曹洞宗岐阜宗務所とは

所長ご挨拶

桜の花びらが風によそぐ季節となりました。平成二十七年も三ヶ月が過ぎ、四月一日よりいよいよ新年度の始まりです。遅ればせながら岐阜県宗務所におきましても、いよいよホームページの開設までこぎつけることが出来ました。御尽力をいただいた各方面の方々に厚く御礼申し上げます。

今後、どうすれば効果的にこのシステムが岐阜県宗務所管内の諸老師にお使いいただけるか、所員一同知恵を振り絞っている最中でございます。適切なご提案をおまちしております。

またホームページ運営も含め宗務所行政に少しでも多くの、また視点の異なる幅広い意見をいただくために教区長老師も含め、宗務所布教師様、青少年教化委員様にも積極的にお声かけをしてまいりたいと考えておりますので、お忙しい中とは存じますがご協力の程、宜しくお願い申し上げます。

所長  小島尚寛(安養寺住職)

曹洞宗とは

今から八百年ほど前の鎌倉時代に、「道元禅師」が正伝の仏法を中国から日本に伝え、「瑩山禅師」が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。
このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」とともに「一仏両祖」として仰ぎます。

宗旨

曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師方によって相続されてきた「正伝の仏法」を依りどころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。
そして坐禅の精神による行住坐臥(※)の生活に安住し、お互い安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。

※「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します。

教義

私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。

お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が明らかとなります。

日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。

両大本山

両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰のみなもとでもあります。
大本山の住職の正式な呼び方は貫首といい、禅師さまと親しくお呼びしています。
また、両大本山のほかに、全国27か所に専門僧堂、専門尼僧堂が、仏道修行の実践の場として設置されています。そして、全国には寺院が約15,000か寺、僧侶が25,000人おり、多くの檀信徒の皆様に支えられています。

大本山永平寺

福井県吉田郡永平寺町
大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、波多野義重公の願いによって越前国(福井県)に大仏寺を建立し、2年後に永平寺と改められたことに始まります。深山幽谷の地にたたずむ山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、浴室、東司の七堂伽藍では、雲水が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を営んでいます。

大本山總持寺

神奈川県横浜市鶴見区
大本山總持寺は1321年、瑩山禅師が58歳のとき、能登国(石川県)の諸嶽寺を定賢律師より譲られ、これを禅院に改めて諸嶽山總持寺と名づけられたことに始まります。1898年に七堂伽藍を消失し、1907年に能登から横浜市鶴見へ移りました。なお、旧地は總持寺祖院として再建され、地域の信仰を集めて今日にいたっています。

高祖道元禅師

dogen道元禅師は1200年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山にて得度されました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄禅師のもとで修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。28歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと『普勧坐禅儀』を著され、34歳のときに宇治に興聖寺を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。
また、仏法の境地と実践を伝えるべく『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の執筆を続けられ、45歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1253年、54歳でそのご生涯を閉じられました。

太祖瑩山禅師

keizan瑩山禅師は1264※年、越前にお生まれになり、8歳で永平寺に入り三世義介禅師のもとで修行を始めました。13歳で二世懐弉(えじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山紹瑾(じょうきん)と名を改め、19歳になると諸国行脚の志をたて、求道生活に精進されました。そして35歳のとき、義介禅師の後を継いで加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に『伝光録』(でんこうろく)をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。また、50歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記』を撰述されたといわれています。その後、58歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、61歳のとき總持寺の住職を峨山禅師に譲られ、翌年62歳でそのご生涯を閉じられました。

※1268年生まれの説あり。

曹洞宗宗務庁発行「禅」(平成22年7月20日 第1版発行)より転載