授かりし子供の行く末を考える

関市 富之保 満願寺 住職 酒井 能道 老師

「子どもは何年後につくるつもりだ」とか「三人ぐらいはつくりたい」などと、まるで引き出しから物を出してくるような言葉をよく耳にします。しかし、昔の人が言うように子どもは「授かる」ものだということです。

私達が今生きているのは、見たこともない何百万年も昔の祖先の生命が一度も途切れることなく続いて自分たちに至っているのであり、祖先の誰一人でも欠けていたら私達は存在しないのです。当然のことながら、出産、育児については「お前たちに子どもを授けるから、しっかり育てろ」と祖先が命じているのです。ここではっきりしておきたいのは「しっかり育てろ」と命令しているのは祖先なのであって、決して生まれてきた子どもではないという点です。私達の子孫である子どもが、祖先である親に命令することはあり得ません。ところが子どもはとても可愛いので、あたかも天使であり、その命令に従わなければならないかのような錯覚を持ってしまうことがあるのです。しかし子どもは天使でもなければ祖先の使者でもありません。放っておいたら楽な方へしか行かない可愛い小あくまなのです。うっかり振り回されると、その時から命令は祖先からではなく、この小あくまから発せられるようになってしまい「オレを育てろ」と子どもに迫られる事態になるのです。子どもからの命令が日常的になると、そのには順位というものがなくなって、無秩序な家族が出来あがっていきます。親はとめどなく子どもの要求をのみ、子どもに常に丁寧語を使うまるで同居人のような親へと退化していくのです。これは、子どもの人権を尊重しているのとは違うし、自由や独立を保障しているのではありません。だから子どもが思春期を迎え、自己主張が強くなってくると、子どもの要求をのむにも限界が出てきます。こうなると自分の体裁を押しつけ、説教しか出来ない親に変貌するしかないのです。