テレフォン法話

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コロナ禍で思いやりの心

土岐市 正福寺 住職  大島順昭 師

横浜港に寄港したクルーズ船で、新型コロナウイルス患者が見つかり、はや一年以上が経ちました。あっという間に世界中に広がり未だ終息の兆しも見えません。皆様も、こんな世の中が来るとは思いもよらなかったことでしょう。

人込みを避け、家に籠りがちになり、マスクをしなければ外出もできない、そんな日々になってしまいました。マスクを着け、人と人との間隔をあけ、会話も小さな声でしなくてはなりません。なんだか人情味が薄れていきそうな気がします。こんな時こそ、心の中で思いやりの心を持ち、人と接していきたいものです。

そんな人は、相手の気持ちを考えて相手の様子をよく観察して気遣い、相手の意見や要望も尊重できるような

そんな人は、損得勘定を持たないので相手に対して態度を変えたりなどしないと思います。

そんな人は、周りの人からも信頼されやすく誰からも愛されるでしょう。

又、言葉の使い方も大切だと思います。相手を思いやる言葉を使おうではありませんか。

我が曹洞宗の開祖 道元禅師様の御詠で「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」と詠まれました。美しい四季の移り変わる自然と共に生きている日本人の文化を述べられたものです。今コロナ禍で大変な時代になってしまいました。相手の顔もマスクで隠れ、表情も分かりづらいとは思いますが、少しでも相手を気遣う心をもって接していきましょう

 

「おかげさまで」

美濃加茂市 徳雲寺 住職 松浦文應 師

私たち普段「お元気ですか。」と声をかけると「おかげさまで」と挨拶する事があります。この簡単な言葉のやりとりで、心が通じ合います。

何げなく使っている「おかげさま」ということの意味を考えてみましょう。上のお(・)と下のさま(・・)は、お(・)釈迦さま(・・)というのと同じ敬語であって、かげ(・・)とは陰つまり霊のこと。即ちこの「お陰様で」という意味は、自分自身日頃、努力もし注意も払いながら生活していますが、それにまして自分をこの世に送り出して下さった祖先の霊が、見守って下さるから家運も隆昇し、家族みんな健康で過ごせる事、その祖先の霊に対する、自然に生まれた感謝の表現が「お陰様で」という言葉になったのではないかと、私は思いました。これで終わります。

 

「少しの思いやりの心で」

加茂郡白川町 臨川寺副住職 加納勇毅 師

新型コロナウィルスの感染拡大により、私たちの日常生活は大きな影響を受けています。

目に見えないウィルスへの恐怖心、社会・経済に対する不安、自粛生活によるストレス等がのしかかっています。それらの恐怖や不安から感染者や医療従事者に対する偏見や差別、周りの事を鑑みない自粛疲れの発散を見かけます。

又、世界の国々では、平等な社会を目指しながらも、ワクチンの争奪戦が起き、格差社会が大きな問題となっています。

人間だれしも平穏で、満たされた生活を願っていますが、恐怖や不安を克服することは大変難しい事です。

では私たちはどのように毎日の生活を送れば良いのでしょうか。

少し考えてみましょう。

お釈迦さまの教え、八大人覚の中に「知足」があります。「知足」とは、“現状を満たされ、足りているものと理解し、不満を持たない”という教えです。

今置かれている現実と向き合い、一人一人が利己的な行動をつつしみ、相手の事も自分の事として捉えることで、そこに“思いやりの心”が生まれます。行動の一つ一つに、“思いやりの心”を持つことが出来れば、余裕のある明るい生活を望むことが出来るのではないでしょうか。

物事を正しく理解して、恐れることなく行動する。そうすれば安らぎや信頼が芽生え、明るい未来も見えてきます。

コロナ禍のこんな時こそ“思いやりの心”を持った暮らしをしてみませんか。

「死を見つめることは、生き方を問うこと」

関市 香積寺 住職 樺山舜亮  師

知人から「娘が大学を卒業し、4月から東京池袋の会社に就職が決まった」と喜びの報告があった。おめでとうと就職祝いの連絡を取ったところ、新型コロナウィルスの感染拡大が止まない東京に子供を送り出す不安を吐露された。ふと、歌手さだまさしさんが昔、歌っていた「案山子」の歌が思い出された。「元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る」とある。娘を送り出す親の不安は尽きない。これが現代なら「除菌してるか 手洗いしてるか マスクはあるか 会食してないか」となるところだろう。コロナ終息の願いは檀家さんからも伝わってくる。本堂の本尊様の前にマスクが供えられ、お地蔵様のお口にはマスクが掛けられていた。お寺は人々にとって身近なものだと感じる。自信も中学の修学旅行は京都・奈良であり、大人になり京都を旅行すれば寺巡りが定番となっている。寺の風景は日本人には心安らぐ風景である。ときに寺院は「お葬式仏教」と揶揄されるが、亡くなられた方を弔うことは大切な仏教行事のひとつである。各寺院で営われる法要も亡くなった方への供養が多い。それは死をみつめることに繋がり、死を見つめることは生き方を問うことなのだろう。仏教の教義が2500年の長きにわたって続いている理由がそこにある。友人に娘さんには東京の多くのお寺を巡ってほしい。そして、命の存在や生きることの意味を考えてほしいと伝言することを忘れた。

「すべてを決めるのは、心次第」

羽島市 本覚寺 住職 大橋陵賢 師

お釈迦さまは「そこに存在するものは、心が作り出したものであり。あなたの心が今をつくったのだ」ということを説いています。自分の心、自分の感情によって自分を取り巻くさまざまなものが作り出される。つまりあなたとあなたの世界をつくっているのは、あなたの心、あなたの感情なのです。

感情は喜びや楽しみだけでなく、怒りや悲しみも感じます。そういった感情に振り回されて、つらい思いをすることもあるでしょう。ですが、そうした感情も含めて人は構成されているのです。

人間には様々な感情があります。笑ったり喜んだり人を愛すると言った前向きな感情だけでなく、妬んだりうらやんだりするような後ろ向きな感情も持っています。

こうした感情を表には出していけないと考えて、押し殺す人もいるかもしれません。ですが感情を押し殺すと自分自身を否定することにも繋がりかねません。    たとえ後ろ向きな感情であっても自身の感情を観察し、自分がどうゆう思いを抱いているのかを知ることがら始めてみましょう。その自分を知る方法が坐禅であるのです。どうか「すべてを決めるのは心次第」であることに気が付きましょう。毎日の生活がとても気楽に充実したのになります。

「トイレの仏様」

岐阜市 勝林寺 住職 等 真一  師

私共のお寺では毎年5月28日に烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の大祭の御祈禱法要を行い、檀信徒の方にお札を受けていただいております。

何年か前に「トイレの神様」という歌がヒットしましたが、烏枢沙摩明王はトイレの仏様であります。お寺のお手洗いには必ず仏像かお札の形でお祀りされております。

どうして烏枢沙摩明王がトイレの仏様かと申しますと、烏枢沙摩明王は炎の仏様でありこの世の一切の汚れを焼き尽くす功徳を持ち烈火で不浄を清浄にする力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるといわれております。特に有名な功徳としましてはお手洗いの清めがあります。お手洗いは古くから怨霊や悪魔の出入り口と考えておりましたことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の出入箇所でもあったお手洗いを、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に清めるという信仰が広まり今に伝わっておると言われており、お手洗いの仏様としてお祀りされておるわけでございます。

昨年より新型コロナウイルスの感染が全国に広がり、各地で疫病退散の御祈祷等が行われておりますが、烏枢沙摩明王の神通力で一日も早く感染終息しますよう、祈願させて頂きたいと思います。

最後に烏枢沙摩明王の真言をお唱えさせていただきます。

「おん くろだのう うんじゃく そわか」

合掌

「一番はだあれ?」

岐阜市 本覚寺 住職 時田泰俊 師

人類最初の男性と女性は?という質問を受けたらどう答えますか。多くの方はアダムとイブとお答えになると思いますが、中には日本人だったらイザナギとイザナミだろうとお答えになる方も見えると思います。今日は仏教が生まれた国インドのお話をしたいと思います。

インド神話ではヤマとヤミーが最初の男性と女性とされています。男性がヤマで女性がヤミーです。最初に男性のヤマが亡くなり人類最初の死者となりました。そして冥界への道を発見し天上界を司ったと言われています。

しかし残されたヤミーは最愛の人との死別の悲しみから逃れることが出来ず、悲しみの淵をさまよい歩いていました。

その余りにも落胆した姿を見かねた神様達は、彼女を救うために相談を持ち、その答えとして「夜」をつくりだしたそうです。今までは昼のみの時間が続いていましたが、夜が誕生し一日の観念が生まれ時間の経過がより明確となり徐々に悲しみが薄らいでいったそうです。

「日にち薬」という言葉がございますが、はるか遠い昔からの智慧の伝承かも知れませんね。

因みに、ヤマは後世仏教に取り入れられ、与えられた世界も天上界から離れて、その名前は「閻魔」と呼ばれ現在にいたっています。そして、もし亡くなった場合は三十五日目にその裁きをうけるといわれています。

「大切な日々を安らかに」

岐阜市 吉祥寺 住職 志比道栄 師

はい。皆さんこんにちは。

コロナ禍の中、いかがお過ごしでしょうか?

毎日、マスコミから流れる本日の感染者数や死亡者数などを見ていると正直、私も気が滅入っております。

このお話を録音しているのが1月下旬ですので、配信される4月にはコロナも落ち着いている事を心から願っております。

25年前、私が永平寺で修行していた時に禅師様から次の様なお言葉を伺いました。

「死ぬ覚悟の出来ていることを悟りと誤解している人が多いが、悟りとは命ある限り平気で生きることである。」

また、

「真理を黙って実行するのが大自然。褒められようと褒められまいと、時が来れば花は咲き、自分のやるべきことを黙ってやって去っていく。そういうことが実践であり、教えであり、真理だ。」

平成20年にお亡くなりになられた宮崎禅師様。当時百歳を越える禅師様のもの静かで確信に満ちたお言葉は、聞く者の心に沁みるものであり、おおきな教えでありました。

「真理を黙って実行するのが大自然。時が来れば花は咲き、自分のやるべきことを黙ってやって去っていく。」

お言葉は当たり前、簡単な事にも聞こえますが皆様はどうでしょうか。

この混濁の時代に私たちは慌てず騒がず、他人を思いやり自分を大切にして、自らが為すべき事を黙々と行う。これが安らぎへの道ではないかと私は思います。

まだまだ大変な日々が続くと思いますが、大変と思うときこそ、ちょっと立ち止まり、深呼吸をして、慌てず騒がず大切な日々を生きていきましょう。

「当たり前と思わぬ心」

多治見市 安養寺副住職 小島泰寛 師

間もなく令和2年度が終わりを迎え、新しく令和3年度がやってまいります。

年度替わりのこの時期は出会いと別れの季節であり、新生活の始まりの季節でもあります。

毎年、年度が替わるころ、その年度を振り返り、次の年度に向けて気持ちを新たにされる方もいらっしゃるでしょう。

私も昨年度末、来る令和2年度に向けての抱負を持って新たな年度を迎えようとしていました。その抱負の中に「やろうやろうと思いながら昨年度中にできなかったから来年度にはやろう」と思っていたことがいくつかありました。

しかし、結局それは叶いませんでした。

ご存知の通り、この令和2年度は新型コロナウイルス感染症による未曾有の状況によって私たちの生活が大きな影響を受けました。

「当たり前」だ思っていたことが「当たり前」でなくなった。そんな一年ではなかったでしょうか。

お釈迦様は「諸行無常」だとお示しになりました。「世の中のすべてのものは常に変化し続ける」すなわち「この世に当たり前に存在し続けるものはない」という教えです。

私も頭では理解していたつもりの「諸行無常」。しかしながら心のどこかでは「また同じ機会がやってくる」そう思っていた部分がありました。

だからこそ、「すべきこと」「しなければいけないこと」をまた「いつか」と先送りにしてしまい、心のどこかで「当たり前」だと思っていた日常が「当たり前」でなくなった時、私の思い描いていた「いつか」はついにやって来なかったのです。

いつか、また今度、と思っている間に私たちの限りある人生は終わってしまいます。「いま」すべきことを「いま」しっかり行っていく。この繰り返しが私たちの人生を豊かなものにしてくれます。

「いま」すべきことは何か。常に自分に問い続け、それを実行していく強い心を持ち、日々実践していきましょう。

「日日是好日」

高山市 慈雲寺 住職 小林孝明 師

十年前の三月十一日、東日本太平洋沖で起きた地震は、東北地方の広範囲に甚大な被害をもたらしました。福島第一原子力発電事故の被害も、万人周知の事実です。

また、数年前から毎年起こる豪雨災害は、被災からようやく復興しはじめた人たちに対して、傷口に塩を塗るような試練を与えています。

古くは文政十一年、現在の新潟県に起きた三条地震という大地震がありました。この地方に被害があった人に、江戸時代の名僧良寛さまが送った手紙があります。要約しますと、

「地震はまことにたいへんでした。突然のことで、こんな憂いを見ることはやりきれないことです。

しかし、災難に遭う時には災難に遭うがよく、死ぬ時には死ぬしかありません。これは災難を逃れる妙法であります」と。

災難に遭ったら災難を受け入れよ、死ぬときがきたら死を受け入れよ、私達にはかなり難しいアドバイスですが、仏教は常に、死と苦悩を見つめていかに今を生きるかを説きます。

災難も死も、日常生活から離れて存在するものではありません。日常の中には、良いことも、試練も含まれており、そこを逃げずに生ききって毎日を送ることを「日日是好日」と言います。

仏教は、日々の過ごし方を問い続ける道であると言えるでしょう。