テレフォン法話

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「お彼岸を迎えるにあたり」

大垣市 龍松寺 住職 西澤峰靖 師

暑い時期が続きますが、一般に暑さ寒さも彼岸までと言われますように、暫くもしますとお彼岸を迎え、しのぎやすい時節となってまいります。

さて、お彼岸になりますと、日ごろ怠りがちなお仏壇やお墓の掃除をし、ご先祖様の霊を慰め、供養するのが私たちの生活習慣となっています。私たちが今日、いまの暮らしができていますのは、ひとえにご先祖様のご遺徳のお陰なのです。私たちが人間として今を生かされている背景には、ご先祖様が行ってきた善行の集積があるわけでして、そのおかげで私たちは人間として生を受けることができているのであります。

その恩恵に感謝のまことを捧げるのは、生きている私たちの勤めであります。それが、自然にお墓に参り、お仏壇にお参りする姿となるわけです。

お彼岸は「自分は常日頃、ご先祖様の恩恵に報いるだけの事をしているであろうか」と自分に問いてみる機会でもあります。ご先祖様に恥じない生活をしていかなければなりません。

彼岸はもともと仏教の言葉でありまして、彼(か)の岸と書きます。仏の教えでは、向う岸を理想の世界・悟りの世界と申しています。向う岸があれば、こちらの岸もあるわけでして、こちら岸を迷いの世界にたとえています。つまり、迷いの岸から悟りの岸・まこと(真実)の岸に渡りましょう、という教えなのです。

お彼岸とは、私たちが日頃、まこと(真実)の生活をしているか、恥じない人間として暮らしているかと、あらためて自分自身に問う良い機会であると言えます。

家族がそろって、この機会に、ご先祖様に感謝し、ともに喜びや悲しみを分かち合い、争いや迷いから、可能な限り遠ざかるよう心掛けて、努力精進する良い機会としたいものです。

「どう変化するかわからない世の中、どのように過ごしますか、どのように生きますか」

加茂郡坂祝町 地蔵院 徒弟 岡崎玄一 師

技術進歩のスピードに加えて、物事が急速に変化し続け、次に何が起こるか誰にもわからなくなってきました。2019年12月以降に世界的な流行となった新型コロナウイルス感染症が良い例です。感染症の蔓延はとどまるところを知らず、2020年4月には、日本全国に緊急事態宣言が適用されました。そして、私たちの日常生活をおおきくかえていきました。

少し過去に目を向けてみましょう。

日本国民は繰り返しウイルス感染症を何度も乗り越えてきました。

過去約100年の間に、1918~21にかけて3波にわたったスペイン風邪、1957~58にかけて2波にわたったアジア風邪などのパンデミックを経験してきました。

今終息しつつある新型コロナウイルス感染症の感染者数とは比べ物にならない数でしたが、当時は緊急事態宣言、都市封鎖、休業要請という騒ぎにもならず、したたかにパンデミック危機を乗り越えてきました。

新型コロナウイルス感染症も必ず一度終わりがくること。そして過去にも2波3波とありましたように、次に備える必要があるとわかります。

このように過去から学べることは多くあるのではないかという反面、未来はだれにもわかりません。過去から学ぶ現実を見据えながら、時には身を任せながら、毎日を過ごしていけたらいかがでしょう。

最後に、私が大事にしている言葉を紹介したいです。

奈良康明さんが「ブッダの詩」の中で書かれており、全国曹洞宗青年会イメージビデオにも登場します。

謄謄として天真にまかせる自覚と生き方の現代版を宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を真似ていったらこういうことにならないか。

雨の降る日は雨に濡れ
風の吹く日は風に揺れ
何時も前を向いている
素直な心を持ち
足ることを知り
決して瞋らず
何時も静かに笑っている
他人を立てることが
自分を立てることだと思い
やることなすことが
道理にかない
仏の祈りを忘れない
そういう信仰に私は生きたい
今が明日への新たな一歩(です)

「水は下から上へ流れる」

加茂郡白川町 洞雲寺 住職 尾関幸憲 師

水は上から下へ流れます。

実は「水は下から上へ流れる」の道理を知らないと、「水は上から下へ流れる」道理を理解した事にはなりません。

川の水は必ず上から下へ流れます。上流から下流へと流れます。当たり前の事であります。おかしいもので、川の水は上から下へ流れているにも関わらず、無くなることがありません。

なぜでしょうか。

茶碗の中のお茶を飲んでしまえば空になってしまうので、どんだけ逆さにしてもお茶は出てきません。また飲む為にはお茶をつぎ足さなくてはいけません。

このつぎ足す事こそ「水が下から上へ流れる」道理なのであります。

何故ならば、太陽が照って大地を照らし、蒸気となって水は天にのぼり、上にのぼって霧となり雲となり、雨となります。水が上から下へ流れるのみであるならば、川の水は枯れてしまうのです。

自分のすぐ近くで水が上へあがる事が起きているにも関わらず、見えないからそれに気づく事はありません。

ただ「水は上から下へ流れる」のみと見えてしまうのです。

仏教的な言葉で言うならば、これを「無明」と言います。一般的に言うならば「迷い」の事です。

一方の事しか見えていない。偏った見方しかできていないから、真実を見落としているのであります。

私達人間はとてもおろかで、ほとんどの人が自分の事ばかり考えています。自分中心になる事が多いのです。

この世の中の、全ての物に支えられている事をある程度は知っていても、それを感謝の行動として現すことはできません。

自分中心であるが故に、なかなか気づく事ができないのであります。

世の中には私達が見えない事や、気づかない事はとても多いのです。自分勝手な思いや行動に執着せず、むさぼる事を戒め感謝の行動をおこす事こそ、「水が下から上へ流れる道理」なのであります。自分の好きな事ばかりやっていると、あなたの未来は枯れちゃいますよ。

「大変な時は顔に気を付けよう」

関市 広福寺 住職 紀藤昌元 師

この原稿を書いている4月、新型コロナウィルス感染拡大防止のために全国に緊急事態宣言が出されました。

誰もが大きな不安を抱え、その不安が日用品の買い占めや、感染者・医療従事者への差別など様々な形になって現れています。不安の増大が他者に対する余裕を奪い、穏やかな心を失わせてしまっているのだと感じます。

そのように不安や怒りに飲み込まれそうな時、心に余裕が持てない時に、私はある言葉を思い出すように心がけています。それは道元禅師様の、「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」という言葉です。どんな時も、やわらかい穏やかな顔つきで、すべての人や物事に向き合いなさい。という意味です。

顔は心を映す鏡です。余裕がない時は誰もが硬くて怖い顔になっています。余裕がない時というのは自分のことしか考えられなくなっている時です。「やわらかなる容顔で一切に向かう」まだまだ私にはできませんが、それを思い出すことで、自分のことしか考えられなくなっている今の私に気付くことができます。そして、そこに気付くだけでも救われることがたくさんあるのです。

心は直接目には見えませんが、顔の表情なら目に見ることができます。知らず知らずのうちに硬くて怖い顔になっていたら、そんな時は自分のことしか考えられなくなっているのかもしれません。大変な時だからこそ、他の人への思いやりを忘れず「やわらかなる容顔」で乗り切っていきたいものです。

「さぁもう一歩」

岐阜市 智照院 住職 宮崎誠道 師

昨年夏の終わりの事です。久しぶりに会った弟にこう言われました。「兄ちゃん。良いか悪いか、まだ分からないけどこの秋に会社変わることにした。とにかくやってみるわ」弟は何事にも慎重で、仕事も人間関係もわりと堅いほうだから大丈夫か?そこで思い出したのが、私がまだ弟と暮らしていた二十五年も前のことです。当時、私は二十歳で年の離れた弟は小学校五年生。バスケットが大好きで、私たちのために父が買ってくれた大人用のゴールに「兄ちゃん、見てて」小さな身体で精一杯投げるんですけど、大人用だからボールが届きません。でも諦めずに「もう一回」そう言っていつまでもゴールを追いかける、当時の姿を急に思い出しました。あれから二十五年たって今では私よりも背が高く、自分の意見を持って挑戦する姿はとても大人びて見えました。この時思いました。「今の私はどうなのか?」弟のその新たな挑戦、その一歩にいつの間にか現状にとどまってる自分に気が付きました。

禅の言葉に「百尺竿頭上なほ一歩を進む」長い竿のてっぺん、百尺は約三十三メートルあります。皆さんがその竿のもうこれ以上先がないというところまで登りつめたとします。でもそこからさらにもう一歩進みなさいとこの禅語は教えます。「人生は上りつめた」こう思った瞬間に私たちの成長は止まります。自分でここはゴールだと思ったところは、一つの区切りです。弟に教えてもらいました。私たちのチャレンジは終わったと思った瞬間からまた次が始まります。でも進めるこの一歩に正解はなく、自分なりの新たな一歩を進めて欲しいのです。

「カビ」もいのち

羽島市 本覚寺 住職 大橋陵賢 師

梅雨の時期ですね。冷暗所や冷蔵庫でカビをはやしてしまったなんてことは誰にでもあることではないでしょうかそんな時は皆さんどうしてますか?

安易に「捨ててしまう」なんてことは行ってないですか?

私は毎年味噌を手作りしますがこの時期は一度味噌の状態を確認します。そうすると白色や青色のカビが生えていることがあります。

発酵と腐敗のちがいをごぞんじですか。実は全く違いはありません。ただ、自分たちの都合で「人体に良いか悪いか」で判断しているだけなのです。主に白いカビには人体に悪影響を与える事はなく、青いカビは人体に影響を及ぼすと言われていますが私はその両方を混ぜ合わせてしまいます。その方が力とおいしさを併せ持つ味噌が出来上がるからです。

お釈迦様の教えの中に「同事」と言う言葉があります。相手の立場や気持ちに寄り添って、相手が受け入れてくれるようにする仏の行いの実践です。

味噌は良い影響を与えるカビも副作用が働くカビも交わりあっているからこそ私たちの身体に良い影響を与えてくれるのです。カビの立場に立ったら同じ菌の発酵なのに「なんで人の都合で良いとか良くないとか言ってるの」と疑問に思いませんか。

どうかカビが生やしてしまったら「捨てる・食べれない」という物の見方以外に「このカビをどうやったら活かせるか」と言う思考を働かせ実践してみてはいかがでしょうか。

 

 

「思い通りに生きられなくて辛いと感じる人へ」

岐阜市 自福寺 住職 古川元弘 師

みなさんこんにちは 今日は「物事が思い通りにいかなくて辛い」と日々、感じてしまっている方に ちょっと考え方を変えるだけで、心が軽くなるアドバイスをしたいと思います。本当にちょっとした気づきでつらい毎日が変化するので最後まで聞いていただければ幸いです。

人は生きていくと「思い通りにならない」ことが必ずあります。学校で成績が伸びなかったり、入りたい学校や会社に入れなかったり、人付き合いでうまくいかなかったり、様々な悩みがあると思います。僕もかつて思い通りにならないことで悩んでいたことがあります。

例えば仕事の悩みで「最近 調子でないな。営業成績は伸びないし、失敗ばっかりや。」ってときがあるでしょう。僕も昔就職していた頃はそんなことばっかりで、いつも上司に怒られていました。

ですが、逆に世の中で思い通りになることってどれくらいあるでしょうか?仕事が上手くいったとき「よっしゃ!思い通りに完璧、100点や!」と感じることってどれくらいありますか? 実際にはほとんどないと思います。特に営業など相手のある仕事なら相手側にも「こうしたい!」と言った思惑もあるでしょう。お互いの思いを譲りあい、落としどころを見つけてはじめて成立するものだからです。

これは恋愛などの人間関係にも言えることだと思います。例えば気になる人がいて自分に振り向いてほしいと思ったとします。いくらこちらが情熱や愛情をもって接したとしても、相手の気持ちを自分の思い通りすることはできません。片思いというケースはいくらでもあります。それなのに思い通りにならないのは「自分に魅力がないからだ」とか「自分は相手にふさわしくない」と悩んでしまう人も多いでしょう。それで自信をなくしたり、自分を卑下してしまったりしていませんか。

なぜか人は思い通りになることを前提として「そうしなければいけない」と考えて、自分で心を窮屈にしてしまうことが多いのです。いわゆる「独り相撲」と言われる状態です。

ですが、はっきり言って世の中に「思い通りにいくこと」「思い通りになること」などは、ほとんどありません。にもかかわらず人は自分の思い通りにしようと行動するから、苦痛を伴うのです。

仏教では思い通りにならないことを「苦(く)」と言います。「思い通りにならないことを思い通りにしようとするから、悩み、苦しみが生まれる」と、お釈迦様はおっしゃられています

また「一切皆苦」という言葉があります。私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりであり、そのことを知ることが仏教の始まりだというお釈迦様の言葉です。

こんな話をすると、なにか悲観的になってしまうかもしれませんが、絶望することはありません。ちゃんとうまくいく方法があります。

それではここからは問題を解決する方法をお話ししたいと思います

我々は自分の思い通りにならないと、ついイライラしてしまいますが、それは問題を理解するというプロセスを飛ばしてしまっているからなのです。悩みとは自分とは無関係に単独で存在することはありません。仏教ではあらゆるものが原因と結果の法則でつながっていると考えます。まずは一歩引いて自分自身と向き合ってみましょう。問題がまったく自分とは無関係に存在しているのだとしたら、どうしようもありませんが、もし自分にも責任の一端があると考える事はできないでしょうか?ひょっとしたら悩みを解決したいと思う前に、やるべきことがたくさん見つかるかもしれません。見たくないことから目を背けないで、問題をそのまま受け入れてみましょう。それをきちんと行えばあとはおのずとやるべき道筋が見えてきます。そうしたらあとは行動するのみです!

これはテレビで観たある芸能人の方のお話です。その方は子供の頃プロ野球選手のように速い球が投げたいと思い、毎日毎日練習していたそうですが中々上達しませんでした。あるとき、お父さんがそのピッチング練習をビデオカメラで撮影していたらしく、その映像を見た本人はビックリしました。自分のピッチングフォームが目標にしていたプロ野球選手と全く違ってからです。「そりゃうまく投げられないよ」と気がついた彼はその後何度も何度もピッチングフォームのチェックを繰り返し、速い球が投げられるようになったそうです。つまり、彼は「過去の自分を見つめ直すことが大切だ」という気づきを得たわけです。

実はこの「自分を見つめ直す」といる行動がとても重要です。

僕も以前は「うまくいかないのは世の中が悪いからだ」とか「周りの人間がわかってくれないからだ」と人のせいにすることが多かったのですが、この「世の中は思い通りにならないことだらけ。自分だけではない。周りのみんなそうなんだ」と思うようになってからは、特にそのことで悩むこともなくなったように思います。もちろん時には大きな壁にぶつかることもありますが、そのときは人のせいにするのではなく、過去の自分の行動を振り返ることによって、今後自分のとる行動を客観的に見ることが出来るようになりました。

相手を思い通りにするのはほぼ不可能ですが、自分の行動を変えることなら出来るのではないでしょうか。うまくいかなかったときは相手のせいにするのではなく、自分の行動を変えてみましょう。そうしたらまた問題にぶつかるかもしれませんが、その時はまた一歩引いて自分を見る、新たな行動する、この繰り返しをすると、問題解決のための行動が忙しくなり、そのうち悩む時間が「もったいない」と感じるようになるでしょう。

今日は「思い通りにならないとき」にどうすれば気持ちが楽になるかについてお話しました。

明日からは「思い通りにならなかったら」世の中はうまくいかないことだらけだと、その事実を受けいれ、過去の自分を見つめ直し、新たな行動に移すことを心がけてみましょう。

「日日是好日」

多治見市 大龍寺 住職 五島弘満 師

日日是好日と言う禅語が、あります。それは、毎日が良い日で有ると言う意味ではなく、穏やかで良い日になるように、毎日努力することが大切であるという意味であります。

人間として生きている間は呼吸があり、呼吸をしている間が、即ち生きているので、呼吸が止んだら、もはや亡くなっているのです。

吐く息があれば、必ず吸う息があるから、また吸う息があるので吐く息がある。

即ち朝があれば晩があり、楽があれば苦がある。このように成り立っていて、逃れることのできない自然の法則だある。

人生の中には、良い日もあれは、そうでない日もある。人生は、その繰り返しです。

楽しくて喜ばしいことが、おきる日もあれば、悲しくて苦しい思いをした日も、人生の中では、同じ一日なのです。

常に積極的に、今日に生きるべく努める。かけがえのない一日であり、その一日は、二度とやってくることのない大切な一日です。その大切さに目をむけることです。

今日が、良い日であったかどうかを決めるのは、自分の心なのです。

毎日が、大切な日であることを忘れず、目の前の事に向かって努力して、これからを過ごして行きたいものです。

 

「喜びは2倍、悲しみは半分」

土岐市 仏徳寺 住職 佐々宏之 師

皆様こんにちは。今は新型コロナウイルス感染のニュースが毎日のように報道され、緊急事態宣言、不要不急の外出の自粛に努めるように、全国民に発信されました。一日でも早く終息を祈るばかりです。

さて今回のお話は、「喜びは二倍、悲しみは半分」

このお話はお釈迦様が夫婦の在り方について説かれた話です。「夫婦というものは気持ちが一つでなければなりません。そして、一つの教えを信じ、その教えをお互いに心を養っていく信仰生活が大切です。」と説かれました。

お釈迦様は弟子たちが布教の旅に出る時、一人ではなく、必ず二人連れで行かせました。なぜ二人連れがいいのでしょう?それは二人ならば、うれしい時はうれしさが二倍になり、悲しい時は悲しみは半分となり、くじけそうな時はお互いに支えあえるからです。

人生はよく旅にたとえられます。お釈迦様はこの世を「耐えなさい」と言われました。つまり人間は楽しむために生まれてきたのではない。耐え忍ぶために生まれてきた。と申しているのです。人生は楽しいこともありますが、「しんぼう」「がまんする」ことのほうが多いのです。

人生の旅を乗り切ってゆくには布教の旅と同じく、信頼できる連れが必要です。妻にとっての夫、夫にとっての妻はお互いに最も大切な仲間です。お釈迦様が言われたように二人ならば喜びは二倍、悲しみは半分となります。

この教えをかみしめながら、仲良く長い人生を過ごしてください。

「ゆずるこころ」

可児市 天竜寺 住職 太田恒次 師

昨年の末にPTAのお母さん方と一緒に比叡山延暦寺にお参りする機会がございまして、その際に比叡山の高僧にありがたいお話を聞くことができましたので、その時のお話を少しさせていただきます。

相手が子供のみえる母親ということもあり、高僧は、最近のご家庭の教育について、あまり良い教育が行われていないのでは・・・と話し始めました。

高僧は昔から子供が来ると良くこの質問をするそうです。

その質問とは自分と二人の友達がいて、一つのパンをもらいました。その時、君たちはどうするかというものでした。

最近は一人っ子が多いからなのでしょうか。じゃんけんをして勝った人が一人で食べる。また、けんかに強い自分が食べる。面白いものではバイオの力で三つに増やし、みんなで食べるといったものもありました。

ただ、少し昔であるならば、三つに分けて食べるという答えが多かったようです。

しかし、その高僧は続けます。但し、それは学校の教育では正しく、満点でありますが、仏様の教えを説くのであれば、自分は食べず、食べたい友達に譲る、これが正しい。と。

それを聞いて、道元禅師の「自未得度先度他」の心を思いました。簡単に言いますと自分の事よりも相手にゆずる、自分の幸せより他を幸せにしたいと願う心、それこそが菩薩の行いであり、大切という教えです。

中々難しいことではありますが、この心があれば、多くの諍いは無くなり、多くの人が幸せになるでしょう。

もし、お子様やお孫様がおみえになれば、どのように答えるか試してみてはいかがでしょうか。

一人で食べると答えたなら、分け合う素晴らしさやゆずるという尊さを正しく教え導いていただければとおもいます。