テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
通話料無料フリーダイヤル 0120−112−652

聖路加病院の名誉院長、日野原さんのお話

加茂郡七宗町 東禅寺 住職 泉 義明

今日は 昨年7月に亡くなられた日野原重雄さんのお話をします。

日野原さんは、聖路加病院の名誉院長であり、100歳を超えて なお現役の医者を勤められた方です。

こんな日野原さんは、人にとって「理想的な死」とは、家族や周りの人に「ありがとう」と言って死を迎えることと言っておられます。

この「ありがとう」の一言は、誰にでもある「死」に対する恐怖や悲しさより、温かさや安堵感を周りに与えてくれると言っておられます。

「ありがとう」と言って死を迎えることは、多くの人が望んでいることと思われます。

しかし、現在のような高齢化社会では、「ありがとう」と言って死を迎えることは大変難しく、まさに「理想的な死」だと思います。

このようなとき、今 生きている私たちにとって大切なこと できることは、日ごろから家族や周りの人に サラッと簡単に「ありがとう」ということではないでしょうか?

この「ありがとう」の一言は、確実に家族や周りの人の気持ちを 温かく和やかにしてくれると思います。安堵感を与えてくれると思うのです。

そして、何よりも世の中を明るく元気にしてくれるように思うのです。

今一度 「ありがとう」と口に出すことの 力・大切さ を考えていただきたいと思います。

道徳と合掌

岐阜市 多福院 住職 市橋 正信 師

「道徳」の授業、昔は、それほど重要な授業として位置づけられてなく、週に1時間程度、教科書がなくプリントが配られ、人権的なことを学んだかなという感じの授業ではなかったでしょうか?

それが今、平成30年度より小学校で、平成31年度より中学校で、「特別の教科 道徳」として位置づけられ授業が始まっていきます。もちろん教科として位置づけられるので、数値評価ではありませんが個々の成長の様子が記録されていきます。

「道徳の教科化」の背景には、「いじめ」「ソーシャルメディアの普及」「子供をとりまく地域や家庭の変化」などが挙げられています。また、科学の進歩により、非科学的なことが軽んじられるようになり、祖父・祖母への敬い、継承されるべく慣習・道徳的概念の継承が薄れたことも一因と考えられます。

修証義第一章に、「善悪の報に三時あり。一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受」という一節があります。善悪の報い、すなわち身にはね返ってくる良い行為・悪い行為は、三時、すなわち現在・未来および来世にわたって現れると説いています。

子供の頃、両親から「罰が当たる」「地獄におちる」と言われたものですが、これは「善悪の報に三時あり」になぞられた言葉であります。悪い行為は決してしてはいけませんが、善の報いは、一人ひとりに培われた良心により得られるものです。

現代においては、協調よりも一人ひとりの個人が尊重され、善悪といった道徳的概念を培う場が無いように思えますが、初詣等、神社仏閣を訪れた時の気持ちはどうでしょう。気持ちを整え、合掌・礼拝した時、それはそれは良心に満ち溢れたひと時ではないでしょうか。

そんな機会を、朝のひと時、日常的に実践してみませんか。お仏壇があれば仏様に、お仏壇がなければ朝食を摂られる席で、一人でも。家族みんなでも。

「合掌」こそ「道徳」の実践の第一と考えます。

 

相手の気持ちを察する

揖斐郡揖斐川町 釣月院 浜田 吉晃 師

私は普段、お寺の傍ら介護の仕事をさせていただいています。

5年程前に地元の愛知県から岐阜に引っ越してきた際、それまでやっていた営業職を辞め福祉の職に就きました。

どんな仕事内容かは理解していたつもりでしたが、実際の現場は想像以上に苦労の連続でした。

仕事を始めてすぐに、新しく入所された男性の方に噛みつかれケガをし、数日後には同じ方にメガネをはぎ取られ、壊されます。

暴力的な言動や行為も認知症の大きな症状のひとつなのです。

「とにかく笑顔だけは忘れずにお世話させていただきましょう」

穏やかに、安楽に生活していただける方法やきっかけを見つけ出す事に職員全員で取り組みました。

「仕事一筋で、特に趣味もなく家でもあまりしゃべらない父親でした。ただ飼っていた犬をとても可愛がっていましたね」というご家族のお話しからセラピードッグをお願いしてみました。

最初は犬に対しても暴言を吐いたりしていましたが次第に犬を見る目が変わり、犬に触れ、語りかけるようになっていったのです。

それと同時に職員に対する介護抵抗も少なくなり、ずいぶん穏やかに生活されるようになりました。

私は後で知ったのですが、仏教用語に『和顔愛語、先意承問(わげんあいご、せんいじょうもん)』

という言葉があります。

「和顔」とは、なごやかな顔、「愛語」とは、やさしい言葉です。

「先意承問」とは相手の気持ちを先に察して、相手の為に何が出来るのかを考え、自ら進んで手を差し伸べていくという意味です。

しかし、いざ実践するとなると容易ではありません。

愛情を感じていない相手にやさしい言葉をかけるのは、なかなか難しいものです。

そこで大切になってくるのが、相手の為に何が出来るのか自分に問いただす事、「先意承問」なのです。

人間のやさしい言葉、なごやかな顔、いたわりの気持ちが人の心を溶かし、安楽な生活を作り出します。

 

拝む人

大垣市 全昌寺 住職 不破 英明 師

住職になり一年目のことでした。遠方の檀家様がお亡くなりになり、早速駆けつけた私は枕経の後、故人様の奥様からお話を伺っていました。その中に強く印象に残るお話がありました。亡くなられたご主人は生前、通る道すがらお地蔵さまがいらっしゃると必ず立ち止まり、掌を合わせて般若心経を読まれたとのことでした。奥様が「急いでいるから早く行きましょう」あるいは「人が見ているから早く行きましょう」と声を掛けてもお経を読み終えるまで動かず、お地蔵様を拝んでおられたそうです。最初はお地蔵様の近所の方々も訝しげに見られていたそうですがしかし、信念を貫き只管お経を読み掌を合わせておられる御主人の姿を見て、次第に「有難うございます」と声をかけられるようになったとのことでした。

このお話を聞かせていただいて思い出されたのが中国唐の時代、洞山良价禅師様が示された「寳鏡三昧」というお経です。その寳鏡三昧に「潜行密用は愚の如く魯の如し、只能く相続するを主中の主と名づく」という一節があります。『人知れずとも行う綿密な行持は、愚かなものの如く平々凡々に見えるがそれでよい。それを続けることが大切であり尊い真の生き方である』という意味です。奥様から御主人のお話を聞いてゆくなかで、「こういうことを真に実践しておられたのだ。立派な方でいらっしゃったのだ」と深い尊敬の念を以てあらためてお顔を拝ませていただきました。奥様を通じて私に教えていただいたことを大切にし、これから住職を勤めてまいりますと心の中で念じ、ご葬儀を執り行いました。

誰しもがやらねばならないと信ずることがあります。しかしそのことを続けてゆこうとすると色々な差し障りが出てきます。先ほどの他人の目というのもその一つでしょう。そうした「差し障り」というのは自身の外側にあるようにみえて実は多くの場合自分自身が生み出した妄想でありそれが自らの願いを妨げているのです。何をも自らをとどめるものはないのだと自分自身を奮い立たせ解き放つことで、はじめて信ずることを行い続け真の人間としての生き方に近づくことができるのです。愚の如く魯の如し、愚かなことをと言われても、信ずることを行い続けるこの心を以て、皆様の普段の生活のどんな些細な事柄にも光をあてていただければと思います。ご清聴有難うございました。

 

薫習

海津市 春光寺 住職 横井晋司 師

仏教には、薫習という言葉があります。

「くん」とは、かおるという字を書き、香を焚くという意味です。「じゅう」とは、ならうという字を書きます。

意味は、お香を焚いたにおいが衣に移るように、その人の体、口、心の行いが知らず知らずのうちに影響を与え、または、逆に影響を受け、その人の行いを形作っていくことを意味します。

例えば、方言があります。私には、小学生になる子どもがいます。子どもが普段話す言葉は、方言です。誰かが教えたわけではなく、自然にその意味を理解し、使いこなしています。これも薫習です。

しかし、良いことばかりではありません。ある時、子どもが寝転んでお菓子を食べていました。妻に注意された子どもはこう言ったのです。

「お父さんも寝転んで食べているのに。」

私は、はっとしました。子どもの手本になろうと良い行いを心掛けていたつもりでしたが、悪い行いもしっかり見られていたのです。

これは、子どもに言えることだけではありません。自分の行いは、いつ、どこで、誰に見られているかわかりません。人に悪い影響を与える行いをしていないか、日々、反省し、人に良い影響を与える行動を心掛け、生きていきましょう。

大切な日常

岐阜市 医王寺 住職 透 隆嗣

小泉吉宏という方が書かれた「ブタのいどころ」の中にこんなお話があります。

主人公がお坊さんに尋ねました。「人生にとって何が一番大切ですか?」お坊さんはこう聞き返します。「お昼ご飯は何を食べましたか?」主人公はこう答えます。「そんなことより人生の大切なことを教えてください」お坊さんはその言葉に対して「そうですか。ご飯は大切ではないのかな、お茶を飲んだり、寝転んだり、歩いたり座ったり、泣いたり笑ったりするのも大切ではないのかな」更にお坊さんは主人公に尋ねます。「さて、お昼ご飯は食べましたか?」と。

私達は、自らの夢や目標に向かって進んで行くこと、何かを成し遂げるために努力し続けていくこと、前を向いて進んで行くことは大切なことです。同時に、毎日の生活の行い総てが大切なのだということ。そのことに気づき、自らの足下を見つめて、今この時の一つ一つの行いの大切さをかみしめて日々を過ごしていきたいものです。

かけがえのない一日

岐阜市 吉祥寺 住職 志比道栄

皆さんこんにちは。修証義の5章に「月日は飛ぶ弓矢よりも早く過ぎ、私たちの体や命は朝露よりもはかない」と道元禅師は言われています。

檀家のお母さんたちとお話していると、「おっさま、80も過ぎると一年があっという間でね。またすぐにお正月がやって来る。」とよく伺います。

本当に年を取るごとに、日々の生活や時間の経過が早く感じられます。でも何故でしょう?どの人にも時間は等しく一日24時間、一年は365日あるはずなのに、なぜ年を取るにつれ私たちは一年一年が早く感じられる様になるでしょうか?

それは10歳の子どもが10回お正月を迎えるよりも、80歳の大人が80回のお正月を迎えるに当たり、知らず知らずの間に「慣れや経験」が身に付き、次は何が起こるのか、この季節は何をしなければいけないのか。など次の出来事を予測してみることが出来き、習慣が身に着くからです。

例えば小学1年生の孫が、朝顔の種を植えいつ芽が出るか、そわそわわくわく待つ時間は長く感じられ、祖父母が畑に植えた野菜の苗には、この施しをすれば夏には収穫出来ると予測が出来ているのと同じです。

また別の例えをすると、初めて自動車で行く知らない場所への運転は「この道でよかっただろうか?時間は間に合うだろうか?」など色々な事に思いを巡らせ長い時間と距離に感じられますが、帰り道同じ道を戻ってみると意外と早かったように感じます。

小学校の6年間が中学高校の6年間よりも長く感じられたのは、私たちは初めて経験している時は印象とともに時間を長く感じ、一度経験したことは「またか」の気持ちが知らず知らずに気持ちの中に生まれ、新鮮さを失い、印象に残らない時間を過ごしているからと言えます。

同じ一日でも今日は昨日と違います。明日でもありません。今日はもう二度とない今日だけの時間です。

修証義の続きに「無意味に百年過ごすのは取り返しのつかない時間であり、悲しい自分のいのちの使い方である。」と示されています。

しかし私たちは毎日毎日、心ときめくような出来事ばかりには出会わないでしょうし、ハラハラドキドキを求めていつも出歩く訳にもいきません。でも、私たちのいのちは一秒一秒短くなっていますね。

朝目覚めて今日を迎えた自分のいのちに感謝、ごはんが今日も美味しく頂ける自分の体に感謝、楽しい鳥のさえずり・美しく咲いてくれる季節の花のいのちに感謝、私を守ってくれる全てに感謝。毎日の生活は大変ですけど、感謝の気持ちを持て生活できれば、今日の一期一会の出会いや出来事に、新鮮な気持ちと充実した一日の時間が持てると思います。

修行の場である場所

羽島市 本覚寺 住職 大橋 陵賢

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように今年の猛暑も忘れ去り過ごしやすい陽気になりました。彼岸の意味を知らなくても、お墓参りに行くという行いは誰もが知っていることではないでしょうか。そのお墓、石塔を建てる他に永代供養墓や樹木葬など数多の形態がございます。どれが良いとかではなく、重要なのは「集う場所」であるのです。

仏教では旅立った後の世界つまり死後の世界と今生きている世界を分け隔てなく捉えています。でも現実には、遠く離れているように感じますよね。そんな時、旅立った皆様と今生きている私たちが集える場所がお墓であるのです。お仏壇は個人宅にありいつでもお参りできるわけではありません、ですが墓地のそのほとんどが二十四時間いつでも御参りできるのです。困りごと、人生での分岐点など迷うことがあったら、どうかお墓の前で手を合わせて下さい。右の道なのか左の道なのか必ずその道筋を示していただけます。自分自身を見つめなおす行いを実践する場所がお墓なのです。お彼岸だからお墓参りに行こうというだけでなく、どうぞ足蹴なく集っていただきたい場所であるのです。

勇気ある心

各務原市 良守寺 住職 渡邉良光

出張先での体験をお話しします。

老僧二人、手に思いカバンと背にリュックを背負い都電に乗車した車中の出来事です。乗客満員の中、ふらつかない様まず身の安全を定めていたら、前にいる人に席を変わってあげなさいと乗車口の方から大きな声が聞こえてきました。振り向くと和服姿の良く似合うご婦人二人がおられ、そのご婦人のうち恰幅のいいお方の声でした。私達の目の前に座ってゲーム機で遊んでいた6歳位の男の子と4歳くらいの女の子に言っておられたのです。

小さいお子さんですので「私達は大丈夫ですよ」と、言いましたが、いやいやこれは大事なことです。これから先、この子達が大人になって行くのに大切な躾であり教育ですと、前よりも強い口調でまた、変わってあげなさいの声で二人のお子さんは真向かいに座ってスマホに夢中のお母さんのところへ移動。お子さんにお礼を言って座らせて頂きました。

満員の車中、一瞬シーンとした空気が感じられました。乗客の皆さんはこのやり取りの様子をどう感じておられたのでしょう。私達もご婦人の勇気ある言葉にしばらく圧倒されていました。今まで目に余る場面にしばしば私も遭遇してきました。一言いってあげたい、と思う前に周りの人目のはがかりと心の弱さから声をかけてあげる勇気が出ませんでした。誠に恥ずかしい限りです。大勢の人前で堂々と正しきことの導きができるご婦人はご立派だと感服いたしました。

私達の子供の頃は自分の子もよその子も分け隔てなく「悪い事は悪い」と周りの人達が叱って下さったものです。少子化で現代はそのような場面が見受けられません。真心と勇気をもって何事もきちっと導き伝え行くことは御仏様の御心であり教えそのものなのです。二人のお子さんはきっとこの体験の学びから立派に成長して行かれることでしょう。

子供は国の宝物です。周りの私達が、その場、その時に応じた言葉がけで未来ある子供達を守って行きましょう。

心に育む挨拶を

各務原市 長楽寺 住職 古川道弘

あなたは毎朝ご家族やご近所の方に「おはよう」と挨拶していますか。私は毎朝必ず、家族同士の挨拶は大切に実行しています。挨拶をすることによって、まず自分の心を開き、同時に相手の聞かれた心との交わり方によって、お互いの心を通わせ合い、理解し合うのです。どんな話し合いも、心が閉ざされ
ていたのでは、決してうまくいきません。
人間関係はすべて挨拶に始まり挨拶に終わります。たとえば、よそのお宅を訪問した時、まず挨拶、用件が終わり、帰る時も挨拶して帰りますね。いうならば、挨拶は心の交わりのための架け橋であり潤滑油だと言ってよいでしょう。
心は人とのつながりの中で育まれます。そのつながりを生むのは言葉、なかでもまず第
一に「挨拶」であります。朝しっかり「おはよう」と言い、自分に施してくれる方に「ありがとう」と心を込めて言葉にすることであります。
家庭内の挨拶は「おはよう」から始まって、食事の時の「いただきます」「ごちそうさま」、出かける時の「行ってきます」「行ってらっしゃい」、帰った時の「ただいま」「おかえりなさい」、そして夜やすむ前の「おやすみ」、この八つしかありません。この八つがすべてできなくとも、せめて五つや六つはぜひ毎日実行したいものです。
皆様におかれましてはご自身のご修行、またこれから先に立つ頼もしい子供たちのために日々の中でたくさんの心のこもった言葉を掛け合いましょう。