修行って何?

加茂郡 白川町 洞雲寺 住職 尾関幸憲 老師

「私たちの毎日は、絶えず修行である。」といろいろな方々が、申されておられます。

では、なぜそのようなことを言われるのでしょうか?。

修行をしていろいろなことがわかってくるならば、それ以上修行する必要が無い様に思われます。「私はこれまで十分修行をしてきたから、もうこれでいいだろう。もう修行をする必要なんか無い。」と思いがちです。

「修行で学んだ事は絶対だ。間違っていない。」と、勘違いしてしまうのです。しかし、その事が大きな迷いを生む原因となるのです。その時は、正しい答えでもそれに執着してしまうと、その一つの事が自分自身を縛ってしまうのです。

私達の知らないことは山ほどあります。

道元禅師様は「本来、人は皆仏であるとするならば、なぜ人は修行をしなければならないのか?。私たちが皆仏であるならば、修行をする必要は無いのではないか?。」その事で大きく迷われたのです。

一つのことが分かったならば、それはとても良いことです。しかし、それにとらわれてしまうとそれは大きな迷いを生む原因となるのです。迷いは分かったことから始まります。だからこそ修行が大切なのです。「人は本来、誰もが仏となる要素を持っています。」

ただし、その意味はお釈迦様がおときになった教えを、この生活の中で役立てていくこと。それを実践していくこと。自分の考えを捨て、お釈迦様の教えに従うことなのです。

すなわち、お釈迦様の教えられた行動を学び自らがそれを実践していくこと事こそが、仏様なのです。それが、修行なのです。「わかったと言う迷い」に囚われないよう大切な人生、お釈迦様のみ教えに従って、自らを省みて暮らしていきたいものでございます。