テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「心を通わせる手段」

郡上市 悟竹院 住職 稲村隆元 師

いつ頃からなのか、横断歩道を渡る学生が止まった車に対して深くお辞儀をする光景をよく目にするようになりました。自分自身が学生の頃はなかった光景だと思います。その姿を見るたびに心が温かくなるのを感じます。「深くお辞儀をする」という行為ではなく、お礼をしている姿を嬉しく思うのだと感じています。

これは近年、見知らぬ人と挨拶を交わすということがあまり見なくなってきていたこともあるかもしれません。地元に来る観光客の方であると挨拶を返されると珍しすぎて逆に驚くほどです。しかし、この時も挨拶が返ってくるとどこか嬉しくなります。言葉がなくとも会釈が返ってくるだけでも同じです。

「挨拶」というのは元来仏教用語で、「一挨一拶」などといって師匠が弟子の修行の度合いを知るために声をかけることをいうのですが、僧侶に限らず挨拶を交わすことで、お互いに言葉以上に伝わるものがあることは誰しも感じるところではないでしょうか。普段からよく話す近所の方に挨拶をしたのに、俯き加減で声が小さかったとしたら、何かいつもと違って心配になります。逆にすごく晴れやかに満面の笑顔で挨拶されると、こちらも笑顔になるし良い事があったのかと感じます。当たり前のことではありますが、当たり前だからこそ大事にしたいと深くお辞儀をしてくれる学生を見るたび思います。

直接人とコミュニケーションを取ることが避けられがちな状況で、見知らぬ人に警戒心の高い時代でもあります。しかし、ちょっとだけいつもより広い範囲で挨拶をしてみると思わぬ笑顔に出会えるのではないでしょうか。

「人のふり見て我が振り直せ」

加茂郡 廣通寺 住職 尾関大介 師

先日、法事のため名古屋の高速道路を走っていたときのことです。私の右側の車線に猛スピードで白い乗用車が走りこんできました。その車の前にはトラックがいたため私の車のほぼ真横から突然左に車線変更をしてきました。左、つまり私の車がいる所です。慌ててブレーキを踏んで前に入れてあげました。それを気にした様子も無く、その車は更に前の軽自動車を煽りながらスピードを上げさせ、いわゆる名古屋走りをしながら走り去っていきました。

この時、実は少々面白い事に気がつきました。この煽り運転をしていた車なのですが、私の車のすぐ前に割り込んできたので、車の背面がよく見えました。そこには沢山のステッカーが貼ってあい、例えば「ドライブレコーダーで撮影しています」とか、「煽り運転反対!」とか、「専属の弁護士がいます」とか、そんな内容のステッカーがベタベタと貼ってありました。

この方は恐らく、自分自身こそが煽り運転の被害をよく受けていると思っているのではないでしょうか。しかし現実は皆さんもお気づきの通り、自分が煽った結果煽り返されているだけなのだと思います。

人のフリ見て我がフリ直せと申しますように、自分の事というのは実は案外分かりにくい物です。普段の生活の中で家族や友達、仕事相手にイライラしてしまった時、それは逆にチャンスだと考えてみて下さい。背筋を伸ばして深呼吸を二、三回、それだけで少し心が落ち着きます。そして自分がそんな感情に至った時のこと、そして自分自身の事をよく考えてみて下さい。思わぬ気づきがあるかもしれません。

 

 

「この時に遭ってこそ禅定~心を静めよう~」

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 小島尚寛 師

新年あけましておめでとうございます。皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴いただき御礼申し上げます。

昨年をもって、宗務所長を退任する予定でございましたが、引き続きもう一期4年お務めさせて頂くこととなりました。今後ともご愛顧下さいますようお願いいたします。

昨年の暮れ、境内墓地の清掃をしている折、参詣者の方のお墓参り、墓石を洗い清め、生花を供え、線香を焚き、手を合わせる。ごくごく自然のお姿、しかしその時に漂う香の香りに、いつもと違う、こころ静まる時を得たような感がいたしました。

新型コロナ感染症による月日は3年が過ぎ、制限による閉塞感に苛まれ、知らず知らずに心の痛みを覚え、不安の中に生活しています。

六波羅蜜という教えに布施(与えること)、持戒(戒律を守ること)、忍辱(苦悩に耐え忍ぶこと)、精進(真実の道をたゆまず実践すること)、禅定(精神を統一し安定させること)、智慧(真実の智慧を得ること)、の六つの徳行があります。

こんな時であるからこそ、この六つの教えの一つ「禅定」ほんの一時であれ、心静かに落ち着く時間が必要ではないかと思われます。

積土成山、ひとつひとつの積み重ねがやがて大きな山となる。皆様の喩え小さくとも、そして僅かであれ、心に安らぎの時を求め、行い続けることがやがて自身の徳となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

そして新しき年に一歩を踏み出し、共に精進してまいりましょう。合掌。

「比べる心」

関市 千手院 住職 橋本絢也 師

私はお金がない。私は健康ではない。私は時間がない。私は搾取されたのだ。私は不幸なのだ。私はわたしはワタシハ…。ここにでてくる「私」とは一般的な私です。程度の差こそあれ、どなたの心のなかにも住んでいる「私」。

では一度考えてみましょう。「誰」と比べてお金がない、健康ではない、時間がない、不幸だ、等と感じるのでしょうか?お金のことはお金もちのAさんと比べる。健康の事はいつも溌剌としているBさんと比べる。時間の事は悠々自適なCさんと比べる。わざわざ「沢山持っている人」と私を比べているのではないでしょうか。偏ったサンプルとの比較は自分を良くも悪くも装わせます。その偏ったサンプルとの比較は執着を産み、渇愛を産むのです。

SNSやメディア等情報過多の現在、そういう「偏ったサンプル」が否が応でも目に飛び込んできてしまいます。さらに私たちはその偏ったサンプルが「良い物である」と錯覚させられているきらいもあります。

心身自らも愛すべし、自らも敬うべし。「他人との比較での私」ではなく、私そのものが行い選択してゆくその有様をつぶさに真摯に観察してみては如何でしょうか。

いかりに対して

下呂市 長福寺 住職 萼 弘道 師

仏教では「貪・瞋・痴」という心の働きを三毒といいます。

むさぼり、いかり、おろかさという私たちの心を害いやすい、煩悩の毒のことです。

中でも「瞋り」は、日々生活する中で最も日常茶飯事といえる良くない心の働きです。

前後の見境なく瞋りを爆発させれば、後で悔やむことになるでしょう。

しかし、そのことが分かっていたとしても、つい腹を立ててしまうものです。

ですが、腹立ちに耐えて瞋りをやりすごすことができると、そのあとで「ああ、怒らなくて良かった」と胸を撫でることになります。

以前、ある男性の方と意見の食い違いから言い合いになってしまったことがあります。

話していくうちに段々とヒートアップして、その方は見るからにご立腹されているようでした。私もそれに応ずるように腹が立ってしまいましたが、これでは話し合いが終わったとしても、良い結果にはならないだろうと思い、瞋りの感情を抑え、まずその方の話を全て聞くことにしました。

すると、憤怒の表情だったその男性も徐々に落ちつきを取り戻し、最終的には穏やかに話し合いを終えることができました。

その時に、自分も瞋りに身を任せなくて「ああ良かった」と思いました。

自分が瞋れば、相手も瞋る。周りも良い思いがしません。

瞋りが生まれた時は、腹を立てている自分と、それを抑えようとする自分を意識することが大切です。その時は、もう一人の穏やかな自分を思い浮かべてください。

 

「うちの飼い猫」

本巣市 悟春院 住職 戸田和雄 師

今我が家に一疋の猫が住んでおります。ちょうど六年程前息子が猫を

欲しいと言い出したので保健所に電話して貰って来ました。

小猫が二疋居ると言う中、実際は一疋しか居りませんでした。生後二~三ヶ月ぐらいの小猫で檻に入ってじっとこちらを眺めておりました。やがて家に連れて来て一日目、二日目は食事をしないでいましたが、

やがて自分から食べ始めました。その猫も亡き母の部屋に住み着いて

おります。今は猫自体もこの家に慣れて来て大事な家族の一員として

暮らしております。

毎日外に出て何時間か帰って来ない事があります。恐らく自分の縄張りを回って帰ってくるのでしょう。帰って来ると自分の部屋の外で

ニャンニャンと鳴き、その鳴き声でドアーを開け部屋の中へ入れてやります。部屋に入ると、寛いでおります。

人は地球上で、自分だけの世界ではなく地球上で暮らしている我々の身近な犬や猫や又この自然界に住んでいる動物達それが野性であっても野性でなくても生きる権利があり、人間界と同等な生存すべき権利を

持っているものと思います。

その自然界と同等な権利はわが宗派の禅の道坐禅の道と同じだと思います。

地球上の万物は人間だけでなく伴に生きる仲間と思い同等に時間を

費やすかけがえの無い社会の仲間として手を携えるべきと思います。北海道に住む羆でも身近な山野に生息している亀や狸や狐でも山の烏でも併に共存して生きて行こうと思います。

「今の自分を作ってくれたのはだれか」

揖斐郡 法幢寺 住職 赤田賢了 師

境内のイチョウもきれいな金色に色づくこの季節になると、私は、数年前に亡くなった親友のことを思い出します。その友人とは、中学、高校、大学、大人になっても「あかさん」「なっさん」と呼び合い、いろんな場所で楽しい時間を過ごしました。

彼と少しでも一緒にいたくて同じ塾に通い、そのおかげで志望の高校にも合格することができました。彼の周りに集まる友人達とも仲良くなり、今でも親友と呼べる多くの友達ができました。彼の紹介のおかげで今の家内とも結婚することができました。

彼と親友達と過ごした時間は、今でも、「あの頃は楽しかった。」と思い返すような時間の連続でした。彼は、私にとって特別な存在でした。

しかし、互いに家庭をもち、私が岐阜に住むようになってからは、年に数度しか会えなくなりました。そんな折に、彼が急に亡くなったことを聞きました。お葬式での、最後の別れの時には、「また、会おう」と声をかけて見送りました。

禅語の中に「生我者父母 成我者朋友」(われをうみしものはふぼ われをなせしものはほうゆう)という言葉があります。「この世に送り出してくれてのは両親だが、私の事を理解し、私を私としてくれたのは友人だ。」という意味です。

彼は、私にとってまさに、この禅語の言葉どおりの友人でした。今の自分を作ってくれたのは彼の存在が大きかったと思います。彼と出会えたことに本当に感謝しています。

日々いろいろな事があり忙しい毎日、個人の考えが尊重される時代ですが、みなさんと縁のある人との関係を見つめていただき、「今の自分を作ってくれた人」の気持ちや思いを想像し、感謝するだけでなく、「今の自分を支えてくれている人」への感謝の気持ちもって過ごして下さい。

そして、皆さんも誰かにとっての特別な存在になってください。

「イライラしてもいいことはない」

海津市 春光寺 住職 横井晋司 師

「お父さん、今日、運転荒くない?」

車で子どもをスポーツクラブに送っていく途中に言われました。子どもが時間になっても準備が終わっておらず遅刻しそうになっている、車が思ったように進まない、私もイライラしていました。

仏教には、貪(とん)・貪り、瞋(じん)・怒り、痴(ち)・愚痴の三毒という言葉があります。三毒は、人間の根源的な悪徳のことを指します。瞋(しん・じん)は人間の感情と切っても切れないものなのです。

子どもが言った言葉。私の怒りの感情が運転にも表れていたのでしょう。アンガーマネジメントという言葉があります。怒りに瞬間的に反応するのではなく、6秒数えて自分の怒りをコントロールする方法です。私は一呼吸置きました。

「そうだね。安全運転しなきゃね。」

もちろん、イライラが全て解消されるわけではありません。しかし、私も落ち着き、安全運転で子どもの時間にも間に合いました。安全運転でも時間には間に合ったのです。運転が荒いまま向かっていたら、思わぬ事態を招いていたかもしれません。

アンガーマネジメント。6秒は長いかもしれません。しかし、怒ってもイライラしても事態はいい方には向かいません。6秒数えるだけで、もしかしたら怒らなくても良くなるかもしれません。たった6秒、されど6秒、瞬間的に沸騰する前に数えてみませんか。

「自分を変える」

岐阜市 医王寺 住職 透  隆嗣 師

月参りに伺ったお家に、「人生八変化」と題した額が飾られていました。

その内容ですが、

  • 自分が変われば相手が変わる
  • 相手が変われば心が変わる
  • 心が変われば言葉が変わる
  • 言葉が変われば態度が変わる
  • 態度が変われば習慣が変わる
  • 習慣が変われば運が変わる
  • 運が変われば人生が変わる

というものです。

私達は、どうしても自分自身を棚に上げて相手に期待したり、相手が悪いとか、周りのせいにしたりしがちです。それぞれに違った環境に育ち、経験を経て今の自分がある中で、普段とは違った角度から物事を見ること。相手の立場に立って考えてみること。そうした冷静さを忘れずにいたいものです。

自分を変えていくには一歩離れた己自身を見つめる事が大切です。

十月五日は、インドから中国に渡り、禅の教えを伝えられた達磨大師の命日であり、その遺徳を偲ぶ「達磨忌」の法要が営まれます。

この時を一つの縁として心静かに坐り、自分自身を見つめ直す機会として頂ければ幸いです。

草刈り機の選択

各務原市 瑞巌寺 住職 巌 晃司 師

私たちは、実に多くの選択をして生きています。今日は、選択に迷った時のヒントを感じさせてくれた、お盆前のお掃除会の出来事についてお話しさせていただきます。

文字通り、老若男女の皆様に集っていただける訳ですが、ここ数年で若い方を中心に、ガソリン式ではなくバッテリー式の草刈り機の持参が多くなってきました。そんな中、ひときわ目立つ古い年式のガソリン式草刈り機を持つおじいさんがこう言うのです。

「こっちの方が長持ちするでのー。」

確かに、もう何十年と使っている様相の長持ちする草刈り機ではありましたが、おじいさんのこの言葉の本当の意味を私達はまだ理解していませんでした。朝6時半からの作業なのですが、お盆前の真夏日で気温は30度を超えていました。3・40分ほど経った頃でしょうか、若い方々達が次々に休憩に来るのです。みなさん草刈り機のバッテリー切れでした。さきほどのおじいさんはと言うと、黙々と手際よく作業を続けられていました。

「こっちの方が長持ちするでのー」

先程の言葉が深く胸に響き、本当の意味が分かった気がしました。

そして、作業が終わってから話すおじいさんの言葉に私たちは、驚かされました。

「バッテリー式の草刈り機位わしも持っとる。」

なんと、日常のご自分の田畑の手入れで使っているバッテリー式ではなく、倉庫の奥に眠る長時間作業できる古いガソリン式を持ってくるという選択をされていたのです。軽い・便利という自分の為の選択ではなく。

私たちが考えたいのは、日々の中で選択に迷ったときどんな価値観に基づいて選択をしていくのか。その一つに、他人の為という観点を1つ入れてみてはどうでしょうか?自分だけが良ければいいという選択ではない限り、きっと進歩という発展が、自らを滅ぼす選択にはつながっていかないと信じています。

まもなく始まるお彼岸は、自らの行動を見直す大切な時節です。他人の為を考えた、日々の選択を共に実践してまいりましょう。