「放てば手に満てり」

関市 龍泰寺 住職 宮本 覚道 師

私が住職を務めるお寺の境内には幼稚園があります。今年も三月に園児が卒園していきました。コロナ禍になったのは今から約三年前。この子たちは入園から卒園までのすべてをコロナ禍で過ごしたことになります。例年であれば感染症に気を遣わずに何の制限もなく普通にのびのびと過ごせたはずなのに、と思ってしまいます。しかし、この子たちと共に過ごす中で、そうではないと考えさせられた経験がありました。ここではそのお話させていただきます。

三年前の今頃、感染症が急拡大し自宅待機が続きました。この期間に私は何かできないかと思いオンラインでの研修に励みました。その時に私の考え方が変わる教えに出会いました。こういった教えです。

「信用してはいけない人が無意識に使っている言葉」があります。それは、「普通は」という言葉です。これを言う人は、人の考えに流されているだけで実は何も考えておりません。自分の言葉に責任をもたずに物事の本質を見ようとしない人は、この言葉を無意識に使っています。

これを知った時、ハンマーで頭を叩かれたような衝撃が走りました。

なぜかと言いますと、実際に私自身がこの「普通は」という言葉を使っていたからです。お檀家様や幼稚園の保護者の方々に「普通はそうだから」と答えていた自分が少なからずいたからです。そう思うと、自分のことが情けなくてたまりませんでした。

それ以来、私は、この「普通は」という言葉を使わずに自分の言葉に責任をもって伝えるようにしています。そうしたら、不思議なことに、清々しい気持ちで毎日を過ごすことができるようになりました。

大本山永平寺を開かれた道元禅師は「放てば手に満てり」と示されておられます。「手放すことによって大切なものが手に入る」というお示しです。コロナ禍になり「普通ならできるのに」と思ってしまうのが私たち人間です。しかし、「普通はそうだから」と思う前に、本当にそれは自分にとって必要なのだろうか、それが無ければ本当に自分は幸せになれないのだろうかと物事の本質を考えてみる。そして、無くても良いと思えたものは思い切って手放してみる。すると驚くほど心が清々しくなります。

日々の「普通」の生活に息苦しさを感じている方は、是非「普通」と言われるものを手放してみてください。きっと、心が清々しくなります。