テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「普 回 向」

飛騨市 寿楽寺 御住職 柿本和孝 師

願わくはこの功徳をもってあまねく一切におよぼし

我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。

これを普回向と申します。

皆様、お経を読んだあととか写経というお経を書き写したあと、食事をしたあと。さらに、八十八ヶ所三十三ヶ所弘法様薬師様観音様などの霊場参拝の時のお経、般若心経などをお勤めしたあとの終わりにお唱えいたしますね。この普回向の意味は簡単にいうとすべてみんなの為になりますようにと言うことです。きちんとした態度で、自分が仏様のみこころに叶うより良い生活をし、正しき道が分かる人になれる為に自分さえ良ければいいと言うことでは駄目なのです。

つまり、自分はこれだけ良いことをしたのだから、自分だけ自分だけ良い人に成ろうなどと言うことでは、自分さえ良ければ他の人は他の人はどうでも良いというひとりよがりな事になってしまいます。

お経、普回向をお唱えしていただき、過去のあやまちも未来の不安も他人の目も気にせず、やり直しの効かない人生を精いっぱい生きてください。どのような結果になろうとも、どのような噂を立てられても、大きく優しく受け止めてください。

よって願わくは、仏様の御心を自分の命と思い。私が俺がと我を貼ることなく仏道を成ぜんことを。   合掌

「ひとつのことば」

高山市 正雲寺 住職 近藤元隆 師

ひとつのことばでけんかして

ひとつのことばで仲直り

ひとつのことばでおじぎして

ひとつのことばで泣かされた

ひとつのことばはそれぞれに

ひとつのこころをもっている

これは仏教詩人坂村真民さんがことばについての思いを表現されたものです。

日本ではことばのことを古来から「ことの葉」とか「ことだま」と言いますが、ことばには人を動かすほどの大きな力があると言われます。

ことばは、伝達手段として、コミュニケーションの手段として、私たちにとって欠くことのできないものです。このことばは、私たちを喜ばせたり、奮い立たせたり、信頼関係を深めたりしてくれます。でも逆に私たちを悲しませたり、失望させたり、けんかのもとになったりもします。

私どもの曹洞宗を開かれた道元禅師様は、

「人にものを言うときには、心の中で三回繰り返し、このことばが本当に相手のためになるかどうかを考えてことばを口に出しなさい」と言われています。

ひとつのことばによって救われたり、人生の大きな節目を乗り越えることが出来るのは、かけてもらった心地良いことばや、素晴らしいことばではなく、心がこもっているかどうかではないでしょうか。さらに道元禅師様は、お母さんが無条件に赤子を思うように、慈しみの心を種として発することばを、尊い行いと示されています。

孤独を感じることの多い現代にあって、人と人との絆の確かなるものにするためにも、ことばを大事にしなければなりません。

「回向」

恵那市 林昌寺 住職 宮地直樹 師

「回向」回し手向ける。向かわせる。と書きます。あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、ご法事など各種読経の後にお坊さんが一言加えているのを聞いたことがあるでしょう。

このお勤めは誰の為に、何の為に行っているのかを申し上げ仏様のご加護を乞うものであります。この回向、多くの場合は単に現場限りの祈りに留まらず、このご利益がより多くの人々に届くようにとの思いが込められているものです。

それこそが回し手向けるという「回向」本来の意味であるわけです。

さて、皆さんが電車の中でお年寄りに席を譲ったとします。

お年寄りは先に電車を降りる。「お席を譲っていただきありがとうございました。どうぞお座りください」と席を戻されます。もちろん、その時の状況によって様々ではありますが、再び自分がその席に座ったとします。

その場合、席を譲るという「善行」は二人の間で完結をしてしまいます。そこに問題があるとは申しませんが、今回は「回向」のお話でありますので、別の見方をご紹介いたします。

席を譲るという「善行」を意味あるものとするために「回向」をするわけです。どういう事かと申しますと、お年寄りが電車を降りた際に再び自分が座るのではなくて、別の人に座って頂く。そして、また別の人が座る。と言うように「善行」を人から人へと繋いでいくのです。そうすることによって、自分が行った「善行」がより多くの方へと回し手向けられる。そして、いつしか自分の所にも帰ってくるかもしれない。

それこそが「ご利益」と呼ばれるものです。

こうして、水面に落ちた小石が大きな波紋を描くように小さな行いが、限りなく広がっていく可能性を秘めているということを、知っておくのか知らずにおくのかでは大きな違いであります。

これはまた、逆の意味合いでも同じこと。小さな悪行が大きな罪へともなりうるということです。

道端に落ちているごみを拾う。そんな小さな行いが、もしかしたら多くの悩める人の心を救いるのかもしれません。

「看脚下」

中津川市 蔵田寺 住職 鬼頭大輝 師

足元をしっかり看なさい。お寺の玄関に「看脚下」と掲示されている事があります。それは履物をそろえて脱ぎなさいと言う事です。

人は他人のことを、批判したり、注意したりしますが、自分自身のことはあまり注意せず、気が付かないことが多いものです。人の事より、まず、我が身の足元をしっかりと見つめたいものです。

自分の足元をよく見なさいと言う事は実に平凡な言葉ですが、日常生活の第一歩であり、禅の仏法もここが重大であります。

闇夜に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇した時、人の多くは右往左往してこれを見失い、生きる道を遠くに求めようとするものですが、道は近きにあり、自分自身に向かって求めよ、と言うのが看脚下の一語であります。

現代のようなめまぐるしい世の中では、目だけが先に走ってしまったり、高い所を望むあまり、足元がついついおろそかになりがちです。理想や夢も確かに大事ですが、これにとらわれると足が宙に浮いてしまいます。

足をしっかり大地に着けて、爪先を正しく向けて着実に進めるならば、目をつむっていても目的地に到達出来ます。いたずらに結果にとらわれず一歩一歩、脇目を振ることなく、たった今を真剣になることです。

皆様も一度自分自身の足元をご覧になって下さい。爪先は何処を向いていますか?

「梵鐘をお迎えして」

恵那市 天長寺 住職  森 知孝 師

恵那市天長寺住職、森と申します。

先般、當山では予てよりの念願でございました山門に梵鐘をお迎えすることができました。

本来あるべき場所に、文字通りの「鐘楼門」としての姿となりました。御志納いただいた方、ご協力をいただいた皆様に、心から感謝を申し上げます。

第二次世界大戦の「金属類回収令」によって、「梵鐘」を供出して以来、約七十有余年ぶりに里山に響き渡る「鐘の音」に檀信徒も喜んでくれております。

さて、「鐘」と言いますと、『祇園精舎の鐘の声』で始まる『平家物語』の有名な一節です。

簡単に言えば、万物は止まることなく常に変化し続けるという事です。

曹洞宗には、『修証義』というお経があります。その一文に、『光陰は矢よりも迅やかなり、身命は露よりも脆し』という一節があります。一般的には、『光陰矢の如し』と言います。

私たちは、日々の暮らしの中で、毎日同じような生活を繰り返されるものだと錯覚しがちだと思います。その日、一日過ごす日々は、全くの別の時間であり、決して繰り返されることはありません。一時たりとも無駄にはできない。それが人生ではないでしょうか。

無駄にはできない人生、急には変えることは到底できません。ほんの少しでも、モノの見方の一助としてみてはいかがでしょうか。

「今日は、素晴らしい経験をした」とか、「人と楽しい話ができた」とか、「美味しいものを食べた」とかなど、繰り返されることない時間の中での経験は、多くのご縁によるものです。ご縁こそ感謝の別名だと思います。

鐘の音に、ふと佇むとき、思い出すことがあります。

もう30年くらい経ちますが、私が近隣のお寺さんにお邪魔した時のことです。厳格な老住職が夕べの梵鐘を撞いておられ、撞き終わったあと、

『鐘のゴーン・ゴーンという音は、あらゆることに感謝しなさいと仏様が言っているんだよ。だから、「御恩」という言葉があるんだ。仏様の声は、鐘の音によって伝わっているのだから』と。

今思えば、あの時の老住職の言葉は、今更ながらですが、心から感謝しています。

「足ることを知る」

多治見市 福壽寺 副住職 伊藤隆祥 師

むかし、欲の深い男が日の出から日没までの間に自分で歩いただけの土地を貰えるというので、夢中で一日中走りまわり、遂に疲労のため命尽きてしまった。その男の亡きがらはわずか一坪にもみたない土地に埋められた

「人はどのくらいの土地を必要とするか」という物語りであります。

よく考えてみると、私達もこの男のように毎日毎日果てしない「もの」への欲望のために走りまわってはいないでしょうか。

確かに、私達が社会生活を営んでゆくためには、「もの」は必要な存在であります。しかし、「もの」には限りがあって、いくら私達が求めようと努力しても、完全に求めつくす事はできません。そこから私達の心の中にむさぼり、怒り、愚痴といった悩みが生じます。人間の幸福とは何か?という問いにお釈迦様は次のように答えておられます。

「足ることを知らざるものは、天堂に処すといえども、なお貧しし。」と。

実体のない仮の姿である「もの」に執着して、夢中で追い続けても幸福はやってきません。心の中に足ることを知ってこそ、初めて幸せはやってくるのです。

「お盆に思う」

可児市 弘福寺  住職 丹治真一 師

8月のお盆をお迎えする時期となりました。 地域によっては7月、あるいは9月といったように、さまざまな時期がございます。お盆はご先祖様をお迎えをし、そしてお見送りをいたします。特別にご先祖様だけをご供養するために祭壇供養棚を設け、お盆のお供えお飾りをして御接待を致します。そしてお坊様に読経をしてもらう日本の代表的な仏教行事の1つとなっております。さて禅の言葉に相承という言葉がございます。相承ると書きます。師匠から弟子あるいは親から子へと代々引き継いでいくことでございます。お盆の行事もだいたい引き継がれたものでございます。昨今、親たちは子供に負担をかけたくないと言って仏教行事の簡略化、さらには省略をすると言うことが目立つようになってきたように思います。ご先祖様、親たちがひとつひとつ築き上げたという行事を、正しく子孫たちに伝えていってあげたいと思います。お徳を積んで、そして済ませて行っていただきたいと思うこの頃でございます。

コロナ禍で思いやりの心

土岐市 正福寺 住職  大島順昭 師

横浜港に寄港したクルーズ船で、新型コロナウイルス患者が見つかり、はや一年以上が経ちました。あっという間に世界中に広がり未だ終息の兆しも見えません。皆様も、こんな世の中が来るとは思いもよらなかったことでしょう。

人込みを避け、家に籠りがちになり、マスクをしなければ外出もできない、そんな日々になってしまいました。マスクを着け、人と人との間隔をあけ、会話も小さな声でしなくてはなりません。なんだか人情味が薄れていきそうな気がします。こんな時こそ、心の中で思いやりの心を持ち、人と接していきたいものです。

そんな人は、相手の気持ちを考えて相手の様子をよく観察して気遣い、相手の意見や要望も尊重できるような

そんな人は、損得勘定を持たないので相手に対して態度を変えたりなどしないと思います。

そんな人は、周りの人からも信頼されやすく誰からも愛されるでしょう。

又、言葉の使い方も大切だと思います。相手を思いやる言葉を使おうではありませんか。

我が曹洞宗の開祖 道元禅師様の御詠で「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」と詠まれました。美しい四季の移り変わる自然と共に生きている日本人の文化を述べられたものです。今コロナ禍で大変な時代になってしまいました。相手の顔もマスクで隠れ、表情も分かりづらいとは思いますが、少しでも相手を気遣う心をもって接していきましょう

 

「おかげさまで」

美濃加茂市 徳雲寺 住職 松浦文應 師

私たち普段「お元気ですか。」と声をかけると「おかげさまで」と挨拶する事があります。この簡単な言葉のやりとりで、心が通じ合います。

何げなく使っている「おかげさま」ということの意味を考えてみましょう。上のお(・)と下のさま(・・)は、お(・)釈迦さま(・・)というのと同じ敬語であって、かげ(・・)とは陰つまり霊のこと。即ちこの「お陰様で」という意味は、自分自身日頃、努力もし注意も払いながら生活していますが、それにまして自分をこの世に送り出して下さった祖先の霊が、見守って下さるから家運も隆昇し、家族みんな健康で過ごせる事、その祖先の霊に対する、自然に生まれた感謝の表現が「お陰様で」という言葉になったのではないかと、私は思いました。これで終わります。

 

「少しの思いやりの心で」

加茂郡白川町 臨川寺副住職 加納勇毅 師

新型コロナウィルスの感染拡大により、私たちの日常生活は大きな影響を受けています。

目に見えないウィルスへの恐怖心、社会・経済に対する不安、自粛生活によるストレス等がのしかかっています。それらの恐怖や不安から感染者や医療従事者に対する偏見や差別、周りの事を鑑みない自粛疲れの発散を見かけます。

又、世界の国々では、平等な社会を目指しながらも、ワクチンの争奪戦が起き、格差社会が大きな問題となっています。

人間だれしも平穏で、満たされた生活を願っていますが、恐怖や不安を克服することは大変難しい事です。

では私たちはどのように毎日の生活を送れば良いのでしょうか。

少し考えてみましょう。

お釈迦さまの教え、八大人覚の中に「知足」があります。「知足」とは、“現状を満たされ、足りているものと理解し、不満を持たない”という教えです。

今置かれている現実と向き合い、一人一人が利己的な行動をつつしみ、相手の事も自分の事として捉えることで、そこに“思いやりの心”が生まれます。行動の一つ一つに、“思いやりの心”を持つことが出来れば、余裕のある明るい生活を望むことが出来るのではないでしょうか。

物事を正しく理解して、恐れることなく行動する。そうすれば安らぎや信頼が芽生え、明るい未来も見えてきます。

コロナ禍のこんな時こそ“思いやりの心”を持った暮らしをしてみませんか。