テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「無題」

恵那市 大洞院 住職 宮本浩秀 師

私たち僧侶は葬儀先祖供養掃除は大切なおつとめでございますが

お檀家様お知り合いの方にご相談を受けるときはその方たちがいかに

幸せに生きていくか説くことも大事なおつとめです

お釈迦様は人間として理想の生き方を説いております。

その考えとは自分の心をまずしく苦しめ自己中心的な行動を捨てることです

今他の国では戦争を行うくにもございます。

自分の国が豊かになれば良い自分の民族が幸せになれば良いという

自己中心的な考えで悲劇は繰り返されます

人間本来感謝に満ちた心を支えあい助けあう生き方心豊かに暮らす生活を

お釈迦様は説いておられます。

思いやり感謝の気持ちもなく生活しておりますと思い通りにならないと

不満ストレスがたまります

人本来はあらゆる人を支え支えあい生かされて存在しております

すべてのご縁によって生かされている存在です

私も家族周りの方々ご寺院さんに支えられ存在しております

感謝の気持ちを忘れることなく生活し、おはようございます、こんばんは、こんにちは

お願いします、ありがとうございます、ごめんなさい。

まず声に出し気持ちを伝えることがご縁の一歩となります。

明日あなたがご挨拶した人お知り合いになった方

一生の大切なご縁の有る方かもしれません

一日一日生かされていると思い心豊かに生活しましょう

「思いやりの心を大切に」

中津川市 源長寺 副住職 横田英和 師

ここ最近、世の中で色々と大きな出来事が起きております。

その中、紹介させて頂きたいのは上皇后陛下が平成28年熊本地震の折に詠まれた御歌になります。

『ためらひつつさあれども行(ゆ)く傍(かたは)らに 立たむと君のひたに思(おぼ)せば』

こちらの御歌は、上皇陛下と上皇后陛下が被災地を訪問された際、自分たちが被災地を訪問しても良いのかとためらいがありました。しかし、常に人々に寄り添い立つという上皇陛下の強い意思に添い、『さあれども行くと』との思いを詠んだと言われています。

また、テレビなどで被災地を訪問されている映像を拝見しますと、目線を合わせ、皆様の声を聴き、支えとなろうとするお姿に励まされ心が安らかになります。

御歌やお姿が心に響くのも行いの中に仏様の教えが生きているからではないでしょうか。

その教えとは『布施』『愛語』『利行』『同事』という『四摂法』の教えになります。

『布施』とは施し・心や思いを分かち合うこと、『愛語』とは心のこもった言葉をかけること、『利行』とは周りの為になること、『同事』とは自分と他人に区別をつけないこと、それぞれの大切さを説いておられます。

紹介させて頂いた御歌には、被災地や被災者の元に行くことが迷惑にならないかと悩み、それでも支えになればと寄り添うために行くことを決められる『同事』の心、そして相手の事を思い寄り添うために行動する『利行』の心があります。

そして訪問された際のお姿には、皆様の声に耳を傾け、目線を合わせて話され、皆様の境遇を感じてお声をかけられる『愛語』の心があり、皆様に寄り添い、少しでも支えになろうと励まされるお姿には心の施しという『布施』が感じられます。仏様はこれらの優しい思いやりにこそ、世の中を変える力があると説かれています。

私も本年、少しですが被災地のお手伝いにいきました。大きい自然災害の前では一人の力では対処が難しい事が多々あると感じました。思いやりが大切であるということは当たり前の事かも知れません。ですが、実践することは意外と難しいことです。皆様も『四摂法』の教えを実践し、思いやりのある暮らし・地域づくりを考えてみてはいかかでしょうか。

「知足」

恵那市 萬光寺 副住職 龍田直道 師

皆様は「知足」という言葉をご存知でしょうか。知足とは字の如く「足るを知る」このようになります。

遺教経というお経に、このような言葉があります。「知足の人は、地上に臥すといえどもなお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すといえどもまた意にかなわず。不知足の者は、富めりといえどもしかも貧し」つまり、「今の暮らしに満足しない人は、どんなに贅沢な暮らしをしても心は貧しい。『今のままで十分』、そう思える人はどんな暮らしであろうと心は豊である」ということです。

新型コロナウイルスが流行したことにより、それまで私達の身近にあった「当たり前」である生活が一変し、それまでの暮らしがいかに尊いものであったのか、私自身痛感致しました。そして皆様の中にも、そう感じた方はいらっしゃるのではないでしょうか。

欲をもつ事は決して悪い事ではありません。しかし、欲には際限というものがございません。「あれが欲しい」、「これがしたい」というように新しい欲求というものは湯水のように溢れ出てきて、どこまでいっても、いつまでたっても満足はできないのです。そうした欲求を抑え、「今あるもの」に目を向けて日々の生活に感謝しながら生きていくことで、私達は心豊かに過ごせるのではないでしょうか。そして「知足」という考え方は現在の自分自身を省みる上でも大切なのかもしれません。

「子供坐禅会と私」

多治見市 永泉寺 住職 池田昌泰 師

私は、コロナ禍で世の中が騒がれるまで、学校の夏休みに半日という短い時間でしたが子供坐禅会を行っていました。ラジオ体操、坐禅、法話、レクリエーション、昼食で終わる行事です。

コロナ禍が終息と言われましても、まだまだ完全に終わったわけではありません。

私は、昼食で出すカレーを前日から一人で作り、子供たちが食べてくれる姿を見るのが好きでした。

現在では、コロナの影響で満足に食事ができない子供がふえていると聞きます。こんな時こそ、お寺として出来る布施という形で、今まで来ていた子供たちにカレーを食べてもらいたいと思います。しかし、マスクを外すというリスクを抱えてまでしても良いのか?という疑問もあります。

ご葬儀、ご法事も家族のみで行う形になっています。親族の間でも、食事を出さないということも聞きます。

当たり前のようにしていた子供たちとの大切な時間を、コロナによって奪われたことはとても残念と同時に、一日も早く子供たちと坐禅をして、食事をしたいなと思う今日この頃です。

皆さんも油断することなく、ご自愛専一くださいますよう、お祈りしています。

「口伝」

可児市 弘福寺 副住職 丹治 大輔 師

お釈迦様の最後のお言葉に「怠ることなく修行を完成させなさい」というお言葉があります。

この言葉から分かるように、お釈迦様自身は自分がどんなことを語ってきたのかということを残そうとは思ってなく、修行をしなさい、というのがお釈迦様の意思であったと言えます。

なので、お釈迦様の死後、お釈迦様の傍で一番話を聞いていた弟子の阿難陀の記憶を頼りにお釈迦様の言葉を後世に残そうということになりました。

今であれば、携帯で録音するとかで簡単に記録を残すことができますが、当然その当時の技術にはそんなものはなく、紙で記録するという技術すらない。なので、お釈迦様のお言葉というのはすべて口伝にて伝えられたのです。

いわゆるお経の始まりになるのですが、その量がとてつもなく膨大な量ですから、よくこれだけの量をみんな覚えられたな、と思います。

今当たり前のように日本では仏教というものにふれている訳ですが、これも全ては、お釈迦様の弟子、そのまた次の弟子と脈々と口伝にて語り継がれたからこそ、今お釈迦様の教えに触れることができる、それはとてもありがたいことだと思っております。

「四摂法」

土岐市 荘厳寺 副住職 軽部 竜世 師

曹洞宗の開祖である鎌倉時代初期の禅僧、道元禅師様の著された正法眼蔵というものがあり、仏法思想が書かれている本の中に

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」というものがあります。

正法眼蔵の内容のそのほとんどが修行僧に向けられたものですが、この「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」は修行僧ではない

一般の信者さんのためにも書かれているものだと考えられております。

 

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」には観 世 音菩薩や地蔵菩薩などが、人々を様々な苦しみから救済するための行いである「布施・愛語・利 行・同事」の四つの語句が記されておりまして、私たち仏教徒が日常で行う修行であり生き方でもあります。

 

その一つ目に記された布施とは、幸せを一人占めせず、誰かから頂いたかもしれない幸せに感謝をし、また、同じように誰かに分け与えて助けあい生きていくコトです。

 

二つ目の愛語とは、慈悲と慈愛を込めた愛情豊かで親切な言葉を使う心がけです。

そうした優しく思いやりのある言葉で対話した時、一言一言のすべてが人々の心を和ませ、お互いを豊かしていき、社会全体を優しい方向へ動かす大きな力となっていくでしょう。

 

三つ目の利行というものは見返りを求めない正しい行いです。

自分がいい思いをする事ばかりを考えず、相手のコトおもんばかり、助けとなってあげましょう。

自分自身に助けが必要な時、誰かが助けとなってくれたなら、

自分もまた誰かを助けてあげる見返りではない助け合いの輪を作っていきましょう。

 

四ツ目の同事というのは、相手の心や境遇を理解し共感して相手と接することです。

相手と同じ目線で立った時、何が必要で何が助けとなるかがきっと見えてくるでしょう。

 

あなた自身が精神的に、また持つ物に余裕があって、苦しんでいる人と出会ったなら、この「四摂法」の布施と愛語と利行と同時を思い出してみて下さい。

相手に少しでも助けとなって幸せに向かえたなら、あなた自身もまた、その助けに喜ぶ相手を見て幸せに思えるでしょう。

 

いずれその方が余裕のある時にあなたの行いを思い出して、困窮する他の誰かにも手を差し伸べていくかもしれません。

「無常。桜は咲きやがて散る」

岐阜市 吉祥寺 住職 志比道栄 師

年々桜の開花は早くなり昔のように入学式を待たずに、3月中には満開を迎えるようになりました。

昔、越後の良寛和尚さんが「散る桜残る桜も散る桜」と亡くなる前にこの歌を詠まれました。これは世の中の物は常に変わっていく。「いのち」ある物は必ず終わりを迎える。お釈迦様の「諸行無常」の教えを歌にされたものです。

人が変化していくとは、時間と共に年を取り老人になり、そして誰しもがやがて死を迎える。時には病気になったり、思いもしない生活を余儀なくされる。

桜の花で例えるなら、暖かな日差しや水に恵まれて一本の枝に蕾として芽吹き、青空のもと周りの花と共に花弁を開いてゆく。時には春の嵐に強く吹かれようともじっと花を保ち、やがてどの花も散ってゆく。

私達が桜の花を愛するのは、蕾の時・満開の時・散りゆく時の姿に一瞬一瞬の桜の一生懸命な「いのち」を見るからである。

幼き時は戻らない。老いることは避けられない。「生老病死」を苦しみと捉えなければ、私達も桜のように深い人生が送れるのではないでしょうか。

「余計な一言、口は災いのもと」

多治見市 普賢寺 住職 水野誠司 師

みんなと楽しくおしゃべりをしていたのに、たった一言発した言葉に、その場の空気がガラッと変わった。そんな経験をされたことはあるでしょう。

まさに口は災いのもと、ちょっとの余計な一言が、取返しのつかない事態に発展することも少なくありません。

お釈迦様の言葉に、人は口の中に斧をもって生まれてくるとあります。言葉は人を傷つけ、危めることがあると言うことです。

会社や学校で接する人たちの会話の中にも、「この人はなんでそういうことをいうのか」 「そういうことを言わなければもっと皆から好まれるのに」と感じたことがあると思います。このように余計な一言は、些細なことから相手の心にグサッとくることがある。言われた側も、言った側もなんとも後味が悪いものです。相手の言葉に反射的に発する余計な一言は、大きく分けて「意図的に言ってしまう一言」、「意図せず言ってしまう一言」があります。

意図的に発する一言は、言いたいことを言わないと気が済まない人、相手と意見が合わない時や相手の話を不快に感じた時など、ズバッと口にしないと気が済まない性格が原因と考える。

自分が周りからどう思われようと構わない、その場の空気などお構いなし、 対人関係が気まずくなり、言った本人は言いたいことを言って、すっきりする 周りにいる人たちにとっては、迷惑この上ない存在といえます。

思ったことをすぐに口にしない、こういうことを言ったら相手はどう思う、相手の気持ちになって考えることが大切です。

余計な一言を言いたくなる時、あえて言わないのが思いやり、「雄弁は銀・沈黙は金」という言葉があるように、あえて言葉を慎む方が、うまくいくことは多い、何を言うかより、何を言わないかを意識することで、仕事も人間関係もうまくいく、「言葉は人を癒すことも、人を傷つけることもできる」何を言うかより、何を言わないかを意識する、人はみな完璧ではない、今から一緒に意識してみましょう。

「良い天気、悪い天気」

郡上市 北辰寺 徒弟 岡本眞人 師

晴れの日には、「今日は良い天気ですね。」雨の日には、「今日は生憎の天気ですね。」と、普段の何気ない会話の中で自然と言ってしまうことがあります。良い天気だと気分が上がり、悪い天気だと気分が沈んでしまう。天気の良し悪しに気分が左右されてしまうこともあります。さて、この天気が良い、悪いというのはどのように決まるのでしょうか。

有名な禅の言葉で「日日是好日」という言葉があります。「毎日が良い日である」といった意味です。

我々曹洞宗の僧侶は、日々の生活が修行であると捉えています。お経を上げたり、坐禅をしたりするだけでなく、掃除も修行の一環です。晴れた日には、外に出て草抜きをしたり落ち葉を掃いたりします。晴れの日は修行をするのに適した「良い日」と言えます。反対に雨の日は、外に出て掃除をすることができません。しかし、窓拭きなど屋内の掃除をすることが出来ます。雨の日もまた、修行をするのに「良い日」です。雪の日には、雪掻きをします。雪の日もやはり「良い日」です。どのような天気であっても毎日が修行に適した良い日、好日と言えるわけです。

良い天気の反対は悪い天気、と決め付けていないでしょうか。「プラスの反対はマイナス」というのはあくまで数字の世界であり、我々が生活している世界では「プラスの反対もプラス」と捉えることができます。今日一日が皆さんにとって良い日、好日となりますように。

「主人公」

郡上市 桂昌寺 住職 清水宗元 師

テレビドラマや小説などの物語の主役を「主人公」といいますが、「主人公」という言葉は実は仏教からきている言葉です。

唐の時代の禅僧の瑞巌和尚は、毎日岩の上で座禅を組んで、自分で自分に「主人公」と呼びかけて、自分で「ハイ!」と返事をしていました。

禅宗でいう「主人」という言葉には「本来の面目」という意味があります。「煩悩を取り去った本来の自分の姿」ということです。

つまり瑞巌和尚は、「お前は本来の面目を保っているか?本来の自己を保っているか?」と日々自分に問いかけ、自分と向き合っていたのです。

日本社会は古来から「和」が尊ばれています。集団の輪を乱さないことや、周囲を同じように行動することが最重視されます。

しかしその反面で、周囲の人の目を意識するあまり自分の意見が言えなくなってしまったり、あるいは周りに流されてしまって自分の本意ではない行いをしてしまったり、っていうこともあるのではないでしょうか?

瑞巌和尚は自分で自分に「主人公」と呼んで「ハイ!」と答えて、そして更に「惺惺著(セイセイジャク)、諾(ダク)」と言っていました。

「惺惺著」とは、

「しっかり目を覚ませ!」

という意味です。

そしてまた更に、「他時異日、人の瞞(マン)を受くること莫れ、諾諾」と言っていました。

「瞞」とは、「あざむく・いつわる」ということなので、「人の瞞を受くること莫れ」で、

「人にだまされるな!」

という意味です。

瑞巌和尚はそれにもまた「ハイ!ハイ!」と自分の問いかけに自分で返事をしていました。

私たちもまた、自分自身に本来具わっている面目=本心・仏心を保つことで、物事の本質を見極め、流されたりだまされたりせず生きていきたいものです。