テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「思いやりの心」

岐阜市 大覚寺 住職 山守隆弘 師

今年の夏は、パリオリンピックが開催され、テレビの前で「がんばれー」と選手たちに熱い応援をされた方も多かったのではないでしょうか。私も今年の夏、一生懸命がんばる姿に熱く応援した出来事がありました。8月に小学生男子の4年生から6年生の全国相撲大会、「わんぱく相撲」と呼ばれる大会が、東京の両国国技館で行われ、応援に行ってきました。このわんぱく相撲大会は、相撲を通じ、「礼」を学び、「努力する」ことや「思いやり」の心を育むことを目的として毎年行われております。当日は、一生懸命取り組む子どもたちに、応援にかけつけた家族から、テレビで観る大相撲のようなたくさんの歓声が沸き、会場中が熱気に溢れておりました。まだ身体が小さな子もいれば、大人顔負けの体格の子もおり、それでも立ち向かい、投げ飛ばされ、泣いて悔しがる子どもたちの一生懸命な姿から、私も熱くなって応援しておりました。力士が使用する会場なので、土俵から落ちて勝敗が決まる試合もありました。その度に、勝った子が手を差し伸べ、土俵に引き上げて、互いに健闘を称えあい、相手を思いやる光景を何度もみました。小さな子どもにも、相撲を通じて相手を思いやる心が育まれていることを感じました。

仏教では思いやりの心、「慈悲」を大切にします。相手の事を自分の事のように大切にする心、相手の幸せを願う心です。自分の幸せだけでなく、相手の幸せを願い、思いやりの心をもって過ごしていきましょう。

 

「挨拶」 

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本孝規 師

おはようございます。

皆さんは普段から家族の方や、職場・学校の人に挨拶をするでしょうか?

挨拶とは元々、禅の言葉で「一挨一拶」を表し、それは問答の事を表します。

師匠が弟子に問いかけをし、弟子がそれに答える。修行僧同士でも行います。その問答により弟子がどれだけ成長したか、また師匠の教えを学び、お互いの悟りの深浅を試します。それが挨拶になります。

私たちは普段から、おはようございます。や、こんにちは。と言った挨拶を使いますが、毎日挨拶をすることにより、その相手が今日はいつもより元気があるな。昨日より元気だから、何か良い事があったのかな。と思う事があります。反対に、今日はいつもより元気がないな。機嫌が悪そうだから、嫌なことがあったのかな。今日は声が弱々しい、体調が悪いのかな。と思う事もあると思います。

普段から挨拶をしていないと、それが分からなかったりしますし、挨拶はコミュニケーションの入口だと思いますので、コミュニケーションが取りにくかったりすると思います。私も朝起きたら、必ず家族に挨拶をしますし、平日は働いているので、職場に行き同僚に挨拶をします。

気が合わないと思う人であっても、挨拶をし、言葉を交わしたら、意外な一面が見つかり、仲良くなれるかもしれません。

普段から挨拶はしないと言う方は、是非とも挨拶をして頂き、普段から挨拶をすると言う方はこれからも続けて頂き、人と人との輪を大きくして、楽しく実りのある人生にしていただけたら幸いです。

 

「明珠は掌にあり」

飛騨市 林昌寺 住職 中川芳秀 師

「明珠は掌にあり」 明珠とは宝物の事。つまり幸せという宝ものはすでにあなたの掌の中にありますよという意味です。

今の世の中は、物でも食べ物でも情報でも、魅力的なもので溢れています。

おいしいものを食べ、ほしい物を手に入れた時の幸福感は誰もが知っています。

ただし、手に入れるには、お金が必要です。時間や人の心のように、どんなに望んでも手に入らないものもあります。

或いは、手元にあるときはそのものの価値に気付かず、無くしてから過去を振り返り、「あの頃はよかったな」「あれがあればよかったな」と後悔したり、悔んだりします。

私たちの欲というものは際限がなく、ない物をねだり、手に入らないものを追い求め、無くしたものに執着します。

欲しくても手に入らないその現実を目の当たりにした時、妬みや嫉妬の中で、自分はなんて不幸せなんだと絶望したりします。それではいつまでたっても、心が満たされることはないでしょう。

幸せは、ないものを求めるのではなく、今あるものの価値に気付き、感謝することが大切なのです。

昨年の暮れに、師匠である父が亡くなりました。それまで大きな病気もなく元気だった父の急逝に、何の心の準備も出来ていなかった私は、突然右も左もわからない暗がりにいるようでした。しかし沢山の方が弔問に訪れるなか、これは父の為にもお寺の檀家さんの為にもしっかりと送り出してあげなくてはと、ようやく葬儀に向けて準備を始めました。すると本当に多くの人たちが助けてくださいました。檀家さんや、近隣の和尚様方、友人や親戚。何よりも家族、本当にたくさんの方が、肩を支え、手を取って助けてくださいました。

父の死に不安と後悔が溢れるなか、ふと回りを見渡した時、沢山のものを残してくれたことにようやく気が付きました。沢山の思い出や教えに加え、集まってくださった大勢の人との縁、兄弟や家族、何よりこの自分の命。どれも尊く得難い宝物をばかりです。

無くしたものは大きいけれども、それ以上に残してくれたものの尊さに気付くことができ、ここにいる自分はたくさんの宝物に囲まれて幸せなんだと、父の遺影に手を合わせました。

今あるものに感謝をし大切にしていくことこそが私たちの幸せなのだと思います。

今年もお盆が参ります。父にとっては初めての里帰りです。家族そろって感謝の心で迎えたいと思います。

「日日是好日」

飛騨市 円城寺 住職 大西真隆 師

中国、唐の時代の禅僧、雲門文偃という方の言葉に、

日日是好日「にちにちこれこうじつ」という言葉があります。

毎日が素晴らしい日だ、といった意味ですが、それは毎日が順調で悪いことが何一つない、と言っているのではありません。

もしもそうであれば、何か嫌なことがあればすぐに好日ではなくなってしまいます。

どんな人でも常に順調に毎日を過ごしていくというのは難しいものです。

実は日日是好日は「毎日毎日を好日にせよ」といった命令形なのです。

そんなことできるわけがない、と思われるかと思いますが、心の持ちよう一つで、それが出来ると雲門文偃禅師は考えられ、この教えを説かれたのではないかと思います。

ではどうすれば「日日是好日」になるのでしょうか?

簡単に言えば、どんな日であっても「今日はいい日だ」と思うようにすればいいのです。

例えば雨が降っていても「いい日だな」と思えばいい。実際、昔の方は雨ごいをしたように雨が悪いものとは言えないですよね。ほかにも病気になって辛くても、前向きに毎日を過ごし「いい日だな」と思うようにする。

「一病息災」と言われているように、病気だからかえって体を労わることでより長生きできるかもしれないのです。

このように毎日を肯定的に見ていくことが「日日是好日」なのです。

日ごろから「日日是好日」を心がけることで、より豊かな生活を送って頂ければと思います。

「無題」

恵那市 大洞院 住職 宮本浩秀 師

私たち僧侶は葬儀先祖供養掃除は大切なおつとめでございますが

お檀家様お知り合いの方にご相談を受けるときはその方たちがいかに

幸せに生きていくか説くことも大事なおつとめです

お釈迦様は人間として理想の生き方を説いております。

その考えとは自分の心をまずしく苦しめ自己中心的な行動を捨てることです

今他の国では戦争を行うくにもございます。

自分の国が豊かになれば良い自分の民族が幸せになれば良いという

自己中心的な考えで悲劇は繰り返されます

人間本来感謝に満ちた心を支えあい助けあう生き方心豊かに暮らす生活を

お釈迦様は説いておられます。

思いやり感謝の気持ちもなく生活しておりますと思い通りにならないと

不満ストレスがたまります

人本来はあらゆる人を支え支えあい生かされて存在しております

すべてのご縁によって生かされている存在です

私も家族周りの方々ご寺院さんに支えられ存在しております

感謝の気持ちを忘れることなく生活し、おはようございます、こんばんは、こんにちは

お願いします、ありがとうございます、ごめんなさい。

まず声に出し気持ちを伝えることがご縁の一歩となります。

明日あなたがご挨拶した人お知り合いになった方

一生の大切なご縁の有る方かもしれません

一日一日生かされていると思い心豊かに生活しましょう

「思いやりの心を大切に」

中津川市 源長寺 副住職 横田英和 師

ここ最近、世の中で色々と大きな出来事が起きております。

その中、紹介させて頂きたいのは上皇后陛下が平成28年熊本地震の折に詠まれた御歌になります。

『ためらひつつさあれども行(ゆ)く傍(かたは)らに 立たむと君のひたに思(おぼ)せば』

こちらの御歌は、上皇陛下と上皇后陛下が被災地を訪問された際、自分たちが被災地を訪問しても良いのかとためらいがありました。しかし、常に人々に寄り添い立つという上皇陛下の強い意思に添い、『さあれども行くと』との思いを詠んだと言われています。

また、テレビなどで被災地を訪問されている映像を拝見しますと、目線を合わせ、皆様の声を聴き、支えとなろうとするお姿に励まされ心が安らかになります。

御歌やお姿が心に響くのも行いの中に仏様の教えが生きているからではないでしょうか。

その教えとは『布施』『愛語』『利行』『同事』という『四摂法』の教えになります。

『布施』とは施し・心や思いを分かち合うこと、『愛語』とは心のこもった言葉をかけること、『利行』とは周りの為になること、『同事』とは自分と他人に区別をつけないこと、それぞれの大切さを説いておられます。

紹介させて頂いた御歌には、被災地や被災者の元に行くことが迷惑にならないかと悩み、それでも支えになればと寄り添うために行くことを決められる『同事』の心、そして相手の事を思い寄り添うために行動する『利行』の心があります。

そして訪問された際のお姿には、皆様の声に耳を傾け、目線を合わせて話され、皆様の境遇を感じてお声をかけられる『愛語』の心があり、皆様に寄り添い、少しでも支えになろうと励まされるお姿には心の施しという『布施』が感じられます。仏様はこれらの優しい思いやりにこそ、世の中を変える力があると説かれています。

私も本年、少しですが被災地のお手伝いにいきました。大きい自然災害の前では一人の力では対処が難しい事が多々あると感じました。思いやりが大切であるということは当たり前の事かも知れません。ですが、実践することは意外と難しいことです。皆様も『四摂法』の教えを実践し、思いやりのある暮らし・地域づくりを考えてみてはいかかでしょうか。

「知足」

恵那市 萬光寺 副住職 龍田直道 師

皆様は「知足」という言葉をご存知でしょうか。知足とは字の如く「足るを知る」このようになります。

遺教経というお経に、このような言葉があります。「知足の人は、地上に臥すといえどもなお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すといえどもまた意にかなわず。不知足の者は、富めりといえどもしかも貧し」つまり、「今の暮らしに満足しない人は、どんなに贅沢な暮らしをしても心は貧しい。『今のままで十分』、そう思える人はどんな暮らしであろうと心は豊である」ということです。

新型コロナウイルスが流行したことにより、それまで私達の身近にあった「当たり前」である生活が一変し、それまでの暮らしがいかに尊いものであったのか、私自身痛感致しました。そして皆様の中にも、そう感じた方はいらっしゃるのではないでしょうか。

欲をもつ事は決して悪い事ではありません。しかし、欲には際限というものがございません。「あれが欲しい」、「これがしたい」というように新しい欲求というものは湯水のように溢れ出てきて、どこまでいっても、いつまでたっても満足はできないのです。そうした欲求を抑え、「今あるもの」に目を向けて日々の生活に感謝しながら生きていくことで、私達は心豊かに過ごせるのではないでしょうか。そして「知足」という考え方は現在の自分自身を省みる上でも大切なのかもしれません。

「子供坐禅会と私」

多治見市 永泉寺 住職 池田昌泰 師

私は、コロナ禍で世の中が騒がれるまで、学校の夏休みに半日という短い時間でしたが子供坐禅会を行っていました。ラジオ体操、坐禅、法話、レクリエーション、昼食で終わる行事です。

コロナ禍が終息と言われましても、まだまだ完全に終わったわけではありません。

私は、昼食で出すカレーを前日から一人で作り、子供たちが食べてくれる姿を見るのが好きでした。

現在では、コロナの影響で満足に食事ができない子供がふえていると聞きます。こんな時こそ、お寺として出来る布施という形で、今まで来ていた子供たちにカレーを食べてもらいたいと思います。しかし、マスクを外すというリスクを抱えてまでしても良いのか?という疑問もあります。

ご葬儀、ご法事も家族のみで行う形になっています。親族の間でも、食事を出さないということも聞きます。

当たり前のようにしていた子供たちとの大切な時間を、コロナによって奪われたことはとても残念と同時に、一日も早く子供たちと坐禅をして、食事をしたいなと思う今日この頃です。

皆さんも油断することなく、ご自愛専一くださいますよう、お祈りしています。

「口伝」

可児市 弘福寺 副住職 丹治 大輔 師

お釈迦様の最後のお言葉に「怠ることなく修行を完成させなさい」というお言葉があります。

この言葉から分かるように、お釈迦様自身は自分がどんなことを語ってきたのかということを残そうとは思ってなく、修行をしなさい、というのがお釈迦様の意思であったと言えます。

なので、お釈迦様の死後、お釈迦様の傍で一番話を聞いていた弟子の阿難陀の記憶を頼りにお釈迦様の言葉を後世に残そうということになりました。

今であれば、携帯で録音するとかで簡単に記録を残すことができますが、当然その当時の技術にはそんなものはなく、紙で記録するという技術すらない。なので、お釈迦様のお言葉というのはすべて口伝にて伝えられたのです。

いわゆるお経の始まりになるのですが、その量がとてつもなく膨大な量ですから、よくこれだけの量をみんな覚えられたな、と思います。

今当たり前のように日本では仏教というものにふれている訳ですが、これも全ては、お釈迦様の弟子、そのまた次の弟子と脈々と口伝にて語り継がれたからこそ、今お釈迦様の教えに触れることができる、それはとてもありがたいことだと思っております。

「四摂法」

土岐市 荘厳寺 副住職 軽部 竜世 師

曹洞宗の開祖である鎌倉時代初期の禅僧、道元禅師様の著された正法眼蔵というものがあり、仏法思想が書かれている本の中に

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」というものがあります。

正法眼蔵の内容のそのほとんどが修行僧に向けられたものですが、この「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」は修行僧ではない

一般の信者さんのためにも書かれているものだと考えられております。

 

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」には観 世 音菩薩や地蔵菩薩などが、人々を様々な苦しみから救済するための行いである「布施・愛語・利 行・同事」の四つの語句が記されておりまして、私たち仏教徒が日常で行う修行であり生き方でもあります。

 

その一つ目に記された布施とは、幸せを一人占めせず、誰かから頂いたかもしれない幸せに感謝をし、また、同じように誰かに分け与えて助けあい生きていくコトです。

 

二つ目の愛語とは、慈悲と慈愛を込めた愛情豊かで親切な言葉を使う心がけです。

そうした優しく思いやりのある言葉で対話した時、一言一言のすべてが人々の心を和ませ、お互いを豊かしていき、社会全体を優しい方向へ動かす大きな力となっていくでしょう。

 

三つ目の利行というものは見返りを求めない正しい行いです。

自分がいい思いをする事ばかりを考えず、相手のコトおもんばかり、助けとなってあげましょう。

自分自身に助けが必要な時、誰かが助けとなってくれたなら、

自分もまた誰かを助けてあげる見返りではない助け合いの輪を作っていきましょう。

 

四ツ目の同事というのは、相手の心や境遇を理解し共感して相手と接することです。

相手と同じ目線で立った時、何が必要で何が助けとなるかがきっと見えてくるでしょう。

 

あなた自身が精神的に、また持つ物に余裕があって、苦しんでいる人と出会ったなら、この「四摂法」の布施と愛語と利行と同時を思い出してみて下さい。

相手に少しでも助けとなって幸せに向かえたなら、あなた自身もまた、その助けに喜ぶ相手を見て幸せに思えるでしょう。

 

いずれその方が余裕のある時にあなたの行いを思い出して、困窮する他の誰かにも手を差し伸べていくかもしれません。