「死を見つめることは、生き方を問うこと」

関市 香積寺 住職 樺山舜亮  師

知人から「娘が大学を卒業し、4月から東京池袋の会社に就職が決まった」と喜びの報告があった。おめでとうと就職祝いの連絡を取ったところ、新型コロナウィルスの感染拡大が止まない東京に子供を送り出す不安を吐露された。ふと、歌手さだまさしさんが昔、歌っていた「案山子」の歌が思い出された。「元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る」とある。娘を送り出す親の不安は尽きない。これが現代なら「除菌してるか 手洗いしてるか マスクはあるか 会食してないか」となるところだろう。コロナ終息の願いは檀家さんからも伝わってくる。本堂の本尊様の前にマスクが供えられ、お地蔵様のお口にはマスクが掛けられていた。お寺は人々にとって身近なものだと感じる。自信も中学の修学旅行は京都・奈良であり、大人になり京都を旅行すれば寺巡りが定番となっている。寺の風景は日本人には心安らぐ風景である。ときに寺院は「お葬式仏教」と揶揄されるが、亡くなられた方を弔うことは大切な仏教行事のひとつである。各寺院で営われる法要も亡くなった方への供養が多い。それは死をみつめることに繋がり、死を見つめることは生き方を問うことなのだろう。仏教の教義が2500年の長きにわたって続いている理由がそこにある。友人に娘さんには東京の多くのお寺を巡ってほしい。そして、命の存在や生きることの意味を考えてほしいと伝言することを忘れた。