テレフォン法話

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「日日是好日」

多治見市 大龍寺 住職 五島弘満 師

日日是好日と言う禅語が、あります。それは、毎日が良い日で有ると言う意味ではなく、穏やかで良い日になるように、毎日努力することが大切であるという意味であります。

人間として生きている間は呼吸があり、呼吸をしている間が、即ち生きているので、呼吸が止んだら、もはや亡くなっているのです。

吐く息があれば、必ず吸う息があるから、また吸う息があるので吐く息がある。

即ち朝があれば晩があり、楽があれば苦がある。このように成り立っていて、逃れることのできない自然の法則だある。

人生の中には、良い日もあれは、そうでない日もある。人生は、その繰り返しです。

楽しくて喜ばしいことが、おきる日もあれば、悲しくて苦しい思いをした日も、人生の中では、同じ一日なのです。

常に積極的に、今日に生きるべく努める。かけがえのない一日であり、その一日は、二度とやってくることのない大切な一日です。その大切さに目をむけることです。

今日が、良い日であったかどうかを決めるのは、自分の心なのです。

毎日が、大切な日であることを忘れず、目の前の事に向かって努力して、これからを過ごして行きたいものです。

 

「喜びは2倍、悲しみは半分」

土岐市 仏徳寺 住職 佐々宏之 師

皆様こんにちは。今は新型コロナウイルス感染のニュースが毎日のように報道され、緊急事態宣言、不要不急の外出の自粛に努めるように、全国民に発信されました。一日でも早く終息を祈るばかりです。

さて今回のお話は、「喜びは二倍、悲しみは半分」

このお話はお釈迦様が夫婦の在り方について説かれた話です。「夫婦というものは気持ちが一つでなければなりません。そして、一つの教えを信じ、その教えをお互いに心を養っていく信仰生活が大切です。」と説かれました。

お釈迦様は弟子たちが布教の旅に出る時、一人ではなく、必ず二人連れで行かせました。なぜ二人連れがいいのでしょう?それは二人ならば、うれしい時はうれしさが二倍になり、悲しい時は悲しみは半分となり、くじけそうな時はお互いに支えあえるからです。

人生はよく旅にたとえられます。お釈迦様はこの世を「耐えなさい」と言われました。つまり人間は楽しむために生まれてきたのではない。耐え忍ぶために生まれてきた。と申しているのです。人生は楽しいこともありますが、「しんぼう」「がまんする」ことのほうが多いのです。

人生の旅を乗り切ってゆくには布教の旅と同じく、信頼できる連れが必要です。妻にとっての夫、夫にとっての妻はお互いに最も大切な仲間です。お釈迦様が言われたように二人ならば喜びは二倍、悲しみは半分となります。

この教えをかみしめながら、仲良く長い人生を過ごしてください。

「ゆずるこころ」

可児市 天竜寺 住職 太田恒次 師

昨年の末にPTAのお母さん方と一緒に比叡山延暦寺にお参りする機会がございまして、その際に比叡山の高僧にありがたいお話を聞くことができましたので、その時のお話を少しさせていただきます。

相手が子供のみえる母親ということもあり、高僧は、最近のご家庭の教育について、あまり良い教育が行われていないのでは・・・と話し始めました。

高僧は昔から子供が来ると良くこの質問をするそうです。

その質問とは自分と二人の友達がいて、一つのパンをもらいました。その時、君たちはどうするかというものでした。

最近は一人っ子が多いからなのでしょうか。じゃんけんをして勝った人が一人で食べる。また、けんかに強い自分が食べる。面白いものではバイオの力で三つに増やし、みんなで食べるといったものもありました。

ただ、少し昔であるならば、三つに分けて食べるという答えが多かったようです。

しかし、その高僧は続けます。但し、それは学校の教育では正しく、満点でありますが、仏様の教えを説くのであれば、自分は食べず、食べたい友達に譲る、これが正しい。と。

それを聞いて、道元禅師の「自未得度先度他」の心を思いました。簡単に言いますと自分の事よりも相手にゆずる、自分の幸せより他を幸せにしたいと願う心、それこそが菩薩の行いであり、大切という教えです。

中々難しいことではありますが、この心があれば、多くの諍いは無くなり、多くの人が幸せになるでしょう。

もし、お子様やお孫様がおみえになれば、どのように答えるか試してみてはいかがでしょうか。

一人で食べると答えたなら、分け合う素晴らしさやゆずるという尊さを正しく教え導いていただければとおもいます。

届けたい願い

関市 龍泰寺 住職 宮本覚道 師

私たち僧侶は、毎朝、朝課という朝のお勤めをしております。曹洞宗ではこの朝課をとても大切なものとしてまもり、行い続けてきております。

そこで質問があります。この朝課は、そもそも何のために行っているのでしょうか?

もしかしたら、毎朝のお経は、お寺の仏さまのために唱えられていると思われているかもしれません。確かに、まづはじめに、お経の功徳を仏さまにお供えすることからはじまります。しかし、そこで終わりではありません。お経の功徳が、仏さまのお力によって、すべての人々に廻り、すべてのいのちが幸せで安らかであるようにと願う。それがお経の本当の意味なのです。私たち僧侶は、この願いが皆様に届くように、毎朝お経を唱えているのです。

だからこそ、伝えたいことがあります。それは「皆様は一人ではない」ということです。毎日、こうして、皆様の幸せを願っている僧侶が必ずどこかにいるということです。

「私たちは、縁起という繋がりの中で生かされている。」お釈迦様は、そう示されております。

いつも一緒に笑ってくれるのが友人です。いつも相談に乗ってくれたのが両親です。いつも自分を気にかけてくれるのが子どもです。そして、いつも皆様の幸せを願っているのが僧侶です。皆様は一人でありません。多くの人との繋がりの中で生かされています。そして、私たち僧侶は、そんな皆様の幸せをいつも願い、毎朝お経を唱えているのです。「皆様は一人ではない」「私たち僧侶がいつも幸せを願っている」このことを知っていただきたいのです。

いつでもお寺は皆様の拠り所です。だから、安心して毎日をお過ごしください。私たち僧侶の願いが皆様に届き、心温まる毎日になりますことをお祈りいたします。

努力とひらめき

可児市 薬師寺   住職 丹治大輔 師

エジソンの有名な言葉で「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である」という有名な言葉があります。

知らない人はいないというほど有名な言葉ですが、実はこの言葉、記者がエジソンの言葉を間違って解釈してしまった誤った言葉だったということをご存知でしょうか。

本当は「1パーセントのひらめきがなければ99パーセントの努力は無駄になる」といったことをエジソンは言いたかったようです。エジソンとは努力の人であるといった印象がほとんどの人の中にあると思うんですが、本当はひらめきこそがとても重要なものである、といった考え方を持っていた人だったようです。

実は仏教にも似たような話、ひらめきこそが重要なものであるといった話が存在するんです。それはお釈迦様がお悟りなられたときのお話です。お釈迦様は6年間の苦行をした、と言われています。ですが、どれだけ苦行を積み重ねても精神はかきむしられるだけでこのまま苦行を続けていても悟ることは出来ない、と気付き今まで積み重ねてきた努力、すなわち苦行を捨てなければならない、ということをひらめいたんです。お釈迦様は苦行を繰り返しても6年間悟ることができなかったのですが、この苦行を捨てるというひらめきによってわずか1週間ほどの坐禅で悟ることができたのです。

お釈迦様の生きていた時代というのは悟るためには苦行をするというのは当たり前の常識だったので、お釈迦様が苦行を捨てたという話は今となっては仏教の有名な話、一般常識の話なのですが、お釈迦様の古代インド時代においてはかなり斬新なひらめきだったと思うんです。

曹洞宗の修行道場では蠟八摂心といってこのお釈迦様が悟られたことを追慕して12月1日から8日までの間ほぼ一日坐禅を行います。私も修行中にこの蠟八摂心をやったのですが、この間にお釈迦様と同じように悟れるか?と聞かれると悟れないんです。私はこのお釈迦様のこのお悟りの話でいつも考えていたことはお釈迦様が最終的には捨てた苦行というサイクルもお釈迦様にとって必要なことだったのではないか、ということです。お釈迦様の積み上げてきた努力、すなわち苦行があったからこそ努力を捨てる、すなわち苦行を捨てるというひらめきが生まれ、わずか1週間ほどという短期間で悟りにまで至ったのだと。

ではエジソンは努力の人ではなくひらめきの人だったのかというと私は努力の人だったと思うんです。エジソンの名言をいろいろと読んでみるとすごく努力をしたくなってきます。エジソンは努力の人だった。努力の人であったからこそここにたどり着いた、ひらめきというものがいかに重要なものであるのかを。

ではなぜひらめきが生まれるのかということを考えてみると私は執着を捨てるということだと思うんです。お釈迦様のお悟りの話には悟るためには苦行が絶対に必要だという固定概念、執着を捨てた、とも解釈できる。我々は様々な固定概念というものを持っている。固定概念というものは執着ともなり、我々はその執着の海の中にいれば水の中にいる魚達が自分たちは水の中にいるのだ、と気づかないように我々はそれが執着である、固定概念であるとは気づかない。この海の中から脱出するためには必要なのは努力である、と我々はそう思ってしまうのですが、エジソンはただ努力するだけではだめだ、ひらめけ、と言う。そのエジソンの言うひらめきというものが、努力に努力を積み重ねた上に生まれるものなのかもしれない、あるいはお釈迦様のお悟りの時の話のように苦行を捨てた、努力を捨てた先にあるのかもしれない、努力は裏切らないと言いますが、努力を捨てたとしてもその努力は裏切らない、そうお釈迦様はこの苦行というサイクル、努力を積んできたからこそ1週間で悟りを得ることができた。

「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である。」この言葉は記者がエジソンの言葉を間違えて解釈してしまった間違った言葉だったのかもしれません。ですが私はこの言葉は正しい言葉、真理だと思っています。努力は報われる、しかし努力とさらに見方の角度を変えることも必要なんだ、執着を捨てる、すなわちひらめきというものも必要なんだ、ということをエジソンは言いたかったのではないかと思います。

「挨拶は心温まるもの」

郡上市 北辰寺 住職 岡本幹彦 師

ある日の事です。郡上市の国道156号線を自家用車で走っていました。信号のないのどかな田舎道です。ところが、急に前の車が止まりました。車間距離も離れていましたので、難なく止まることが出来ました。よく見ると、もう少し先に横断歩道がありました。横断歩道には、自転車を引いた子どもたちが立っていました。前の車は横断歩道で、子ども達が立っていたから止まったのでした。私は早速ハザードを付けて、後ろの車に知らせました。前方から走ってくる車も横断歩道の前で止まったので、子ども達は自転車を引いて渡っていきました。渡り終えると、子ども達はふり返り大きな声で「ありがとうございました」と言って頭を下げました。私はニコッと笑いかけて、手を上げました。何だか心が温かくなってその後の運転も楽しいものになりました。

人と人の出会いは「挨拶」で始まります。どんな挨拶をするかで、その後が決まります。私の心が温かくなり楽しくなったのは自転車の子ども達の「挨拶」です。「挨拶」は人と人とのつながりを支えます。

さて、「挨拶」という言葉です。この言葉は仏教、それも禅の言葉から出ています。中国の仏教書「碧巌録」には「一挨一拶」お互いに相手の悟りの深い浅いを試すこととあります。それが「挨拶」となりました。挨拶の挨は軽く押し開くこと、挨拶の拶は強くふれ迫ることです。仏教では出会いの中での「挨拶」は重要なこととなります。自分の心を開いて「挨拶」をすることで相手の心も開きます。

おはようございます。おやすみなさい。こんにちは。ありがとうございました。さようなら。ごめんなさい。いただきます。「挨拶」はコミュニケーションのツールです。

私達は、人と人とのつながりの最初のアクションである「挨拶」を忘れないようにする事で、温かい世の中となる事と思います。

「命を支えている食事」

関市 延寿寺 住職 早川明宏 師

私達の命を支えている食事とは、他の動植物の命を戴くことです。人間だけでなく他の動物も、食べることによって体内に栄養を吸収しています。地球の生態系は食物連鎖のバランスで保たれています。満腹のライオンは決していたずらに狩りをしません。ほとんどの動物は自分より弱い生き物によって自分の命が支えられている事を本能的に知っているのかもしれません。乱獲は、自らの命を滅ぼすことになってしまいます。

植物と動物とは、二酸化炭素と酸素の相互依存関係です。このように私達の命は、生態系の調和によって保たれています。現在の地球上の全生命体の起源は、三十七億年前に生まれた一個の細胞でした。それが分裂しながら遺伝と進化を繰り返して、現在の生態系となりました。その意味では生命は同根であり、命そのものに、優劣・上下・貴賤はありません。生命は平等であり、何よりもかけがいのない存在です。その平等な生命奪うのが食事ですから、食事という殺生を懴悔し、頂戴した命に感謝しましょう。

「同事の行い」

美濃市 善應寺 住職 雲山晃成 師

皆さんは、修証義と言うお経は知って見えるかと思います。

そのお経の中に四つの大切な行いが、記されています。

今回はその四つの行いの一つ同事について、お話をさせて頂きます。

同事とは、同じと言う字と、事と言う字です。事を同じくすると書きます。

たとえば、水を器に入れるとします。水はその器に隙間を作らず、ぴったりとあって器に入ります。どんな形の器にもぴったりと自ら形を変えて入ります。しかし、水自体は形は変われど、何も変わりません、しっかりと水であり続けます。

人間の如来は、人間に同ぜるが如しと道元禅師様が言われているように、仏様が人を導く時は、仏様の姿ではなく人の姿になって導かれるのです。

同事とは、人に寄り添い周りの人達と融和協調し、時には助け合いながら行う菩薩経です。どんな人にも水のように柔軟に、ぴったりと心を寄せて行うことが出来たならば、仏様に私が変わって行ったと同じことなのでしょうね。

『目に見えないもの」

美濃市 永昌院 副住職 高橋定佑 師

こんにちは。今日は「目に見えないもの」についてお話ししたいと思います。

皆さんは「いのちのつながり」について考えたことがありますか。私は、以前教員として中学校に勤務していた時、子どもたちに「いのちのつながり」について考えてほしくて一冊の絵本を紹介したことがあります。『ヌチヌグスージ』という本です。「ヌチヌグスージ」とは沖縄の方言で「いのちのまつり」という意味だそうです。

舞台は沖縄のお墓参り、島独特の大きなお墓に親戚一族が集まります。絵本の中で、おばあさん「おばあ」が坊やに、「坊やにいのちをくれた人は誰ねー?」と聞くと、坊やが「それは・・・・・・、お父さんとお母さん!」と答えます。

いのちのつながりについて、独特で親しみのある挿絵と言葉で展開され、坊やの頭の中ではお爺さん、お婆さん、ひいお爺さん、ひいお婆さん。さらにその前へと、いろんなご先祖様の顔がグルグル回り、つながりの数が2倍、2倍、さらに2倍と増えていきます。

そして、つながりあう一人ひとりの顔が、紙面いっぱいに無数に描かれ、広大無辺ないのちのつながり、広がりを感じることができます。

絵本の中では、いのちのつながりを数として取り立てて見ることはしていませんが、あえて数字で見てみると

その数は10代で2000人を超え、20代遡るとご先祖さまの数はなんと200万人を超えます。

物凄い数です。しかも、そのご先祖さまそれぞれに、今私たちが生きているのと同じように、喜びや悲しみ、苦しみがある中でつながれてきた。そうやって考えると、素直に感謝の気持ちが湧いてきます。

つながっているのは勿論、いのちだけでありません。

私たちは目に見えるもの、誰が見ても分かりやすいものに意識が偏りがちで、目に見えないものはあまり意識されません。しかし、その目に見えないもの、存在によって、確かに私たちの日々の営みは支えられています。

社会環境の変化が著しい時代だからこそ、その変化に振り回されることなく、ご先祖さまを始め、目に見えないものに想いをいたし、その複雑な絡み合いから、時には苦しみに近いものがあったとしても、少しでも感謝につながる気持ちをもてることが大切です。

そうすることよって、私たちはよりよい未来を描いていくことができるのだと思います。

自ら先に直す

関市 永昌寺 住職 鬼頭周賢 師

皆さん、こんにちは。

日頃、相手の欠点ばかりが目につきイライラしてしまうことはないでしょうか?夫婦の間でも、親子の間でも、兄弟姉妹の間でも、他人との間でも、自分の悪い所を反省して直そうとするよりも、相手の悪い所ばかりが目について、それを指摘し直させようと責めているのではないでしょうか?

相手を責めれば責めるほど相手は責め返してきますし、相手ばかり責めて悪い所、気にいらない所を直させようとするのは少しも効果のないことです。この話を聞いて「なるほど」と思い、この話を相手に押し付けて自分は反省しない愚かさを私達人間は持っています。

人間のこうした愚かさを思う時、静かに自分を見つめる時間を持つことが如何に大切で必要であるかということに気づきます。「自分を見つめ、まず相手より自分が先に直していく、そうすれば自ずと相手も直ってくる」と知ること、悟ることこそが大切です。

現代は、あらゆる面で批判の目を持つことが大切と言われ、その目を養うことが必要とされ、それが世の中を見極めることとされています。確かに必要な事です。

しかし、日常生活の中での人間同士の関わり合いには、自分をしっかり見つめる目があってこそ、自分を見つめ直すことが出来てこそ、人と人との交わりを円滑に保つ重要なポイントであることを忘れてはなりません。

まず相手を責めるよりも、深呼吸をして自分を見つめ直すことから始めてみましょう。