テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「四摂法」

土岐市 荘厳寺 副住職 軽部 竜世 師

曹洞宗の開祖である鎌倉時代初期の禅僧、道元禅師様の著された正法眼蔵というものがあり、仏法思想が書かれている本の中に

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」というものがあります。

正法眼蔵の内容のそのほとんどが修行僧に向けられたものですが、この「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」は修行僧ではない

一般の信者さんのためにも書かれているものだと考えられております。

 

「菩提薩四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」には観 世 音菩薩や地蔵菩薩などが、人々を様々な苦しみから救済するための行いである「布施・愛語・利 行・同事」の四つの語句が記されておりまして、私たち仏教徒が日常で行う修行であり生き方でもあります。

 

その一つ目に記された布施とは、幸せを一人占めせず、誰かから頂いたかもしれない幸せに感謝をし、また、同じように誰かに分け与えて助けあい生きていくコトです。

 

二つ目の愛語とは、慈悲と慈愛を込めた愛情豊かで親切な言葉を使う心がけです。

そうした優しく思いやりのある言葉で対話した時、一言一言のすべてが人々の心を和ませ、お互いを豊かしていき、社会全体を優しい方向へ動かす大きな力となっていくでしょう。

 

三つ目の利行というものは見返りを求めない正しい行いです。

自分がいい思いをする事ばかりを考えず、相手のコトおもんばかり、助けとなってあげましょう。

自分自身に助けが必要な時、誰かが助けとなってくれたなら、

自分もまた誰かを助けてあげる見返りではない助け合いの輪を作っていきましょう。

 

四ツ目の同事というのは、相手の心や境遇を理解し共感して相手と接することです。

相手と同じ目線で立った時、何が必要で何が助けとなるかがきっと見えてくるでしょう。

 

あなた自身が精神的に、また持つ物に余裕があって、苦しんでいる人と出会ったなら、この「四摂法」の布施と愛語と利行と同時を思い出してみて下さい。

相手に少しでも助けとなって幸せに向かえたなら、あなた自身もまた、その助けに喜ぶ相手を見て幸せに思えるでしょう。

 

いずれその方が余裕のある時にあなたの行いを思い出して、困窮する他の誰かにも手を差し伸べていくかもしれません。

「無常。桜は咲きやがて散る」

岐阜市 吉祥寺 住職 志比道栄 師

年々桜の開花は早くなり昔のように入学式を待たずに、3月中には満開を迎えるようになりました。

昔、越後の良寛和尚さんが「散る桜残る桜も散る桜」と亡くなる前にこの歌を詠まれました。これは世の中の物は常に変わっていく。「いのち」ある物は必ず終わりを迎える。お釈迦様の「諸行無常」の教えを歌にされたものです。

人が変化していくとは、時間と共に年を取り老人になり、そして誰しもがやがて死を迎える。時には病気になったり、思いもしない生活を余儀なくされる。

桜の花で例えるなら、暖かな日差しや水に恵まれて一本の枝に蕾として芽吹き、青空のもと周りの花と共に花弁を開いてゆく。時には春の嵐に強く吹かれようともじっと花を保ち、やがてどの花も散ってゆく。

私達が桜の花を愛するのは、蕾の時・満開の時・散りゆく時の姿に一瞬一瞬の桜の一生懸命な「いのち」を見るからである。

幼き時は戻らない。老いることは避けられない。「生老病死」を苦しみと捉えなければ、私達も桜のように深い人生が送れるのではないでしょうか。

「余計な一言、口は災いのもと」

多治見市 普賢寺 住職 水野誠司 師

みんなと楽しくおしゃべりをしていたのに、たった一言発した言葉に、その場の空気がガラッと変わった。そんな経験をされたことはあるでしょう。

まさに口は災いのもと、ちょっとの余計な一言が、取返しのつかない事態に発展することも少なくありません。

お釈迦様の言葉に、人は口の中に斧をもって生まれてくるとあります。言葉は人を傷つけ、危めることがあると言うことです。

会社や学校で接する人たちの会話の中にも、「この人はなんでそういうことをいうのか」 「そういうことを言わなければもっと皆から好まれるのに」と感じたことがあると思います。このように余計な一言は、些細なことから相手の心にグサッとくることがある。言われた側も、言った側もなんとも後味が悪いものです。相手の言葉に反射的に発する余計な一言は、大きく分けて「意図的に言ってしまう一言」、「意図せず言ってしまう一言」があります。

意図的に発する一言は、言いたいことを言わないと気が済まない人、相手と意見が合わない時や相手の話を不快に感じた時など、ズバッと口にしないと気が済まない性格が原因と考える。

自分が周りからどう思われようと構わない、その場の空気などお構いなし、 対人関係が気まずくなり、言った本人は言いたいことを言って、すっきりする 周りにいる人たちにとっては、迷惑この上ない存在といえます。

思ったことをすぐに口にしない、こういうことを言ったら相手はどう思う、相手の気持ちになって考えることが大切です。

余計な一言を言いたくなる時、あえて言わないのが思いやり、「雄弁は銀・沈黙は金」という言葉があるように、あえて言葉を慎む方が、うまくいくことは多い、何を言うかより、何を言わないかを意識することで、仕事も人間関係もうまくいく、「言葉は人を癒すことも、人を傷つけることもできる」何を言うかより、何を言わないかを意識する、人はみな完璧ではない、今から一緒に意識してみましょう。

「良い天気、悪い天気」

郡上市 北辰寺 徒弟 岡本眞人 師

晴れの日には、「今日は良い天気ですね。」雨の日には、「今日は生憎の天気ですね。」と、普段の何気ない会話の中で自然と言ってしまうことがあります。良い天気だと気分が上がり、悪い天気だと気分が沈んでしまう。天気の良し悪しに気分が左右されてしまうこともあります。さて、この天気が良い、悪いというのはどのように決まるのでしょうか。

有名な禅の言葉で「日日是好日」という言葉があります。「毎日が良い日である」といった意味です。

我々曹洞宗の僧侶は、日々の生活が修行であると捉えています。お経を上げたり、坐禅をしたりするだけでなく、掃除も修行の一環です。晴れた日には、外に出て草抜きをしたり落ち葉を掃いたりします。晴れの日は修行をするのに適した「良い日」と言えます。反対に雨の日は、外に出て掃除をすることができません。しかし、窓拭きなど屋内の掃除をすることが出来ます。雨の日もまた、修行をするのに「良い日」です。雪の日には、雪掻きをします。雪の日もやはり「良い日」です。どのような天気であっても毎日が修行に適した良い日、好日と言えるわけです。

良い天気の反対は悪い天気、と決め付けていないでしょうか。「プラスの反対はマイナス」というのはあくまで数字の世界であり、我々が生活している世界では「プラスの反対もプラス」と捉えることができます。今日一日が皆さんにとって良い日、好日となりますように。

「主人公」

郡上市 桂昌寺 住職 清水宗元 師

テレビドラマや小説などの物語の主役を「主人公」といいますが、「主人公」という言葉は実は仏教からきている言葉です。

唐の時代の禅僧の瑞巌和尚は、毎日岩の上で座禅を組んで、自分で自分に「主人公」と呼びかけて、自分で「ハイ!」と返事をしていました。

禅宗でいう「主人」という言葉には「本来の面目」という意味があります。「煩悩を取り去った本来の自分の姿」ということです。

つまり瑞巌和尚は、「お前は本来の面目を保っているか?本来の自己を保っているか?」と日々自分に問いかけ、自分と向き合っていたのです。

日本社会は古来から「和」が尊ばれています。集団の輪を乱さないことや、周囲を同じように行動することが最重視されます。

しかしその反面で、周囲の人の目を意識するあまり自分の意見が言えなくなってしまったり、あるいは周りに流されてしまって自分の本意ではない行いをしてしまったり、っていうこともあるのではないでしょうか?

瑞巌和尚は自分で自分に「主人公」と呼んで「ハイ!」と答えて、そして更に「惺惺著(セイセイジャク)、諾(ダク)」と言っていました。

「惺惺著」とは、

「しっかり目を覚ませ!」

という意味です。

そしてまた更に、「他時異日、人の瞞(マン)を受くること莫れ、諾諾」と言っていました。

「瞞」とは、「あざむく・いつわる」ということなので、「人の瞞を受くること莫れ」で、

「人にだまされるな!」

という意味です。

瑞巌和尚はそれにもまた「ハイ!ハイ!」と自分の問いかけに自分で返事をしていました。

私たちもまた、自分自身に本来具わっている面目=本心・仏心を保つことで、物事の本質を見極め、流されたりだまされたりせず生きていきたいものです。

「ウサギとカメ」

美濃市 長徳院 住職 永田将人 師

世の中には、素晴らしいグループがたくさんあって世のため人のために活躍しています。

ずっと仲良くできればいいですが、仲よくというのは、崩れやすいものです。

「ウサギとカメ」というお馴染みの昔話がありますが、なぜあのウサギがカメに負けたのか。ウサギはカメがのろいということがわかっていて、油断して負けてしまった。そういうことを言われています。

もう一つの解釈。仏教的な解釈でいきますと、なぜ足の速いウサギに歩みののろいカメが勝ったのか。それは、ただ一つ、カメは、山の向こうのふもとのゴール、目標地点、最後到達するところだけを見つめて、自分なりの歩幅で歩いていった。 一方、ウサギは、カメを見た。ゴールは関係ない。こいつは遅いな、ちょっと休んでやろう。

人生の目標というのは、成仏、ここに心を据えていきますと、据えた目標に導かれて人生の歩みが変わってきます。

人と比べていると、喜んだり、得意になったり、忙しく、消えてしまうようなことにあくせくして一生を終えてしまいます。仏になる。なる自分が、仏の声を聞きながら歩んでいく。そういう自覚を、前へ一歩出していただく。そういう目標だけを決めていると、仲良くなるのです。

相手だけを見つめていると、時にけんかになります。目標一つを見ていれば、いろいろな人がいるけれども、 一緒に行きましょう、ともどもに真実の道を歩みましょうと、これで仲が悪くなるわけがありません。

皆同じ方向を見ていて、お互いを見たわけじゃない。カメさんになったわけです。それでケンカをすることはないですから、 一緒にそれぞれ頑張りましょうと。こういうことです。

「挑戦すること」

白川町 豊川寺 住職 宇都宮英俊 師

新年を迎え半月以上が経ちました。新たな気持ちで新年を迎え、今年こそは達成したい目標はあるかと思います。

私自身何年もかけて挑戦してきたことがあります。その挑戦はとある資格の取得に向けての取り組みでした。合格率は20パーセントと言われ、中々合格するには大変だという認識でいました。はじめはもともと受からなくてもよいと思い軽い気持ちで何度か挑戦しました。ただ年数が経つうちに学習する意欲にむらがあり、集中して取り組もうということもできずにただ挑戦しているだけという自分がいました。しかし、職場の同僚や先輩方に頑張れと、声をかけてもらえたり、一緒に挑戦して頑張りましょうと、前向きな声がかかるようになってきて、今のままではいけないと心を入れ替え挑戦をあきらめずに続けました。まわりからの声で自身の怠惰な気持ちに気づき、自分の気持ちの甘さに反省をしました。それから心を入れ替え時間を見てコツコツと自身にあった学習方法で何とかその挑戦を果たすことができました。

ひとはあるところまで達すると少し歩みを止めて先に進むことをやめてしまうことがあるように思います。「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」という禅のことばがあります。

この言葉はあるところまで達すると竿の先まで達して、竿の先にはもう道がなくさらに一歩を進もうとするということであり、尽力を尽くしても、さらに尽力するという教えです。

みなさまもすでにやりつくしてしまっていることがあり、悶々とすごしている方もあるかと思います。そんな時にこの言葉のようにさらに勇気を持って、前進してみてはいかがでしょうか。その先にまた新しい世界が広がっているかもしれません。

「仏に向かい合い―自分に問う」

曹洞宗岐阜県宗務所所長 多治見市 安養寺 住職 小島尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

今回で、所長としてのテレホン法話、6回目となりました。

新型コロナ感染症もここに来て、稍や落ち着き始めたといえども、世の中は多くの事件、事故、自然災害と苦難の日々は絶ゆることはありません。

我々一人一人の力では、その苦難に立ち向かうことはなかなか出来ません。

しかし、助け合い、幸せを願い、それが喩え小さくとも、僅かであれ、安らぎの時を願い、行い続ける。

そして、人を思う心ことが、集まり、重なり合えばこそ、やがて大きな力となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

積土成山(せきどせいざん)「努力を積み重ねれば、大きなことを成し遂げられる」ひとつひとつの積み重ねがやがて大きな山となる。

その中に今、自分として何が出来うるか、常に私たちを見守り続けて頂いている、仏壇に居ませし、ご本尊様、ご先祖様、そして菩提寺のご本尊様であるがこそ、その仏に向き合い、自分に問うことにより、我が道が開けるのかもしれません。

人生はその時その時の積み重ね。心静かに今を見つめ、ともに学び、ともに願い、ともに実践して、仏に向き合い、自分に問う。新しき良き年へと、共に一歩を進み出しましょう。

怨敵退散、如意吉祥ならんことを。合掌。

「現代における諸行無常」 

関市 福田寺 住職 橋本崇典 師

今年も残りあと僅かとなりました。1年過ぎるのは本当に早いですね。

先日今年の新語・流行語大賞が発表され、その中にチャットGPTという言葉がありました。チャットGPTとは人工知能AIを使用した会話型のサービスのことです。人工知能を持ったコンピューターと会話ができます。ここで「崖から落ちそうになった男」の話をします。

とある男が崖から落ちそうになった。死の恐怖に錯乱した彼だが、とっさに観音様に拝んだ。そうすると平穏を取り戻し、通りかかった人たちに助けられた。それ以来彼は観音様を厚く拝むようになった。信仰とは己に向き合い、心の平穏を保つもの。慌てふためき、動揺するときこそ仏様を思い出し穏やかな心で生きましょう。

ふーんなるほどと思った話ですが、これは人工知能AIに法話を作ってと書かせた話です。なんだ人工知能が作った話かと揶揄するところですが、便利な時代になりました。

お釈迦様の教えのひとつに「諸行無常」があります。この世のあらゆる物事は一瞬たりとも停止することなく、常に変化し続けているということを伝えています。また、怠らず努めよとも言われました。今という時間を真摯に受け止め、今すべきことを考え積極的に過ごしましょうと。先ほどの人工知能はこれから欠かせない時代となって行くでしょう。人の働き方が変わり、価値感が変化していく時代に改めて人にしかできないこと、大切にしていくことを考え怠らず努めていくことが重要だと思います。

それでは、よいお年をお迎えください。

「ギブ&ギブ」

関市 圓通寺 住職 岡田英賢 師

本日は「ギブ&ギブ」というお話をしたいと思います。

「ギブ&テイク」は知っていても「ギブ&ギブ」って何?と思われる方もみえるかもしれません。

私たちは日ごろ、“あの人に何かしてあげたから”、“今度は何かお返しをしてもらいたい”といったように相手から見返りを求めてしまったり期待をしてしまったりすることは、少なからず誰にでもあるのではないでしょうか?

先日、ある建築会社の社長さんが、「ご住職ね、仕事というのは人から与えられるのですよ。だから、その人の心を動かさないとダメなんですよね。この人に頼みたいって・・・そう思ってもらえるようにならないといけないんですよ」と話してくださいました。

その社長さんは、いつもどうしたら喜んでもらえるか?お客さんの立場に立って損得よりもその人に合った家つくりを心がけてみえる方でした。

相手からの見返り“テイク”は後回しで、まさに「ギブ&ギブ」を実践される方でした。

私たちは相手から何かをしていただくと「今度は何かこちらからお返しをしなければ」と、そう思うものです。本当に相手のことを思って続けた結果が相手から信頼と、この人に頼みたいと思ってもらえる成功へとつながっていったのです。

曹洞宗を開かれました、道元禅師さまは、

「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」

とお示しになりました。

利行と申しますのは、「見返りを求めない、無条件に相手のためになす行い」のことでございます。

すべての人に、思いやりの心で向き合っていくこと。そして、そこには、相手の気持ちに寄り添っていく心が大切になってきます。家族が支えあい、社会が支えあう。「ギブ&ギブ」とはみなさんのお仕事においても、また、私たちの日常の様々な人間関係を円滑に進めていく一つの術となるのではないでしょうか?

お互いに思いやる心「ギブ&ギブ」の心が世界中に広がりますように。