テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
通話料無料フリーダイヤル 0120−112−652

心のふるさとを求めて

高山市 善久寺 住職 近藤洋右師

 

私は思案に迷った時、困った時、また悩みがあった時、我が子を叱りすぎ反省する時、居ても立ってもいられずよくお寺の本堂に、一人で坐ります。思い悩む心を持て余しながら、静寂を求めて本堂に坐り、お釈迦様を拝みます。お釈迦様はいつも何事もなかったような、穏やかなお顔をしておられるだけで、何も答えてはくれません。しかし、不思議と、いつの間にか心が落ち着き、すがすがしい心地になります。

私たちの毎日は、あまりにも多忙です。あれこれと考えているうちに、月日はあっという間に過ぎていき、心を落ち着けて、自分自身をみつめる暇もありません。落ち着いていたら、世の中に置き去りにされそうな気がします。

しかし、これは間違いであります。今の世の中のように、多忙な時こそ、静かに自分自身をみつめるということが、大切なのではないでしょうか。さいわいお寺は静かであり、心を落ち着けて、自分自身をみつめるには、大変良い場所です。

お寺は騒々しい現代社会にありながらも、私たちの「心の依り所」「いこいの場所」であります。

菩提寺を訪ねられてはいかがでしょうか。

最後に昭和の詩人坂村真民さんの詩をご紹介します。

死のうと思う日はないが

生きて行く力のなくなることがある

そんな時、お寺をたずね

私は一人、仏陀の前に坐ってくる

力湧き明日を想う心が出てくるまで坐ってくる

「善い行い」

中津川市  浄光寺  住職 福谷哲生師

 

お盆も近くなり、先代の和尚さん達のお墓を掃除していると一人のお婆さんが、「花が余ったから」とお供えされて行かれました。その方は自分の家のお墓だけで無く通路の草も綺麗に取って行かれました。この暑い時期に自分の所だけでも大変なのに、皆が通る道も掃除することは、自分の為だけでなく、他人にも尽くす菩薩行と言えるでしょう。

貴方も、私もいきなり菩薩の心境に成れなくても、自分の出来ることから初めて行くことが大切なのです。

自分の欲張った気持ちを抑えて他人に譲ったり、怒りの気持ちを抑えて他人の過ちを赦したり、他人に思いやり有る優しい言葉をかけたりす

る事はだれにでもしようと思えば出来る事です。ただその時、相手のことをちゃんと考え、一方的に善意をおし付けたり、自己満足の為にしてはいけません。又、見返りを求めず、さりげなく行うことが善行と言えるでしょう。

他人の悲しみ、喜びも自分の事と感じ、他人を思いやり行動が出来人になりましょう。

亀と雀

恵那市  盛巌寺  住職 近藤昌弘師

皆さんは、曹洞宗の法要でよく読まれる「修証義」の中に動物が出てくるのをご存じでしょうか。実は亀と雀がでてまいります。

第四章に出てくる窮亀は、中国の亀が報恩した故事。病雀もまた中国後漢の故事からきています。日本にも似た様なお話があります。

亀と言えば浦島太郎、雀と言えば舌切り雀。

今年女優の市原悦子さんがお亡くなりになりました。私にとっての市原さんは子供の頃よく見ていた「まんが日本昔ばなし」の声優さんです。子供の頃は、昔話の中から困ったものがいれば助けるという人としての根本部分を知らず知らずの内に学んでいました。

例えば、道ばたのお地蔵さんに雪が積もっていれば笠をかぶせてあげる。いじめられている亀がいれば助けてあげるなど、良いことをすれば必ず自分にかえってきて、自分の為になる。

その一方で、花咲じいさんや瘤取りじいさんの様に欲をかきすぎると逆にひどい目にあう。そういった何気ない人としての生き方がそれらの中に教えとして生きています。

今の子供たちに話を聞くと、昔話を知らない子が多くいます。

テレビのCMの影響でしょうか。浦島太郎は海辺で歌を歌う人。金太郎は金に細かい人。と思っている子も増えています。

核家族化が進み、お年寄りから聞かされる昔話やその地方に伝わる民話に触れる機会も少なくなっています。ただ、人を思いやる心や、人から受けた恩は返すという日本人の美しい心を子供たちに伝えていくことが大切ではないでしょうか。

お経はお釈迦様が、人が生きていく上で何が大切なのかを示した教えです。「修証義」は道元禅師様がお釈迦様の教えを私たちにわかる様に示されたものです。「修証義」をお読みになる時、そんなことを思い読んで頂ければありがたいと思います。

 

 

 

 

愛のあるお言葉を

中津川市  善昌寺  副住職  井口昭典師

お母さん、よろしければお先にどうぞ。

ありがとう。助かりますよ。

ほんの少しの挨拶やささいな行動で、あなたも私も幸せを共有できる。

誰かに親切にされると、ハッと気持ちが明るくなったり、ホッと心が暖まったりして、私自身も周りにいる人たちに優しくなれることってありませんか。

親切や愛のある優しい言葉がけは目の前の相手を幸せな気持ちにするだけではなく、私自身の幸せにもなります。そしてその先に続く人達まで幸せが広がっていく素晴らしいパワーがあります。

愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり

曹洞宗の修証義というお経の一節に『愛語』とは、についてお示しになられております。

『愛語』 相手を思いやり、あたたかい心のこもった言葉をかけることですね。

私自身が幸せで心穏やかな気持ちでいられることが持続できると、自然と自分に自信が持てるようになるともいわれています。

自分に自信が持てるようになると嫌なことがあったとしても、不思議と何を責めることなく素直に受け入れることができ、謝れるなど落ち着いて物事を対処することもできます。良いことばかりの連鎖です。

愛語の起こすパワーが知らず知らずのうちに、遥か遠くにいる人達に幸せを運べることを想像するだけでも心がワクワクしてまいります。

そこから実践してみてください。

今月16日は令和の時代が始まり初めての 父の日

お父さんいつも支えてくれてありがとう。はい。これどうぞ。

入梅に入り、心が少し晴々しない日が続くかもしれません。

ほんの一瞬の和顔愛語のパワー、慈悲の行動を心掛けてまいりましょう。

 

どこにいるかより、ここにいるか

恵那市   洞禅院   住職  紀藤祐元師

 

「あの人に会いたい。あの人は今いったいどこにいるのだろう。」 皆さんは、ご家族や友人など、親しい間柄にあった方々を亡くされた後、このように思ったことはないでしょうか。  大切な方との突然の別れは、どなたにとってもすぐには受け入れ難く、またその悲しみも、生前のお付き合いが濃密であればあっただけ、深いものとなります。  会いたいのに、会えない。かつてのように顔を合わすことも、触れ合うことも叶わない。 このことを頭で理解するということと、心の底から納得するということとは、なかなかすぐには一致しないもののように思います。少しずつ少しずつ、時に周囲の助けを得ながら、自分の中にその厳しい現実を落とし込んでいく。そしてやがて、亡き人を亡き人として受け入れ、また元の日常へと戻っていく。誰もが、いつかは乗り越えなければならない大切なことです。  この「亡き人を亡き人として受け入れる」ことのために、是非心に留めておいていただきたいことが、冒頭の言葉「どこにいるかより、ここにいるか」です。  この世を去った大切な人を強く思うが余り、その人をどこかに探し求めてしまうことは、決して不思議なことではありません。むしろ自然な気持ちというべきものでしょう。ですがその時既に、自分の中、まさにそこに大切な人がいる。このことに是非気づき、亡き人を追い求めることによって却って膨らんでしまう寂しさから、少しでも解き放たれていただきたいのです。  ご自宅のお仏壇やお墓、菩提寺など、私たちは幸いにも、いくつもの場所で亡き人と出会うことができます。そしてそのどこもが、大切な出会いの場なのです。  どこかひとつの場所だけに亡き人がいるわけではない。大事なのは、あなたの中にその人がいる、ということ。「どこにいるかより、ここにいるか」を確かめることです。

正しい考え・正しい行い

恵那市   圓通寺 住職   森 如謙師

 

心身を乱し悩ませて、正しい判断を妨げる心の働きを「煩悩」と言いますが、この煩悩の代表として、貧り、怒り、愚かさの三つが挙げられます。煩悩の根本は自己中心の考えに基づく物事への執着から生ずるもので、人間(自分)の欲望、思いやりには大なり小なり自己中心の思い、我執がまとわりついてきます。ですから自分の思い欲望を煩悩とは言葉は違っていても内容は同じと考えられます。そのことを知っていれば、たとえわずかでも自己中心に陥らない正しい判断に近づくことが出来るでしょう。正しい判断から行いをすれば正しい行いへとなっていくのです。仏教の教えに諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教、もろもろの善は務めて行う、その基となる心を深め、清くする。これが仏の教えであると戒めています、私たちの行いを良くするには正しい判断が大切なのです。しかしながら私たちは、良かれと思い行ったことが、他人には迷惑であったりすることが、多々あるのです。それは自己中心の思いからであり、相手のことを深く考えなかったからでしょう。良い行いとはどんなことでしょう。今日の世の中は自分さえ良ければ良いという人が多く、いやなことはしたくないと遠ざけがちです。思いやりをもって行動し、正しい行いが出来るよう自分を戒め、自己中心にならないようにしたいものです。

四摂法

土岐市    荘厳寺徒弟   軽部竜世師

道元禅師の著された正法眼蔵の中に「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」というものがあります。

正法眼蔵の内容は、そのほとんどが修行僧に向けられたものですが、

この「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」は一般の信者さんのために

書かれているものだと考えられております。

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」には観 世 音菩薩や地蔵菩薩などが、

人々を様々な苦しみから救済するための行いである「布施・愛語・利 行・同事」の四つが

記されておりまして、私たち仏教徒が日常で行う修行であり、生き方でもあります。

その第一に記されている布施とは、幸せを一人占めせず、精神的にも物質的にも広くすべてに施しを与え、そして与えられていることを感謝して生きることです。

第二の愛語は、慈悲・慈愛の心をもって、愛情豊かで親切な言葉を語りかけることです。

そうした優しく思いやりのある言葉の一言一言すべてが人々の心を和ませます。

愛語は社会を正しい方向へ動かす大きな力となります。

第三の利行というものは見返りをもとめない行いであります、

自分がいい思いをする事ばかりを考えず、他の幸福のためにも良い行いをすることです。

第四の同事というのは、自分を抑え、相手と同じ心・境遇を自分自身に写して、相手と接することです。

もし、あなた自身に精神的に、物質的に余裕がある時に、苦しんでいる人と出会ったなら

この「四摂法」の布施、愛語、利行、同時を思い出して、少しだけでも実践してみましょう。

相手がそれで少しでも幸せに向かえたなら、あなた自身もまた、幸せに喜ぶ相手を見て

幸せに思うことでしょう

そうして相手がいつか余裕のある人間となったなら、あなたの行いを思い出して、他の人にも実践していくかもしれまん。

あなたの小さな始まりが多くの人の幸せにつながるのかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報恩感謝

土岐市  荘厳寺徒弟  軽部文章師

 

報恩感謝という言葉があります。これは、恩に報いて感謝をするという言葉です。

人というものは不思議なもので、自分が他人にしてあげた事は良く覚えているものなのですが、他人からしてもらった事となると、忘れがちとなってしまうものです。

さて、自立という言葉があります。自ら立っというこの言葉ですが、それは決して自分一人の力だけで生きていくという意味ではありません。

何せ、自分一人の力だけで生きていくという事は不可能なのですから、ふと見渡せば目に入る。他の人だけではなく自然にある様々なものも、自分が生きていくには欠かせないものだす。そうしたものが組み合わさって、自分の仕事や生活が成り立っているのですから。

産まれてから今まで生きてきた中で、誰の手も借りなかったと言える人はいないと思います。誰もがそうであるはずです。

報恩というからには、受けた恩に報いるのが一番良いのでしょう。

しかし今は忙しい時代ですので、受けた恩をその都度返すというのも中々難しい話です。ですので、誰かに何かをしてもらったならば、先ずはその事をないがしろにせず、ありがとうと言い、きちんと感謝する様にしましょう。

ありがとうと言える心の余裕を持つ事です。どうしてお互いに敬ってお互いの良い所を知ることができたなら、お互いの心も次第に豊かになっていくでしょう。

周りの人達に助けられ、その事を忘れる事なく素直に感謝する心。その心を持つ事ができれば、自然と周りとの関係も良くなる事と思います。

 

ご法事とお墓参り

多治見市  永泉寺副住職   池田昌泰師

先日のお彼岸に皆さまは、お墓参りをされましたでしょうか。

 以前には、私のお寺でもご法事の後に故人にご縁のある方々が皆さん揃ってお墓参りをされました。最近は、四十九日、三回忌、七回忌まではご親族がお寺にお参り

に来られますが、それ以後になると子供や孫は仕事や部活があるからという理由で、一人二人という少ない数でお寺に来られたり、お塔婆を書いて拝んでおいて下さいという方もみえます。ご家族がそろってお参りする事を伝えていかないと、自分が亡くなった後に子孫はお墓参りをしてくれるでしようか?昔から子供は親の背中を見て育つと言われます。自分を生み育ててくれた親、その又親などご先祖様に対する姿を見せてこそ自分も安心してあの世へ逝けると思います。本家とか、新家、新家とも言われますが、ご先祖は間違いなく同じです。改めて、ご法事やお墓参りの大切さを考えて欲しいと願います。

啐啄同時

瑞浪市  宝林寺副住職   西尾英晃師

 

季節は春。木の芽時とも言って命の芽吹きをそこかしこに感じられる時節です。

こうした情景にちなんだ禅の言葉に「啐啄同時」というものがあります。「啐」は口偏に卒業の卒と書いた字で、これは卵の内側から雛が声を出して殻から抜け出ることを言います。「啄」は歌人の石川啄木の啄の字で、親鳥がそれに合わせて殻を突いて雛が卵から出てくるのを助けることを指します。この親子両者の行いが同時になされることによって雛は無事に殻から出ることができるのです。

時機を間違えて、早すぎても遅すぎても雛は無事に殻から出ることはできません。このことから今まさに悟りを得ようとしている弟子に師匠がすぐさま教えを与えて悟りの境地へ導くことをこの言葉は指します。

これは僧侶における師匠と弟子の関係だけでなく、親と子、先生と生徒、上司と部下などといった、教え教わるあらゆる関係についてもいえることだと思います。

年度の初めには進学進級、就職または転職など新たな環境でまた新たな学びの場に身を置くことになる方も多くいらっしゃるかと思います。先に申し上げたように学びの場においては教える側と教わる側の両方の呼吸が合っていなくてはなりません。どちらか一方だけが一生懸命になっているだけではいけないのです。教わる側が一生懸命に学び取ろうとする姿勢はもちろん大切ですが、それ以上にその後押しをする教える側の細やかな心配りや助け舟を出すタイミングが重要になるのです。

教え教わるという関係はかけがえのないご縁のたまものであるといえます。教える側も教わる側も学ぶということ、そして伝えるということの喜びとありがたさを感じながら一日一日を大切にして努めていきたいものです。