テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「ギブ&ギブ」

関市 圓通寺 住職 岡田英賢 師

本日は「ギブ&ギブ」というお話をしたいと思います。

「ギブ&テイク」は知っていても「ギブ&ギブ」って何?と思われる方もみえるかもしれません。

私たちは日ごろ、“あの人に何かしてあげたから”、“今度は何かお返しをしてもらいたい”といったように相手から見返りを求めてしまったり期待をしてしまったりすることは、少なからず誰にでもあるのではないでしょうか?

先日、ある建築会社の社長さんが、「ご住職ね、仕事というのは人から与えられるのですよ。だから、その人の心を動かさないとダメなんですよね。この人に頼みたいって・・・そう思ってもらえるようにならないといけないんですよ」と話してくださいました。

その社長さんは、いつもどうしたら喜んでもらえるか?お客さんの立場に立って損得よりもその人に合った家つくりを心がけてみえる方でした。

相手からの見返り“テイク”は後回しで、まさに「ギブ&ギブ」を実践される方でした。

私たちは相手から何かをしていただくと「今度は何かこちらからお返しをしなければ」と、そう思うものです。本当に相手のことを思って続けた結果が相手から信頼と、この人に頼みたいと思ってもらえる成功へとつながっていったのです。

曹洞宗を開かれました、道元禅師さまは、

「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」

とお示しになりました。

利行と申しますのは、「見返りを求めない、無条件に相手のためになす行い」のことでございます。

すべての人に、思いやりの心で向き合っていくこと。そして、そこには、相手の気持ちに寄り添っていく心が大切になってきます。家族が支えあい、社会が支えあう。「ギブ&ギブ」とはみなさんのお仕事においても、また、私たちの日常の様々な人間関係を円滑に進めていく一つの術となるのではないでしょうか?

お互いに思いやる心「ギブ&ギブ」の心が世界中に広がりますように。

「あいさつで街の活性を」

岐阜市 金剛寺 住職 山田一義 師

我々の校区では、15年以上前から防犯パトロール隊のボランティア活動をしています。会員は約80名で主として学童の下校時の交通事故や犯罪防止のため、主要箇所を中心に立ち実施しています。

また、10年前から、さらに安全・安心な校区にするため青色回転灯装着車両による、防犯パトロール巡回も実施しています。会員の協力により現在まで何の事故や犯罪などもない活動ができ、各方面より大変感謝されています。

このボランティア活動をやっていて、特に学童にふれあう時間が大変多い。一般的にかわす挨拶は、おはよう・こんにちは・おかえり、また成人の方々には、季節のこと・天候・あるいは近頃の情勢など、あいさつは人間関係を円滑にする上で、大変重要な役割を持っています。

学童下校時で防犯パトロールの当番日、「おかえり」と言うとみんなが「ただいま」と返事が返ってくる。また、朝の登校時、道へ出ると小学生が並んで学校に向かう。「おはよう」「いってらっしゃい」と声をかける。「いってきます」などの返事が返ってくる。

こうして笑顔であいさつができ、子供たちだけでなく、このボランティア活動により地域の方々とも広くつながりができ、連携が密になった気がします。

我々の防犯パトロール隊の出迎え。青色回転灯車両の巡回で、自主的な防犯活動を行う中で、色々な犯罪防止に役立ち、事故のない安心で平穏、さらにはいつでもあいさつができ、明るい町づくりをこれからも維持してまいりたいものです。

「迷惑を許す」

揖斐川町 月桂院 副住職 杉山秀宣 師

今の日本は超高齢化社会となっており、65歳以上の方が人口の3分の1にまで増えております。当然、高齢者の人口が増えるという事は、介護が必要な高齢者も増えるということになります。人は誰しもが老い、そして誰かのお世話になるのです。

私は僧侶の傍らで介護保険のケアマネジャーの仕事を担っております。普段から高齢者の方やご家族の方とお話をする機会が多くあります。

お話を伺うと「家族に迷惑を掛けたくない。施設に入った方が良いのかも知れん」という言葉がよく聞かれます。その方は自分の存在が家族に迷惑を掛けているのではないかと思い悩まれるのです。ご家族の方は「そんな事はない。迷惑だなんて思わないで」と言われます。

私は、人は周りに迷惑をかけずに生きる事はできないと考えます。生きている以上、必ず他人に迷惑をかけているのです。それを許される事によって生きさせてもらっているのではないでしょうか?インドでは子供に「人に迷惑をかけるな」とは教えないそうです。「人は迷惑をかけるものだから、他人の迷惑を許す様に」と教えるそうです。自分が迷惑をかけている事が解っていれば、他人の迷惑を許す事が出来るのです。

私は、この様な相談を受ける時には「お互いがお互いを想う気持ちがあって悩まれているのであると、その気持ちが相手に伝わる事で、結果が自宅で介護してもらう事になっても、施設で介護してもらう事になっても、それが最善の選択になります」とお伝えして安心していただきます。

皆さんも生活のどんな場面でも、相手の事を考え迷惑を許す思いやりのある言葉(愛語)を伝える様にしてはいかがでしょうか。人との関係や大きく言えば社会環境が変わって来るかも知れません。

「心を落ち着ける」 

垂井町 即現寺 住職 神野元秀 師

新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてから約3年半が経ちました。様々な行動などが制限され、以前とは日常生活も大きく変わりました。日本では、5月から新型コロナウイルスは5類に引き下げられ、少しずつ以前のような生活が戻りつつありますが、コロナ禍によって、以前とは変わったことも多く、日常生活の中で悩みやストレスを抱えている方も多いと思います。私自身、うまくいかずにイライラしたり慌ててしまうことも多くあります。そんな時には、一度、ゆっくりと深呼吸してみてください。

道元禅師は坐禅の指導書である「普勧坐禅儀」のなかで「鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し」と記されております。欠気一息とは身体の中の空気をゆっくりとすべて吐き出すことです。坐禅の心得として身を調える「調身」、息を調える「調息」、心を調える「調心」があります。この「調身」、「調息」、「調心」の三つは相互にかかわりあっています。つまり、自分の姿勢に気を配り、呼吸を調えることで、自然と心も調ってくるのです。これは日常生活にも生かすことができると思います。一度立ち止まり、ゆっくりと息を吸ってゆっくりと息を吐く。こうすることで心が落ち着いていきます。忙しい日常生活の中、少しだけ立ち止まって、深呼吸をして心を落ち着けてみてはいかかでしょうか。

「合掌の作法から気づいたこと」

岐阜市 林陽寺徒弟 岩水峰雪 師

私達の生活の中で合掌をすることが時々あると思いますが、皆さんは、合掌の形をきちんと意識したことはありますか?

先日、ある友人が合掌をする時に、親指から小指まできちんと手を揃えてから息を調えていくと心が落ち着きますと話してくれました。普段そこまで合掌の手を意識したことがなかった私は彼女に習い、合掌の時に指が離れている時と、離れていない時の息と心の感じ方を試してみました。すると、どうでしょう。指が離れている時はどことなく気持ちが外側を向いて息も意識しづらく心は注意散漫としてきます。逆にきちんと指を揃えた合掌は、息が意識しやすく気持ちも内側に集中していき、この瞬間に心が向きやすくなっていきます。修行中によく合掌の小指が離れていることを指摘されていたのですが、こういう大切な事が隠れていたのだと恥ずかしながら、ようやく知ることができました。

禅の世界では、「調身・調息・調心」の教えを大切にします。まず形という作法を重んじます。そして、次に息を意識していきます。その結果、心が調い自分自身を見つめる力が生まれていきます。なぜ、一番最初に形を大切にするかというと、最初から心を調えようとしても、思考が邪魔をして調えられるものではないからです。「身体、息、心」この3つは密接に繋がっています。「姿勢を調え」、「息を調え」、「心を調える」、この順番にも意味があるのです。ステップバイステップ、一歩ずつ着実に事を運ぶことで心は落ち着き、自らを見直す力が生まれてきます。

お盆やお正月には合掌をする機会も多いと思います。皆さんも合掌をする際には手の合わせ方をちょっと意識してみてはいかがでしょうか。

「挨拶について」

各務原市 慈眼寺 住職 宮崎證俊 師

私は数年前から体力作りの為に登山を始めました。

地元の低山から北アルプスの3000メートル級の山まで時間を見つけては登っています。

 

登山のマナーとして他の登山客とすれ違う時に挨拶を交わすというものがあります。

これは日常的なマナーであるという他に、遭難や滑落といった万が一の時の目撃情報に繋がるという意味合いもあります。なにより純粋に挨拶を交わしあうのは気持ちのいいものですよね。

 

私自身まだまだ登山初心者ですので、出来るだけ挨拶は欠かさないようにしています。特に初めて登る山では、下山してくる方にこの先の様子や注意点を聞いたりもしています。

しかし、挨拶しても毎回必ず返事が帰ってくるとは限りません。

相手をよく見てみましょう。急な登りで息を切らしていないか、会釈で挨拶してくれていないか、咲いている花や景色に夢中になっていないか。

マナーに固執して本来の登山の楽しみや目的を忘れてしまっては本末転倒です。

 

挨拶というのは元々、仏教の「一挨一拶」という言葉で、お師匠さまが弟子に悟りを試す禅問答に由来します。そこから一般的に広まり、人に会った時や別れる時に交わす言葉や動作となりました。元の意味を考えますと、互いの心を開き、向き合うことこそが挨拶なのです。温かい気持ちでふれあうことが大事なことであり、返事を期待してかける言葉が挨拶ではありません。

 

「おはよう」「おやすみなさい」「いただきます」「ごちそうさまでした」「ただいま」「おかえり」

何の為の誰の為の挨拶なのか。その時の状況にあった言葉や行動を心がけ、皆様が気持ちよく生活できる事を願います。

「ありがとうという言葉」

岐阜市 龍雲寺 住職 梅村季弘 師

人は「ありがとう」という言葉を、一生の間に何回言うのでしょうか。

「ありがとう」という言葉は、人がいる場所を和ませる力を持っていると思えます。「ありがとう」という言葉、感謝するという心は、私たちが生きていくうえで、とても大切な事柄です。

先日、車を運転していて、横断歩道にさしかかりました。歩行者の姿を見つけ、車を停止させました。すると、高齢の歩行者の方は、頭を下げられ、声は聞こえませんが、口の動きから、ありがとうと言っているのがわかりました。横断歩道で、車が止まるのは当然の事です。しかし、その歩行者の方は感謝の心を伝えてくれました。其のことによって、私の心の中にとても温かく、さわやかな感情が生まれました。止まってよかった、ゆっくり渡ってくださいね、という、相手を気遣う心にゆとりまで生まれました。感謝の言葉を伝えるというささやかな行動が、もたらしてくれた出来事でした。もし、この時、歩行者の方が、ただ渡るだけで、無言で渡ったら、此のことは、日常の出来事の一つとして、忘れられていきます。しかし、感謝を伝えるという、行動ひとつで、他者の心に温かく、明るい光をともし、平凡な日常の中で、彩りとなり、心の栄養となっていくことになりました。

見知らぬ者に対してのほんの小さな、感謝を伝えるという行動で、心が温かくなるのならば、毎日顔を合わせる家族にも、ぜひ、感謝の心を向けて欲しいと思います。ありがとうの言葉がけは、日々の暮らしをきっと、穏やかで、明るいものにしてくれます。物を渡されたとき、お茶を入れてくれた時、ほんの些細な事で、良いのだと思います。「ありがとう」この穏やかな、温かい気持ちは、人に伝わります。「ありがとう」という言葉は、優しさを生み出してくれるのです。

「変わり続ける」

飛騨市 光円寺 住職 大森武徳 師

毎月1日の托鉢を回っていると、最近この辺りで熊出るから気をつけてくださいね。

びっくりすることを聞いてしまいました。

熊が出てきたらどうしようと、不安に思いながら托鉢を回っていると、キノコとり名人のおばあさんに会いました。

「熊が人里に出てくるようになったのも山が変わった一つ。20年前はこの辺りでイノシシすらいなかった。山も変わっているよ。山も変わるのだから人も変わって当然。」こんなことを話してくださいました。

長年、山にキノコを採りに行っているおばあさん、昔はよく採れた、最近は少なくなった、キノコがよく生える場所が無くなったなどの話ではなっかた。山全体が変わっているという。

見慣れている山、樹木は春夏秋冬、色々な姿へ変化しています。無機質に思える山が変わるなんて思いもしていませんでした。普段遠くから見ている山は、何も変わらずに見えていました。しかし、山の中は、常に変わり続けているようです。

山も変わっているのだから、同じように人の世も変わっていくのです。

お釈迦様の教えの中に、「無常」という言葉があります。「この世の中のあらゆる物事は一瞬たりとも停止することなく、常に変化し続けている」ということです。

普段同じように見えている事でも、実際には常に変化し続けている。変化しているということは、滅びるものもあれば、新しく生まれるものもあるということです。

言い換えれば、困難に直面しても、変化して良い方向にもっていけることも出来るわけです。

どんな変化も受け入れられる柔軟な心になりたいものです。

「諸行無常」

飛騨市 慈眼寺 住職 原田好崇 師

身近な方、愛する方を見送るということは私の経験からもいかに心に大きな傷を受けるかということがわかります。身体的な傷であれば、自分も他人も傷の深さはわかりますが心の傷はどんなに深い傷であっても外からは見分けにくいものです。身近な人が亡くなったとき突然涙が出てくる、将来どうなるんだろうと不安になる、生きていく希望を失う。こういったことは誰にでも起こることです。誰にでも起こりうることなんだと受け入れ自分を大事に見守りましょう。

大事なのは自分の気持ちを自分の中だけに溜め込まないことだと思います。誰かに聞いてもらうことが助けになることもあります。「何も言わなくてもいいからただ聞いてくれ」と頼んでもいいかもしれません。へたな慰めは逆効果になることもあるからです。人に甘えて自分中心にさせてもらいましょう。聞くだけなら甘えられる側も協力してくれることでしょう。

心の傷は完全には消えることはないかもしれませんが、時間と共に確実に回復していきます。

どんな方でも時間は平等に過ぎていきます。仏教ではこれを「諸行無常」といいます。すべては移り変わり永遠に変わらないものはないという教えです。生きている以上必ず老いそして死を迎えなければなりません。

一休和尚の詩に 門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなしという詩があります。これは正月はめでたいがその分冥土へ行くときが近づいたことになるのでうれしくもあるが悲しくもあるという意味です。

修証義というお経ではこうした内容を説かれています。このお経は一から五章まであり大変長いお経ですがお亡くなりになられた方が仏弟子となる為の行いや生きかたなどが書かれています。この修証義の五章に

光陰は矢よりも速やかなり身命は露よりも脆し、・・・・・

 

という一文があります。これは時が経つのは光のごく早くそして人の命は一滴の露のように脆い、・・・・・

 

簡単に解釈するとこう言った意味です。

すべての生あるものには平等に諸行無常があり、光陰は矢よりも速やかなり身命は露よりも脆しです。

同じ諸行無常であるならば後悔しないよう前を向いて過ごしていくようにしたいものです。

「終活」

飛騨市 玄昌寺 住職 澤田祥信 師

現在、人口減少時代、人生100年時代と言われています。何か、高齢者ばかりの世界になるのではないかと、世間では、どちらかといえば、悲観的なことばかりで、若者に未来がなく、年寄りがあたかも悪いようにも思えるような言われ方をしています。

老いは、私たちが何をしようともおとずれるものです。

高齢者にとり喜び、幸せの要素とは、「健康の維持」「良い人間関係」「ある程度の経済生活」です。どれ1つ不足していても、良い人生が送れないものです。

また、私たちには、必ずや死というものがやってまいります。その死を恐れてばかりいるのではなく、安心して、その日を迎えることができるように準備が必要です。

自分の歴史をまとめておくこと、家族、親族、親友、たいせつな人のこと、自分の体のこと、預貯金のこと、財産のこと、借金のことなど、自分がいなくなれば、残った親族が困らないように、きちんと残しておくことが大切です。

私たちは、100歳まで頑張って、健康で生きて、死を迎えた時には、すべてを、きちんと整理できていて、惜しまれながら、この世を去れればと思います。

今からでも遅くありません。自分の身のまわりから始めませんか。