啐啄同時

瑞浪市  宝林寺副住職   西尾英晃師

 

季節は春。木の芽時とも言って命の芽吹きをそこかしこに感じられる時節です。

こうした情景にちなんだ禅の言葉に「啐啄同時」というものがあります。「啐」は口偏に卒業の卒と書いた字で、これは卵の内側から雛が声を出して殻から抜け出ることを言います。「啄」は歌人の石川啄木の啄の字で、親鳥がそれに合わせて殻を突いて雛が卵から出てくるのを助けることを指します。この親子両者の行いが同時になされることによって雛は無事に殻から出ることができるのです。

時機を間違えて、早すぎても遅すぎても雛は無事に殻から出ることはできません。このことから今まさに悟りを得ようとしている弟子に師匠がすぐさま教えを与えて悟りの境地へ導くことをこの言葉は指します。

これは僧侶における師匠と弟子の関係だけでなく、親と子、先生と生徒、上司と部下などといった、教え教わるあらゆる関係についてもいえることだと思います。

年度の初めには進学進級、就職または転職など新たな環境でまた新たな学びの場に身を置くことになる方も多くいらっしゃるかと思います。先に申し上げたように学びの場においては教える側と教わる側の両方の呼吸が合っていなくてはなりません。どちらか一方だけが一生懸命になっているだけではいけないのです。教わる側が一生懸命に学び取ろうとする姿勢はもちろん大切ですが、それ以上にその後押しをする教える側の細やかな心配りや助け舟を出すタイミングが重要になるのです。

教え教わるという関係はかけがえのないご縁のたまものであるといえます。教える側も教わる側も学ぶということ、そして伝えるということの喜びとありがたさを感じながら一日一日を大切にして努めていきたいものです。