テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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どこにいるかより、ここにいるか

恵那市   洞禅院   住職  紀藤祐元師

 

「あの人に会いたい。あの人は今いったいどこにいるのだろう。」 皆さんは、ご家族や友人など、親しい間柄にあった方々を亡くされた後、このように思ったことはないでしょうか。  大切な方との突然の別れは、どなたにとってもすぐには受け入れ難く、またその悲しみも、生前のお付き合いが濃密であればあっただけ、深いものとなります。  会いたいのに、会えない。かつてのように顔を合わすことも、触れ合うことも叶わない。 このことを頭で理解するということと、心の底から納得するということとは、なかなかすぐには一致しないもののように思います。少しずつ少しずつ、時に周囲の助けを得ながら、自分の中にその厳しい現実を落とし込んでいく。そしてやがて、亡き人を亡き人として受け入れ、また元の日常へと戻っていく。誰もが、いつかは乗り越えなければならない大切なことです。  この「亡き人を亡き人として受け入れる」ことのために、是非心に留めておいていただきたいことが、冒頭の言葉「どこにいるかより、ここにいるか」です。  この世を去った大切な人を強く思うが余り、その人をどこかに探し求めてしまうことは、決して不思議なことではありません。むしろ自然な気持ちというべきものでしょう。ですがその時既に、自分の中、まさにそこに大切な人がいる。このことに是非気づき、亡き人を追い求めることによって却って膨らんでしまう寂しさから、少しでも解き放たれていただきたいのです。  ご自宅のお仏壇やお墓、菩提寺など、私たちは幸いにも、いくつもの場所で亡き人と出会うことができます。そしてそのどこもが、大切な出会いの場なのです。  どこかひとつの場所だけに亡き人がいるわけではない。大事なのは、あなたの中にその人がいる、ということ。「どこにいるかより、ここにいるか」を確かめることです。

正しい考え・正しい行い

恵那市   圓通寺 住職   森 如謙師

 

心身を乱し悩ませて、正しい判断を妨げる心の働きを「煩悩」と言いますが、この煩悩の代表として、貧り、怒り、愚かさの三つが挙げられます。煩悩の根本は自己中心の考えに基づく物事への執着から生ずるもので、人間(自分)の欲望、思いやりには大なり小なり自己中心の思い、我執がまとわりついてきます。ですから自分の思い欲望を煩悩とは言葉は違っていても内容は同じと考えられます。そのことを知っていれば、たとえわずかでも自己中心に陥らない正しい判断に近づくことが出来るでしょう。正しい判断から行いをすれば正しい行いへとなっていくのです。仏教の教えに諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教、もろもろの善は務めて行う、その基となる心を深め、清くする。これが仏の教えであると戒めています、私たちの行いを良くするには正しい判断が大切なのです。しかしながら私たちは、良かれと思い行ったことが、他人には迷惑であったりすることが、多々あるのです。それは自己中心の思いからであり、相手のことを深く考えなかったからでしょう。良い行いとはどんなことでしょう。今日の世の中は自分さえ良ければ良いという人が多く、いやなことはしたくないと遠ざけがちです。思いやりをもって行動し、正しい行いが出来るよう自分を戒め、自己中心にならないようにしたいものです。

四摂法

土岐市    荘厳寺徒弟   軽部竜世師

道元禅師の著された正法眼蔵の中に「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」というものがあります。

正法眼蔵の内容は、そのほとんどが修行僧に向けられたものですが、

この「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」は一般の信者さんのために

書かれているものだと考えられております。

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」には観 世 音菩薩や地蔵菩薩などが、

人々を様々な苦しみから救済するための行いである「布施・愛語・利 行・同事」の四つが

記されておりまして、私たち仏教徒が日常で行う修行であり、生き方でもあります。

その第一に記されている布施とは、幸せを一人占めせず、精神的にも物質的にも広くすべてに施しを与え、そして与えられていることを感謝して生きることです。

第二の愛語は、慈悲・慈愛の心をもって、愛情豊かで親切な言葉を語りかけることです。

そうした優しく思いやりのある言葉の一言一言すべてが人々の心を和ませます。

愛語は社会を正しい方向へ動かす大きな力となります。

第三の利行というものは見返りをもとめない行いであります、

自分がいい思いをする事ばかりを考えず、他の幸福のためにも良い行いをすることです。

第四の同事というのは、自分を抑え、相手と同じ心・境遇を自分自身に写して、相手と接することです。

もし、あなた自身に精神的に、物質的に余裕がある時に、苦しんでいる人と出会ったなら

この「四摂法」の布施、愛語、利行、同時を思い出して、少しだけでも実践してみましょう。

相手がそれで少しでも幸せに向かえたなら、あなた自身もまた、幸せに喜ぶ相手を見て

幸せに思うことでしょう

そうして相手がいつか余裕のある人間となったなら、あなたの行いを思い出して、他の人にも実践していくかもしれまん。

あなたの小さな始まりが多くの人の幸せにつながるのかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報恩感謝

土岐市  荘厳寺徒弟  軽部文章師

 

報恩感謝という言葉があります。これは、恩に報いて感謝をするという言葉です。

人というものは不思議なもので、自分が他人にしてあげた事は良く覚えているものなのですが、他人からしてもらった事となると、忘れがちとなってしまうものです。

さて、自立という言葉があります。自ら立っというこの言葉ですが、それは決して自分一人の力だけで生きていくという意味ではありません。

何せ、自分一人の力だけで生きていくという事は不可能なのですから、ふと見渡せば目に入る。他の人だけではなく自然にある様々なものも、自分が生きていくには欠かせないものだす。そうしたものが組み合わさって、自分の仕事や生活が成り立っているのですから。

産まれてから今まで生きてきた中で、誰の手も借りなかったと言える人はいないと思います。誰もがそうであるはずです。

報恩というからには、受けた恩に報いるのが一番良いのでしょう。

しかし今は忙しい時代ですので、受けた恩をその都度返すというのも中々難しい話です。ですので、誰かに何かをしてもらったならば、先ずはその事をないがしろにせず、ありがとうと言い、きちんと感謝する様にしましょう。

ありがとうと言える心の余裕を持つ事です。どうしてお互いに敬ってお互いの良い所を知ることができたなら、お互いの心も次第に豊かになっていくでしょう。

周りの人達に助けられ、その事を忘れる事なく素直に感謝する心。その心を持つ事ができれば、自然と周りとの関係も良くなる事と思います。

 

ご法事とお墓参り

多治見市  永泉寺副住職   池田昌泰師

先日のお彼岸に皆さまは、お墓参りをされましたでしょうか。

 以前には、私のお寺でもご法事の後に故人にご縁のある方々が皆さん揃ってお墓参りをされました。最近は、四十九日、三回忌、七回忌まではご親族がお寺にお参り

に来られますが、それ以後になると子供や孫は仕事や部活があるからという理由で、一人二人という少ない数でお寺に来られたり、お塔婆を書いて拝んでおいて下さいという方もみえます。ご家族がそろってお参りする事を伝えていかないと、自分が亡くなった後に子孫はお墓参りをしてくれるでしようか?昔から子供は親の背中を見て育つと言われます。自分を生み育ててくれた親、その又親などご先祖様に対する姿を見せてこそ自分も安心してあの世へ逝けると思います。本家とか、新家、新家とも言われますが、ご先祖は間違いなく同じです。改めて、ご法事やお墓参りの大切さを考えて欲しいと願います。

啐啄同時

瑞浪市  宝林寺副住職   西尾英晃師

 

季節は春。木の芽時とも言って命の芽吹きをそこかしこに感じられる時節です。

こうした情景にちなんだ禅の言葉に「啐啄同時」というものがあります。「啐」は口偏に卒業の卒と書いた字で、これは卵の内側から雛が声を出して殻から抜け出ることを言います。「啄」は歌人の石川啄木の啄の字で、親鳥がそれに合わせて殻を突いて雛が卵から出てくるのを助けることを指します。この親子両者の行いが同時になされることによって雛は無事に殻から出ることができるのです。

時機を間違えて、早すぎても遅すぎても雛は無事に殻から出ることはできません。このことから今まさに悟りを得ようとしている弟子に師匠がすぐさま教えを与えて悟りの境地へ導くことをこの言葉は指します。

これは僧侶における師匠と弟子の関係だけでなく、親と子、先生と生徒、上司と部下などといった、教え教わるあらゆる関係についてもいえることだと思います。

年度の初めには進学進級、就職または転職など新たな環境でまた新たな学びの場に身を置くことになる方も多くいらっしゃるかと思います。先に申し上げたように学びの場においては教える側と教わる側の両方の呼吸が合っていなくてはなりません。どちらか一方だけが一生懸命になっているだけではいけないのです。教わる側が一生懸命に学び取ろうとする姿勢はもちろん大切ですが、それ以上にその後押しをする教える側の細やかな心配りや助け舟を出すタイミングが重要になるのです。

教え教わるという関係はかけがえのないご縁のたまものであるといえます。教える側も教わる側も学ぶということ、そして伝えるということの喜びとありがたさを感じながら一日一日を大切にして努めていきたいものです。

 

 

新たな節目を迎えても

  

 

高山市 正宗寺住職  原田太石師

 

「一年の計は元旦にあり」ということわざがありますが、進学される方、新社会人となる方など、正月と同様、年度替わりの4月を新たな気持ちで迎えられていることと存じます。特に今年は5月から新たな元号へと移行する記念すべき年となります。多くの方が、新たな節目を迎えるような心持ちでお過ごしのことでしょう。振り返ってみて平成という時代は、皆さまにとってどのような30年だったでしょうか。

私は、昨年暮の明仁天皇陛下の誕生日の会見でのお言葉が印象に残ります。「先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」

戦争を知らない我々多くの日本人と、戦争しか知らない紛争地の人々。生きていくエネルギーとしての欲は必要ですが、それに振り回されると決して平和な世の中を築くことはできません。例えば、雪道ですれ違うのが困難なときに、「どうぞお先に」と、相手に道を譲る方の多い飛騨地方では、交通事故が起こりにくいのだと警察の方から聞いたことがあります。

新たな節目を迎えても、平和な世の中を作ろうという私たち一人一人の心がけこそが、幸せな新時代を築いてゆくのだと感じます。まずは、皆さまと共に、それぞれの地域から住みやすい社会を作っていきましょう。

 

手を合わせるおもい

岐阜県宗務所 副所長 逸見智孝師

 

手を合わせるおもい

彼岸の迎えお墓参りをし、仏壇に向かい、ご先祖に手を合わせお参りをする自然の姿でしょう。

私たちが生活する中で、手を合わせるきかいは、幾度と無く有ると思います。一例をあげれば食事をする前、し終わった時、手を合わせ「いただきます。」「御馳走様でした。」この作法は古来から行われております。では、この作法にはどのような意味が有るのでしょう。その時、食事を作って下さった方に対して、「食事を作って下さって有難う」と言う思いが有ると思います。しかしながらもう少し深く考えればその時、食材となって私たちが口にする物、お米、野菜、お肉、お魚すべてが命であると言う事なのです。私たちは、そうした命を頂いて生かさせて頂いているのです。また、「頂きます」と言う言葉には、「今から自然の恵み命を頂きます。」「御馳走様でした」と言う言葉には、「今、口にした食材つは多くの人が走り回り、そして多くの人の労を経て、今食事させて頂きました。」と言う様な意味が有るのです。こんなことから考えても、食事をする手を合わせ「頂きます」「御馳走様でした」と言う作法には、「今日、生かさせて頂くのも自然の恵み命を頂戴するからです、有難うございます。」と言う思いが有るからではないでしょうか。ご先祖に手を合わせる思いも「ありがとう」の思いではないでしょうか、彼岸のこの時季皆さんも考えて見て下さい。   

平成時代最後の漢字「災」に思う

郡上市 楊柳寺 住職 川岸承翁師

平成時代最後の漢字「災」に思う

平成三十年の世相を、一字で表す今年の漢字は、「災」に決まりました。

平成の三十年は、災害の多い年でした。自然現象や人為的原因で、人命や社会生活に被害を及ぼし、多くの人を不幸にする出来事が起こりました。災害には三災があり、火災、水害、

風災をいいますが、大規模火災、集中的な大豪雨、相次ぐ台風、その他に恐るべき地震と、熱中症の怖さをともなった猛暑も味わいました。

日本が、世界が地球が終わりなのかとさえ思いました。

仏教では、一つの世界が誕生し、成長し、寿命を終え次の世界が誕生するまでを、一サイクルとし周期的に起こる宇宙的規模の災害として捉える見方もあります。

何十年に一度の出来事とか、統計上初めての災害だといわれた事もありました。

「災」という言葉を使い、人間生活の希望を表す言葉は多くあります。無病や一病に連なる息災は、災いを消すという意味、除災招福もしかり。

良寛和尚曰く「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と、これは、天災人災に対する人の対応の妙を教えています。

災害に遭ったらひとまず受け入れよ、考え方や生き方を後から飛躍につながるよう、人生の向上の為に努力することが肝要なのである。自分の道は自分で開け、自然災害は防ぐ事は出来ない。因果関係によって作り出されたものは、全て無常であると仏教では教えられています。

「当たり前」の奇跡

郡上市 悟竹院 住職 稲村隆元師

「当たり前」の奇跡

三月となり平成も残りわずかとなりました。まだまだ先だと思っていたら、あっという間のことです。ぼんやりしていても、忙しく動きまわっていてもあっという間のことです。

毎日行うことや、月に一回、年に一回などと恒例の行事も人によって様々ではありますが、皆さんが「当たり前」だと思ってやっていることについて考えたことはあるでしょうか。挨拶をしたり、席を譲ることであったりと日常生活での何気ない「当たり前」のことはたくさんあるはずです。では、この当たり前のことはいつ、誰が、どうして始まったことなのでしょうか。専門家の方に聞けば明確に分かるかもしれませんが、いつ、誰が始めたことであったとしても、それを引き継ぎ繰り返してきた自分に至るまでの数えきれないほど多くの人たちの気持ちによって「当たり前」になってきたと言えるでしょう。

例えばどこかで誰かが、誰かに対して席を譲ってあげた。その誰かも有難いと思って今度は自分が、もしくはその様子を見た人が自分もと思って譲った。こうして繰り返されることで出来ていく「当たり前」は奇跡の集合体のように思えるのです。長い歴史の中で、どこかで誰かが他者に対して行なった一瞬の思いやりの行為が、積み重なっていくことも奇跡のようにも思えます。

「当たり前」となっていることにはもちろん気持ちの良いことばかりではありません。しかし、他者を思いやることを日常に溶け込むほど続けてきていることに先人たちの温かさを感じ、またその「当たり前」の尊さを感じます。

お彼岸にはお墓参りなどでご先祖に手を合わせる機会も増えるかと思います。そんな時、亡き方と一緒に彼らから受け継いだ「当たり前」を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。