「やっぱり怒ってもらえるうちが華…でした」

高山市 雲龍寺 副住職 亀山和浩  師

曹洞宗をお開きになられました道元禅師さまは、私たちの暮らしがより良いものになるように実践するべき行いとして「利行」を説かれました。読んで字の如く、人の利になる行い、人の為になる行いを進んでしましょうというお教えです。仏教に限ったことでなく、社会通念上としても当たり前のことだと思います。ですがこの当たり前と思われる「利行」が何とも難しいことだと思う今日この頃です。それは何故かと言えば、人の為になるのであれば、注意をすることや、時に叱責することも「利行」であると思うからです。皆様にはこのような経験はございませんでしょうか?ちょっと注意をしようと喉まで言葉が出てきたけれどそのまま飲み込んでしまった。嫌だと思われたくない、私がしなくても誰か他の人がしてくれるかも、ひょっとしたらパワハラになってしまうのではないか。そんなことが脳裏をよぎり思いとどまってしまう。また、その相手がどうでもよい人であったり、この人には言っても無駄だと思えばやはり注意を控えるでしょう。誰も好き好んで注意したり怒ったりしたい人はいないはずです。そもそも注意をする方がその事柄をきちんと出来ていない場合、その注意は何の説得力も持ちません。注意する、怒るというのはそれほどパワーと責任感のいる行いだと思います。恥ずかしながら最近久しぶりにきつくご注意をいただくことがありました。人間きつく注意されればがっくりと落ち込むものです。私もその時は大変へこんだものです。ですが、今は本当に有難いことだと感謝しています。私がその時配慮を欠いていた事に気付かせていただけたこと、そして何より私に対して真剣に向き合ってくださっていることの証がそのご注意だったと思うからです。昔は「怒ってもらえるうちが華」という言葉をよく耳にいたしました。人に対して無関心という風潮が当たり前になりつつある今、真剣に注意をしてもらえる、怒ってもらえるという最高の「利行」の有難さを今一度認識したいものです。