テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「イライラしてもいいことはない」

海津市 春光寺 住職 横井晋司 師

「お父さん、今日、運転荒くない?」

車で子どもをスポーツクラブに送っていく途中に言われました。子どもが時間になっても準備が終わっておらず遅刻しそうになっている、車が思ったように進まない、私もイライラしていました。

仏教には、貪(とん)・貪り、瞋(じん)・怒り、痴(ち)・愚痴の三毒という言葉があります。三毒は、人間の根源的な悪徳のことを指します。瞋(しん・じん)は人間の感情と切っても切れないものなのです。

子どもが言った言葉。私の怒りの感情が運転にも表れていたのでしょう。アンガーマネジメントという言葉があります。怒りに瞬間的に反応するのではなく、6秒数えて自分の怒りをコントロールする方法です。私は一呼吸置きました。

「そうだね。安全運転しなきゃね。」

もちろん、イライラが全て解消されるわけではありません。しかし、私も落ち着き、安全運転で子どもの時間にも間に合いました。安全運転でも時間には間に合ったのです。運転が荒いまま向かっていたら、思わぬ事態を招いていたかもしれません。

アンガーマネジメント。6秒は長いかもしれません。しかし、怒ってもイライラしても事態はいい方には向かいません。6秒数えるだけで、もしかしたら怒らなくても良くなるかもしれません。たった6秒、されど6秒、瞬間的に沸騰する前に数えてみませんか。

「自分を変える」

岐阜市 医王寺 住職 透  隆嗣 師

月参りに伺ったお家に、「人生八変化」と題した額が飾られていました。

その内容ですが、

  • 自分が変われば相手が変わる
  • 相手が変われば心が変わる
  • 心が変われば言葉が変わる
  • 言葉が変われば態度が変わる
  • 態度が変われば習慣が変わる
  • 習慣が変われば運が変わる
  • 運が変われば人生が変わる

というものです。

私達は、どうしても自分自身を棚に上げて相手に期待したり、相手が悪いとか、周りのせいにしたりしがちです。それぞれに違った環境に育ち、経験を経て今の自分がある中で、普段とは違った角度から物事を見ること。相手の立場に立って考えてみること。そうした冷静さを忘れずにいたいものです。

自分を変えていくには一歩離れた己自身を見つめる事が大切です。

十月五日は、インドから中国に渡り、禅の教えを伝えられた達磨大師の命日であり、その遺徳を偲ぶ「達磨忌」の法要が営まれます。

この時を一つの縁として心静かに坐り、自分自身を見つめ直す機会として頂ければ幸いです。

草刈り機の選択

各務原市 瑞巌寺 住職 巌 晃司 師

私たちは、実に多くの選択をして生きています。今日は、選択に迷った時のヒントを感じさせてくれた、お盆前のお掃除会の出来事についてお話しさせていただきます。

文字通り、老若男女の皆様に集っていただける訳ですが、ここ数年で若い方を中心に、ガソリン式ではなくバッテリー式の草刈り機の持参が多くなってきました。そんな中、ひときわ目立つ古い年式のガソリン式草刈り機を持つおじいさんがこう言うのです。

「こっちの方が長持ちするでのー。」

確かに、もう何十年と使っている様相の長持ちする草刈り機ではありましたが、おじいさんのこの言葉の本当の意味を私達はまだ理解していませんでした。朝6時半からの作業なのですが、お盆前の真夏日で気温は30度を超えていました。3・40分ほど経った頃でしょうか、若い方々達が次々に休憩に来るのです。みなさん草刈り機のバッテリー切れでした。さきほどのおじいさんはと言うと、黙々と手際よく作業を続けられていました。

「こっちの方が長持ちするでのー」

先程の言葉が深く胸に響き、本当の意味が分かった気がしました。

そして、作業が終わってから話すおじいさんの言葉に私たちは、驚かされました。

「バッテリー式の草刈り機位わしも持っとる。」

なんと、日常のご自分の田畑の手入れで使っているバッテリー式ではなく、倉庫の奥に眠る長時間作業できる古いガソリン式を持ってくるという選択をされていたのです。軽い・便利という自分の為の選択ではなく。

私たちが考えたいのは、日々の中で選択に迷ったときどんな価値観に基づいて選択をしていくのか。その一つに、他人の為という観点を1つ入れてみてはどうでしょうか?自分だけが良ければいいという選択ではない限り、きっと進歩という発展が、自らを滅ぼす選択にはつながっていかないと信じています。

まもなく始まるお彼岸は、自らの行動を見直す大切な時節です。他人の為を考えた、日々の選択を共に実践してまいりましょう。

縁について

各務原市 長楽寺 住職 古川道弘 師

本日は縁について少しお話させていただきたいと思います。

縁というのは不思議なもので、一つには思いもよらない所で繋がっていたりするものです。

新しく知り合った方と共通の友人がいたり、もしくは知り合いの身内だった、というような経験はございませんでしょうか。

また逆にいつの間にか気づかぬうちに途絶えてしまう縁でもあります。

これも諸行無常の中の一つとも言えるかもしれません。

蒸かしたお湯をそのまま放っておけば冷めていってしまうように、結ばれた縁も何もしなければ時とともに遠くなっていってしまうでしょう。

折角結ばれた縁を途切れさせないためには、何がしらの努力が必要ではないでしょうか。

ですが特別に難しいことをする必要はないと思っています。

例えば年賀状や暑中見舞いのような季節ごとのお手紙でもいいでしょう。

また今の時代多くの人がパソコンや携帯電話をお持ちと思いますで、電話したりメールを送ったりとちょっとした連絡がすぐにつくのではないでしょうか。

縁をつなぐ努力はそういったちょっとしたことでも十分だと思います。

少し話は変わりますが、縁という言葉が使われていることわざや四字熟語などを思い浮かべてみてください。

「袖振り合うも多生の縁」「合縁奇縁」など一つ二つはすぐ思いつくと思います。

そうした言葉が昔から使われていくつも残っているというのは日本人が縁というものを大事にしてきたかではないでしょうか。

このお話を聞いていだだいているのもきっと何かのご縁と思って、今までに結ばれたご縁を大事にして、少しでも長く続くように心掛けていただけたら幸いです。

「死ぬことは怖いこと?」

飛騨市 長久寺 住職 守田智昭 師

十年程前、お寺の雪囲いの撤去作業中、自分の不注意により足場を滑らし、二メートル位の高さから、落下した事があります。

頭から落ちていったので、手で防いだものの、地面のコンクリートに顔面を強打し、意識を失いかけました。一瞬視界はテレビの砂嵐状態になり、痛さの中で意識が遠のいてゆく経験を致しました。その時、死ぬという事は、この様に突然訪れるものなのだと、実感しました。

顔面は腫れあがり、左腕は骨折しましたが幸い脳に損傷もなく、軽いけがで済みました。仏様のお陰だと、つくづく感じたものです。

さて、人は何故死ぬことが怖いのでしょうか。きっとそれは、誰もが一度も死んだ経験がないからなのだと思います。死ぬ時どうなるか分からない。死んだ後どうなるかもわからない。大切な人との別れの悲しさ。その様な不安が、死の恐れに繋がっているのでしょう。

お釈迦様はおっしゃいます。生まれたものは必ず死ぬと。生れる事が自然であるように、死ぬことも自然な事なのであります。自分が死ぬことで、次に命を譲っているのです。

みんなそれを分かっていながら、直視すると不安なあまり、どこかで、この現実を胡麻化そうとしているのです。

さらに、お釈迦様は、おっしゃいます。「死は決して恐れる事ではない」と。

恐れるべき事は、「いつ死ぬか分からないこの自分が、今を『ちゃんと』生きてこなかった事」に対してであると。

いざ死を迎える時に、後悔することが無いように、今、出来るうちに、やりたい事、伝えたい事を、「しっかり」と「ちゃんと」しておきたいものであります。

「三界万霊牌」

飛騨市 光明寺 住職 藤戸紹道 師

寺には三界万霊牌がある。

境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。

三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。

どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自他平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。

私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。

それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。

これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。

そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。

それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。

せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施食の意義を忘れないでほしいものだ。

「百花春至為誰開」(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本孝規 師

まず始めに、皆様に質問があります。

最近「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことはありますか?私にはあります。それは、新型コロナウイルスのせいで、地域での集まりや様々な行事が無くなり、お寺でも皆様に集まって貰う事が出来ず、「早く収まって、また集会やお祭が出来たらいいのに」と思う事があります。

そんな時に良く思い出す禅語があります。それは『百花春至為誰開(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)』という禅語です。

春にいっせいに咲き乱れる野の花も、観賞用に庭に植えられた花も、春の訪れを知らせようと咲くわけではなく、人の心を和ませる為に咲くわけでもありません。

花はただその生命のおもむくままに、無心に咲き、無心に散っていきます。

誰の為でもなく、ためらいも不平もなく、その姿を誇ることもなく、与えられた場所で、ただありのままに精一杯咲くだけです。

人はあれやこれやと、はからいながら生きることをやめられません。「はからい」とは考えや配慮のことです。「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」など意志によって行動することです。

花を見てみて下さい。そんな「はからい」も何もなく、ただありのままに咲いているだけなのに、皆もそれぞれの色かたちで山野を彩り、私達を慰め、楽しませてくれているのではないでしょうか。

不平不満や、ちっぽけな「はからい」に惑わされず、ただ無心に生きることの尊さをこの禅語は教えてくれています。

最初に言った事以外にも想うことはあり、皆様にも「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことがあると思います。そう思った時に是非ともこの禅語を思い出し、ただ無心に、ありのままに、『百花春至為誰開』と過ごしてみては如何でしょうか?

「人の心元より善悪なし」

恵那市 瑞現寺 副住職 坂 英世 師

道元禅師さまは、私たちにもとから善い心や悪い心があるのではなく、善い縁に出会えば善くなり、悪い縁に出会えば悪くなっていくのだとお示しくださっております。

何年か前から、子どもの人生は親の地位や経済状況によっておおよそ決まっている、という意見を耳にするようになりました。私たちの人生が生まれによって決まっているという考え方は、古代のインドでもそうであったように、ある意味根強い考え方です。しかしお釈迦さまは、私たちの人生は生まれではなく、行いによって決まるのだとお説きになられました。道元禅師さまのお示しは、このお釈迦さまのみ教えに連なるものです。

生まれた環境が私たちの人生を左右しているように見えるのは、一面では正しいことかもしれません。問題は、それを全く動かしがたい運命のように考えてしまうことです。環境もまた、私たちの行いから成り立っていると考えてみるのはどうでしょうか。これまで生きてきた中で、身近な人や尊敬する人のふるまい、ことばから、全く影響を受けていないという方はおられないと思います。普段意識することはないとしても、私たちの行いは善くも悪くも影響力をもっています。

生まれというとほかの人から自分への影響に偏りがちですが、行いと考えてみると、自分の行いはどうだろうかとも思い至ります。私がしていることは周りにどういう影響を与えているのだろうか、はたして善い縁になり得ているのだろうか。周りに善い影響を与えようとまで考えると行き過ぎですが、自分のふるまい、ことばを顧みることは、自分を助けることでもあります。

私自身にとりましても、自覚なくふるまったりことばを話したりすることは恐ろしく、また恥ずかしいことです。「人の心元より善悪なし」このお示しは、自身のふるまい、ことばを顧みるためにも、大切にしているおことばです。

「勝利は鞘の中にあり」

恵那市  長国寺 住職 小島現由師

一昨年来より続いているコロナ禍や、昨今のウクライナ情勢に伴い、私たちの生活や行動が大きく制限され、思い通りに事を進めることがこと更に難儀な世の中になりました。

変化に対応した生活を送ること自体も大変なことではありますが、時節にあわせて心の落ち着きを取り戻すことにも苦労してしまいます。

お釈迦様は、この「自分の思い通りにならない」という状況を指して『苦』と表現されました。そしてその『苦』というのは文字通り苦しい事だけを指しているのではなく、『一切皆苦』と仰っています。即ち、「すべてのものごとは自分の思い通りにはならない」という意味です。

連日報道されるウクライナ情勢には心が痛むばかりですが、これも、「思い通りにならない相手」の存在を認められなかったことが発端となっています。

戦国時代、現在の山形県に林崎甚助という居合道の始祖がおりました。

相手よりも早く刀を抜き、相手よりも早く斬ることを極めた人物ですが、その居合道の極意は刀を抜かないところにあるというのです。

「居合の至極は常に鞘の中に勝ちを含み、刀を抜かずして天地万物と和する所にあり」

自分にとって不都合な相手に遭遇したとしても、すぐに刀を抜かない、相手にも抜かせない。斬らない、斬らせない。話し合いを以て和合することを第一の要心としているのです。

刀を抜いたら最後、どちらかが斬られ、そこには勝敗など存在しない。

勝利というのは、刀が鞘の中に収まっている状態で和合することであると。

その上で、万が一、刀を抜かねばならない事態に直面した時には、相手よりも早く抜刀をし、身を守る。これが居合道だというのです。

お釈迦様も、ダンマパダ(和名:真理の言葉)という原始経典において、「殺してはならぬ。殺させてはならぬ。」とお示し下さっております。

思い通りにならないことを力で解決しようとするところに、勝者は存在しないということを、今一度私たちも肝に銘じる必要があります。

 

「無縄自縛の罠」

恵那市 自法寺 住職 小栗隆博 師

私の好きな江戸時代の禅僧で、絵をよくした、出光コレクションなどで有名な仙崖義梵というお坊さんがいます。彼の作品の一つに、道端に落ちた縄の切れ端を、蛇と勘違いして怖がる人々を描いた作品があります。

心温まる画風と、ユーモアあふれる作品の中にも、鋭く物事の本質に切り込んでいくあり方に、一枚の絵に厳しい修行を重ねた禅僧の気概が感じられます。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺があります。実際には無いものをあると勘違いしたり、あるいは人々にそう思わせることで

間違った判断を招いてしまうこともある。

これまでの数年間、多くの専門家とされる人たちが、それぞれの立場でさまざまな「予測」を立ててきました。「専門家」である以上、間違いはないであろうと皆に思われてきた人たちが、その予想を大きく外し、世間を混乱に陥れてきたこともあります。しかし彼らにとっては、その専門分野での自身の所見の中では、少なくとも間違ってはいなかったのでしょう。

仏教の修行では「正見」、正しくものを見るということがまず最初に求められます。

この場合の「正しい」とは一体何でしょうか。自分にとっての「正しい」こととは、単に自分の利益になることであり、その逆は反対に誰かに不利益を押し付け、傷つけることになりはしないのか。自分というフィルター越しに見たものは、己のバイアスを通した以上、既に「正しい」ものではなくなっているのではないか?

そう考えると、全てのバイアスから完全に解き放たれ、本当に物事の真実を捉えることのできる人は、お釈迦様以外に存在しないのではないかと私は思います。

片方の正義は反対の立場の者にとっての不義であり、例えば戦争中でも戦後でも、それぞれの正義不正義は結局のところ容易には推し量れません。

自分の立場を絶対的なものとしてそれを中心に考えるのではなく、あくまで互いの関係性の中で物事を捉えていくように努力することや、何か絶対的な正しい価値観だけを求めるのではなく、あるいは誰かが与えてくれる「正しい」とされるものにすがるのでもなく、互いの関係性、時間や空間、歴史の中での立場の違い、あるいは「間」と言ってもいいかもしれません。そのバランスの中でそれぞれの立場を尊重し、ちょっと間合いをとって考えてみることが必要でしょう。

ありもしない縄に囚われて、自ら動きが取れなくなってしまう。あるいは絶対的な価値観を求めるあまりに柔軟さを失ってしまう。このような危険性を表す「無縄自縛」という言葉があります。この罠に嵌らないためには、ありきたりかもしれませんが日々の生活を丁寧に行じていくことが大切とされます。今改めて、私もそのような修行の日々を過ごすことができればと思っております。