テレフォン法話

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背中があったかい

飛騨市 長久寺 住職 守田 智昭 師

皆様は背中が温かくなったことがありますか?

私は、ある檀家さんのお家に、お経を読みに行くと、必ず背中が温かくなるのです。

「出迎え三歩、見送り七歩」という言葉がありますが、「お客様を迎え入れる時には、こちらから三歩進んで迎い入れ、お見送りする時には、七歩進んでお見送りをする」という、日本のおもてなしの精神を現した言葉です。

この諺のように、そのお家の方々は、お約束の時間前には外に出て、私の来るのを待っていて下さるのです。また、帰る時には、私の姿が見えなくなるまで、じっと見送ってくださいます。

すると私の背中は、不思議と温かくなってくるのです。

ただ、じっと見送られているだけなのに、その、深い思いやりと優しさが、私の心にじーんと伝わってくるのです。

真心を相手に伝えるには、特に言葉は無くても届けられるのだと、また、深い思いがあれば、眼差しだけで、人はこんなにも、温かく幸せな気持ちになれるのだと、教えていただく事が出来ました。

私もこのご家族のように、人様の背中を温かくならせてあげられる、そんな優しく思いやりのある、深い眼差しを育ててゆきたいと思いました。

一挨一拶(いちあいいっさつ)

飛騨市 玄昌寺 住職 澤田 祥信 師

子どもを取り巻く事件が増えています。知らない人に声をかけられたら、「笛を吹いたり」、「近くの見守りをしてくれる家に駆けこみなさい」というようなことを学校からの指導がされているところもあります。これも、今の時代、防犯の面から仕方がないかもしれません。また、歩いている人は、前を見ず、スマホを見ながら歩くという時代です。まして、あいさつなどしない時代になってきています。

「一挨一拶(いちあいいっさつ)」という言葉があります。これは、師匠が弟子に声をかけ、相手の悟りの深さを測ることから始まっています。師匠と弟子のふれあいが、今では、相手と心をふれ合わせる手段の「挨拶」に変化したものです。

現在では、相手の悟りの具合を見るわけではありませんが、「おはようございます」という言葉から、声や表情により相手の様子を知ることができます。お互いの理解を深めるきっかけになるかもしれません。

大きな声であいさつをされれば、相手もうれしいものですし、自分自身も気持ちが良くなります。

通学中の子どもに、先に大きな声で「おはようございます」とあいさつされたら、良からぬ気も起きないと思います。

墓参り

飛騨市 光明寺 住職 藤戸 紹道 師

これは聞いた話です。今から二百年ほど前、風外本高(ふうがいほんこう)という風変わりな坊さんがいた。この和尚の絵がまた素晴らしく蛸風外と言って世に珍重されている。彼のこの寺は破れ放題に破れた荒れ寺だったが、風外は一向頓着もなく座禅と修行に余念がなかった。

そこへ、大阪屈指の豪商、川勝太兵エがやってきた。彼は大きな悩みを抱えて進退窮し、風外に指導を仰ごうと思ってきたのだった。彼は自分の苦しい現況を述べるのだが、和尚はまじめに聞いてくれない。というのは、和尚は先刻からあらぬ方向を見つめている。一匹の虻(あぶ)が障子にぶつかっては落ち、また飛び上がっては障子にぶつかって落ちる。それをジーっと見つめている。

たまりかねた太兵エ、

「方丈様はよほど虻がお好きと見えますなぁ」

というと、

「おお、これは失礼」といい、

「太兵エ殿、よくごらんなされ。この破れ寺、どこからでも外に出られるのに、あの虻、自分の出る処はここしかないとばかりに障子にぶつかっては落ち、飛んではまたぶつかる。このままだとあの虻、死んでしまう。しかし太兵エ殿、これと同じことをやっている人間も多いでのう・・」

この言葉を聞いて太兵エ、グァーンと頭を殴られた思いだった。

「ああ、そうだった。わしはこの虻とおなじだったんだ。」と、風外和尚の教えを身に染みて感じ取り、厚く礼を述べると、和尚は、

「お礼はあの虻に言いなされ。これが本当の南無あぶ陀仏だよ」いや失礼、南無釈迦牟尼仏。

むかし、よく、何か悩み事が或る時は先祖の墓参りに行けと言われた。先祖が何かしてくれるわけではないが、その行く途中に会った人が、手助けをしてくれるきっかけとなることもあるし、話にのってくれるかもしれない。また、人に言えないことでも、先祖にはしゃべれて、気がはればれとするものである。墓参りにいって先祖と語らってきてください。

和敬清寂

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本 孝規 師

「和敬清寂」という言葉が禅や茶道の世界にはあります。文字は平和の和、敬うの敬、清らかの清、寂しいの寂です。この言葉の元は、お茶の祖とされている村田珠光(むらたじゅこう)という人物が、一休宗純に禅の心をもってお茶を点てるようにすすめられ、茶道の心をしるした言葉が元とされており、のちに千利休が茶道の根本精神として示して広く伝わったとされています。

私もお茶をしておりますが、禅と同じくらい和を感じます。

和というのは、日本人が最も大切にしてきたことのひとつだと思います。

聖徳太子の十七条憲法に「和を以て貴しと為す」という言葉があります。日本が国家としての体裁をととのえ始めた七世紀始めに、すでに「和」が私たちの心を支える大事な背骨とされていたのです。

人と人との関係だけではなく、料理の味付けから芸術における調和、サッカーや野球などのスポーツでも「チームの和」なんてことを大事にしますよね。

「和敬清寂」の四文字は、禅や茶道の世界だけにとどまらず、日本人の求める心を簡潔にあらわしていると思います。

たとえば、「一期一会」の縁で出会った者同士が、和やかに打ち解けて、互いを敬い尊重し合う。清らかな心で生きて、「寂」、すなわち悩みも迷いもない純粋で透明な境地にいたるということです。

「和」の心で互いを認め合えば「敬」が生まれ、「清」を得て「寂」にいたるでしょう。四つの字を心に思い浮かべてみてください。そうするだけで心がスーッと落ち着いてくるような気がしませんか。

どれだけ年を取り、どんなに時代が変わっても、この話を聞いていただいた皆様には忘れてほしくない言葉です。

不放逸

恵那市 瑞現寺 副住職 坂 英世 師

お釈迦さまの遺言でもある不放逸(ふほういつ)という教えがあります.放逸というのが「不注意」「油断」ほどの意味ですので,不放逸は「注意深い」「油断していない」といった様子を表すことばです.本来は仏道修行全体について,まさに「いつやるか,今でしょ」という態度で臨むことを説く教えですが,今回はもう少し具体的な例で考えてみたいと思います.

私が僧堂に居りました時,何よりもまず教え込まれたのが,身の回りの整頓と掃除でした.最初はただただ言われた通りにやろうというような意識でしたが,途中からはそれがいい意味での習慣となり,自分からきちんとやろうと思えるほどにはなっていました.

ある日,朝のお勤めでお拝をしようとしましたら,ちょうど私の目の前に大きめの埃があるのに気づきました.気づいたのですが,私はとりあえずそのままお拝をしたんですね.そうしましたら案の定と言いますか,隣にいた先輩の和尚さんから拾いなさいと小声で言われてしまいまして,慌てて拾ったということがございました.

そのとき私が埃を拾うことを見送ったのは,まさに私の油断でした.「まあいいか」という思いがあったんですね.自分では掃除をきちんとやる習慣がついていると思っていたのですが,それはルーティーンとして掃除をやっていただけの話で,目の前にある埃を拾えなかったわけです.自分で自分にショックを受けましたが,それ以来「目の前に落ちている埃を拾える人間でいよう」と自分に言い聞かせています.

しがない話ですが,これが私にとっての不放逸です.正確には不放逸の一端というべきでしょう.いわゆる魔が差すということがないよう,何事にも不放逸であるのが理想ですが,私はまずはここからと思っています.

今回は不放逸という教えがあるんだということを,心に留めて頂ければ幸いです.

生を明らめ死を明らむるは

中津川市 東円寺住職 松山 宗永 師

作家の五木寛之さんと瀬戸内寂聴さんの対談の中に、こんな話がありました。

五木さんがこう質問されました

「単純な質問なんですけど、この科学の発達して宇宙へも行く時代に、どうして人間はこれほどまでに魂とか心とかにこだわるのでしょうか?」

瀬戸内寂聴さんは

「それはやっぱり死後ということを考えざるを得ませんでしょうね。だって人間は全部死ぬんですもの。死ぬために生きているんですもの。そうすると、死ぬために生きてるんだったら、初めから生まれてこない方がいいですからね。

しかも御釈迦様に言わせたら、この世界は苦の世界でしょう。

なぜ、その苦しみを味わうために生きて行かなきゃならないか。その挙句に結局死ぬんだったら、一体私の人生なんだ!

とみんな思うでしょう。だから、死後の世界に対して、もうちょっと自分の納得の行くものが欲しい。と思ってジタバタして、そこに宗教が生まれるんじゃないでしょうか。仏教というのは、死を極めることなんですものね。

大事な人を失うと、火葬にして骨と灰になる。これだけ?と思いますよね。魂があるんじゃないか?とか

あらゆる宗教は死について考えることですし、そして必ず死の向こうにまた、一つの世界があると思うことでしょう。」

と答えられました。

永平寺を開かれた道元禅師様は、

「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」

生きること、死ぬことを明らかにすることが仏教の一番大事なことですよ。とお示しになられております。

望んでも死者は返らず、若さはとどまらない。人生の出来事は全て無常である。しかし、その無常の結果として「今ここに」自分があるわけです。

怒れる日もあるし、しょげる日もあります。でも、きっと明日はいい日ですよ!

仏様の方から『私たちが見られる』

恵那市 長國寺副住職 小島現由 師

仏像は、私たちが一方的に拝む対象のように思われがちですが、仏様の方から『私たちが見られる』ということも大切です。

鎌倉時代に活躍した仏師運慶は、奈良市東大寺にある『金剛力士像』をはじめとし、数々の力強い仏像で知られています。実はその他にも、生身の人間のような、写実的な作品も多く残されています。

写実性を高めるために運慶が用いたのは、『玉眼』という手法です。玉眼とは、仏像の眼球の部分をくりぬき、内側から水晶を当てて瞳を描く手法をいいます。この技術によって、眼球部分は光を反射し、潤んだ瞳を表現出来るようになったそうです。

先日、奈良市の興福寺に安置されている運慶作の仏像、無著菩薩像を拝む機会がありました。木製部分の顔や胴体は、制作後およそ800年の時を経て、残念ながら傷んでいましたが、水晶でできているその眼は、生きている眼球そのものの生々しさがありました。そのお姿は、こちらから拝むというよりも寧ろ、『お前の生き方はそれでいいのか』と強く諭されているようでした。

永平寺を開かれた道元禅師様は、『学道用心集』という著書において、『試みに心を静めて観察せよ。この心行は仏法に為えるや、仏法に非けるやと。恥ずべし、恥ずべし。聖眼の照らしたまう所なることを。』とお示し下さいました。

つまり、「心を落ち着けて自分自身をよく見てみなさい。自分の行いは仏様の教えにかなっているか、反していないか。反していたら恥ずかしいと思いなさい。仏様は見ていますよ。」ということです。

私たちには、お釈迦様の他にも、ご先祖様をはじめとする沢山の仏様がいらっしゃいます。お釈迦様の願い、ご先祖様の願いに照らし合わせて、自分の生き方を見つめてみる。その姿勢を続けることが、今生かされている御恩に報いることになるのです。

念じなくても花は咲き、念じても花は散る

恵那市 自法寺住職 小栗隆博 師

先日、何気なく目にした、あるお寺の掲示板の言葉に、私はたいへんな衝撃を受けました。

そこには、「念じなくても花は咲き、念じても花は散る」とありました。

仏教詩人である坂村真民さんの「念ずれば花開く」という言葉はあまりにも有名です。それに似せていながら、単に悪趣味な模倣とも言い切れない、より本質を突いた言葉と私は受け止め、掲示板の前でしばらく立ち止まり、あれこれと考えを巡らせたのです。

「念ずれば花開く」という時の「花」とは、目的とする成果や結果のことを意味しているのでしょう。なのでこれは、強く願うことで、必ず思いは叶いますよ、という励ましを意味した言葉だと思います。一方、掲示板のほうの「花」は、直接、植物の花を意味しております。

急な気温の上昇で、桜がいつもより早く咲いてしまったと思ったら、これまた急な冷え込みで、あっという間に散ってしまったり、あるいは天気にしても、晴れて欲しいときに雨になったり、雨の降って欲しいときに晴れが続くなど、人間の思いとは裏腹に、自然のハタラキはいつも無情であります。

しかしわれわれ人間のハカライとは関係なく咲き、散っていくからこそ、花は自然であり、美しいのでしょう。

自然をコントロールしようとするわがままなハカライを捨て、そのありのままに向き合い、受け入れるとき、我々人間にも、強さや美しさが具わってくるのかもしれません。

「念じなくても花は咲き、念じても花は散る」。よくよく味わっていきたいと思います。

生命はただ一つ、人を生かす命も花を咲かすのも鳥がさえずる命もただ一つの命

中津川市 源長寺 住職 久扇 泰方 師

初夏の大変過ごしやすい季節となりました。

先日、本屋さんに入りますと一冊の本が目に入りました。吉野源三郎氏原作の「君たちはどう生きるか」という作品の百九十万部のベストセラーの漫画です。

主人公と友達との悩み、友達への裏切りとその反省と立ち直りといった内容だったと思います。青春時代の挫折と悩みを書いたものです。

私どもは毎日多くの人々と関わりを持ち生活をしております。この出会いを縁と呼びます。

友達との出会い、夫婦、子供との出会いも縁です。こうしてお話しをさせていただいておりますのも仏縁と言っていいでしょう。

私どもは色々な所で縁を結んでおります。相手の心を思いやり感謝の出来る心から良き縁が生まれると思います。

私は四年前に大病を患い、生死をかけて十二時間の手術を受けました。すべて先生方におまかせ、まな板の上の鯉状態でした。そこで良き縁に遇い、医師の方々を始め、看護師さん、その他多くの方々のお力によりどうにか生きることが出来ました。大変感謝をしております。

お釈迦様の御教えに「生命はただ一つ、人を生かす命も花を咲かすのも鳥がさえずる命もただ一つの命」とあります。

周りの人たちとの良き縁と命を頂いた多くの人々のお力に感謝しながら生かされていることに手を合わせたいと思います。 合掌

ほんの小さな心を届けよう

多治見市 安養寺 住職 小島 尚寛

3.11東日本大震災から7年数ヶ月が過ぎようとしています。私たちは、この世に生きている限り、否応でもいろいろな自然災害に遭ってしまいます。

一昨年は、熊本震災、去年は九州北部豪雨災害など、各地に多くの災害が生じ、そこの住んでおられる方々の苦労や苦難を新聞やニュースで見せ付けられました。

今年は、北陸、東北で多くの雪害に見舞われ、大本山永平寺に於いても昭和56年以来の豪雪の被害に遭い、建物のあちらこちらに損傷が生じました。先日、心ばかりの見舞金を送らせて頂いたところです。

当山では、東日本大震災より、檀信徒皆さんのお気持ちを思い、毎月お賽銭の浄財を本庁曹洞宗宗務庁に災害復興の為、義援金として送らせていただいております。

いつこのような災害が我が身に襲ってくるのかは分かりません。明日は我が身。災害に遭われた方々の復興へのご支援を。「塵も積もれば山となる」皆さんのちょこっとしたお気持ちをお届けして下さい。このような人を思う心は、自分のところには返って来なくとも、子や孫、子孫に返っていくのかもしれません。

皆さんのお気持ち(布施の功徳)を近くの菩提寺さんを通じてでも結構ですので、災害に遭われた方々にお伝えして頂きたいと思います。

このような行事が、四摂法(一つには布施・二つには愛語・三つには利行・四つには同事)の実践の小さな一歩になるのかもしれません。皆さんの素直な気持ちをお届けください。