禍中の大変な時代だからこそ、福本さんや道元禅師が言われるように、自分の役割をしっかりと果たすよう努めたいと、改めて自分の心に言い聞かせました。

「なるようにしていきましょう」

美濃市 霊泉寺 住職 佐藤隆定 師

年が明けてしばらく経ちました。私が住職を勤めている霊泉寺では、毎年1月に新年の多幸を祈る大般若祈祷法要を行っています。幸せなことが多い年であることを祈るわけですが、これは良いことが起こるのを待つという、受け身の発想なだけではありません。

たとえば、晴れの日と雨の日があったとき、どちらの天気が良い天気でしょうか。一般的に「天気が良い」と言ったとき、それは晴れを意味しています。逆に、天気が悪いと言うとき、それは雨や曇を意味していることが多いでしょう。

しかしながら、晴れと雨について、一概に良い悪いを言うことはできないはずです。雨が降らなくては作物は枯れてしまいますから、雨を心待ちにしている人だっており、その人にとっては雨降りこそが良い天気なわけです。恵みの雨、というような言い方もします。

つまり、良いことや悪いことというのは、最初からそのようなものがあるわけではないということ。もっと言えば、起きたことに対して、自分自身がどのような受け取り方をしたかによって、同じことでも良いことと思えたり悪いことと思えたりするということです。雨降りの日を良い日にするか、悪い日にするか、それは自分の受け取り方次第。幸不幸の分かれ目は、起きた事柄にあるのではなく、自分側にあるということです。

禅の世界には、「日日是好日」という言葉があります。毎日毎日が良い日だ、という意味に解釈されることが多いですが、もう一歩踏み込んで考えれば、毎日毎日を良い日として生きてみよ、という課題と受け取ることができます。実際この言葉は、師匠から弟子へと投げ掛けられた課題の言葉なのです。

多幸な一年を願うだけでなく、多幸な一年になるように生きていきましょう。

「涅槃会について」

美濃市 永昌院 東堂 高橋定申 師

今月二月十五日はお釈迦様が亡くなられた日です。

お釈迦様は今から約三千年前、インドの北クシナガラ河畔にある沙羅双樹の林の中に、床をのべられました。右の脇を下にして横になられ、近くにいたお弟子達に最後の教えを説かれてから、静かに永遠の眠りにつかれたのです。

八十歳の御生涯は、多難な日々の中にも世の常なることを悟り、私達のために諸行の無常をお説きになりました。

教えを聞き、それぞれの道の正しさを知った多くのお弟子達と、多くの生物が悲しみの涙を流している情景の絵が涅槃図です。

今私のお寺の本堂でも、まだお彼岸まで飾っていますので、是非一度お参りいただき、ご覧になって下さい。

皆さんがこの絵を前にした時、どんなことを感じるでしょうか。

今は元気で私たちのために心配をして下さる、お父さんお母さんもいつかは亡くなり、私達の前から姿が消えてしまいます。

今のうちに孝行をしなくてはと思っても、ついそびれてしまう。そんな自分でいいのでしょうか。親孝行は、お墓に入った両親より、生きているうちに行うことが一番ですね。素直な心で一生懸命に働き、学び、両親に安心してもらいましょう。お涅槃の御絵図はやがて我が身に訪れる姿を写して、静かに私たちに教えてくださっているのです。

 

「自分が自分にする供養」

郡上市 林廣院 住職 梅澤元禅 師

昔、お年寄りに、徳をつみなさいよと言われた覚えがあります。何をしたら、どうしたら、徳を積むことが出来るのか分かりません。例えば、人に親切に声掛けても、お年寄りに手を差し伸べても、現代では、小さな親切大きなお世話になりかねません。では、どの様にしたら徳が積めるのかと悩んでしまいます。

近所で知り合いが亡くなったと聞けば、早々にお悔やみに行かなくてはならないが、暑い夏もあれば、寒い冬もあります。更にあの方には大変お世話になったから、行かねばならない場合もあれば、それ程でもないが、仕方ないから行ってくるかという場合もあると思います。

どちらにしても、その場所に足を運ぶ、その行為が亡き人への供養であります。さらに、「自分が自分にする供養」ではないかと思います。しかし、伺う時期はまちまちで暑いから、寒いから、忙しいからと、いろいろ理由を付けながらも、お悔やみに足を運び亡き人の供養を終え、ふっと思い返してみると、その行為が「自分が自分にした供養」。つまり、これがお徳積みではないかと思うのです。

心ある供養には、形式などありません。素直な気持ちで、さらには、先祖の墓参り、月に数回の墓掃除、これもただ花や水を捧げるだけでなく、墓は先祖の身体です。水をかけ、タオルで墓石の汚れを落とし、水で洗い流し、新しいタオルで拭き上げてこそ、何となく爽やかな気持ちになれます。これがお徳積みになるのではないでしょうか?

「平等とは」

山県市 大喜院 御住職 高橋豊和  師

先日、私は訳あって憲法を読むことがありました。中学・高校時代に読んだことがあるとは思うのですが、改めて読み直すと崇高な理想が書かれている印象を受けました。

日本国憲法の3大原理は、基本的人権の尊重、主権在民、平和主義であります。

憲法14条では、「すべて国民は法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会関係において差別されない」と記されています。

平等とは、もとは仏教用語であります。お釈迦様は、いかなるものも、本来は差別がないとして、インドで古くからあるカースト制度を否定されてきました。生きとし生きるもの、何の差別、分け隔てなく、いとおしんでくださると考えられ平等大悲という言葉もあります。

さて、平等は、みんな同じということなんでしょうが、人の人格、価値観、能力、経済力、生まれ育った環境はさまざまであり「みんな同じ」ということは、なかなか難しいと思われます。なので、最低限何を「同じ」にするのかということになるのでしょうが、このとらえ方も人それぞれなので難しいということです。

つまりは、人はそれぞれ考え方が違うので、それを認め合うことにより平等が実現するのではないかと考えます。さまざまな差別、「あの人は○○だから」の決めつけや偏見をなくすことが、日本国憲法でいう崇高な理想を実現するための一つとなるのではないでしょうか。

静かに今を見つめ、一歩を進みましょう。

岐阜県宗務所  所長 小島 尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。

皆様の益々のご健康をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

宗務所所長を拝命して早三年、私の新年テレホン法話は最後となりました。

時に今、二年以前の新型コロナウイルス感染症により、また多くの事件や事故、度重なる自然災害により、人々は心を痛め、苦しみ、悩みの中にいます。

社会は混迷の一途を辿り、私たちは自らの冷静さを見失いがちとなり、誤解や偏見、様々な分断が現われ、人間関係に希薄化が進んでいる感がいたします。

しかし、このような苦難は、過去何度も繰り返され、その度に先人たちは、学び、智慧を出し合い、慈悲の心を持って、他人を思いやり助け合って来たからこそ、私たちの今があるのです。

お釈迦様は人生における苦悩の中で菩提樹の下、坐禅を重ねられ、お悟りを開かれました。

私たちも今こそ、仏様と向かい合い、こころ静かにこの時を見つめ、先人の教えを学び、今の困難に直面しているのは自分だけではないことをまずは自覚し、他人の苦しみも共感出来る思いやりを忘るる事無く、「慈悲の心」「菩提心」を持って、日々を進みましょう。

この一日の精進が、人と人との温かなつながりを深め、この世での私たち自身の徳となり、それがご先祖様への功徳となって、更に家門繁栄、子孫長久にへと繋がることでありましょう。

小さな一歩であっても、進み続けることが、今の世に生きる私たちが安らかに暮らせる明るい明日を迎えることのできる未来への道標となるのです。

「人生はその時その時の積み重ね、正しく、明るく生きましょう。」

心静かに今を見つめ・ともに学び・ともに願い・ともに実践して、新しき良き年へと、一歩を進みましょう。

怨敵退散・如意吉祥ならんことを。

 

「友からの年賀状」

揖斐郡 妙勝寺 住職 岩谷真海 師

揖斐郡池田町の妙勝寺でございます。

令和三年の師走。年の瀬も押し迫り、何かと慌ただしくお過ごしの事ではないでしょうか?

この一年を思い起こしますと、新型コロナウイルスで始まり

コロナ禍の中で過ぎなんとしております。

私達の日常の生活も一変しました。

大変な制約の中での生活でした。

その様な中で、開催の是非は論じられましたが、

2020東京オリンピック・パラリンピックが開催され

テレビの中ではありましたが、私達に大変な感動と出会いを頂きました。

これがテレビではなく直接の出会いであったなら

その感動も倍増されたのではないかと思っております。

私は出会いはご縁だと思っております。「縁は異なもの味なもの」という言葉にあります様に、ご縁とは、男女の出会いだけでなく、人間同士の出会いが善につけ、悪しきにつけ、その人その人の人生まで左右する様な出会いになる事もあります。

「友よ、あなたとの出会いは、私のとっては生きてゆくご褒美」

これは、数年前に私の中学時代の恩師から頂いた年賀状に書かれてあった言葉です。

この友とは、お釈迦様が、同じ道を求める弟子達に言った言葉でもあります。

私にはこの年賀状は衝撃でありました。その先生は私が出家するご縁を頂いた齢九十歳の大先輩の老師であり、その師より「友よ」とのお言葉で始まる年賀状に感動の

余り不覚にも家族の前で涙致しました。

私もこのご縁を機会に、皆様にお伝え致したく思います。

「友よ、あなたに出会えて本当によかった」

ありがとうございました。

新しき年が皆様にとりまして善き年でありますよう、お祈り申し上げます。

「お盆供養によせて」

大垣市 報恩寺 住職 村田英隆 師

お盆の期間は、現在では標準的には8月13日から15日(16日)ですが、7月などに行われる地区もあります。

この供養の特色は、亡きご先祖が家に戻ってくると考えられ、その期間中に手厚く迎え、先祖をしのぶという行事の意味があります。

ちなみに初盆とは、「故人が亡くなり四十九日を過ぎた後、初めて迎えるお盆」です。

お彼岸は、お盆とは逆に、こちらから亡きご先祖様の世界に心をめぐらせ仏様の境地に寄り添う期間でもあります。

3月と9月の春と秋に墓参りをして先祖の供養をします。

一方、施食供養はいつ行っても良いものですが、お盆の時期にあわせて営まれること多いようです。

この行事の特徴は、供養されていない多くの諸霊を併せて施食棚に招いて供養することで、功徳を先祖に回向するという意味合いがあることです。

しかし昨今の猛暑やコロナでのマスクの着用でなかなか厳しいものがあります。お盆や彼岸は親族が集まり先祖への供養のお参りし、絆を深める大切な機会です。

今年は、コロナの影響でお盆の時期に実家へ帰るのをあきらめた方もおられるかもしれません

静かに自己に向き合って生き方を考えてみるのも良いかもしれません。

「飛騨 晩秋から」

高山市 久昌寺 御住職 新村雅芳 師

晩秋の朝。うす霧の中、白い息を吐きながら門頭の灯りを消す。暫くすると霧が晴れ少しづつ陽の光が射しはじめ、わずかの暖かさに有難さを感じる時。

「今朝はさぶかったなぁ」

「ほんとさぶぅなったなぁ」

と、挨拶のやりとりをして、仕事場へ急ぐ。

夕方、一日の仕事を終えて自宅へと向かう。

「日が短こうなったなぁ」

「日が暮れるとさぶいもなぁ」

「今夜はコケ鍋で一杯やるさぁ」

「コケ鍋かええなぁ」

飛騨の山からの贈り物、きのこ鍋である。

その山々の気配も静かな寂しさを感じさせて、やがて綿帽子を覆う準備にかかります。

今年もコロナコロナでくたびれました。何もかもすべてが元の通りという訳にはいかないものの、あとわずかです。元気で頑張りましょう

秋は月 冬雪さえて すずしかりけり