関市 下有知 龍泰寺 住職 宮本 洪純 老師
ここ数年来お寺の裏山に猿の群が十匹程住みつくようになり、作った野菜等を持っていってしまうので地元の農家が困っていた。そこで畑に電柵を作ることにした。しかし猿は屋根から柵を飛び越え入ってくる。観察していると数匹が群をなし、一匹は屋根の上で見張り役、子猿が作物をとり柵の隙間から外に出し、それを親猿が持ち去っていく。役割分担が猿の中でも決まっているようだ。電柵を付けてからは前よりも来なくなったが、それでも被害は多かった。それが今年に入ってからは一匹も来なくなった。近隣の農家に聞いてみると、一匹の子猿が柵に挟まれて死んでしまったようである。このことを機会に来なくなったということである。来なくなれば来なくなったで他の猿は今頃生きているだろうかと気になった。猿が懸命に生きている姿が思い浮かんだ。
最近は生きるということ、生命ということがおろそかにされているような気がする。少年の自殺や親が我が子を殺してしまうようなことが毎日のように報じられている。自分の生命の分身である子殺しは何とも悲しい気持ちになる。自分が生きているということは、人間同士、自然界更には周りの全ての生命に依って生かされているという観念からは程遠い感じがする。自分の生命と他の生命には区切りはない。自分の生命と他の生命とはつながっている。修証義にも「自他は時に随うて無窮なり」とある。裏山の猿の生き方を見ることで、学んだ経験である。