テレフォン法話

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鬼は外 福は内

中津川市 大林寺 住職 村瀬 泰信 師

「鬼は外 福は内」先日私のお寺でも節分の豆まきを致しました。炒った大豆を一升枡に入れて、御本尊様の前で家族そろってお経をあげます。お勤めが終わりますと、まずは大戸を開けて「鬼は外」と第一声、すると家族が「ごもっとも」と唱和いたします。次に「福は内」またまた家族が「ごもっとも」と唱和します。これを繰り返しお寺の中を順番にまわります。少し変わった豆まきですが、師匠の代から続いておりますので「ごもっとも」がないと豆まきをした気になれません。

さて、鬼というと怖い物の代名詞ですね、地獄に鬼がいて悪い人は鬼にいじめられる、閻魔様はいつも見ていて「うそ」をついてもすぐ解るんだよ、と子供の頃に教えられました。私などは、いまだに「うそ」をつくときは、閻魔様に舌を抜かれないよう、口元を手で押さえてしまいます。

ところで、鬼は何処に居るのでしょうか?近年、恐ろしい事件が増えたような気がしかす。9人の男女を殺してしまう人、妹を恨んで刀を振るって殺してしまう人、テロと称して罪の無い人々を巻き添えにして殺す人、どの事件も主人公は人です。人が人を殺し傷つける。本当の鬼は人の中に住んでいるのです。お釈迦様は、むさぼる心「貪」怒りの心「瞋」愚かな心「痴」この三つの貪・瞋・痴こそが、人の心に住む鬼であると説いてみえます。どなたの中にも小さな鬼は居るような気がします、ご自分の中にいる鬼に言ってください。「鬼は外」と精一杯、追い払ってください。自然に穏やかな心「福は内」が戻ってきます。「ごもっとも・ごもっとも」

AI(人工知能)と科学技術の発展に人間としてどう向き合うのか?

恵那市 玉泉寺 住職 龍田 無名 師

皆様、今日は。私は恵那市にあります玉泉寺住職の龍田無名と申します。今年も瞬く間に時が過ぎ去ろうとしております。常日頃、一日一日を過ごしておりますと、時間が経つのが長く感じますが、一年が過ぎ去るのは早いと感じられる方が多いのではないかと思います。不思議なことですが、特に年の瀬が迫ってくると、尚更感じられるのではないでしょうか。そこで本題に入りますが、近年文明の発展とともに科学技術の発展や世の中の変化が、物凄い勢いで進んでいます。子供のころにテレビで見たSF映画の世界が現実になろうとしていることもあります。AI(人工知能)のそのひとつであります。

以前、新聞やテレビでも掲載されておりましたが、AIの発達により将来なくなる職業が紹介されておりました。そのうち私たち僧侶もそのひとつであります。お経を大人慧するのも人間ではなく、いわゆるロボットがしてくれます。銀行でも人員削減が進んでおります。企業側からすれば、人件費削減といったメリットもありますし、人間よりも確実であるという点があるかと思います。今後、様々な分野でAI(人工知能)が急速に応用されることは避けられないでしょうし、また新たな時代を迎えることでしょう。

私は,AIを否定しているわけでもなく、科学技術の発展を否定しているわけでもありません。私自身、その恩恵をいただいているわけですから。申し上げたいのは、人間とAI

科学技術の程よい調和つまりバランスが大切ではないかということです。

そして私たち人間の心のバランスのとり方が、今求められているのではないでしょうか。

乳と水

可児市 天龍寺 住職 太田 恒次

日頃、仕事場など人が集まる場所では、考え方の違いなどから、○○さんと一緒にしてほしい、○○さんとはやめてほしい。と思うことは誰にでもあることだと思います。

しかし、本来、どなたとでも仲良く信頼し合い生活することができれば、大変すばらしい事でありますね。

そこで今回、私たちが修行する際、僧堂で生活をする時の教えの一つを紹介したいと思います。

道元禅師様が「重雲堂式」という僧堂内での規則の中で、「乳水和合」という言葉を使い、大勢で寝食を共にする集団生活のあり方を教えています。

乳とは牛乳のこと、水はみずのことです。和合とは混ぜ合わせるという意味であり、人間関係でいえば、仲良く親しみ合うということです。

牛乳と水は互いに違った液体であっても一つの容器に入れるとケンカすることなく、すっと自然に混ざり合います。これに例えて、修行僧に対し、お互いが会い難いご縁によって一緒に修行する身になったのですから、いがみ合うことなく互いに協力し、研鑽を深め合うという教えであります。

私たちも日頃から乳と水のような素晴らしい人間関係が築けるようになれるといいですね。

いつか困った時は、「乳水和合」という言葉もあるんだと思い出してみてくださいね。

決して水と油の関係にはならいないようにお願いしまして、話しを終わらせていただきます。

御先祖様へのありがとう

瑞浪市 増福寺 住職 逸見 智光

あるお宅へ月参りに伺った時の事です。いつもの様にお婆さんとお勤めを終え、お話しておりますと「和尚さん見てやってください、三年生になる孫が学校で作ってお供えして行ったんですよ」渡されたそのカードを開いてみると「お爺さん、いつも見守ってくれてありがとう」と書かれておりました。亡くなったお爺さんへ三年生の子が感謝の言葉をお供えしていたのです。亡き方、御先祖様への感謝の気持ちは供養にとって一番大事な物ではないでしょうか。お経を読んだり、好物をお供えしたり、香を手向けたり、色んな供養の形はありますが、そこにご先祖様への感謝の気持ちがあってこその供養でありましょう。この子はその一番大事な感謝の気持ちをしっかり伝えていたのです。ですがお爺さんが亡くなって七年、果たしてこの子はお爺さんの事を覚えているのか?お婆さんに聞いてみると、「はっきりは覚えていないみたい、でも通信簿をもらった時、テストで良い点とった時はお爺さんに報告してきなさい、お菓子食べたいと言ったら、仏さん、お爺さんにお供えしてから貰ってきなさいといつも言っているのです」と。

この子は生前のお爺さんの事を覚えていない、でもいつも仏壇に向かって手を合わせることで亡くなってからのお爺さんを身近に感じ、御蔭で自分が今こうしてあるという事、そして見守ってくれているという事をちゃんと感じているんだ。あのカードはだからこそ言える感謝の言葉であったのだな。

ご先祖様へ感謝の気持ちを伝えられていますか?。私達が今こうしてある事、それは紛れもなくご先祖様あってこそ。深く感謝し、その感謝の気持ちをご先祖様へ伝えて参りたいものであります。「ありがとう」と

新年のご挨拶

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 時田 泰俊

新年あけましておめでとうございます。初詣はお済になりましたか?諸仏諸菩薩に八百万の神々のもと、多くの願い事がなされていると思います。

お寺の近くに一体の小さなお地蔵さまが祭られています。初詣に向かう方々が気づくことなくその前を足早に通り過ぎて行きます。柔和な笑顔のお地蔵さまは通り過ぎる人々に「足元に気を付けなさいよ」と優しく声をかけているようです。

今日はこのお地蔵さまについてお話をいたします。お地蔵さまは代受苦の佛とも呼ばれています。代受苦とは、私どもの代わりに苦を受け止めていただくという意味になります。昔話の笠地蔵のように6体並んで祭られていることも多く、これは仏教の説く輪廻を繰り返す六つの世界、天上界・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄、それぞれの世界において私たちを救い導いて頂けることを表しています。

今から二千五百年程前、お釈迦様は坐禅によりお悟りをひらかれ仏様となられました。そして次に私どもの前に仏様として現れるのが、現在天上界で修行中の弥勒菩薩沙汰といわれていますが、そのときは五十六億七千万年後というあまりにはるかな時の流れの先となります。この長き間、私たちを救い導いてくれる大切なお役目を負っているのがお地蔵さまです。

延命地蔵菩薩経には、多くの者に姿、形を変え陰日向となり私どもを救済頂けると述べられています。

こんな役割を負い路傍にたつお地蔵さまにも、気が付いたら手を合わせ感謝するのもよい初詣になると思います。

改めて皆様方のご多幸を祈念申し上げます。

一期一会

瑞浪市 開元院 住職 逸見 智孝 老師

「一期一会」よく知られた言葉です。一期とは一生、一会とはただ一度の出会い、という意味です。茶道の世界ではよく使われる禅の言葉で「主人と客は生涯ただ一度の出会いと心得て、そのとき精一杯、尽くしなさい」ということです。またたとえ再び出会う機会があったとしても、その時のその出会いはもう二度とは戻ってはこないのです。一年の経つのはあっという間です。一日はもっと早く過ぎ去ります。毎日顔を合わせる家族、同僚、毎日の様で実は最初で最後の出会いなのです。その時その時が最初の出会いで最後の出会いなのです。その時はもう二度とは廻ってはこないのです。

しかし、いちいちそのようなことを考えて顔を合わせているわけではありませんが、一度立ち止まってその時その場を見つめてみることも大切でしょう。絶え間ない無常という変化の中で、生きている今の一瞬を感じる事でしょう。朝、おはようございますと言い、夜、おやすみなさいと言う、その時はすべて一回限りです。昨日の自分は今日の自分ではありません。平成二十九年、今年も十二月半ばを過ぎ、多くの出会いがあったことでしょう。一期一会は茶の湯の世界だけではありません。私たちが生活しているすべてが一期一会なのです。一瞬の出会いも大切に一度きりの人生を生きていきたいものだと思います。

「我慢」は耐え忍ぶ事?

多治見市 法喜寺 住職 沖田 泰裕 老師

「我慢」という言葉は、一般的には怒りや悲しみの気持ちを押えて、じっと耐え忍ぶことの意味に使われています。だから「我慢」強いことは「良い事」と世間では言われています。でも、「我慢」は本来は仏教語であって自分を高見において、人を軽んずることを意味します。仏教では「慢に七慢あり」といって「慢」の心を七つに分類しております。

一つ目は「慢」→自分と他人を比較して、自分より劣った者に対して自分の方がすぐれていると思う比較する心。二つ目は「過慢」-自分と同等なものに対して自分の方がすぐれていると思い、自分よりすぐれた者に対して自分は同等だと思う「うぬぼれ」の心。三つ目「慢過慢」-自分よりすぐれた者に対して、自分の方がすぐれていると考える「思いあがり」の心。四つ目「卑慢」-自分よりすぐれている者に対し、自分はちょっと劣っているだけだと思う表面的な謙遜。五つ目が「我慢」-前に説明した通り。六つ目が、「増上慢」-悟ってないのに悟ったと思う、慢心。七つ目が「邪慢」-自分に徳がないに、徳があると錯覚する慢心。以上が「七慢」であります。我々は、日常生活で、えてして、自分中心に物事を考えがちですので、どうしても嫉妬の気持ちが起き、心おだたかではいられません。ある意味で、自分は自分、他人は他人と割り切って、自分と他人を比べない様な心持で、物事に接していった方が「心おだやか」な日常生活をおくれますよ。といった事をおしえてくれる「比べる心」「おもいあがりの心」=「慢」の話でございました。

わが身は借り物

弥勒寺 住職 宮地英光

人は心と身体とから成り立っている。自分で物事を考え、行動し、身体もそれに伴って自由に何でも出来る事から、心と身体は自分のものと思っている人が多いのではないでしょうか。

しかし、自分のものであって自分のものではありません。身体は一時お借りしているだけ。

誰でもいつかはお返ししなければならないものです。たとえば、身体は自分のものと思っても、自分の思うようにならないのは誰もがわかると思います。いつの間にか怪我をしたり病気になったり、死んでしまったりする。病気になんかかりたくはない、死にたくはないと思っていても、そうなる時はそうなる。自分の自由にはなりません。でもたとえそれが不完全な体であったとしても、お借りしている間は、感謝の念をもって日々、いたわらないといけません。いつも身体に何事もない多くの人達は、この事をつい忘れがちです。五体がたとえ不満足でも、感謝しながら生きるのと、不平、不満、恨みの念を持って生きるのとでは天地の差ほどの違いがあり、日々の生活は、すべて感謝、感謝です。食べられる事も働けることも歩く事が出来る事も眠る事が出来るのも、人と話せるのもすべて感謝です。

自分の日々の思いと身体を借り物と考え生きてご覧なさい。すべては感謝の念に変わるはずです。私も生身の身体ですから病気になったり、どこかが痛んだりいろいろです。そんな時借り物である身体を粗末にしていないかと申し訳なく思う時があり、そして反省する訳です。

人間の営みは決して自分の意志だけで動いているのではない。神仏のおはからいによって動かされているという事を自覚しなければなりません。

願われて生きる

関市 龍泰寺 住職 宮本 覚道

先日、先祖供養について考えさせられる出来事がありました。

お檀家様に八十五歳で一人暮らしをされている山田さんというおばあちゃんがいます。山田さんは十年ほど前にご主人を亡くされ、お子さまはいらっしゃるのですが、遠くに離れて暮らしているので、十年ほど一人暮らしをされております。お参りに伺うと、いつも温かい笑顔で私を出迎えてくださいまして、私の方が元気をいただける、そんなおばあちゃんです。

先日、お参りに伺った際、話が弾み、その流れで私はこんな質問をしました。「山田さんにとって幸せとは何ですか?」。最初は戸惑っておられましたが、しばらく考えてからこうはっきりと笑顔で答えられました。「子どもの幸せが、私の幸せです。」それを聞いて私は考えさせられました。

私も子どもを授かり、赤ちゃんの頃はすべてのことをしてあげていました。成長するにともない、子ども自身にやりたいことが出てきて、その目標を達成できるように応援している毎日です。私も自ずと子どもの幸せを願いながら、毎日生きていることに気づかされます。子どもを授かり、子育てをしてみて初めて気づかされる感情です。私の両親も、今の私のように、子どもである私の幸せを願いながら懸命に生きてきてくれたのかな、と思うと、感謝の気持ちでいっぱいになります。

両親は私に命を与えてくださり、大切に育ててくれました。こうした両親をはじめとしたご先祖様の命が受け継がれて今の自分があります。ご先祖様は皆、我が子の幸せを一途に願い懸命に生きてこられた方々なのです。そういった方々に幸せを願われてはじめて今を生きることができる私たちなのです。もしご先祖様の中の一人でも我が子の幸せを願ってくれなかったら、今の自分がいないわけです。だから、感謝せずにはいられない、感謝の気持ちを伝えたいというお勤めが先祖供養なのです。

私たちの幸せを心から願ってくださったご先祖様に思いを馳せ、幸せを願われて生きている今の自分があることに感謝をし、先祖供養を丁寧に勤めていただければ幸いです。きっと、命のつながりの尊さを改めて感じることができると思います。そして、「果たして自分はご先祖様が安心して見守ってくださるような生き方をしているのだろうか。」と自問自答し、この機会に自分の生き方を今一度見つめ直すこともいいのではないでしょうか。今ある命に感謝をし、その恩に報いることができるように報恩感謝の実践をしましょう。その姿を尊い命を授けてくださったご先祖様に見ていただき、「それでよし」とうなずいていただけるように生きていきたいものですね。

お釈迦様のみ教えの下に

郡上市美並町 桂昌寺 住職 清水 政文 老師

『お釈迦さまのみ教えの下に』と題して、お話をさせていただきます。

つい一ヶ月前の事です。中国を訪ね千年も昔の名刹を巡拝する旅に出かけました。

山頂の寺の跡を確かめたら、中腹や裾野の寺など十三か所を巡拝しました。険しい獣道、ナビの無い道に迷う大変な旅でした。

中国では約三十年前に文化大革命があり、多くの寺院が破壊されたとの事ですが、現状は、国の支援で再建された寺、今も質素な仮本堂に仏像の祀られた寺、再建の目途がたち、二~三年度には寺が建つと、喜びを話して下さった寺など、様々でした。

黙々と寺を訪ね歩く道中に、ふと約八百年の昔、真の仏法を求めて留学された、曹洞宗の宗祖、道元禅師のお姿を感じました。

中国で修行され、多くの事を学び、お釈迦さま正伝の仏法としてお伝え下さいました。その中に菩薩の行願として、「布施」「愛語」「利行」「同事」をお示しになりましたが、驚いたことに、訪ねた中国の山中の村々に、寺の建物は破壊されても、このみ佛の教えが綿々と、親から子、子から孫へと受け継がれている姿に、大きな感動を覚えました。

日中関係の悪化がニュースで報じられる中での訪中は、少し心配を致しましたが、巡拝は心に残る素晴らしいものでした。

今も心に残る出来事を少し紹介いたしますと…

・みかんの皮を砂糖で味付けし、お茶菓子がわりに、何度もお茶を勧めて下さった、信者の方々の親しみをこめた表情。

・夕暮れに近い時間に、道に迷った私達を快く目的地に案内して下さった、村の男性の親切なご行為。

・貧しい生活にもかかわらず、夕食はいかがですかと勧めて下さった、尼僧さんのお心のこもったお言葉。

・一人参加した女性に、どうぞ家の中のトイレをお使い下さいと案内された、農家のご婦人の気付きと親切。

・お別れし、暫くして振り返ると、遠い所から手を振り続けて下さる、小さな寺の尼僧さん達の姿を発見し、大きく感謝の手を振りました。

私にとって、八十歳にして学ぶ、仏縁のありがたさ、素晴らしさを実感する旅でした。

お釈迦さまのみ教えの下に、皆さまの人生に沢山の喜びの広がりをと念じ、結びと致します。