テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「変わり続ける」

飛騨市 光円寺 住職 大森武徳 師

毎月1日の托鉢を回っていると、最近この辺りで熊出るから気をつけてくださいね。

びっくりすることを聞いてしまいました。

熊が出てきたらどうしようと、不安に思いながら托鉢を回っていると、キノコとり名人のおばあさんに会いました。

「熊が人里に出てくるようになったのも山が変わった一つ。20年前はこの辺りでイノシシすらいなかった。山も変わっているよ。山も変わるのだから人も変わって当然。」こんなことを話してくださいました。

長年、山にキノコを採りに行っているおばあさん、昔はよく採れた、最近は少なくなった、キノコがよく生える場所が無くなったなどの話ではなっかた。山全体が変わっているという。

見慣れている山、樹木は春夏秋冬、色々な姿へ変化しています。無機質に思える山が変わるなんて思いもしていませんでした。普段遠くから見ている山は、何も変わらずに見えていました。しかし、山の中は、常に変わり続けているようです。

山も変わっているのだから、同じように人の世も変わっていくのです。

お釈迦様の教えの中に、「無常」という言葉があります。「この世の中のあらゆる物事は一瞬たりとも停止することなく、常に変化し続けている」ということです。

普段同じように見えている事でも、実際には常に変化し続けている。変化しているということは、滅びるものもあれば、新しく生まれるものもあるということです。

言い換えれば、困難に直面しても、変化して良い方向にもっていけることも出来るわけです。

どんな変化も受け入れられる柔軟な心になりたいものです。

「諸行無常」

飛騨市 慈眼寺 住職 原田好崇 師

身近な方、愛する方を見送るということは私の経験からもいかに心に大きな傷を受けるかということがわかります。身体的な傷であれば、自分も他人も傷の深さはわかりますが心の傷はどんなに深い傷であっても外からは見分けにくいものです。身近な人が亡くなったとき突然涙が出てくる、将来どうなるんだろうと不安になる、生きていく希望を失う。こういったことは誰にでも起こることです。誰にでも起こりうることなんだと受け入れ自分を大事に見守りましょう。

大事なのは自分の気持ちを自分の中だけに溜め込まないことだと思います。誰かに聞いてもらうことが助けになることもあります。「何も言わなくてもいいからただ聞いてくれ」と頼んでもいいかもしれません。へたな慰めは逆効果になることもあるからです。人に甘えて自分中心にさせてもらいましょう。聞くだけなら甘えられる側も協力してくれることでしょう。

心の傷は完全には消えることはないかもしれませんが、時間と共に確実に回復していきます。

どんな方でも時間は平等に過ぎていきます。仏教ではこれを「諸行無常」といいます。すべては移り変わり永遠に変わらないものはないという教えです。生きている以上必ず老いそして死を迎えなければなりません。

一休和尚の詩に 門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなしという詩があります。これは正月はめでたいがその分冥土へ行くときが近づいたことになるのでうれしくもあるが悲しくもあるという意味です。

修証義というお経ではこうした内容を説かれています。このお経は一から五章まであり大変長いお経ですがお亡くなりになられた方が仏弟子となる為の行いや生きかたなどが書かれています。この修証義の五章に

光陰は矢よりも速やかなり身命は露よりも脆し、・・・・・

 

という一文があります。これは時が経つのは光のごく早くそして人の命は一滴の露のように脆い、・・・・・

 

簡単に解釈するとこう言った意味です。

すべての生あるものには平等に諸行無常があり、光陰は矢よりも速やかなり身命は露よりも脆しです。

同じ諸行無常であるならば後悔しないよう前を向いて過ごしていくようにしたいものです。

「終活」

飛騨市 玄昌寺 住職 澤田祥信 師

現在、人口減少時代、人生100年時代と言われています。何か、高齢者ばかりの世界になるのではないかと、世間では、どちらかといえば、悲観的なことばかりで、若者に未来がなく、年寄りがあたかも悪いようにも思えるような言われ方をしています。

老いは、私たちが何をしようともおとずれるものです。

高齢者にとり喜び、幸せの要素とは、「健康の維持」「良い人間関係」「ある程度の経済生活」です。どれ1つ不足していても、良い人生が送れないものです。

また、私たちには、必ずや死というものがやってまいります。その死を恐れてばかりいるのではなく、安心して、その日を迎えることができるように準備が必要です。

自分の歴史をまとめておくこと、家族、親族、親友、たいせつな人のこと、自分の体のこと、預貯金のこと、財産のこと、借金のことなど、自分がいなくなれば、残った親族が困らないように、きちんと残しておくことが大切です。

私たちは、100歳まで頑張って、健康で生きて、死を迎えた時には、すべてを、きちんと整理できていて、惜しまれながら、この世を去れればと思います。

今からでも遅くありません。自分の身のまわりから始めませんか。

「感謝の言葉」

中津川市 大林寺 徒弟 村瀬弘信 師

先日私が電車に乗っていた時の事です。マスクの着用も個人の判断となり、昔よりも車内の人が多くなってきたな。なんて考えておりました。

2人がけの席に1人で座っていたのですが、ある駅に着いた時1人の女性が電車に乗り込んできました。「失礼します」そう言って私の隣の席に座りました。しばらく経って、目的の駅に着いたのか席を立ちました。その時その女性は私に「ありがとうございます」と言いました。ですが、私には感謝される様な事をした覚えはありませんでした。なぜだろう、1人で二つの席を使っている様に見えたのかな。などとしばらく考えておりました。

仏教の中に、「愛語」という言葉があります。相手に対して優しい言葉をかけましょうという意味です。

普段からお坊さんとして心掛けている言葉であったのですが、すぐにそれを思い出す事が出来なかったのです。そればかりか、相手がなぜこんな事を言うのだろうと疑問に思ってしまったのです。

それに気づいてから、自分の未熟さを感じました。

ですが、疑問を抱いていた心は幸せな気持ちになりました。

あの女性はきっと「愛語」という言葉は知りません。ですが、知らなくてもそれを実践できる方だったのです。

今思うと、姿や立ち振る舞いまで素敵な人だった様に思えてきます。

「愛語よく廻転のちからある事を学すべきなり」

愛語を使うことは世界を変える力があると道元禅師様はお示しになられております。

常日頃から感謝と優しさを心掛けて生活をしていれば、いつかより良い人間になれます。そしてその行動は周りも巻き込んでいく事でしょう。まずは自分から日々の生活の中で「ありがとう」これを意識して生活してみてはいかがでしょうか。

「ありがとうを伝えましょう」

恵那市 長栄寺 副住職 平山洋司 師

皆さんは「ありがとう」と最近いつ言いましたか?

親切にしてくれた方に。優しくしてくれた方に。

いろいろな言葉の中で、「ありがとう」という言葉は、相手に感謝の気持ちを伝える、   もっともすばらしい言葉の一つだと思います。

日常生活の中には、いろいろな場面で、「ありがとう」を言う機会があると思います。   でも、恥ずかしかったり、照れくさかったりで、なかなか素直に言えなかったり、     やってもらえて当たり前、気付かなかったりで言えていなかったりしていませんか。

大袈裟かもしれませんが、「ありがとう」と言えなかった為に気持ちがすれ違ってしまい、心にない言葉を選んでしまい人が離れていってしまったり、あの時「ありがとう」という 言葉を口にして伝えていたらと後悔してしまう前に今一度、周りにいる大切な人に

「ありがとう」と伝えてみてはいかがでしょうか。

 

仏さまの教えでは、この「ありがとう」のような言葉を、「愛語」と言います。       「愛語」というのは、人々に対して慈しみ愛する心をおこし、愛情に満ちた言葉を語ることです。この地球上で言葉を自由に使えるのは、私たち人間だけです。

「ありがとう」その言葉ひとつで笑顔になれたり、救われたり報われたり        この5文字の言葉、「ありがとう」は、人が人を思いやり、言葉にして繫がれるとても素敵な言葉だと思います。

 

現代の日本は、言葉が乱れていると言われます。耳を塞ぎたくなるような汚い言葉を使ったり、妙に縮めた言葉を使ってみたり。言葉も日々進化し、変化するものですから、それはそれでいいのかもしれませんが、そのような言葉を耳にすると、やはり、さみしい気持ちになります。

日々、自然と「ありがとう」が出てくる世の中であれば、心が温かくなり優しい言葉も

増え私たちは穏やかに楽しく毎日を過ごせるのではないでしょうか。

「ある雨の日のこと」

恵那市 圓頂寺 住職 市岡 宜展 師

少し前のことです、次男坊を車に乗せて買い物に出かけました。

寒い冬の雨の日でした。買い物のついで出す予定だった手紙を助手席に座る次男に渡して投函するよう頼み、国道沿いのポストの前で車を停めました。

雨降りだったので、窓を開けて背伸びして手を伸ばせば車の中から投函できると思い、そう頼みました。

封書やハガキ3.4通を投函するだけなのに妙に時間を要したので、車を走らせながらその訳を聞くと、ポストの口が雨で濡れていて、そのままだと出す手紙が湿ったり、文字のインクがふやけると、あげる人が可哀想だから拭いていた。といいました。どうやら着ていたトレーナーの袖口を引き伸ばして拭いたようでした。

中学時代、そんな情景を読み込んだ短歌を授業で習ったようなかすかな記憶があり、我が子の行為でそれを思いだし、なんとも温かい気持ちになったものでした。

【雨の日のポストの口をわがぬぐい手紙を入れてあとすがすがし】

念のため、物置へ行って探しましたら当時の国語の教科書が保管されてあり当該の短歌も見つかりました。

ある文学者が新聞の短歌コーナーで見つけ、秀作として紹介していました。いわゆる、「詠み人知らず」ですが、愛のある行いとして心に響きます。

この相手を思いやる気持ち、それこそポストに郵便物を出す際など、ふとした時には、思ってみてください。

最近はポストを用いなくとも、早くて確実な通信手段はいくつもあります。効率も良いうえ経費なども考えるととてもありがたいです。それならば便利になった分、送る前に相手がどう思うか、書いた内容、つまり行動を少し考える時間は作れるかなと思います。

この相手を思いやる気持ち、心のありようを、曹洞宗の開祖道元禅師は折に触れて様々な表現でお示しくださっています。道元さまのみならず、歴史に名をとどめた宗教者や指導者の多くはそれぞれの教え方でもって、多くの人を導いています。

技術の進歩で湿った手紙が届くことはなくなるかもしれませんが、中身で心が湿らないようにしたいですね。

季節は六月、雨の季節にそんなことを考えます。

「日常と仏の心」

多治見市 大龍寺 徒弟 五島 秀崇 師

これはある日私が飲食店を訪れた時の話である。そのお店は、入口付近にタッチパネル式の券売機が1台あり食券を購入してから空いている席に座るというものだった。ランチタイムだったということもあり、すでに8名ほど券売機の前に人が並んでいる。私も最後尾に並ぶ。すると70代ぐらいの老夫婦の順番になり、2人でタッチパネルを操作している。少し時間がかかっているようだった。老夫婦は後ろのお客さんを気にしてか「お先にどうぞ」と次のお客さんへ順番を譲った。しかし老夫婦は列には並ばずそのまま帰ってしまった。

私の順番が回ってきて、券売機で操作したときにはっと気づく。普段タッチパネルの機械に慣れている者には簡単な操作方法だが、老夫婦には少し分かりづらかったのかもしれない。操作方法がわからず諦めて帰ってしまったのではないか。そのことに早く私が気づいていればよかったと反省するという出来事があった。

皆さんも少なからず似たような経験があるのではないでしょうか。あの時はできなかったが、次はできるよう常に意識することがとても大切なのです。

修証義のお経にもなっていますが道元禅師はこのように仰っています。

『設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を發すべし』と。

あらゆる場面、あらゆる立場の人であっても、真っ先に自分が救われるのではなく、まず他者が救われるように心掛けなさいという意味です。この心得を常に持って常に実践している人は滅多にいないのかもしれません。他者を救うのは、とても勇気が要ることですし、犠牲を伴う行為なのです。ただ犠牲を伴う行為だからこそ、他者に感謝されるのです。感謝をされることは良いことですが、その行為に対して見返りを求めて行ってはいけません。自分のできる範囲で、他者を救ってあげましょう。そうすれば気づけばあなたの周りには、あなたを救ってくれる人がいるのです。他者のため、自分のために良い行いをこれからも続けていきましょう。

「修証一如」

瑞浪市 慈照寺 住職 石神 智道 師

仏教の花といえば蓮の花ですが、蓮の花はインドでは高貴な花として尊とばれています。その理由は2つあります。一つは、その根をドロ深いところに置きながら、茎を伸ばして素晴らしい花を咲かせること。人間もかくありたい、という理想の生き方を示しています。二つ目は、花が咲いた時その中心には既に実ができていること。つまり努力をすること(修)とその結果(証)が一体になっている姿を見せてくれています。努力と結果は一体、ということを「修証一如」といいます。

昨年末に横浜に居住している兄より連絡が入りました。兄からの突然の連絡に驚きつつその連絡を読みますと、姪の結婚式をしたいという連絡でした。特に昨今のコロナ禍の中では会うことも難しかった中での大変うれしい便りとなりました。

この結婚式と申しますとまずは新郎新婦の誓いの言葉が浮かびます。「変わらぬ永遠の愛」を誓い合うのが一般的でしょうか。ただ私はいつもこの「変わらぬ愛」というものには違和感を覚えてしまいます。お付き合いをしている時の愛、結婚をして二人での生活の中の愛、子供をもうけ育てている時の愛、それぞれ全く違うものと思うのです。少なくとも全く形の変わらない愛などというものはないのではないでしょうか。

では夫婦に限らず自分自身以外の人間と良い関係を続ける為に何が必要なのでしょう。またこれから家族という固い絆を築き上げようとする者たちが共に誓うべき言葉は何でしょう。それは漠然とした「変わらぬ愛」ではなく「常に想われ続けるような人であるよう努力をすること」ではないでしょうか。

今回結婚をする二人にも、この法話をお聞きの皆さんにも、普段から他の人に「良い関係でいようと努力し続けていくこと」を誓い、そうすることで他の人を「信頼していることを証明すること」を日々実践をしてもらいたいと思うのです。それこそが「修証一如」であり仏の教えなのです。

「コロナ(御縁)に包まれて、そして包み返して」

多治見市 法喜寺 住職 沖田 泰裕 師

コロナ禍も丸三年が経過し、この5月からは平時に戻そうという体制になります。あたり前の事が出来なくなったこの間、私は坐禅以外で、自分への「こだわり」を、身も心も解き放たれた「きづき」を体験致しました。それは「お寺の領域全体、除草剤を一切つかわず、冬を迎えるまで手で草を取った時」の事です。

諸行事の中止により、時間的余裕ができ、お寺の庭及び裏庭、来客用・墓参り用駐車場すべてが未舗装で、かなりの広さに渡りますが「お盆の日」を目標に、3月より「除草剤の力を一切借りずに草を抜ききる」という目標を立て、一日2時間はげみました。以前は草を見て、義務感により草を取り、他事を考えたり苦痛を感じることが多かったですが、今回は一本一本の草や土の状態を、あるがままにとらえ、心が集中できて、他事を考える事なく、あっという間に2時間が過ぎていました。また、範囲が広い為、ひと廻りするのに10日程かかるのですが、繰り返していると、10日前に終わった場所はまた草が生えてきているだろうから「また取らなくては」と思うようになり、なんの抵抗もなく「お盆の前日」まで続け、それ以降も「お彼岸」を目標に取り続けました。

その時ふと、「都合、計らい、こだわりがなく、草と一体となっている私」がいることに気づきました。

永平寺を開かれた道元禅師は「仏を実践する方法は、自分への『こだわり』を忘れる事であり、全ての物事から気づかされる事であり、自分と他の物事との分けへだて、こだわりをなくしてしまう事である」とお示しです。

日ごろ我々は、自分と自分以外の物事を分けへだて、計らい事、こだわりを持って暮らしていますが、今回の事であらためて、あるがままに心を集中して事に当たる事が「心おだやかに暮らせる秘訣である」と、大いに気づかされました。

「放てば手に満てり」

関市 龍泰寺 住職 宮本 覚道 師

私が住職を務めるお寺の境内には幼稚園があります。今年も三月に園児が卒園していきました。コロナ禍になったのは今から約三年前。この子たちは入園から卒園までのすべてをコロナ禍で過ごしたことになります。例年であれば感染症に気を遣わずに何の制限もなく普通にのびのびと過ごせたはずなのに、と思ってしまいます。しかし、この子たちと共に過ごす中で、そうではないと考えさせられた経験がありました。ここではそのお話させていただきます。

三年前の今頃、感染症が急拡大し自宅待機が続きました。この期間に私は何かできないかと思いオンラインでの研修に励みました。その時に私の考え方が変わる教えに出会いました。こういった教えです。

「信用してはいけない人が無意識に使っている言葉」があります。それは、「普通は」という言葉です。これを言う人は、人の考えに流されているだけで実は何も考えておりません。自分の言葉に責任をもたずに物事の本質を見ようとしない人は、この言葉を無意識に使っています。

これを知った時、ハンマーで頭を叩かれたような衝撃が走りました。

なぜかと言いますと、実際に私自身がこの「普通は」という言葉を使っていたからです。お檀家様や幼稚園の保護者の方々に「普通はそうだから」と答えていた自分が少なからずいたからです。そう思うと、自分のことが情けなくてたまりませんでした。

それ以来、私は、この「普通は」という言葉を使わずに自分の言葉に責任をもって伝えるようにしています。そうしたら、不思議なことに、清々しい気持ちで毎日を過ごすことができるようになりました。

大本山永平寺を開かれた道元禅師は「放てば手に満てり」と示されておられます。「手放すことによって大切なものが手に入る」というお示しです。コロナ禍になり「普通ならできるのに」と思ってしまうのが私たち人間です。しかし、「普通はそうだから」と思う前に、本当にそれは自分にとって必要なのだろうか、それが無ければ本当に自分は幸せになれないのだろうかと物事の本質を考えてみる。そして、無くても良いと思えたものは思い切って手放してみる。すると驚くほど心が清々しくなります。

日々の「普通」の生活に息苦しさを感じている方は、是非「普通」と言われるものを手放してみてください。きっと、心が清々しくなります。