テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「喫茶去」

土岐市 正福寺 副住職 大島佑貴 師

2年前から突然世界に広まった新型ウイ ルスによって世界中の人々の生活は一変して しまいました。今まで通り普通に食事を楽しんだり、旅行を楽しんだり、人々との日常的 な交流が突然制限され、この先どうなってし まうのか、いったいどうすればよいのか不安 な日々をお過ごしの方も多いと思います。世 界を見てみれば、令和になった今現在でも人 の命を奪い合う悲惨な状況が無くなる事もなく続いております。大変悲しい事です。このような非常に厳しん世の中で、果たしてどう 生きていけばよいのか迷いは深まるばかりで はないでしょうか。色々と考え過ぎて目の前 の事象を見ることができず、さらに悪循環に 陥りかねません。そんな時は、ゆっくりお茶 を飲んでみてはいかがでしょうか。日本には 誰しもが知っている習慣の一つに、お茶を飲む事があげられます。一言にお茶といっても、 奥深い作法にのっとっていただく「お抹茶」、 手軽に飲む事ができる緑茶、最近ではペット ボトルの普及により、いつ、どこでも簡単に いろんな種類のお茶を楽しむ事ができるよう になりました。お茶というは6世紀頃、南イ ンドの達磨様が中国に持ち込み、鎌倉時代に 中国で学んだ栄西が禅と共にお茶の種を日本 に持ち込んだ事から広がったものとされています。 仕事柄お茶に接する機会は非常に多くありま すが、中国の有名な禅僧である趙州禅師の逸 話に次のようなお話があります。禅師のもと に修行僧が訪ねてくると、「ここに来た事が 有りますか」答えが「はい」でも「いいえ」 でも、まぁお茶を飲みなさい。と答えます。 「悟りを開くにはどうしたらよいか」と質問 しても「まぁお茶を飲みなさい」禅師の居る お寺のものが「なぜ同お答えなのですか」と 聞くも答えは「まぁお茶を飲みなさい」だったそうです。一連の流れを見て、一杯のお茶 を飲む時は、ただ無心にお茶を飲む事に集中 する。何でもないこと、当たり前の事を他に  気を取られることなくひたすらやる。その行 為そのものの大切さに気付いたそうです。お 茶を飲む時は他ごとを考えず、お茶を飲む事 だけに集中する。自分が今できない事ばかり 考えて、目の前の事に対して集中できない事 への戒めの為に「喫茶去」という言葉が伝えられているのではないでしょうか。 世の中には不安な事は数えきれないほどありますが、目の前にある事、自分に出来る事 に集中して取り組んでいけば、必ず前に進んでいけるのではないでしょう

因と縁

土岐市 仏徳寺 副住職 佐々繁樹 師

五月に入り田植えの時期が近づいてきました。私の住んでいる地域は田舎ですので、今の時期は町のみんなは田んぼに畑に大忙しです。そして何かを作るという事はとても大変な事です。たとえば、同じ品種のモミダネを使っていても、土壌の良し悪し、田んぼの手入れの良し悪しといった環境の違いによって、出来るお米の味は変わってきます。これはモミダネが因であり、環境が縁となります。因が同じでも縁が変われば結果も変わるのです。

私たちの生活も同じように因と縁で形作られています。良い縁があればいい方向へ、悪い縁があれば悪い方向へ進んでいきます。お釈迦さまは、一切法は因縁生なりといわれ、すべての物事は、因だけでは結果は生じない。因と縁とが結びついて初めて結果になるのだと教えていかれました。

因は同じでも、縁が違えば、結果は異なります。ですから、お釈迦さまは、より良い縁を選びなさいと教えて行かれました。
なぜなら、私たちの心は弱く、ちょっとした縁でコロコロと変わるからです。朱に交われば赤くなると言われるように、周りにいる人や環境などの縁に大きく影響を受けてしまうからです。どんな人に交わるか、どんな環境に身を置くかで、これからの人生も変わってきますから、周りにいる人や環境という縁はとても大事です。精一杯、努力をしていても思うような結果が出ないときはそれはまだ、縁が来ていないだけです。縁が来れば、春に一斉に花が開くようにこれまでのたねまきがパッと花咲かせます。焦る必要はないのです。タネをまかなければ結果は現れませんが、同時に縁がそろわなければ、タネが芽を出して花開くことはありませんから、縁はとても大切です。皆さんもより良い縁を探しましょう。

「忍辱修行」

瑞浪市 増福寺 住職 辺見智光 師

忍辱ということばをご存じでしょうか。忍辱とは「我慢する」「耐え忍ぶ」ということで、佛教の大切な修行の一つです。

思えば私たちの住むこの世界は生きて行くだけでも我慢し、辛抱することだらけの世界でもあります。

私達は人間関係や暑い寒いといった自然環境、自分の身体であっても病気になったり、年をとったり思い通りにならないことばかり。そんなとき私達は我慢したり、辛抱したりしなければならないことに出会います。

それでも自分のことばかりでなく、他者を思いやり調和をとることや、自然の移り変わりや自分の身体とも上手に付き合っていく方法を探していきます。そうしたことが忍辱ということでありましょう。

今はちょうど彼岸の時節、この忍辱は彼岸に実践すべき修行、六波羅蜜という6つの修行の一つでもあります。

昨年からの新型コロナウイルスの流行以来、私はこの忍辱修行ということを思わずにはおられません。今はみんなで自由に集まって飲食したり、旅行にでかけたりすることもできず、マスクの着用や密集・密接・密閉をさけることをみんなが徹底しております。一人一人が自分だけでなく他者のことを思いやり社会全体の事を考え、我慢し、辛抱し新型コロナウイルスの流行と戦っております。

これまでの日常を取り戻すもうしばしの間、忍辱修行、みんなで共に耐え忍んで参りましょう。

「どこかで誰かが見ていてくれる」

高山市 正宗寺 御住職 原田太石 師

映画やテレビの時代劇で、斬られ役の名優といわれた福本清三さんが、昨年お亡くなりになりました。数年前、娘が、小学校の国語教科書に紹介された福本さんのことを話してくれたことを思い出しました。福本さんは,五十年以上もずっと日本刀で刺されたり,斬られたりしてきました。観ている人が、「あれ? 大丈夫?」となるような斬られ方ができる方でした。斬られ役を見事に演じきる姿は世界的に認められ、アメリカのハリウッド映画にも出演されました。

後日、娘の学級通信には、クラスの女子児童の日記の一文が紹介されていました。

「私の係は、台ふきです。あまり目立つ仕事ではありません。 でも、私は台ふきがとても好きなので、いつもさぼらずやります。そしたら、『係の仕事、がんばっているね。』と掲示板に書かれていました。その時、私は、今日の福本さんの話と同じように、『どこかで、誰かが、見ていてくれるんだな』と感じました。」

さて、今年のNHK大河ドラマの舞台となっている鎌倉時代、大本山永平寺をお開きになられた道元禅師は、弟子たちに次のようにお示しになりました。

「たいていの人は善いことをすると、他人に知られようと思い、悪いことをすると知られまいと思うものです。しかし、間違いは悔い改め、真実の徳は内に隠すのです。どのような役割であっても、自分の利益を意識せず、生きとし生けるものに利益を与えるよう努力することが、仏の道に生きる者のあるべき姿です。」

コロナ禍中の大変な時代だからこそ、福本さんや道元禅師が言われるように、自分の役割をしっかりと果たすよう努めたいと、改めて自分の心に言い聞かせました。

「なるようにしていきましょう」

美濃市 霊泉寺 住職 佐藤隆定 師

年が明けてしばらく経ちました。私が住職を勤めている霊泉寺では、毎年1月に新年の多幸を祈る大般若祈祷法要を行っています。幸せなことが多い年であることを祈るわけですが、これは良いことが起こるのを待つという、受け身の発想なだけではありません。

たとえば、晴れの日と雨の日があったとき、どちらの天気が良い天気でしょうか。一般的に「天気が良い」と言ったとき、それは晴れを意味しています。逆に、天気が悪いと言うとき、それは雨や曇を意味していることが多いでしょう。

しかしながら、晴れと雨について、一概に良い悪いを言うことはできないはずです。雨が降らなくては作物は枯れてしまいますから、雨を心待ちにしている人だっており、その人にとっては雨降りこそが良い天気なわけです。恵みの雨、というような言い方もします。

つまり、良いことや悪いことというのは、最初からそのようなものがあるわけではないということ。もっと言えば、起きたことに対して、自分自身がどのような受け取り方をしたかによって、同じことでも良いことと思えたり悪いことと思えたりするということです。雨降りの日を良い日にするか、悪い日にするか、それは自分の受け取り方次第。幸不幸の分かれ目は、起きた事柄にあるのではなく、自分側にあるということです。

禅の世界には、「日日是好日」という言葉があります。毎日毎日が良い日だ、という意味に解釈されることが多いですが、もう一歩踏み込んで考えれば、毎日毎日を良い日として生きてみよ、という課題と受け取ることができます。実際この言葉は、師匠から弟子へと投げ掛けられた課題の言葉なのです。

多幸な一年を願うだけでなく、多幸な一年になるように生きていきましょう。

「涅槃会について」

美濃市 永昌院 東堂 高橋定申 師

今月二月十五日はお釈迦様が亡くなられた日です。

お釈迦様は今から約三千年前、インドの北クシナガラ河畔にある沙羅双樹の林の中に、床をのべられました。右の脇を下にして横になられ、近くにいたお弟子達に最後の教えを説かれてから、静かに永遠の眠りにつかれたのです。

八十歳の御生涯は、多難な日々の中にも世の常なることを悟り、私達のために諸行の無常をお説きになりました。

教えを聞き、それぞれの道の正しさを知った多くのお弟子達と、多くの生物が悲しみの涙を流している情景の絵が涅槃図です。

今私のお寺の本堂でも、まだお彼岸まで飾っていますので、是非一度お参りいただき、ご覧になって下さい。

皆さんがこの絵を前にした時、どんなことを感じるでしょうか。

今は元気で私たちのために心配をして下さる、お父さんお母さんもいつかは亡くなり、私達の前から姿が消えてしまいます。

今のうちに孝行をしなくてはと思っても、ついそびれてしまう。そんな自分でいいのでしょうか。親孝行は、お墓に入った両親より、生きているうちに行うことが一番ですね。素直な心で一生懸命に働き、学び、両親に安心してもらいましょう。お涅槃の御絵図はやがて我が身に訪れる姿を写して、静かに私たちに教えてくださっているのです。

 

「自分が自分にする供養」

郡上市 林廣院 住職 梅澤元禅 師

昔、お年寄りに、徳をつみなさいよと言われた覚えがあります。何をしたら、どうしたら、徳を積むことが出来るのか分かりません。例えば、人に親切に声掛けても、お年寄りに手を差し伸べても、現代では、小さな親切大きなお世話になりかねません。では、どの様にしたら徳が積めるのかと悩んでしまいます。

近所で知り合いが亡くなったと聞けば、早々にお悔やみに行かなくてはならないが、暑い夏もあれば、寒い冬もあります。更にあの方には大変お世話になったから、行かねばならない場合もあれば、それ程でもないが、仕方ないから行ってくるかという場合もあると思います。

どちらにしても、その場所に足を運ぶ、その行為が亡き人への供養であります。さらに、「自分が自分にする供養」ではないかと思います。しかし、伺う時期はまちまちで暑いから、寒いから、忙しいからと、いろいろ理由を付けながらも、お悔やみに足を運び亡き人の供養を終え、ふっと思い返してみると、その行為が「自分が自分にした供養」。つまり、これがお徳積みではないかと思うのです。

心ある供養には、形式などありません。素直な気持ちで、さらには、先祖の墓参り、月に数回の墓掃除、これもただ花や水を捧げるだけでなく、墓は先祖の身体です。水をかけ、タオルで墓石の汚れを落とし、水で洗い流し、新しいタオルで拭き上げてこそ、何となく爽やかな気持ちになれます。これがお徳積みになるのではないでしょうか?

「平等とは」

山県市 大喜院 御住職 高橋豊和  師

先日、私は訳あって憲法を読むことがありました。中学・高校時代に読んだことがあるとは思うのですが、改めて読み直すと崇高な理想が書かれている印象を受けました。

日本国憲法の3大原理は、基本的人権の尊重、主権在民、平和主義であります。

憲法14条では、「すべて国民は法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会関係において差別されない」と記されています。

平等とは、もとは仏教用語であります。お釈迦様は、いかなるものも、本来は差別がないとして、インドで古くからあるカースト制度を否定されてきました。生きとし生きるもの、何の差別、分け隔てなく、いとおしんでくださると考えられ平等大悲という言葉もあります。

さて、平等は、みんな同じということなんでしょうが、人の人格、価値観、能力、経済力、生まれ育った環境はさまざまであり「みんな同じ」ということは、なかなか難しいと思われます。なので、最低限何を「同じ」にするのかということになるのでしょうが、このとらえ方も人それぞれなので難しいということです。

つまりは、人はそれぞれ考え方が違うので、それを認め合うことにより平等が実現するのではないかと考えます。さまざまな差別、「あの人は○○だから」の決めつけや偏見をなくすことが、日本国憲法でいう崇高な理想を実現するための一つとなるのではないでしょうか。

静かに今を見つめ、一歩を進みましょう。

岐阜県宗務所  所長 小島 尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。

皆様の益々のご健康をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

宗務所所長を拝命して早三年、私の新年テレホン法話は最後となりました。

時に今、二年以前の新型コロナウイルス感染症により、また多くの事件や事故、度重なる自然災害により、人々は心を痛め、苦しみ、悩みの中にいます。

社会は混迷の一途を辿り、私たちは自らの冷静さを見失いがちとなり、誤解や偏見、様々な分断が現われ、人間関係に希薄化が進んでいる感がいたします。

しかし、このような苦難は、過去何度も繰り返され、その度に先人たちは、学び、智慧を出し合い、慈悲の心を持って、他人を思いやり助け合って来たからこそ、私たちの今があるのです。

お釈迦様は人生における苦悩の中で菩提樹の下、坐禅を重ねられ、お悟りを開かれました。

私たちも今こそ、仏様と向かい合い、こころ静かにこの時を見つめ、先人の教えを学び、今の困難に直面しているのは自分だけではないことをまずは自覚し、他人の苦しみも共感出来る思いやりを忘るる事無く、「慈悲の心」「菩提心」を持って、日々を進みましょう。

この一日の精進が、人と人との温かなつながりを深め、この世での私たち自身の徳となり、それがご先祖様への功徳となって、更に家門繁栄、子孫長久にへと繋がることでありましょう。

小さな一歩であっても、進み続けることが、今の世に生きる私たちが安らかに暮らせる明るい明日を迎えることのできる未来への道標となるのです。

「人生はその時その時の積み重ね、正しく、明るく生きましょう。」

心静かに今を見つめ・ともに学び・ともに願い・ともに実践して、新しき良き年へと、一歩を進みましょう。

怨敵退散・如意吉祥ならんことを。

 

「友からの年賀状」

揖斐郡 妙勝寺 住職 岩谷真海 師

揖斐郡池田町の妙勝寺でございます。

令和三年の師走。年の瀬も押し迫り、何かと慌ただしくお過ごしの事ではないでしょうか?

この一年を思い起こしますと、新型コロナウイルスで始まり

コロナ禍の中で過ぎなんとしております。

私達の日常の生活も一変しました。

大変な制約の中での生活でした。

その様な中で、開催の是非は論じられましたが、

2020東京オリンピック・パラリンピックが開催され

テレビの中ではありましたが、私達に大変な感動と出会いを頂きました。

これがテレビではなく直接の出会いであったなら

その感動も倍増されたのではないかと思っております。

私は出会いはご縁だと思っております。「縁は異なもの味なもの」という言葉にあります様に、ご縁とは、男女の出会いだけでなく、人間同士の出会いが善につけ、悪しきにつけ、その人その人の人生まで左右する様な出会いになる事もあります。

「友よ、あなたとの出会いは、私のとっては生きてゆくご褒美」

これは、数年前に私の中学時代の恩師から頂いた年賀状に書かれてあった言葉です。

この友とは、お釈迦様が、同じ道を求める弟子達に言った言葉でもあります。

私にはこの年賀状は衝撃でありました。その先生は私が出家するご縁を頂いた齢九十歳の大先輩の老師であり、その師より「友よ」とのお言葉で始まる年賀状に感動の

余り不覚にも家族の前で涙致しました。

私もこのご縁を機会に、皆様にお伝え致したく思います。

「友よ、あなたに出会えて本当によかった」

ありがとうございました。

新しき年が皆様にとりまして善き年でありますよう、お祈り申し上げます。