「ある雨の日のこと」

恵那市 圓頂寺 住職 市岡 宜展 師

少し前のことです、次男坊を車に乗せて買い物に出かけました。

寒い冬の雨の日でした。買い物のついで出す予定だった手紙を助手席に座る次男に渡して投函するよう頼み、国道沿いのポストの前で車を停めました。

雨降りだったので、窓を開けて背伸びして手を伸ばせば車の中から投函できると思い、そう頼みました。

封書やハガキ3.4通を投函するだけなのに妙に時間を要したので、車を走らせながらその訳を聞くと、ポストの口が雨で濡れていて、そのままだと出す手紙が湿ったり、文字のインクがふやけると、あげる人が可哀想だから拭いていた。といいました。どうやら着ていたトレーナーの袖口を引き伸ばして拭いたようでした。

中学時代、そんな情景を読み込んだ短歌を授業で習ったようなかすかな記憶があり、我が子の行為でそれを思いだし、なんとも温かい気持ちになったものでした。

【雨の日のポストの口をわがぬぐい手紙を入れてあとすがすがし】

念のため、物置へ行って探しましたら当時の国語の教科書が保管されてあり当該の短歌も見つかりました。

ある文学者が新聞の短歌コーナーで見つけ、秀作として紹介していました。いわゆる、「詠み人知らず」ですが、愛のある行いとして心に響きます。

この相手を思いやる気持ち、それこそポストに郵便物を出す際など、ふとした時には、思ってみてください。

最近はポストを用いなくとも、早くて確実な通信手段はいくつもあります。効率も良いうえ経費なども考えるととてもありがたいです。それならば便利になった分、送る前に相手がどう思うか、書いた内容、つまり行動を少し考える時間は作れるかなと思います。

この相手を思いやる気持ち、心のありようを、曹洞宗の開祖道元禅師は折に触れて様々な表現でお示しくださっています。道元さまのみならず、歴史に名をとどめた宗教者や指導者の多くはそれぞれの教え方でもって、多くの人を導いています。

技術の進歩で湿った手紙が届くことはなくなるかもしれませんが、中身で心が湿らないようにしたいですね。

季節は六月、雨の季節にそんなことを考えます。