テレフォン法話

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「死に向かって笑顔で生きる」

坂祝町 地蔵院 徒弟 岡崎 玄一 師

人生をイメージするというのはなかなか難しいものです。肉体的には25歳まで成長し、55歳まで成熟し、平均的に80歳を過ぎて死を迎えるというのが標準的な人間の現実でしょうか。残念ながらすべての人は死をむかえるということです。しかし私達は死という締切意識を普段から意識することはあまりないように思います。

ここからはスティーブジョブズ氏の伝説のスピーチから引用します。
「もしも今日が人生の最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか」。その答えが「いいえ」。の日があまり多く続く場合には、何かを変える必要があるのだと、必ず分かります。自分がもうすぐ死ぬのだと意識しておくことは、人生の重大な選択をする際に役立つツールとしてとても重要です。なぜなら、いろいろな外部からの期待や、自分のあらゆるプライド、混乱や失敗に対するさまざまな恐れ。こういったものは、死に直面すると消えてなくなり、真に重要なことだけが残されるからです。自分も死に向かっているのだと意識することは、自分には失うものがあるのだという「思考の落とし穴」を避けるための策として、私の知る範囲では最善です。皆さんはすでに何も身につけていない状態なのです。自分の心に従わない理由はありません。

だれでも死にたくはありません。たとえ天国に行きたいと思っている人でも、そこへ行くために死にたいとは思いません。しかし、死というものは、われわれ全員共通の終着点なのです。それから逃れた人は、これまでだれもいません。そして、それはそうあるべきものなのです。なぜなら、死はほぼ間違いなく、生命に関した唯一にして最高の発明だからです。それは生命の変化の担い手です。古いものを排除し、新しいもののために道を開きます。
最も重要なことですが、自分の心と直感に従う勇気を持ってください。あたなの心と直感は、あなたが本当はどうしたいのかをすでに知っているのです。

なかなか言葉にしにくいキーワードを並べてきましたが、日常を生きるにあたり、最後に明るい話をしたいと思います。それは「笑顔」で過ごすということ。「楽しいから笑う」のではなく「笑うから楽しい」そう思うと脳が記憶して、幸せホルモンをだしたり、リラックス効果が表れるそうです。自分のために笑顔を作ってみてください。

「未来をたくましく生きぬくために」

本巣市 千光寺 住職 岡田英隆 師

未来を生きぬくためには「たくましさ」が必要です。「たくましさ」とは、「意志が強くてくじけない」といった意味です。つまり「たくましい人」とは、「苦難を克服して力強く生きる人」のことを言います。

では、「苦難を克服して力強く生きる人」とはどんな人のことでしょうか。私は「強さ」と「しなやかさ」を兼ね備えた人のことだと思います。

よく「強さ」や「堅さ」を表現するときに「焼き物」の話が用いられます。「堅い」ものと「堅い」ものがぶつかると割れてしまうという話です。同じように堅い木と堅い木がぶつかると折れてしまいます。しかし、そこに「しなやかさ」が加わると「竹」のように折れなくなります。「竹」のような「強さ」と「しなやかさ」を、身に付けることができれば「たくましい」生き方に少しでも近づくのではないでしょうか。

竹がしなやかで折れない理由のひとつに「節」が挙げられます。この「節」があることで「強さ」と「粘り」が備わります。私たちにとって「節」とは、「生活環境が変化した時」や「新年を迎える時」などがあります。また、「自分の成長が実感できた時」なども大切な「節」になります。

天に向かって真っすぐ伸びる「竹」の様子は、自分の目標に向かって、未来を切り拓き、突き進んでいる姿そのものです。

ご自身と重ね合わせると、「未来を生きぬく」ために「たくましさ」を身に付けることは大切なことだと思いませんか。

「経のしずく」

神戸町 榮春院 住職 阿原道雄 師

私も寺に生まれ、育って50年近くが過ぎました、これだけ寺にいれば、少しはマシな人間になったかと我が身を反省しますと、我ながらゾッとします。

欲は深いし、すぐに怒る、愚痴は次々に出てくると、考えれば考えるほど顔が赤くなるばかりです。

皆さんには、欲をすて、怒らず穏やかに、愚痴は災いのもとと言いながら、その自分が、時には坊さんであることを忘れて行動するのだから、どうしようもありません。

「しまったなぁ」と、思う時には、後の祭りです。

こんなことでは仏教を信ずる意味が無いのでは?と、自問自答する事が多々あります。

こんな人間が坊さんをしていていいのだろうか?と、思うことも、しばしばですが、その時に出した結論は、自分は寺に生まれ、育ち、寺にいて、坊さんをしているから、この程度で居られるのだと・・・。

もし、坊さんをしていなかったら、いったい今頃どうなっていたか分からないです。

考えてみますと、私の心は組み目の広いザルと一緒です。

ザルに水を、いっぱい入れても、全てもれてしまいます。

でも、よくよく考えると、ザルの組み目に「しずく」が残っているではありませんか?

私も同じように、全てもれてしまうと思っていたのですが、それなりに「しずく」の、いくつかが、きっと残って、この程度でおさまっているのだと思いました。

それならば、寺にいること、坊さんをしていることが、私にとってどれだけ大切なことかと改めて気づかせて頂きました。

教えを受けても、その時その時は、その意味が分からなくても「しずく」は、必ず心に残ります。

逆に、教えを受けなければ、心に残らないのは当たり前なのです。

仏教の教え、人の教え、そして人との繋がりを大切にして、毎日を過ごしていきたいと思う、今日この頃です。

「放下着~比べることへの執着を捨てる~」

関ヶ原町 瑞龍寺 住職 古川光瑛 師

近年、テレビ等の既存メディアに加えて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)から情報を得る機会が多くなりました。SNSでは多くの人が自身のプロフィールや写真、起こった出来事など多様な内容を発信しており、新しいニュースや情報を得る媒体の一つである一方で、身近にいない人の状況を知る機会にもなります。

自分より上手くいっている人や、その人の良い部分ばかりに着目して、自分が周りより劣っているように卑下していないでしょうか。他人と比べて自分が劣っているという考え方は、気持ちを萎縮させて悩みにつながり、物事に取り組む気持ちを奪っていきます。

しかし、周りを羨むことで自身の能力や生活が向上するのでしょうか。遠くにいる全く前提の異なる人と自分の現状を単純に比べて、得られるものはありません。また、キラキラ輝いて見える人も、上手くいった出来事を語る時に声を大きくして、陽の当たる側面を切り取っているのかもしれません。

禅の言葉に放下着(ほうげじゃく)と言う言葉があります。「放下」は、放り投げるの放るに下と書いて投げ捨てると言う意味で、「着」は定着するの着と書いて、前にある放下の意味を強調する言葉です。この言葉には執着を捨てよ、という意味があります。

この放下着は様々な情報があふれている今の時代において大変示唆に富んだ言葉です。自分を環境の異なる他人と過剰に比較する姿勢や心こそ、捨てるべきものではないでしょうか。比べることに時間と負荷をかけることをやめ、執着する心を捨てましょう。

過度な比較に対する執着を捨て、自分自身の内面を見つめる時間を増やし、今より少し向上できる、成長できる目の前の物事に力を注ぎ、取り組みましょう。以前の自分よりも改善した部分、できるようになったことにこそ敏感となり、自分を認めながら少しずつ進歩して、日々の生活を充実させていきましょう。

「達磨の無功徳 」

岐阜市 洞泉寺 住職 岸真量 師

10月5日は達磨大師のご命日で、達磨忌といいます。

インドから中国へ渡った達磨大師は、梁という国の武帝という王様に招待され、現在の南京である「建康」という都で仏教の質問をされます。

「私は仏教を信奉し、立派なお寺や大きな仏像を造り、僧侶を育成している。どれほどの功徳が有るだろうか?」武帝の問いに達磨大師は「無功徳」と言い放ったのでした。

何故でしょうか?それは武帝の求めるような良いことは何も無いということです。

武帝は功徳とか御利益とか自分の名声とかを求めていたわけで、形だけの善行に過ぎない。儲かる、御利益が有るとか「欲」よるものは仏教で説く本当の功徳などでは無いと言われたのです。

何か見返りを求めてしまうと、「私がこんなにしているのにお返しが無い」とか「寄付金をいっぱい出したのに御利益が無い」とか思ってしまいませんか。

これでは自分の欲の為に、自分の満足の為に、自分の都合の良いように御利益を求めているということです。欲を離れて、求めること無く、ただ手放すことによって、執着という煩悩から離れられ、一つでも執着が無くなれば、それが御利益、功徳が有ったというものです。

仏教には三輪空寂という考え方がありますが、あげる人、あげる物、もらう人、この三つ全てに何の執着も無く、清らかに廻っているという状態をいいます。

とても良い物を、惜しげも無くあげる、気にせず堂々ともらう。

現代の世知辛い世の中では、こんな事は難しいでしょうが、まことに大いなる功徳有りです。ただそこに「自分」という欲が入り込むと、「私が人助けする」とか「私は良かれと思ってやっている」となってしまいます。それは貴方にとっての良いことで、善意の押し売りや都合の良い傲慢になって、心を穢してしまいます。達磨大師の「無功徳」は重い言葉ですね。

 

余談ですが梁という国は建国後、約50年で滅びてしまい武帝一代で終わってしまいます。

とんでもない部下の裏切りにあって、籠城した武帝は餓死(88歳)したとも捕らえられて処刑されたともいわれています。

この時代の中国は、乱れに乱れて裏切りや毒殺、一族同士の殺し合い等でまともな国王がいなかったとされ、50年続いた梁はまだマシだったようです。その後の陳もあっという間に滅んでしまいます。隋の煬帝が台頭して、秦の始皇帝以来、再びの中華統一です。

 

「皆にて褒める人もなく皆にて謗る人もなし」

岐阜市 自福寺 住職 古川元弘 師

最近、テレビや新聞・雑誌・インターネットを見ていると「お悩み相談」といった内容の記事をよく目にすることがあります。またお悩みの中でも「人間関係」に関する相談が多いように感じます。

 

・職場で上司の指導が厳しい

・同僚の中でも特定の相手からキツく当たられる

・後輩の指導が上手くできない

・反りがあわない人が多い

 

などなど、みなさん様々なお悩みを抱えているようです。

 

実は私は寺の住職になる前、会社勤めをしていた時期があるのですが、その時に同じような経験をしたことがあります。

人間関係の悩みって本当に辛いですよね。

なんで相手の人は自分に対して辛くあたるような態度をとるのか?

なんか私が悪いことをしているような感覚になってしまい、仕事に行くのが嫌になってしまうことがよくありました。

 

そんなときインターネットのSNSに、こんな書き込みを見つけました。

「そもそも世界中の人、全員から好かれることなんてない。一人や二人の人と人間関係がうまくいかないことなんて当たり前。いちいち気にすることなんてない!」

少々荒っぽい書き込みですが、当時の私には「なるほど!そうだよな!」となんか救われた気持ちになったことがありました。

 

 

仏教をひらかれたお釈迦様の言葉に

「皆にて褒める人もなく、皆にて謗る人もなし」

という言葉があります。

 

どんなに立派な人でもすべての人から好かれることはないし、またどんなに嫌われる人でもすべての人から嫌われることはないという意味の言葉です。

 

人の好き嫌いはその人の都合によるもので、その人によって都合の良い人は好かれますし、都合の悪い人は嫌われます。

 

お釈迦様でさえ3分の1の人に好かれ、3分の1の人に嫌われ、残りの3分の1の人には知られていなかったそうです。

 

お釈迦様ですらそうなのですから、私達が皆から好かれようとしても心が疲れてしまうだけなのです。

 

また逆に「皆にて謗る人はなし」とお釈迦様がおっしゃられるように、どんなに辛い立場に立たされても、全員から嫌われることはありません。必ず誰かがあなたのことを支えてくれるのです。

多くの人が集まれば様々な意見があります。それらの意見が一致することはなかなかないでしょう。皆から好かれることを求めて、無理にその場を取り繕って疲れてしまうよりも、あなたのがんばりに気づいて応援くれる人の事を大切にすることのほうが、良いのではないかと私は思います。

「思いやりの心」

岐阜市 大覚寺 住職 山守隆弘 師

今年の夏は、パリオリンピックが開催され、テレビの前で「がんばれー」と選手たちに熱い応援をされた方も多かったのではないでしょうか。私も今年の夏、一生懸命がんばる姿に熱く応援した出来事がありました。8月に小学生男子の4年生から6年生の全国相撲大会、「わんぱく相撲」と呼ばれる大会が、東京の両国国技館で行われ、応援に行ってきました。このわんぱく相撲大会は、相撲を通じ、「礼」を学び、「努力する」ことや「思いやり」の心を育むことを目的として毎年行われております。当日は、一生懸命取り組む子どもたちに、応援にかけつけた家族から、テレビで観る大相撲のようなたくさんの歓声が沸き、会場中が熱気に溢れておりました。まだ身体が小さな子もいれば、大人顔負けの体格の子もおり、それでも立ち向かい、投げ飛ばされ、泣いて悔しがる子どもたちの一生懸命な姿から、私も熱くなって応援しておりました。力士が使用する会場なので、土俵から落ちて勝敗が決まる試合もありました。その度に、勝った子が手を差し伸べ、土俵に引き上げて、互いに健闘を称えあい、相手を思いやる光景を何度もみました。小さな子どもにも、相撲を通じて相手を思いやる心が育まれていることを感じました。

仏教では思いやりの心、「慈悲」を大切にします。相手の事を自分の事のように大切にする心、相手の幸せを願う心です。自分の幸せだけでなく、相手の幸せを願い、思いやりの心をもって過ごしていきましょう。

 

「挨拶」 

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本孝規 師

おはようございます。

皆さんは普段から家族の方や、職場・学校の人に挨拶をするでしょうか?

挨拶とは元々、禅の言葉で「一挨一拶」を表し、それは問答の事を表します。

師匠が弟子に問いかけをし、弟子がそれに答える。修行僧同士でも行います。その問答により弟子がどれだけ成長したか、また師匠の教えを学び、お互いの悟りの深浅を試します。それが挨拶になります。

私たちは普段から、おはようございます。や、こんにちは。と言った挨拶を使いますが、毎日挨拶をすることにより、その相手が今日はいつもより元気があるな。昨日より元気だから、何か良い事があったのかな。と思う事があります。反対に、今日はいつもより元気がないな。機嫌が悪そうだから、嫌なことがあったのかな。今日は声が弱々しい、体調が悪いのかな。と思う事もあると思います。

普段から挨拶をしていないと、それが分からなかったりしますし、挨拶はコミュニケーションの入口だと思いますので、コミュニケーションが取りにくかったりすると思います。私も朝起きたら、必ず家族に挨拶をしますし、平日は働いているので、職場に行き同僚に挨拶をします。

気が合わないと思う人であっても、挨拶をし、言葉を交わしたら、意外な一面が見つかり、仲良くなれるかもしれません。

普段から挨拶はしないと言う方は、是非とも挨拶をして頂き、普段から挨拶をすると言う方はこれからも続けて頂き、人と人との輪を大きくして、楽しく実りのある人生にしていただけたら幸いです。

 

「明珠は掌にあり」

飛騨市 林昌寺 住職 中川芳秀 師

「明珠は掌にあり」 明珠とは宝物の事。つまり幸せという宝ものはすでにあなたの掌の中にありますよという意味です。

今の世の中は、物でも食べ物でも情報でも、魅力的なもので溢れています。

おいしいものを食べ、ほしい物を手に入れた時の幸福感は誰もが知っています。

ただし、手に入れるには、お金が必要です。時間や人の心のように、どんなに望んでも手に入らないものもあります。

或いは、手元にあるときはそのものの価値に気付かず、無くしてから過去を振り返り、「あの頃はよかったな」「あれがあればよかったな」と後悔したり、悔んだりします。

私たちの欲というものは際限がなく、ない物をねだり、手に入らないものを追い求め、無くしたものに執着します。

欲しくても手に入らないその現実を目の当たりにした時、妬みや嫉妬の中で、自分はなんて不幸せなんだと絶望したりします。それではいつまでたっても、心が満たされることはないでしょう。

幸せは、ないものを求めるのではなく、今あるものの価値に気付き、感謝することが大切なのです。

昨年の暮れに、師匠である父が亡くなりました。それまで大きな病気もなく元気だった父の急逝に、何の心の準備も出来ていなかった私は、突然右も左もわからない暗がりにいるようでした。しかし沢山の方が弔問に訪れるなか、これは父の為にもお寺の檀家さんの為にもしっかりと送り出してあげなくてはと、ようやく葬儀に向けて準備を始めました。すると本当に多くの人たちが助けてくださいました。檀家さんや、近隣の和尚様方、友人や親戚。何よりも家族、本当にたくさんの方が、肩を支え、手を取って助けてくださいました。

父の死に不安と後悔が溢れるなか、ふと回りを見渡した時、沢山のものを残してくれたことにようやく気が付きました。沢山の思い出や教えに加え、集まってくださった大勢の人との縁、兄弟や家族、何よりこの自分の命。どれも尊く得難い宝物をばかりです。

無くしたものは大きいけれども、それ以上に残してくれたものの尊さに気付くことができ、ここにいる自分はたくさんの宝物に囲まれて幸せなんだと、父の遺影に手を合わせました。

今あるものに感謝をし大切にしていくことこそが私たちの幸せなのだと思います。

今年もお盆が参ります。父にとっては初めての里帰りです。家族そろって感謝の心で迎えたいと思います。

「日日是好日」

飛騨市 円城寺 住職 大西真隆 師

中国、唐の時代の禅僧、雲門文偃という方の言葉に、

日日是好日「にちにちこれこうじつ」という言葉があります。

毎日が素晴らしい日だ、といった意味ですが、それは毎日が順調で悪いことが何一つない、と言っているのではありません。

もしもそうであれば、何か嫌なことがあればすぐに好日ではなくなってしまいます。

どんな人でも常に順調に毎日を過ごしていくというのは難しいものです。

実は日日是好日は「毎日毎日を好日にせよ」といった命令形なのです。

そんなことできるわけがない、と思われるかと思いますが、心の持ちよう一つで、それが出来ると雲門文偃禅師は考えられ、この教えを説かれたのではないかと思います。

ではどうすれば「日日是好日」になるのでしょうか?

簡単に言えば、どんな日であっても「今日はいい日だ」と思うようにすればいいのです。

例えば雨が降っていても「いい日だな」と思えばいい。実際、昔の方は雨ごいをしたように雨が悪いものとは言えないですよね。ほかにも病気になって辛くても、前向きに毎日を過ごし「いい日だな」と思うようにする。

「一病息災」と言われているように、病気だからかえって体を労わることでより長生きできるかもしれないのです。

このように毎日を肯定的に見ていくことが「日日是好日」なのです。

日ごろから「日日是好日」を心がけることで、より豊かな生活を送って頂ければと思います。