「百花春至為誰開」(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本孝規 師

まず始めに、皆様に質問があります。

最近「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことはありますか?私にはあります。それは、新型コロナウイルスのせいで、地域での集まりや様々な行事が無くなり、お寺でも皆様に集まって貰う事が出来ず、「早く収まって、また集会やお祭が出来たらいいのに」と思う事があります。

そんな時に良く思い出す禅語があります。それは『百花春至為誰開(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)』という禅語です。

春にいっせいに咲き乱れる野の花も、観賞用に庭に植えられた花も、春の訪れを知らせようと咲くわけではなく、人の心を和ませる為に咲くわけでもありません。

花はただその生命のおもむくままに、無心に咲き、無心に散っていきます。

誰の為でもなく、ためらいも不平もなく、その姿を誇ることもなく、与えられた場所で、ただありのままに精一杯咲くだけです。

人はあれやこれやと、はからいながら生きることをやめられません。「はからい」とは考えや配慮のことです。「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」など意志によって行動することです。

花を見てみて下さい。そんな「はからい」も何もなく、ただありのままに咲いているだけなのに、皆もそれぞれの色かたちで山野を彩り、私達を慰め、楽しませてくれているのではないでしょうか。

不平不満や、ちっぽけな「はからい」に惑わされず、ただ無心に生きることの尊さをこの禅語は教えてくれています。

最初に言った事以外にも想うことはあり、皆様にも「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことがあると思います。そう思った時に是非ともこの禅語を思い出し、ただ無心に、ありのままに、『百花春至為誰開』と過ごしてみては如何でしょうか?