テレフォン法話

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縁について

各務原市 長楽寺 住職 古川道弘 師

本日は縁について少しお話させていただきたいと思います。

縁というのは不思議なもので、一つには思いもよらない所で繋がっていたりするものです。

新しく知り合った方と共通の友人がいたり、もしくは知り合いの身内だった、というような経験はございませんでしょうか。

また逆にいつの間にか気づかぬうちに途絶えてしまう縁でもあります。

これも諸行無常の中の一つとも言えるかもしれません。

蒸かしたお湯をそのまま放っておけば冷めていってしまうように、結ばれた縁も何もしなければ時とともに遠くなっていってしまうでしょう。

折角結ばれた縁を途切れさせないためには、何がしらの努力が必要ではないでしょうか。

ですが特別に難しいことをする必要はないと思っています。

例えば年賀状や暑中見舞いのような季節ごとのお手紙でもいいでしょう。

また今の時代多くの人がパソコンや携帯電話をお持ちと思いますで、電話したりメールを送ったりとちょっとした連絡がすぐにつくのではないでしょうか。

縁をつなぐ努力はそういったちょっとしたことでも十分だと思います。

少し話は変わりますが、縁という言葉が使われていることわざや四字熟語などを思い浮かべてみてください。

「袖振り合うも多生の縁」「合縁奇縁」など一つ二つはすぐ思いつくと思います。

そうした言葉が昔から使われていくつも残っているというのは日本人が縁というものを大事にしてきたかではないでしょうか。

このお話を聞いていだだいているのもきっと何かのご縁と思って、今までに結ばれたご縁を大事にして、少しでも長く続くように心掛けていただけたら幸いです。

「死ぬことは怖いこと?」

飛騨市 長久寺 住職 守田智昭 師

十年程前、お寺の雪囲いの撤去作業中、自分の不注意により足場を滑らし、二メートル位の高さから、落下した事があります。

頭から落ちていったので、手で防いだものの、地面のコンクリートに顔面を強打し、意識を失いかけました。一瞬視界はテレビの砂嵐状態になり、痛さの中で意識が遠のいてゆく経験を致しました。その時、死ぬという事は、この様に突然訪れるものなのだと、実感しました。

顔面は腫れあがり、左腕は骨折しましたが幸い脳に損傷もなく、軽いけがで済みました。仏様のお陰だと、つくづく感じたものです。

さて、人は何故死ぬことが怖いのでしょうか。きっとそれは、誰もが一度も死んだ経験がないからなのだと思います。死ぬ時どうなるか分からない。死んだ後どうなるかもわからない。大切な人との別れの悲しさ。その様な不安が、死の恐れに繋がっているのでしょう。

お釈迦様はおっしゃいます。生まれたものは必ず死ぬと。生れる事が自然であるように、死ぬことも自然な事なのであります。自分が死ぬことで、次に命を譲っているのです。

みんなそれを分かっていながら、直視すると不安なあまり、どこかで、この現実を胡麻化そうとしているのです。

さらに、お釈迦様は、おっしゃいます。「死は決して恐れる事ではない」と。

恐れるべき事は、「いつ死ぬか分からないこの自分が、今を『ちゃんと』生きてこなかった事」に対してであると。

いざ死を迎える時に、後悔することが無いように、今、出来るうちに、やりたい事、伝えたい事を、「しっかり」と「ちゃんと」しておきたいものであります。

「三界万霊牌」

飛騨市 光明寺 住職 藤戸紹道 師

寺には三界万霊牌がある。

境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。

三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。

どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自他平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。

私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。

それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。

これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。

そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。

それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。

せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施食の意義を忘れないでほしいものだ。

「百花春至為誰開」(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本孝規 師

まず始めに、皆様に質問があります。

最近「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことはありますか?私にはあります。それは、新型コロナウイルスのせいで、地域での集まりや様々な行事が無くなり、お寺でも皆様に集まって貰う事が出来ず、「早く収まって、また集会やお祭が出来たらいいのに」と思う事があります。

そんな時に良く思い出す禅語があります。それは『百花春至為誰開(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)』という禅語です。

春にいっせいに咲き乱れる野の花も、観賞用に庭に植えられた花も、春の訪れを知らせようと咲くわけではなく、人の心を和ませる為に咲くわけでもありません。

花はただその生命のおもむくままに、無心に咲き、無心に散っていきます。

誰の為でもなく、ためらいも不平もなく、その姿を誇ることもなく、与えられた場所で、ただありのままに精一杯咲くだけです。

人はあれやこれやと、はからいながら生きることをやめられません。「はからい」とは考えや配慮のことです。「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」など意志によって行動することです。

花を見てみて下さい。そんな「はからい」も何もなく、ただありのままに咲いているだけなのに、皆もそれぞれの色かたちで山野を彩り、私達を慰め、楽しませてくれているのではないでしょうか。

不平不満や、ちっぽけな「はからい」に惑わされず、ただ無心に生きることの尊さをこの禅語は教えてくれています。

最初に言った事以外にも想うことはあり、皆様にも「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことがあると思います。そう思った時に是非ともこの禅語を思い出し、ただ無心に、ありのままに、『百花春至為誰開』と過ごしてみては如何でしょうか?

「人の心元より善悪なし」

恵那市 瑞現寺 副住職 坂 英世 師

道元禅師さまは、私たちにもとから善い心や悪い心があるのではなく、善い縁に出会えば善くなり、悪い縁に出会えば悪くなっていくのだとお示しくださっております。

何年か前から、子どもの人生は親の地位や経済状況によっておおよそ決まっている、という意見を耳にするようになりました。私たちの人生が生まれによって決まっているという考え方は、古代のインドでもそうであったように、ある意味根強い考え方です。しかしお釈迦さまは、私たちの人生は生まれではなく、行いによって決まるのだとお説きになられました。道元禅師さまのお示しは、このお釈迦さまのみ教えに連なるものです。

生まれた環境が私たちの人生を左右しているように見えるのは、一面では正しいことかもしれません。問題は、それを全く動かしがたい運命のように考えてしまうことです。環境もまた、私たちの行いから成り立っていると考えてみるのはどうでしょうか。これまで生きてきた中で、身近な人や尊敬する人のふるまい、ことばから、全く影響を受けていないという方はおられないと思います。普段意識することはないとしても、私たちの行いは善くも悪くも影響力をもっています。

生まれというとほかの人から自分への影響に偏りがちですが、行いと考えてみると、自分の行いはどうだろうかとも思い至ります。私がしていることは周りにどういう影響を与えているのだろうか、はたして善い縁になり得ているのだろうか。周りに善い影響を与えようとまで考えると行き過ぎですが、自分のふるまい、ことばを顧みることは、自分を助けることでもあります。

私自身にとりましても、自覚なくふるまったりことばを話したりすることは恐ろしく、また恥ずかしいことです。「人の心元より善悪なし」このお示しは、自身のふるまい、ことばを顧みるためにも、大切にしているおことばです。

「勝利は鞘の中にあり」

恵那市  長国寺 住職 小島現由師

一昨年来より続いているコロナ禍や、昨今のウクライナ情勢に伴い、私たちの生活や行動が大きく制限され、思い通りに事を進めることがこと更に難儀な世の中になりました。

変化に対応した生活を送ること自体も大変なことではありますが、時節にあわせて心の落ち着きを取り戻すことにも苦労してしまいます。

お釈迦様は、この「自分の思い通りにならない」という状況を指して『苦』と表現されました。そしてその『苦』というのは文字通り苦しい事だけを指しているのではなく、『一切皆苦』と仰っています。即ち、「すべてのものごとは自分の思い通りにはならない」という意味です。

連日報道されるウクライナ情勢には心が痛むばかりですが、これも、「思い通りにならない相手」の存在を認められなかったことが発端となっています。

戦国時代、現在の山形県に林崎甚助という居合道の始祖がおりました。

相手よりも早く刀を抜き、相手よりも早く斬ることを極めた人物ですが、その居合道の極意は刀を抜かないところにあるというのです。

「居合の至極は常に鞘の中に勝ちを含み、刀を抜かずして天地万物と和する所にあり」

自分にとって不都合な相手に遭遇したとしても、すぐに刀を抜かない、相手にも抜かせない。斬らない、斬らせない。話し合いを以て和合することを第一の要心としているのです。

刀を抜いたら最後、どちらかが斬られ、そこには勝敗など存在しない。

勝利というのは、刀が鞘の中に収まっている状態で和合することであると。

その上で、万が一、刀を抜かねばならない事態に直面した時には、相手よりも早く抜刀をし、身を守る。これが居合道だというのです。

お釈迦様も、ダンマパダ(和名:真理の言葉)という原始経典において、「殺してはならぬ。殺させてはならぬ。」とお示し下さっております。

思い通りにならないことを力で解決しようとするところに、勝者は存在しないということを、今一度私たちも肝に銘じる必要があります。

 

「無縄自縛の罠」

恵那市 自法寺 住職 小栗隆博 師

私の好きな江戸時代の禅僧で、絵をよくした、出光コレクションなどで有名な仙崖義梵というお坊さんがいます。彼の作品の一つに、道端に落ちた縄の切れ端を、蛇と勘違いして怖がる人々を描いた作品があります。

心温まる画風と、ユーモアあふれる作品の中にも、鋭く物事の本質に切り込んでいくあり方に、一枚の絵に厳しい修行を重ねた禅僧の気概が感じられます。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺があります。実際には無いものをあると勘違いしたり、あるいは人々にそう思わせることで

間違った判断を招いてしまうこともある。

これまでの数年間、多くの専門家とされる人たちが、それぞれの立場でさまざまな「予測」を立ててきました。「専門家」である以上、間違いはないであろうと皆に思われてきた人たちが、その予想を大きく外し、世間を混乱に陥れてきたこともあります。しかし彼らにとっては、その専門分野での自身の所見の中では、少なくとも間違ってはいなかったのでしょう。

仏教の修行では「正見」、正しくものを見るということがまず最初に求められます。

この場合の「正しい」とは一体何でしょうか。自分にとっての「正しい」こととは、単に自分の利益になることであり、その逆は反対に誰かに不利益を押し付け、傷つけることになりはしないのか。自分というフィルター越しに見たものは、己のバイアスを通した以上、既に「正しい」ものではなくなっているのではないか?

そう考えると、全てのバイアスから完全に解き放たれ、本当に物事の真実を捉えることのできる人は、お釈迦様以外に存在しないのではないかと私は思います。

片方の正義は反対の立場の者にとっての不義であり、例えば戦争中でも戦後でも、それぞれの正義不正義は結局のところ容易には推し量れません。

自分の立場を絶対的なものとしてそれを中心に考えるのではなく、あくまで互いの関係性の中で物事を捉えていくように努力することや、何か絶対的な正しい価値観だけを求めるのではなく、あるいは誰かが与えてくれる「正しい」とされるものにすがるのでもなく、互いの関係性、時間や空間、歴史の中での立場の違い、あるいは「間」と言ってもいいかもしれません。そのバランスの中でそれぞれの立場を尊重し、ちょっと間合いをとって考えてみることが必要でしょう。

ありもしない縄に囚われて、自ら動きが取れなくなってしまう。あるいは絶対的な価値観を求めるあまりに柔軟さを失ってしまう。このような危険性を表す「無縄自縛」という言葉があります。この罠に嵌らないためには、ありきたりかもしれませんが日々の生活を丁寧に行じていくことが大切とされます。今改めて、私もそのような修行の日々を過ごすことができればと思っております。

「喫茶去」

土岐市 正福寺 副住職 大島佑貴 師

2年前から突然世界に広まった新型ウイ ルスによって世界中の人々の生活は一変して しまいました。今まで通り普通に食事を楽しんだり、旅行を楽しんだり、人々との日常的 な交流が突然制限され、この先どうなってし まうのか、いったいどうすればよいのか不安 な日々をお過ごしの方も多いと思います。世 界を見てみれば、令和になった今現在でも人 の命を奪い合う悲惨な状況が無くなる事もなく続いております。大変悲しい事です。このような非常に厳しん世の中で、果たしてどう 生きていけばよいのか迷いは深まるばかりで はないでしょうか。色々と考え過ぎて目の前 の事象を見ることができず、さらに悪循環に 陥りかねません。そんな時は、ゆっくりお茶 を飲んでみてはいかがでしょうか。日本には 誰しもが知っている習慣の一つに、お茶を飲む事があげられます。一言にお茶といっても、 奥深い作法にのっとっていただく「お抹茶」、 手軽に飲む事ができる緑茶、最近ではペット ボトルの普及により、いつ、どこでも簡単に いろんな種類のお茶を楽しむ事ができるよう になりました。お茶というは6世紀頃、南イ ンドの達磨様が中国に持ち込み、鎌倉時代に 中国で学んだ栄西が禅と共にお茶の種を日本 に持ち込んだ事から広がったものとされています。 仕事柄お茶に接する機会は非常に多くありま すが、中国の有名な禅僧である趙州禅師の逸 話に次のようなお話があります。禅師のもと に修行僧が訪ねてくると、「ここに来た事が 有りますか」答えが「はい」でも「いいえ」 でも、まぁお茶を飲みなさい。と答えます。 「悟りを開くにはどうしたらよいか」と質問 しても「まぁお茶を飲みなさい」禅師の居る お寺のものが「なぜ同お答えなのですか」と 聞くも答えは「まぁお茶を飲みなさい」だったそうです。一連の流れを見て、一杯のお茶 を飲む時は、ただ無心にお茶を飲む事に集中 する。何でもないこと、当たり前の事を他に  気を取られることなくひたすらやる。その行 為そのものの大切さに気付いたそうです。お 茶を飲む時は他ごとを考えず、お茶を飲む事 だけに集中する。自分が今できない事ばかり 考えて、目の前の事に対して集中できない事 への戒めの為に「喫茶去」という言葉が伝えられているのではないでしょうか。 世の中には不安な事は数えきれないほどありますが、目の前にある事、自分に出来る事 に集中して取り組んでいけば、必ず前に進んでいけるのではないでしょう

因と縁

土岐市 仏徳寺 副住職 佐々繁樹 師

五月に入り田植えの時期が近づいてきました。私の住んでいる地域は田舎ですので、今の時期は町のみんなは田んぼに畑に大忙しです。そして何かを作るという事はとても大変な事です。たとえば、同じ品種のモミダネを使っていても、土壌の良し悪し、田んぼの手入れの良し悪しといった環境の違いによって、出来るお米の味は変わってきます。これはモミダネが因であり、環境が縁となります。因が同じでも縁が変われば結果も変わるのです。

私たちの生活も同じように因と縁で形作られています。良い縁があればいい方向へ、悪い縁があれば悪い方向へ進んでいきます。お釈迦さまは、一切法は因縁生なりといわれ、すべての物事は、因だけでは結果は生じない。因と縁とが結びついて初めて結果になるのだと教えていかれました。

因は同じでも、縁が違えば、結果は異なります。ですから、お釈迦さまは、より良い縁を選びなさいと教えて行かれました。
なぜなら、私たちの心は弱く、ちょっとした縁でコロコロと変わるからです。朱に交われば赤くなると言われるように、周りにいる人や環境などの縁に大きく影響を受けてしまうからです。どんな人に交わるか、どんな環境に身を置くかで、これからの人生も変わってきますから、周りにいる人や環境という縁はとても大事です。精一杯、努力をしていても思うような結果が出ないときはそれはまだ、縁が来ていないだけです。縁が来れば、春に一斉に花が開くようにこれまでのたねまきがパッと花咲かせます。焦る必要はないのです。タネをまかなければ結果は現れませんが、同時に縁がそろわなければ、タネが芽を出して花開くことはありませんから、縁はとても大切です。皆さんもより良い縁を探しましょう。

「忍辱修行」

瑞浪市 増福寺 住職 辺見智光 師

忍辱ということばをご存じでしょうか。忍辱とは「我慢する」「耐え忍ぶ」ということで、佛教の大切な修行の一つです。

思えば私たちの住むこの世界は生きて行くだけでも我慢し、辛抱することだらけの世界でもあります。

私達は人間関係や暑い寒いといった自然環境、自分の身体であっても病気になったり、年をとったり思い通りにならないことばかり。そんなとき私達は我慢したり、辛抱したりしなければならないことに出会います。

それでも自分のことばかりでなく、他者を思いやり調和をとることや、自然の移り変わりや自分の身体とも上手に付き合っていく方法を探していきます。そうしたことが忍辱ということでありましょう。

今はちょうど彼岸の時節、この忍辱は彼岸に実践すべき修行、六波羅蜜という6つの修行の一つでもあります。

昨年からの新型コロナウイルスの流行以来、私はこの忍辱修行ということを思わずにはおられません。今はみんなで自由に集まって飲食したり、旅行にでかけたりすることもできず、マスクの着用や密集・密接・密閉をさけることをみんなが徹底しております。一人一人が自分だけでなく他者のことを思いやり社会全体の事を考え、我慢し、辛抱し新型コロナウイルスの流行と戦っております。

これまでの日常を取り戻すもうしばしの間、忍辱修行、みんなで共に耐え忍んで参りましょう。