テレフォン法話

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大切な日常

岐阜市 医王寺 住職 透 隆嗣

小泉吉宏という方が書かれた「ブタのいどころ」の中にこんなお話があります。

主人公がお坊さんに尋ねました。「人生にとって何が一番大切ですか?」お坊さんはこう聞き返します。「お昼ご飯は何を食べましたか?」主人公はこう答えます。「そんなことより人生の大切なことを教えてください」お坊さんはその言葉に対して「そうですか。ご飯は大切ではないのかな、お茶を飲んだり、寝転んだり、歩いたり座ったり、泣いたり笑ったりするのも大切ではないのかな」更にお坊さんは主人公に尋ねます。「さて、お昼ご飯は食べましたか?」と。

私達は、自らの夢や目標に向かって進んで行くこと、何かを成し遂げるために努力し続けていくこと、前を向いて進んで行くことは大切なことです。同時に、毎日の生活の行い総てが大切なのだということ。そのことに気づき、自らの足下を見つめて、今この時の一つ一つの行いの大切さをかみしめて日々を過ごしていきたいものです。

かけがえのない一日

岐阜市 吉祥寺 住職 志比道栄

皆さんこんにちは。修証義の5章に「月日は飛ぶ弓矢よりも早く過ぎ、私たちの体や命は朝露よりもはかない」と道元禅師は言われています。

檀家のお母さんたちとお話していると、「おっさま、80も過ぎると一年があっという間でね。またすぐにお正月がやって来る。」とよく伺います。

本当に年を取るごとに、日々の生活や時間の経過が早く感じられます。でも何故でしょう?どの人にも時間は等しく一日24時間、一年は365日あるはずなのに、なぜ年を取るにつれ私たちは一年一年が早く感じられる様になるでしょうか?

それは10歳の子どもが10回お正月を迎えるよりも、80歳の大人が80回のお正月を迎えるに当たり、知らず知らずの間に「慣れや経験」が身に付き、次は何が起こるのか、この季節は何をしなければいけないのか。など次の出来事を予測してみることが出来き、習慣が身に着くからです。

例えば小学1年生の孫が、朝顔の種を植えいつ芽が出るか、そわそわわくわく待つ時間は長く感じられ、祖父母が畑に植えた野菜の苗には、この施しをすれば夏には収穫出来ると予測が出来ているのと同じです。

また別の例えをすると、初めて自動車で行く知らない場所への運転は「この道でよかっただろうか?時間は間に合うだろうか?」など色々な事に思いを巡らせ長い時間と距離に感じられますが、帰り道同じ道を戻ってみると意外と早かったように感じます。

小学校の6年間が中学高校の6年間よりも長く感じられたのは、私たちは初めて経験している時は印象とともに時間を長く感じ、一度経験したことは「またか」の気持ちが知らず知らずに気持ちの中に生まれ、新鮮さを失い、印象に残らない時間を過ごしているからと言えます。

同じ一日でも今日は昨日と違います。明日でもありません。今日はもう二度とない今日だけの時間です。

修証義の続きに「無意味に百年過ごすのは取り返しのつかない時間であり、悲しい自分のいのちの使い方である。」と示されています。

しかし私たちは毎日毎日、心ときめくような出来事ばかりには出会わないでしょうし、ハラハラドキドキを求めていつも出歩く訳にもいきません。でも、私たちのいのちは一秒一秒短くなっていますね。

朝目覚めて今日を迎えた自分のいのちに感謝、ごはんが今日も美味しく頂ける自分の体に感謝、楽しい鳥のさえずり・美しく咲いてくれる季節の花のいのちに感謝、私を守ってくれる全てに感謝。毎日の生活は大変ですけど、感謝の気持ちを持て生活できれば、今日の一期一会の出会いや出来事に、新鮮な気持ちと充実した一日の時間が持てると思います。

修行の場である場所

羽島市 本覚寺 住職 大橋 陵賢

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように今年の猛暑も忘れ去り過ごしやすい陽気になりました。彼岸の意味を知らなくても、お墓参りに行くという行いは誰もが知っていることではないでしょうか。そのお墓、石塔を建てる他に永代供養墓や樹木葬など数多の形態がございます。どれが良いとかではなく、重要なのは「集う場所」であるのです。

仏教では旅立った後の世界つまり死後の世界と今生きている世界を分け隔てなく捉えています。でも現実には、遠く離れているように感じますよね。そんな時、旅立った皆様と今生きている私たちが集える場所がお墓であるのです。お仏壇は個人宅にありいつでもお参りできるわけではありません、ですが墓地のそのほとんどが二十四時間いつでも御参りできるのです。困りごと、人生での分岐点など迷うことがあったら、どうかお墓の前で手を合わせて下さい。右の道なのか左の道なのか必ずその道筋を示していただけます。自分自身を見つめなおす行いを実践する場所がお墓なのです。お彼岸だからお墓参りに行こうというだけでなく、どうぞ足蹴なく集っていただきたい場所であるのです。

勇気ある心

各務原市 良守寺 住職 渡邉良光

出張先での体験をお話しします。

老僧二人、手に思いカバンと背にリュックを背負い都電に乗車した車中の出来事です。乗客満員の中、ふらつかない様まず身の安全を定めていたら、前にいる人に席を変わってあげなさいと乗車口の方から大きな声が聞こえてきました。振り向くと和服姿の良く似合うご婦人二人がおられ、そのご婦人のうち恰幅のいいお方の声でした。私達の目の前に座ってゲーム機で遊んでいた6歳位の男の子と4歳くらいの女の子に言っておられたのです。

小さいお子さんですので「私達は大丈夫ですよ」と、言いましたが、いやいやこれは大事なことです。これから先、この子達が大人になって行くのに大切な躾であり教育ですと、前よりも強い口調でまた、変わってあげなさいの声で二人のお子さんは真向かいに座ってスマホに夢中のお母さんのところへ移動。お子さんにお礼を言って座らせて頂きました。

満員の車中、一瞬シーンとした空気が感じられました。乗客の皆さんはこのやり取りの様子をどう感じておられたのでしょう。私達もご婦人の勇気ある言葉にしばらく圧倒されていました。今まで目に余る場面にしばしば私も遭遇してきました。一言いってあげたい、と思う前に周りの人目のはがかりと心の弱さから声をかけてあげる勇気が出ませんでした。誠に恥ずかしい限りです。大勢の人前で堂々と正しきことの導きができるご婦人はご立派だと感服いたしました。

私達の子供の頃は自分の子もよその子も分け隔てなく「悪い事は悪い」と周りの人達が叱って下さったものです。少子化で現代はそのような場面が見受けられません。真心と勇気をもって何事もきちっと導き伝え行くことは御仏様の御心であり教えそのものなのです。二人のお子さんはきっとこの体験の学びから立派に成長して行かれることでしょう。

子供は国の宝物です。周りの私達が、その場、その時に応じた言葉がけで未来ある子供達を守って行きましょう。

心に育む挨拶を

各務原市 長楽寺 住職 古川道弘

あなたは毎朝ご家族やご近所の方に「おはよう」と挨拶していますか。私は毎朝必ず、家族同士の挨拶は大切に実行しています。挨拶をすることによって、まず自分の心を開き、同時に相手の聞かれた心との交わり方によって、お互いの心を通わせ合い、理解し合うのです。どんな話し合いも、心が閉ざされ
ていたのでは、決してうまくいきません。
人間関係はすべて挨拶に始まり挨拶に終わります。たとえば、よそのお宅を訪問した時、まず挨拶、用件が終わり、帰る時も挨拶して帰りますね。いうならば、挨拶は心の交わりのための架け橋であり潤滑油だと言ってよいでしょう。
心は人とのつながりの中で育まれます。そのつながりを生むのは言葉、なかでもまず第
一に「挨拶」であります。朝しっかり「おはよう」と言い、自分に施してくれる方に「ありがとう」と心を込めて言葉にすることであります。
家庭内の挨拶は「おはよう」から始まって、食事の時の「いただきます」「ごちそうさま」、出かける時の「行ってきます」「行ってらっしゃい」、帰った時の「ただいま」「おかえりなさい」、そして夜やすむ前の「おやすみ」、この八つしかありません。この八つがすべてできなくとも、せめて五つや六つはぜひ毎日実行したいものです。
皆様におかれましてはご自身のご修行、またこれから先に立つ頼もしい子供たちのために日々の中でたくさんの心のこもった言葉を掛け合いましょう。

坐禅に親しむ

飛騨市 久昌寺 住職 御福 光雄 師

 八月盆も過ぎ、慌ただしかった時間の流れからほんの少し離れて坐禅に親しんでみてはいかがでしょうか。

 禅宗に於いては、禅の修行に欠かせないものとして坐禅がございます。坐禅を修行の根本として坐禅の実践によって得られる身と心の安らぎがそのまま佛様の姿であると自覚し、佛道にならった生き方を日々目指しております。

 私たちは、この世に人間として尊い命をいただいております。尊い得難いご縁をいただいて、

更には日々の生活において、人生を誤らないために正しい道しるべとしての教えもいただいているにも関わらず、今日の社会はどうでしょう。何ともあさましい欲に絡んだ感情をむき出しにした醜い心の振る舞いが如何に多いことか。欲望や感情、私利私欲に走り、その上他人を傷つける言動など、争いごとの絶えないこの現実は、佛様の教えに反することであり人間としての行いではありません。

 福井県に在る大本山永平寺をお開きになられた道元禅師様は、日常の生活の中にあって坐禅の心で生きることが何よりも大切であるということを示され、ひたすら坐禅修行に打ち込まれました。坐禅の心で生きるということは、お釈迦様の教えに出会うということ、その出会うことができた喜びに感謝する日々の暮らしであると共に、お釈迦様のご恩に報いての生活を実践する心のよりどころなのであります。

 背筋を伸ばし、呼吸を整え、心を落ち着かせることによって坐禅の心、すなわち心豊かな自分に目覚める心がきっとはたらきます。

 是非坐禅に親しんでみて下さい。

背中があったかい

飛騨市 長久寺 住職 守田 智昭 師

皆様は背中が温かくなったことがありますか?

私は、ある檀家さんのお家に、お経を読みに行くと、必ず背中が温かくなるのです。

「出迎え三歩、見送り七歩」という言葉がありますが、「お客様を迎え入れる時には、こちらから三歩進んで迎い入れ、お見送りする時には、七歩進んでお見送りをする」という、日本のおもてなしの精神を現した言葉です。

この諺のように、そのお家の方々は、お約束の時間前には外に出て、私の来るのを待っていて下さるのです。また、帰る時には、私の姿が見えなくなるまで、じっと見送ってくださいます。

すると私の背中は、不思議と温かくなってくるのです。

ただ、じっと見送られているだけなのに、その、深い思いやりと優しさが、私の心にじーんと伝わってくるのです。

真心を相手に伝えるには、特に言葉は無くても届けられるのだと、また、深い思いがあれば、眼差しだけで、人はこんなにも、温かく幸せな気持ちになれるのだと、教えていただく事が出来ました。

私もこのご家族のように、人様の背中を温かくならせてあげられる、そんな優しく思いやりのある、深い眼差しを育ててゆきたいと思いました。

一挨一拶(いちあいいっさつ)

飛騨市 玄昌寺 住職 澤田 祥信 師

子どもを取り巻く事件が増えています。知らない人に声をかけられたら、「笛を吹いたり」、「近くの見守りをしてくれる家に駆けこみなさい」というようなことを学校からの指導がされているところもあります。これも、今の時代、防犯の面から仕方がないかもしれません。また、歩いている人は、前を見ず、スマホを見ながら歩くという時代です。まして、あいさつなどしない時代になってきています。

「一挨一拶(いちあいいっさつ)」という言葉があります。これは、師匠が弟子に声をかけ、相手の悟りの深さを測ることから始まっています。師匠と弟子のふれあいが、今では、相手と心をふれ合わせる手段の「挨拶」に変化したものです。

現在では、相手の悟りの具合を見るわけではありませんが、「おはようございます」という言葉から、声や表情により相手の様子を知ることができます。お互いの理解を深めるきっかけになるかもしれません。

大きな声であいさつをされれば、相手もうれしいものですし、自分自身も気持ちが良くなります。

通学中の子どもに、先に大きな声で「おはようございます」とあいさつされたら、良からぬ気も起きないと思います。

墓参り

飛騨市 光明寺 住職 藤戸 紹道 師

これは聞いた話です。今から二百年ほど前、風外本高(ふうがいほんこう)という風変わりな坊さんがいた。この和尚の絵がまた素晴らしく蛸風外と言って世に珍重されている。彼のこの寺は破れ放題に破れた荒れ寺だったが、風外は一向頓着もなく座禅と修行に余念がなかった。

そこへ、大阪屈指の豪商、川勝太兵エがやってきた。彼は大きな悩みを抱えて進退窮し、風外に指導を仰ごうと思ってきたのだった。彼は自分の苦しい現況を述べるのだが、和尚はまじめに聞いてくれない。というのは、和尚は先刻からあらぬ方向を見つめている。一匹の虻(あぶ)が障子にぶつかっては落ち、また飛び上がっては障子にぶつかって落ちる。それをジーっと見つめている。

たまりかねた太兵エ、

「方丈様はよほど虻がお好きと見えますなぁ」

というと、

「おお、これは失礼」といい、

「太兵エ殿、よくごらんなされ。この破れ寺、どこからでも外に出られるのに、あの虻、自分の出る処はここしかないとばかりに障子にぶつかっては落ち、飛んではまたぶつかる。このままだとあの虻、死んでしまう。しかし太兵エ殿、これと同じことをやっている人間も多いでのう・・」

この言葉を聞いて太兵エ、グァーンと頭を殴られた思いだった。

「ああ、そうだった。わしはこの虻とおなじだったんだ。」と、風外和尚の教えを身に染みて感じ取り、厚く礼を述べると、和尚は、

「お礼はあの虻に言いなされ。これが本当の南無あぶ陀仏だよ」いや失礼、南無釈迦牟尼仏。

むかし、よく、何か悩み事が或る時は先祖の墓参りに行けと言われた。先祖が何かしてくれるわけではないが、その行く途中に会った人が、手助けをしてくれるきっかけとなることもあるし、話にのってくれるかもしれない。また、人に言えないことでも、先祖にはしゃべれて、気がはればれとするものである。墓参りにいって先祖と語らってきてください。

和敬清寂

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本 孝規 師

「和敬清寂」という言葉が禅や茶道の世界にはあります。文字は平和の和、敬うの敬、清らかの清、寂しいの寂です。この言葉の元は、お茶の祖とされている村田珠光(むらたじゅこう)という人物が、一休宗純に禅の心をもってお茶を点てるようにすすめられ、茶道の心をしるした言葉が元とされており、のちに千利休が茶道の根本精神として示して広く伝わったとされています。

私もお茶をしておりますが、禅と同じくらい和を感じます。

和というのは、日本人が最も大切にしてきたことのひとつだと思います。

聖徳太子の十七条憲法に「和を以て貴しと為す」という言葉があります。日本が国家としての体裁をととのえ始めた七世紀始めに、すでに「和」が私たちの心を支える大事な背骨とされていたのです。

人と人との関係だけではなく、料理の味付けから芸術における調和、サッカーや野球などのスポーツでも「チームの和」なんてことを大事にしますよね。

「和敬清寂」の四文字は、禅や茶道の世界だけにとどまらず、日本人の求める心を簡潔にあらわしていると思います。

たとえば、「一期一会」の縁で出会った者同士が、和やかに打ち解けて、互いを敬い尊重し合う。清らかな心で生きて、「寂」、すなわち悩みも迷いもない純粋で透明な境地にいたるということです。

「和」の心で互いを認め合えば「敬」が生まれ、「清」を得て「寂」にいたるでしょう。四つの字を心に思い浮かべてみてください。そうするだけで心がスーッと落ち着いてくるような気がしませんか。

どれだけ年を取り、どんなに時代が変わっても、この話を聞いていただいた皆様には忘れてほしくない言葉です。