多治見市 法喜寺 住職 沖田 泰裕 師
コロナ禍も丸三年が経過し、この5月からは平時に戻そうという体制になります。あたり前の事が出来なくなったこの間、私は坐禅以外で、自分への「こだわり」を、身も心も解き放たれた「きづき」を体験致しました。それは「お寺の領域全体、除草剤を一切つかわず、冬を迎えるまで手で草を取った時」の事です。
諸行事の中止により、時間的余裕ができ、お寺の庭及び裏庭、来客用・墓参り用駐車場すべてが未舗装で、かなりの広さに渡りますが「お盆の日」を目標に、3月より「除草剤の力を一切借りずに草を抜ききる」という目標を立て、一日2時間はげみました。以前は草を見て、義務感により草を取り、他事を考えたり苦痛を感じることが多かったですが、今回は一本一本の草や土の状態を、あるがままにとらえ、心が集中できて、他事を考える事なく、あっという間に2時間が過ぎていました。また、範囲が広い為、ひと廻りするのに10日程かかるのですが、繰り返していると、10日前に終わった場所はまた草が生えてきているだろうから「また取らなくては」と思うようになり、なんの抵抗もなく「お盆の前日」まで続け、それ以降も「お彼岸」を目標に取り続けました。
その時ふと、「都合、計らい、こだわりがなく、草と一体となっている私」がいることに気づきました。
永平寺を開かれた道元禅師は「仏を実践する方法は、自分への『こだわり』を忘れる事であり、全ての物事から気づかされる事であり、自分と他の物事との分けへだて、こだわりをなくしてしまう事である」とお示しです。
日ごろ我々は、自分と自分以外の物事を分けへだて、計らい事、こだわりを持って暮らしていますが、今回の事であらためて、あるがままに心を集中して事に当たる事が「心おだやかに暮らせる秘訣である」と、大いに気づかされました。