テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「日常と仏の心」

多治見市 大龍寺 徒弟 五島 秀崇 師

これはある日私が飲食店を訪れた時の話である。そのお店は、入口付近にタッチパネル式の券売機が1台あり食券を購入してから空いている席に座るというものだった。ランチタイムだったということもあり、すでに8名ほど券売機の前に人が並んでいる。私も最後尾に並ぶ。すると70代ぐらいの老夫婦の順番になり、2人でタッチパネルを操作している。少し時間がかかっているようだった。老夫婦は後ろのお客さんを気にしてか「お先にどうぞ」と次のお客さんへ順番を譲った。しかし老夫婦は列には並ばずそのまま帰ってしまった。

私の順番が回ってきて、券売機で操作したときにはっと気づく。普段タッチパネルの機械に慣れている者には簡単な操作方法だが、老夫婦には少し分かりづらかったのかもしれない。操作方法がわからず諦めて帰ってしまったのではないか。そのことに早く私が気づいていればよかったと反省するという出来事があった。

皆さんも少なからず似たような経験があるのではないでしょうか。あの時はできなかったが、次はできるよう常に意識することがとても大切なのです。

修証義のお経にもなっていますが道元禅師はこのように仰っています。

『設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を發すべし』と。

あらゆる場面、あらゆる立場の人であっても、真っ先に自分が救われるのではなく、まず他者が救われるように心掛けなさいという意味です。この心得を常に持って常に実践している人は滅多にいないのかもしれません。他者を救うのは、とても勇気が要ることですし、犠牲を伴う行為なのです。ただ犠牲を伴う行為だからこそ、他者に感謝されるのです。感謝をされることは良いことですが、その行為に対して見返りを求めて行ってはいけません。自分のできる範囲で、他者を救ってあげましょう。そうすれば気づけばあなたの周りには、あなたを救ってくれる人がいるのです。他者のため、自分のために良い行いをこれからも続けていきましょう。

「修証一如」

瑞浪市 慈照寺 住職 石神 智道 師

仏教の花といえば蓮の花ですが、蓮の花はインドでは高貴な花として尊とばれています。その理由は2つあります。一つは、その根をドロ深いところに置きながら、茎を伸ばして素晴らしい花を咲かせること。人間もかくありたい、という理想の生き方を示しています。二つ目は、花が咲いた時その中心には既に実ができていること。つまり努力をすること(修)とその結果(証)が一体になっている姿を見せてくれています。努力と結果は一体、ということを「修証一如」といいます。

昨年末に横浜に居住している兄より連絡が入りました。兄からの突然の連絡に驚きつつその連絡を読みますと、姪の結婚式をしたいという連絡でした。特に昨今のコロナ禍の中では会うことも難しかった中での大変うれしい便りとなりました。

この結婚式と申しますとまずは新郎新婦の誓いの言葉が浮かびます。「変わらぬ永遠の愛」を誓い合うのが一般的でしょうか。ただ私はいつもこの「変わらぬ愛」というものには違和感を覚えてしまいます。お付き合いをしている時の愛、結婚をして二人での生活の中の愛、子供をもうけ育てている時の愛、それぞれ全く違うものと思うのです。少なくとも全く形の変わらない愛などというものはないのではないでしょうか。

では夫婦に限らず自分自身以外の人間と良い関係を続ける為に何が必要なのでしょう。またこれから家族という固い絆を築き上げようとする者たちが共に誓うべき言葉は何でしょう。それは漠然とした「変わらぬ愛」ではなく「常に想われ続けるような人であるよう努力をすること」ではないでしょうか。

今回結婚をする二人にも、この法話をお聞きの皆さんにも、普段から他の人に「良い関係でいようと努力し続けていくこと」を誓い、そうすることで他の人を「信頼していることを証明すること」を日々実践をしてもらいたいと思うのです。それこそが「修証一如」であり仏の教えなのです。

「コロナ(御縁)に包まれて、そして包み返して」

多治見市 法喜寺 住職 沖田 泰裕 師

コロナ禍も丸三年が経過し、この5月からは平時に戻そうという体制になります。あたり前の事が出来なくなったこの間、私は坐禅以外で、自分への「こだわり」を、身も心も解き放たれた「きづき」を体験致しました。それは「お寺の領域全体、除草剤を一切つかわず、冬を迎えるまで手で草を取った時」の事です。

諸行事の中止により、時間的余裕ができ、お寺の庭及び裏庭、来客用・墓参り用駐車場すべてが未舗装で、かなりの広さに渡りますが「お盆の日」を目標に、3月より「除草剤の力を一切借りずに草を抜ききる」という目標を立て、一日2時間はげみました。以前は草を見て、義務感により草を取り、他事を考えたり苦痛を感じることが多かったですが、今回は一本一本の草や土の状態を、あるがままにとらえ、心が集中できて、他事を考える事なく、あっという間に2時間が過ぎていました。また、範囲が広い為、ひと廻りするのに10日程かかるのですが、繰り返していると、10日前に終わった場所はまた草が生えてきているだろうから「また取らなくては」と思うようになり、なんの抵抗もなく「お盆の前日」まで続け、それ以降も「お彼岸」を目標に取り続けました。

その時ふと、「都合、計らい、こだわりがなく、草と一体となっている私」がいることに気づきました。

永平寺を開かれた道元禅師は「仏を実践する方法は、自分への『こだわり』を忘れる事であり、全ての物事から気づかされる事であり、自分と他の物事との分けへだて、こだわりをなくしてしまう事である」とお示しです。

日ごろ我々は、自分と自分以外の物事を分けへだて、計らい事、こだわりを持って暮らしていますが、今回の事であらためて、あるがままに心を集中して事に当たる事が「心おだやかに暮らせる秘訣である」と、大いに気づかされました。

「放てば手に満てり」

関市 龍泰寺 住職 宮本 覚道 師

私が住職を務めるお寺の境内には幼稚園があります。今年も三月に園児が卒園していきました。コロナ禍になったのは今から約三年前。この子たちは入園から卒園までのすべてをコロナ禍で過ごしたことになります。例年であれば感染症に気を遣わずに何の制限もなく普通にのびのびと過ごせたはずなのに、と思ってしまいます。しかし、この子たちと共に過ごす中で、そうではないと考えさせられた経験がありました。ここではそのお話させていただきます。

三年前の今頃、感染症が急拡大し自宅待機が続きました。この期間に私は何かできないかと思いオンラインでの研修に励みました。その時に私の考え方が変わる教えに出会いました。こういった教えです。

「信用してはいけない人が無意識に使っている言葉」があります。それは、「普通は」という言葉です。これを言う人は、人の考えに流されているだけで実は何も考えておりません。自分の言葉に責任をもたずに物事の本質を見ようとしない人は、この言葉を無意識に使っています。

これを知った時、ハンマーで頭を叩かれたような衝撃が走りました。

なぜかと言いますと、実際に私自身がこの「普通は」という言葉を使っていたからです。お檀家様や幼稚園の保護者の方々に「普通はそうだから」と答えていた自分が少なからずいたからです。そう思うと、自分のことが情けなくてたまりませんでした。

それ以来、私は、この「普通は」という言葉を使わずに自分の言葉に責任をもって伝えるようにしています。そうしたら、不思議なことに、清々しい気持ちで毎日を過ごすことができるようになりました。

大本山永平寺を開かれた道元禅師は「放てば手に満てり」と示されておられます。「手放すことによって大切なものが手に入る」というお示しです。コロナ禍になり「普通ならできるのに」と思ってしまうのが私たち人間です。しかし、「普通はそうだから」と思う前に、本当にそれは自分にとって必要なのだろうか、それが無ければ本当に自分は幸せになれないのだろうかと物事の本質を考えてみる。そして、無くても良いと思えたものは思い切って手放してみる。すると驚くほど心が清々しくなります。

日々の「普通」の生活に息苦しさを感じている方は、是非「普通」と言われるものを手放してみてください。きっと、心が清々しくなります。

「縁」

土岐市 清安寺 住職 大久保 厚志 師

春のお彼岸がやってきます。古くから「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お彼岸は日本の伝統的な行事です。お寺やお墓にお参りし、脈々と伝わるご先祖さまの「おかげ」に手をあわせてください。また、ご自身の生活をみつめる仏道修行の期間としていただければと思います。

さて、春は出会いの季節とも言われます。様々な存在が関わり合うことを仏教では「縁」といいますが、その縁はその人の心掛け次第で、「善縁」にもなり「悪縁」にもなります。

折角結んだご縁であれば、善きご縁にしたいと思うのは誰しも共通なことと思います。

縁は自分で作り上げて行くもの。つながりをどう受け止め、どう行っていくかが大事です。

仏教でいう「善」とは、お釈迦様の教えに寄り添う生き方であります。「善」なる行いの積み重ねは、きっとご自身を清らかにし、周りの方にも良い影響を与えることと思います。教えに背を向けた「悪」の生き方をしないよう一人ひとりが「善縁」に包まれると同時に、周りへの発信源となれるようお祈り申し上げます。

「伝えつなぐこと」

美濃市 正林寺 住職 荒田 章観 師

2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた涅槃会となります。毎年各寺院では涅槃図をかけ、お釈迦様をご供養します。涅槃図を見ると横たわるお釈迦様の周りではお弟子様だけでなく、たくさんの動物たちも一緒に悲しんでいることが分かります。

お釈迦様が最後にお説きになられた教えが佛垂般涅槃略説教解経「ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう」(佛遺教経「ぶつゆいきょうぎょう」)です。その中でお釈迦様は「私の教えは全て皆に授けた。これからは皆がその教えを伝えていく番だよ。そして、それが続く限り私はずっとそばで見守っているよ。だからそんなにも悲しまないでおくれ」とおっしゃられました。ご病気でご自身が苦しい中でも最後までお弟子様の行く末を案じておられたのです。

私が普段から大変お世話になっているご老僧に「自分が学んだことはできるだけ伝えるから、それを自分なりの形にして誰かに伝えてあげて」と教えられたことがあります。それは法要の作法であったり、お経の読み方であったり、お釈迦様や道元禅師様の教えの考え方であったりと、さまざまでした。なかなか上手にならない私のために根気強く何度でも教えていただきました。

師匠から弟子へ、また親から子へ。教え続け、伝え続けることが、お釈迦様が最後まで大事にされたことであり、今こうしてお話を聞いていただいた皆さんへのご縁へと続くものでもあります。伝えることの喜びをどうぞ大事にしていただきたいと思います。

 

「息の大切なことを意識せよ」

関市 宝泉寺 住職 花村 英映 師

先日読んだ本に『息を吸うときには、息を吸っている自分に気づこう 意識を集中させよう。吐いているときは、吐いている自分に気づこう。喜びを感じながら息をしよう。こころを感じつつ こころを静めて呼吸しよう。こころを安定させ こころを自由にときはなすように息をしよう。そして、無情を感じ生の消滅を感じ 自己を手放すことを意識しつつ呼吸しよう。』『呼吸をおろそかにして人生はない』『人生は、はいて生命が誕生し、すいこんで終わる』と書いてあった。

普段、ほとんど「息」のことについて意識したことがなかったが、それでも普通に生きていける。自律神経の働きで・・・などと理屈はわかっていても、一度意識すると、不思議な感じもする。息という字も普段、無意識のうちによく使っている気がする。「息が合う」「息を抜く」「息を潜める」「息が掛かる」「息が長い」など日々の出来事と密接に絡んでいる。息の大事さを意識している人は少なくなく、呼吸法は静かなブームになっているという。

息は「自」らの「心」と書くように、その時の心の状態を映すものだ、と説く。息を意識することで、心のありようを変えることもできるだろう。本には息をしていることを喜ぶ気持ちを持って過ごせたら〔もっと慈しむとか、愛するとか、そういうふうに生きる可能性がありますね〕とつづっている。いつからか、息苦しい世の中になったが、いい呼吸法とは、「吐く息はできるだけ深くゆっくり、なめらかに」と、息の大切さを意識したいものです。

「心を通わせる手段」

郡上市 悟竹院 住職 稲村隆元 師

いつ頃からなのか、横断歩道を渡る学生が止まった車に対して深くお辞儀をする光景をよく目にするようになりました。自分自身が学生の頃はなかった光景だと思います。その姿を見るたびに心が温かくなるのを感じます。「深くお辞儀をする」という行為ではなく、お礼をしている姿を嬉しく思うのだと感じています。

これは近年、見知らぬ人と挨拶を交わすということがあまり見なくなってきていたこともあるかもしれません。地元に来る観光客の方であると挨拶を返されると珍しすぎて逆に驚くほどです。しかし、この時も挨拶が返ってくるとどこか嬉しくなります。言葉がなくとも会釈が返ってくるだけでも同じです。

「挨拶」というのは元来仏教用語で、「一挨一拶」などといって師匠が弟子の修行の度合いを知るために声をかけることをいうのですが、僧侶に限らず挨拶を交わすことで、お互いに言葉以上に伝わるものがあることは誰しも感じるところではないでしょうか。普段からよく話す近所の方に挨拶をしたのに、俯き加減で声が小さかったとしたら、何かいつもと違って心配になります。逆にすごく晴れやかに満面の笑顔で挨拶されると、こちらも笑顔になるし良い事があったのかと感じます。当たり前のことではありますが、当たり前だからこそ大事にしたいと深くお辞儀をしてくれる学生を見るたび思います。

直接人とコミュニケーションを取ることが避けられがちな状況で、見知らぬ人に警戒心の高い時代でもあります。しかし、ちょっとだけいつもより広い範囲で挨拶をしてみると思わぬ笑顔に出会えるのではないでしょうか。

「人のふり見て我が振り直せ」

加茂郡 廣通寺 住職 尾関大介 師

先日、法事のため名古屋の高速道路を走っていたときのことです。私の右側の車線に猛スピードで白い乗用車が走りこんできました。その車の前にはトラックがいたため私の車のほぼ真横から突然左に車線変更をしてきました。左、つまり私の車がいる所です。慌ててブレーキを踏んで前に入れてあげました。それを気にした様子も無く、その車は更に前の軽自動車を煽りながらスピードを上げさせ、いわゆる名古屋走りをしながら走り去っていきました。

この時、実は少々面白い事に気がつきました。この煽り運転をしていた車なのですが、私の車のすぐ前に割り込んできたので、車の背面がよく見えました。そこには沢山のステッカーが貼ってあい、例えば「ドライブレコーダーで撮影しています」とか、「煽り運転反対!」とか、「専属の弁護士がいます」とか、そんな内容のステッカーがベタベタと貼ってありました。

この方は恐らく、自分自身こそが煽り運転の被害をよく受けていると思っているのではないでしょうか。しかし現実は皆さんもお気づきの通り、自分が煽った結果煽り返されているだけなのだと思います。

人のフリ見て我がフリ直せと申しますように、自分の事というのは実は案外分かりにくい物です。普段の生活の中で家族や友達、仕事相手にイライラしてしまった時、それは逆にチャンスだと考えてみて下さい。背筋を伸ばして深呼吸を二、三回、それだけで少し心が落ち着きます。そして自分がそんな感情に至った時のこと、そして自分自身の事をよく考えてみて下さい。思わぬ気づきがあるかもしれません。

 

 

「この時に遭ってこそ禅定~心を静めよう~」

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 小島尚寛 師

新年あけましておめでとうございます。皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴いただき御礼申し上げます。

昨年をもって、宗務所長を退任する予定でございましたが、引き続きもう一期4年お務めさせて頂くこととなりました。今後ともご愛顧下さいますようお願いいたします。

昨年の暮れ、境内墓地の清掃をしている折、参詣者の方のお墓参り、墓石を洗い清め、生花を供え、線香を焚き、手を合わせる。ごくごく自然のお姿、しかしその時に漂う香の香りに、いつもと違う、こころ静まる時を得たような感がいたしました。

新型コロナ感染症による月日は3年が過ぎ、制限による閉塞感に苛まれ、知らず知らずに心の痛みを覚え、不安の中に生活しています。

六波羅蜜という教えに布施(与えること)、持戒(戒律を守ること)、忍辱(苦悩に耐え忍ぶこと)、精進(真実の道をたゆまず実践すること)、禅定(精神を統一し安定させること)、智慧(真実の智慧を得ること)、の六つの徳行があります。

こんな時であるからこそ、この六つの教えの一つ「禅定」ほんの一時であれ、心静かに落ち着く時間が必要ではないかと思われます。

積土成山、ひとつひとつの積み重ねがやがて大きな山となる。皆様の喩え小さくとも、そして僅かであれ、心に安らぎの時を求め、行い続けることがやがて自身の徳となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

そして新しき年に一歩を踏み出し、共に精進してまいりましょう。合掌。