テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
通話料無料フリーダイヤル 0120−112−652

思いを伝えるには

加茂郡 白川町 洞雲寺 尾関 大介

人間は自分本意の価値観でものを判断する生き物です。

例え同じ場所に同じ時間で同じものを眺めたとしても、見る人の年齢や出身地、その人の人生経験などによって良いとか悪いといったどう感じるかという判断は千差万別です。更には怒っている時は何を見ても忌々しいなど、その時の感情に判断が引っ張られてしまうこともあります。

社会には様々な価値観の人がおり、そのなかで人間関係を築いていく時に、面白いことが起こります。それは、人は誰の言うことを聞くのか、と言うことです。

親の言うことは聞かないけれど兄弟の言うことは聞くとか、先生の言うことは聞かないけれど先輩の言うことは聞くなど、そういったことは世の中にあふれていることと思います。その人その人にとって強い影響力を持つ人や言葉というのは、その人にどれだけ価値観が近いか、又は共感できるかという事が一つの重要な要因なのだと思います。

人に自分の意思を伝えたいとき又は指導しようと思う時、内容が簡潔であるか、正論であるかというのは確かに大事です。しかし一番に考えるべきは伝えたい相手が話を聞ける状態であるか、ということです。

例えどんなに良い話でも、時間的又は精神的に余裕のない時には誰だって耳を傾けません。まずは相手の状態をよく見て、それからかけるべき言葉を考えた方が、より伝えたい事が正確になるだろうと思います。

相手を想う、それはとても大切な事なのです。

皆様もそういったところを気を付けて、言葉をかけてあげて下さい。

「同事」の実践

関市 千手院 住職 橋本 絢也

本日は「同事」についてお話しようと思います。「同事」とは「自分の心にも違わない 他人の想いにも違わない」という意味です。もっと言いますと「自分も他人も同じである」という事です。自分の喜びを誰かに分け与え、誰かの悲しみ苦しみを引き受ける、そのような実践を表した言葉でもあります。

日常に即して考えてみましょう。自分の立場を護るが故に、対立する考えに対して苛烈な言葉を浴びせ貶める場面を頻繁に見ますが、その「苛烈さ」を相手も持ちうることを見落としているように感じます。そのような苛烈さを自分に返されたとき、あなたはとても苦しく感じるでしょう。ですがその苦しみは、元はといえば、あなたが誰かに与えていたダメージなのです。

「誰かの今日は いつかの自分」である事を強く意識しなくてはなりません。相手の苦しみはそのままあなたの苦しみになり得るのです。そう、同事、同じ事なのです。

では我々は具体的にどう行動すべきなのでしょうか。最初に申しましたが「自分の喜びを誰かにも分け与える」事が肝要です。もっと簡単に申しますと「自分の“好き”をどんどん言葉に出していく」という事です。美味しかった料理、綺麗だと感じた風景、お腹を抱えて笑った出来事、モフモフな犬。あなたを震わせるそれら沢山のモノを本人に、誰かに、言葉で伝えてあげるのです。そしていつか誰かからも「好き」を聞くことが出来たのなら、それはとても嬉しいはずです。「好き」の連鎖はきっと気持ちの良いものなのではないでしょうか。

そのような「同事」の実践を是非心がけていきたいものです。

新しき年、新しき節を迎え、お願い申し上げます

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 小島 尚寛 師

新年あけましておめでとうございます。

皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

この度、前宗務所長岐阜市本覚寺住職時田泰俊老師が二期八年の任期を全うされ、昨年12月10日を以て退任をされました。

それに伴い、後任として新たに私、多治見市安養寺住職小島尚寛が就任することとなりました。

今後とも、何卒、宜しくお願い申し上げます。

このテレホン法話が発足して30数年となります。

しかしながら電話ということで、どうしても一方通行になりがちです。

そこで、お願い申し上げたい事があります。

この2分少々の法話をお聞きになり、心に留め得る事があれば、是非とも、周りにおられる方々にその内容をお伝えすて頂きと存じます。

更に、その方々と意見を交換し合い、また日頃ご不安に思う事やお尋ねしたい事などを近くの菩提寺さんを通ぎて、宗務所の方へお届け頂ければ、今後、我々としても、それを研修会の題材の一つとして、研鑽を重ねて行くことができます。

その成果をテレホン法話を介して皆様にお返しすることができれば、より身近なものとなって行くと思っています。

良き仏縁を結んで頂ける場として、このテレホン法話の存在をひちりでも多くの方々にお知らせ下さい。   合掌

 

自然に学ぶ

加茂郡白川町 臨川寺 住職 加納 明義

今年も僅かとなりました。地震、台風、数十年に一度と言われる自然災害により、未だ生活を余儀なくされておられる方々が多くおられます。心よりお見舞い申し上げます。

道元禅師は「峰の色 渓の響きもみなながら わが釋迦牟尼の 声と姿と」という和歌を詠んでおられます。内容はお釈迦さまの悟りを求め、学び続ける私たちに「山の色合いも、谷川の響きも、みなお釈迦さまの説法の声であり、お姿なのです」というおさとしです。

仏道を学ぶ志をもち、一心不乱に修行を続けているうちに、周囲の峰の色や、渓の響きが修行僧に悟りを開く因縁になると、道元禅師は示しておられます。

私達は周囲の評判を気にしたり、名誉、財を貪り、己を美化しようとします。先ずは自分の「名利」を捨てることが大事です。

仏教の根本は「縁起」です。さまざまな原因や条件が集まって成り立っています。

縁起して起きる真実の姿に気づき、自然と共存し、智恵の眼差しをもって「利他行」を実践していきたいものです。

松竹梅の、松は千年の翠を讃え、竹は生長が早く、節目を付けながら真っ直ぐ伸び、梅は寒中に蕾を膨らませて、春一番に花を咲かせ、私達に生きる力と喜びを与えてくれる吉祥の象徴です。どうぞ皆様良い年をお迎えください。     合掌

手放す

下呂市 金山町 長福寺 副住職 萼 弘道

 

ある人はクーポンを集めたり、ポイントを貯めて割引を受けたりすることが好きで、せっせと貯めては商品をもらうのを楽しみにしていました。

いつも買い物をするスーパーでカードにスタンプをもらい、月に一度の抽選会で商品券を当てようと張り切っていました。何度も行列に並び、今月こそは当てようと5回も6回も回すのですが、いつも出るのはハズレばかり。

「今まで当たったことがない。本当にくじ運が悪い。」と嘆くのでした。

そんなある時、買い物に行くと月1回の抽選日でした。「あ、今日だった。」と思ったけれど、ゆっくりする時間が無く、行列を見ただけでうんざりしていました。どうしようか悩んでいると顔見知りの人が並んでいたので、「コレあげる。使って。」とカードを渡したそうです。帰り道、1個でも当たってくれたらいいなぁと思いながら帰りました。

それから数日後、その人が訪ねて来ました。

「この前はありがとう。あの時大当たりして2000円の商品券も当たって、びっくりしちゃった。これ、半分お裾分け」

と言って、1000円の商品券をくれたそうです。

カードをあげた本人はびっくりするやら羨ましい気持ちになったけれど、何か不思議な気持ちがしたそうです。いつも自分の為に当たって欲しいと思っていたのに、人が喜んでくれたらと純粋に思ってあげたカードが大当たりしたということが、不思議に思えたのだそうです。そして、自分の為でなく人の為にと思う気持ちの大切さに気付かされたとのことでした。

 

何かに執着している時は周りが見えなくなりがちです。その執着心を手放した時、自分から周りへと目を向けることができるのでないでしょうか。

ほんの小さな偶然の出来事ですが、私達の周りにも、ハッと思うことがあるかもしれません。

 

 

聖路加病院の名誉院長、日野原さんのお話

加茂郡七宗町 東禅寺 住職 泉 義明

今日は 昨年7月に亡くなられた日野原重雄さんのお話をします。

日野原さんは、聖路加病院の名誉院長であり、100歳を超えて なお現役の医者を勤められた方です。

こんな日野原さんは、人にとって「理想的な死」とは、家族や周りの人に「ありがとう」と言って死を迎えることと言っておられます。

この「ありがとう」の一言は、誰にでもある「死」に対する恐怖や悲しさより、温かさや安堵感を周りに与えてくれると言っておられます。

「ありがとう」と言って死を迎えることは、多くの人が望んでいることと思われます。

しかし、現在のような高齢化社会では、「ありがとう」と言って死を迎えることは大変難しく、まさに「理想的な死」だと思います。

このようなとき、今 生きている私たちにとって大切なこと できることは、日ごろから家族や周りの人に サラッと簡単に「ありがとう」ということではないでしょうか?

この「ありがとう」の一言は、確実に家族や周りの人の気持ちを 温かく和やかにしてくれると思います。安堵感を与えてくれると思うのです。

そして、何よりも世の中を明るく元気にしてくれるように思うのです。

今一度 「ありがとう」と口に出すことの 力・大切さ を考えていただきたいと思います。

道徳と合掌

岐阜市 多福院 住職 市橋 正信 師

「道徳」の授業、昔は、それほど重要な授業として位置づけられてなく、週に1時間程度、教科書がなくプリントが配られ、人権的なことを学んだかなという感じの授業ではなかったでしょうか?

それが今、平成30年度より小学校で、平成31年度より中学校で、「特別の教科 道徳」として位置づけられ授業が始まっていきます。もちろん教科として位置づけられるので、数値評価ではありませんが個々の成長の様子が記録されていきます。

「道徳の教科化」の背景には、「いじめ」「ソーシャルメディアの普及」「子供をとりまく地域や家庭の変化」などが挙げられています。また、科学の進歩により、非科学的なことが軽んじられるようになり、祖父・祖母への敬い、継承されるべく慣習・道徳的概念の継承が薄れたことも一因と考えられます。

修証義第一章に、「善悪の報に三時あり。一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受」という一節があります。善悪の報い、すなわち身にはね返ってくる良い行為・悪い行為は、三時、すなわち現在・未来および来世にわたって現れると説いています。

子供の頃、両親から「罰が当たる」「地獄におちる」と言われたものですが、これは「善悪の報に三時あり」になぞられた言葉であります。悪い行為は決してしてはいけませんが、善の報いは、一人ひとりに培われた良心により得られるものです。

現代においては、協調よりも一人ひとりの個人が尊重され、善悪といった道徳的概念を培う場が無いように思えますが、初詣等、神社仏閣を訪れた時の気持ちはどうでしょう。気持ちを整え、合掌・礼拝した時、それはそれは良心に満ち溢れたひと時ではないでしょうか。

そんな機会を、朝のひと時、日常的に実践してみませんか。お仏壇があれば仏様に、お仏壇がなければ朝食を摂られる席で、一人でも。家族みんなでも。

「合掌」こそ「道徳」の実践の第一と考えます。

 

相手の気持ちを察する

揖斐郡揖斐川町 釣月院 浜田 吉晃 師

私は普段、お寺の傍ら介護の仕事をさせていただいています。

5年程前に地元の愛知県から岐阜に引っ越してきた際、それまでやっていた営業職を辞め福祉の職に就きました。

どんな仕事内容かは理解していたつもりでしたが、実際の現場は想像以上に苦労の連続でした。

仕事を始めてすぐに、新しく入所された男性の方に噛みつかれケガをし、数日後には同じ方にメガネをはぎ取られ、壊されます。

暴力的な言動や行為も認知症の大きな症状のひとつなのです。

「とにかく笑顔だけは忘れずにお世話させていただきましょう」

穏やかに、安楽に生活していただける方法やきっかけを見つけ出す事に職員全員で取り組みました。

「仕事一筋で、特に趣味もなく家でもあまりしゃべらない父親でした。ただ飼っていた犬をとても可愛がっていましたね」というご家族のお話しからセラピードッグをお願いしてみました。

最初は犬に対しても暴言を吐いたりしていましたが次第に犬を見る目が変わり、犬に触れ、語りかけるようになっていったのです。

それと同時に職員に対する介護抵抗も少なくなり、ずいぶん穏やかに生活されるようになりました。

私は後で知ったのですが、仏教用語に『和顔愛語、先意承問(わげんあいご、せんいじょうもん)』

という言葉があります。

「和顔」とは、なごやかな顔、「愛語」とは、やさしい言葉です。

「先意承問」とは相手の気持ちを先に察して、相手の為に何が出来るのかを考え、自ら進んで手を差し伸べていくという意味です。

しかし、いざ実践するとなると容易ではありません。

愛情を感じていない相手にやさしい言葉をかけるのは、なかなか難しいものです。

そこで大切になってくるのが、相手の為に何が出来るのか自分に問いただす事、「先意承問」なのです。

人間のやさしい言葉、なごやかな顔、いたわりの気持ちが人の心を溶かし、安楽な生活を作り出します。

 

拝む人

大垣市 全昌寺 住職 不破 英明 師

住職になり一年目のことでした。遠方の檀家様がお亡くなりになり、早速駆けつけた私は枕経の後、故人様の奥様からお話を伺っていました。その中に強く印象に残るお話がありました。亡くなられたご主人は生前、通る道すがらお地蔵さまがいらっしゃると必ず立ち止まり、掌を合わせて般若心経を読まれたとのことでした。奥様が「急いでいるから早く行きましょう」あるいは「人が見ているから早く行きましょう」と声を掛けてもお経を読み終えるまで動かず、お地蔵様を拝んでおられたそうです。最初はお地蔵様の近所の方々も訝しげに見られていたそうですがしかし、信念を貫き只管お経を読み掌を合わせておられる御主人の姿を見て、次第に「有難うございます」と声をかけられるようになったとのことでした。

このお話を聞かせていただいて思い出されたのが中国唐の時代、洞山良价禅師様が示された「寳鏡三昧」というお経です。その寳鏡三昧に「潜行密用は愚の如く魯の如し、只能く相続するを主中の主と名づく」という一節があります。『人知れずとも行う綿密な行持は、愚かなものの如く平々凡々に見えるがそれでよい。それを続けることが大切であり尊い真の生き方である』という意味です。奥様から御主人のお話を聞いてゆくなかで、「こういうことを真に実践しておられたのだ。立派な方でいらっしゃったのだ」と深い尊敬の念を以てあらためてお顔を拝ませていただきました。奥様を通じて私に教えていただいたことを大切にし、これから住職を勤めてまいりますと心の中で念じ、ご葬儀を執り行いました。

誰しもがやらねばならないと信ずることがあります。しかしそのことを続けてゆこうとすると色々な差し障りが出てきます。先ほどの他人の目というのもその一つでしょう。そうした「差し障り」というのは自身の外側にあるようにみえて実は多くの場合自分自身が生み出した妄想でありそれが自らの願いを妨げているのです。何をも自らをとどめるものはないのだと自分自身を奮い立たせ解き放つことで、はじめて信ずることを行い続け真の人間としての生き方に近づくことができるのです。愚の如く魯の如し、愚かなことをと言われても、信ずることを行い続けるこの心を以て、皆様の普段の生活のどんな些細な事柄にも光をあてていただければと思います。ご清聴有難うございました。

 

薫習

海津市 春光寺 住職 横井晋司 師

仏教には、薫習という言葉があります。

「くん」とは、かおるという字を書き、香を焚くという意味です。「じゅう」とは、ならうという字を書きます。

意味は、お香を焚いたにおいが衣に移るように、その人の体、口、心の行いが知らず知らずのうちに影響を与え、または、逆に影響を受け、その人の行いを形作っていくことを意味します。

例えば、方言があります。私には、小学生になる子どもがいます。子どもが普段話す言葉は、方言です。誰かが教えたわけではなく、自然にその意味を理解し、使いこなしています。これも薫習です。

しかし、良いことばかりではありません。ある時、子どもが寝転んでお菓子を食べていました。妻に注意された子どもはこう言ったのです。

「お父さんも寝転んで食べているのに。」

私は、はっとしました。子どもの手本になろうと良い行いを心掛けていたつもりでしたが、悪い行いもしっかり見られていたのです。

これは、子どもに言えることだけではありません。自分の行いは、いつ、どこで、誰に見られているかわかりません。人に悪い影響を与える行いをしていないか、日々、反省し、人に良い影響を与える行動を心掛け、生きていきましょう。