テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「人は二度死ぬ」

関市 永昌寺 住職 鬼頭 周賢 師

先日、お寺の本堂にて檀家さんの一周忌の法事を執り行なわせていただき、その後のお斎(昼食)の席にも一緒につかせていただきました。お斎が始まる前に、亡き人を偲んで盃を捧げる献杯を行いますが、その献杯の挨拶で故人の本家の方がこんな挨拶をされました。

「人は二度死ぬことができるといいます。一度目は現在の肉体の死、二度目は人々から忘れ去られた時です。本日は故人の思い出をたくさんお話しましょう」と挨拶をされました。

一度目の死は、息を引き取った瞬間に訪れる死のことです。二度目は家族や親戚、生前親しくしていた方達、関わりのあった方達の心の中から忘れ去られてしまった時に二度目の死を迎えるということです。

この「人は二度死ぬ」という言葉は大変有名で、映画やアニメでも引用されていますので、皆さん一度は聞いた事があるのではないでしょうか?

この言葉には、「亡き人が私達の心の中でいつまでも生き続けていって欲しい」という今を生きている私達の願いが込められていると同時に、「亡き人をいつまでも忘れないでいることの大切さ」を教えてくれています。残された方々が、亡き人との思い出を語り合い忘れないでいることは、亡き人からいただいたご縁や恩、つながりを忘れないと共に、「人はいつかは必ず死ぬ」という普段は目を背けがちな大切なことを忘れないということになります。

自分の人生に終わりがあるという事を日々意識して生活している人はほとんどいないでしょう。しかし、亡き人を思い出し供養していく過程を通して「人はいつかは必ず死ぬ」という無常の事実を受け止め、今という時を大切に生きていく。それが亡き人への供養につながっていくことだと思います。

「愛語よく廻天の力あり」

関市 立蔵寺 住職 伊藤 智純 師

先日、人に勧められて読んだ詩集にあった詩です。

まずは紹介させてください。

 

『私の席』

満員バスにおばあさんが乗ってきた

ポニーテールの女の人が

すぐ降りますのでと席を譲った

でもその女の人は

次の停留所でも

4つ目の停留所でも降りなかった

私は胸がいっぱいになって

いつもより1つ早い停留所でバスを降りた

あのポニーテールの女の人

私の席に座ってくれたかなあ

 

これを詠んだのは小学6年生の女の子です

人の親切に気が付く繊細な心と、自分も何かせずにはいられなくなった優しい気持ちが

素直な文章から伝わってきます。

 

曹洞宗に縁がある方であれば、修証義というお経を聞いたり、読んだりしたことがあると思います。

『衆生を利益するに四枚の般若あり、一者布施 二者愛語 三者利行 四者同時、是れ即ち薩埵の行願なり』

とありますが、ポニーテールの女性のとった愛語、利行の実践に「唯ひとえに催され」

この少女もまた利行、愛語を実践したのです。

『此の心を起せば已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流なりとも四衆の導師なり』

少女に頭の下がる思いがしました。

 

ニュースやSNSばかりを見ていると、うかつに人を信じるな、だまされるな、と

疑心暗鬼になってしまいがちでしたが、『愛語よく廻天の力あり』ということを

信じなければと思ったことでした。

 

冒頭の詩は青い窓の会『童顔の菩薩たち』からお借りしました。

「善きご縁が結ぶ仏と出会う―授戒会」

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 安養寺 住職 小島 尚寛 師

令和6年が暮れ、令和7年新春を迎え、皆さまの万福多幸をご祈念申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

今回で所長としての新年テレホン法話、7回目となりました。

顧みますと、令和6年は、正月未曾有の能登半島震災に始まり、多くの自然災害・事件・事故、世界各地に生じる紛争等に苛まされ、心を痛め、苦悩の日々、絶ゆることがありませんでした。

しかし、先人たちは、多く苦しみ、悩みの中を生き、その時、その時を乗り越えて参りました。

我々ひとりでは、なかなかその苦難に立ち向かうことは出来ませんが、お互いに助け合い、幸を願い、人を思う心、喩え小さくとも、僅かであれ、安らぎを求め、行い続ける。

その行いが、重なり合い、集まることにより大きな大きな力となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

我が宗門には「授戒会」という修行があります。

一言でお伝えするのであれば、今までの生き方を省みて、自らの行いを振り返り、仏様の前でお釈迦様のお教え(戒法)に沿った生き方を学び修行することで、より良い生き方を更にお誓い申し上げ、仏弟子となって戒名を授かる儀式です。

昨今、その儀式・修行に出会う機会が殆ど無くなってしまいました。この修行は自らの修行に止まらず、周りの方々をも善き道(善道)へと導く尊いご修行でもあります。

宗務所として、令和8年6月、大本山永平寺禅師様をお招きして、東農地区(多治見)にて執り行う予定です。

詳しくは菩提寺さんを通じてご案内致します。是非ともひとりでも多くの方に、この善きご縁に出会い、結んで頂けますよう願うものであります。

 

今の苦難を乗り越え、

善きご縁を結ぶ仏と出会う

新しき良き年へと進み出しましょう。

 

万福多幸 如意吉祥ならんことを

「やわらかに」

関市 広福寺 住職 紀藤 昌元 師

身体が柔らかい人はケガをしにくい、頭が柔らかい人はものごとを上手く進められる。「やわらかく」いるということは、私たちが生きていく上でのひとつの大切なコツであると思っています。

やわらかく、このことについて道元禅師様は次のように示されています。「ただまさにやわらかなる容顔をもて、一切に向かうべし。」ただひたすらにやわらかな表情で、すべての人や物事に向き合いなさい。こんなふうに私はこの教えを受け止めています。

今年は元日からの大地震に加え、いくたびもの災害が多くの人たちの日常を奪い、私達自身の身の回りも笑顔でいることなどとてもできないような出来事や状況で溢れています。いつでもやわらかな表情で、すべての人や物事に向き合う。実はこれほど難しいことはないのかもしれません。しかし、困難や苦悩の中にあっても、それを乗り越えて笑顔であろうとする。そういう力が私達には備わっている。そのことを忘れないで欲しい。そう道元禅師様は暖かく励まして下さっているのだと私は思います。

いつもやわらかな表情で人に接するということは、お布施のひとつでもあります。やわらかな表情は相手に安心を与えることができるからです。そして、いつもやわらかな表情であろうとする、その行いは自分自身の中に強くて大きい心を育てる修行でもあります。強くて大きい心がなければ、いつもやわらかな顔でいることはできないからです。

いつか誰かの笑顔にあなたが癒され元気付けられたように、あなたの笑顔に癒され元気づけられる人が必ずいます。

「ただまさにやわらかなる容顔をもて、一切に向かうべし。」

この教えを胸に、いつかどこかで笑顔でお会い出来る日を楽しみにしております。

「死に向かって笑顔で生きる」

坂祝町 地蔵院 徒弟 岡崎 玄一 師

人生をイメージするというのはなかなか難しいものです。肉体的には25歳まで成長し、55歳まで成熟し、平均的に80歳を過ぎて死を迎えるというのが標準的な人間の現実でしょうか。残念ながらすべての人は死をむかえるということです。しかし私達は死という締切意識を普段から意識することはあまりないように思います。

ここからはスティーブジョブズ氏の伝説のスピーチから引用します。
「もしも今日が人生の最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか」。その答えが「いいえ」。の日があまり多く続く場合には、何かを変える必要があるのだと、必ず分かります。自分がもうすぐ死ぬのだと意識しておくことは、人生の重大な選択をする際に役立つツールとしてとても重要です。なぜなら、いろいろな外部からの期待や、自分のあらゆるプライド、混乱や失敗に対するさまざまな恐れ。こういったものは、死に直面すると消えてなくなり、真に重要なことだけが残されるからです。自分も死に向かっているのだと意識することは、自分には失うものがあるのだという「思考の落とし穴」を避けるための策として、私の知る範囲では最善です。皆さんはすでに何も身につけていない状態なのです。自分の心に従わない理由はありません。

だれでも死にたくはありません。たとえ天国に行きたいと思っている人でも、そこへ行くために死にたいとは思いません。しかし、死というものは、われわれ全員共通の終着点なのです。それから逃れた人は、これまでだれもいません。そして、それはそうあるべきものなのです。なぜなら、死はほぼ間違いなく、生命に関した唯一にして最高の発明だからです。それは生命の変化の担い手です。古いものを排除し、新しいもののために道を開きます。
最も重要なことですが、自分の心と直感に従う勇気を持ってください。あたなの心と直感は、あなたが本当はどうしたいのかをすでに知っているのです。

なかなか言葉にしにくいキーワードを並べてきましたが、日常を生きるにあたり、最後に明るい話をしたいと思います。それは「笑顔」で過ごすということ。「楽しいから笑う」のではなく「笑うから楽しい」そう思うと脳が記憶して、幸せホルモンをだしたり、リラックス効果が表れるそうです。自分のために笑顔を作ってみてください。

「未来をたくましく生きぬくために」

本巣市 千光寺 住職 岡田英隆 師

未来を生きぬくためには「たくましさ」が必要です。「たくましさ」とは、「意志が強くてくじけない」といった意味です。つまり「たくましい人」とは、「苦難を克服して力強く生きる人」のことを言います。

では、「苦難を克服して力強く生きる人」とはどんな人のことでしょうか。私は「強さ」と「しなやかさ」を兼ね備えた人のことだと思います。

よく「強さ」や「堅さ」を表現するときに「焼き物」の話が用いられます。「堅い」ものと「堅い」ものがぶつかると割れてしまうという話です。同じように堅い木と堅い木がぶつかると折れてしまいます。しかし、そこに「しなやかさ」が加わると「竹」のように折れなくなります。「竹」のような「強さ」と「しなやかさ」を、身に付けることができれば「たくましい」生き方に少しでも近づくのではないでしょうか。

竹がしなやかで折れない理由のひとつに「節」が挙げられます。この「節」があることで「強さ」と「粘り」が備わります。私たちにとって「節」とは、「生活環境が変化した時」や「新年を迎える時」などがあります。また、「自分の成長が実感できた時」なども大切な「節」になります。

天に向かって真っすぐ伸びる「竹」の様子は、自分の目標に向かって、未来を切り拓き、突き進んでいる姿そのものです。

ご自身と重ね合わせると、「未来を生きぬく」ために「たくましさ」を身に付けることは大切なことだと思いませんか。

「経のしずく」

神戸町 榮春院 住職 阿原道雄 師

私も寺に生まれ、育って50年近くが過ぎました、これだけ寺にいれば、少しはマシな人間になったかと我が身を反省しますと、我ながらゾッとします。

欲は深いし、すぐに怒る、愚痴は次々に出てくると、考えれば考えるほど顔が赤くなるばかりです。

皆さんには、欲をすて、怒らず穏やかに、愚痴は災いのもとと言いながら、その自分が、時には坊さんであることを忘れて行動するのだから、どうしようもありません。

「しまったなぁ」と、思う時には、後の祭りです。

こんなことでは仏教を信ずる意味が無いのでは?と、自問自答する事が多々あります。

こんな人間が坊さんをしていていいのだろうか?と、思うことも、しばしばですが、その時に出した結論は、自分は寺に生まれ、育ち、寺にいて、坊さんをしているから、この程度で居られるのだと・・・。

もし、坊さんをしていなかったら、いったい今頃どうなっていたか分からないです。

考えてみますと、私の心は組み目の広いザルと一緒です。

ザルに水を、いっぱい入れても、全てもれてしまいます。

でも、よくよく考えると、ザルの組み目に「しずく」が残っているではありませんか?

私も同じように、全てもれてしまうと思っていたのですが、それなりに「しずく」の、いくつかが、きっと残って、この程度でおさまっているのだと思いました。

それならば、寺にいること、坊さんをしていることが、私にとってどれだけ大切なことかと改めて気づかせて頂きました。

教えを受けても、その時その時は、その意味が分からなくても「しずく」は、必ず心に残ります。

逆に、教えを受けなければ、心に残らないのは当たり前なのです。

仏教の教え、人の教え、そして人との繋がりを大切にして、毎日を過ごしていきたいと思う、今日この頃です。

「放下着~比べることへの執着を捨てる~」

関ヶ原町 瑞龍寺 住職 古川光瑛 師

近年、テレビ等の既存メディアに加えて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)から情報を得る機会が多くなりました。SNSでは多くの人が自身のプロフィールや写真、起こった出来事など多様な内容を発信しており、新しいニュースや情報を得る媒体の一つである一方で、身近にいない人の状況を知る機会にもなります。

自分より上手くいっている人や、その人の良い部分ばかりに着目して、自分が周りより劣っているように卑下していないでしょうか。他人と比べて自分が劣っているという考え方は、気持ちを萎縮させて悩みにつながり、物事に取り組む気持ちを奪っていきます。

しかし、周りを羨むことで自身の能力や生活が向上するのでしょうか。遠くにいる全く前提の異なる人と自分の現状を単純に比べて、得られるものはありません。また、キラキラ輝いて見える人も、上手くいった出来事を語る時に声を大きくして、陽の当たる側面を切り取っているのかもしれません。

禅の言葉に放下着(ほうげじゃく)と言う言葉があります。「放下」は、放り投げるの放るに下と書いて投げ捨てると言う意味で、「着」は定着するの着と書いて、前にある放下の意味を強調する言葉です。この言葉には執着を捨てよ、という意味があります。

この放下着は様々な情報があふれている今の時代において大変示唆に富んだ言葉です。自分を環境の異なる他人と過剰に比較する姿勢や心こそ、捨てるべきものではないでしょうか。比べることに時間と負荷をかけることをやめ、執着する心を捨てましょう。

過度な比較に対する執着を捨て、自分自身の内面を見つめる時間を増やし、今より少し向上できる、成長できる目の前の物事に力を注ぎ、取り組みましょう。以前の自分よりも改善した部分、できるようになったことにこそ敏感となり、自分を認めながら少しずつ進歩して、日々の生活を充実させていきましょう。

「達磨の無功徳 」

岐阜市 洞泉寺 住職 岸真量 師

10月5日は達磨大師のご命日で、達磨忌といいます。

インドから中国へ渡った達磨大師は、梁という国の武帝という王様に招待され、現在の南京である「建康」という都で仏教の質問をされます。

「私は仏教を信奉し、立派なお寺や大きな仏像を造り、僧侶を育成している。どれほどの功徳が有るだろうか?」武帝の問いに達磨大師は「無功徳」と言い放ったのでした。

何故でしょうか?それは武帝の求めるような良いことは何も無いということです。

武帝は功徳とか御利益とか自分の名声とかを求めていたわけで、形だけの善行に過ぎない。儲かる、御利益が有るとか「欲」よるものは仏教で説く本当の功徳などでは無いと言われたのです。

何か見返りを求めてしまうと、「私がこんなにしているのにお返しが無い」とか「寄付金をいっぱい出したのに御利益が無い」とか思ってしまいませんか。

これでは自分の欲の為に、自分の満足の為に、自分の都合の良いように御利益を求めているということです。欲を離れて、求めること無く、ただ手放すことによって、執着という煩悩から離れられ、一つでも執着が無くなれば、それが御利益、功徳が有ったというものです。

仏教には三輪空寂という考え方がありますが、あげる人、あげる物、もらう人、この三つ全てに何の執着も無く、清らかに廻っているという状態をいいます。

とても良い物を、惜しげも無くあげる、気にせず堂々ともらう。

現代の世知辛い世の中では、こんな事は難しいでしょうが、まことに大いなる功徳有りです。ただそこに「自分」という欲が入り込むと、「私が人助けする」とか「私は良かれと思ってやっている」となってしまいます。それは貴方にとっての良いことで、善意の押し売りや都合の良い傲慢になって、心を穢してしまいます。達磨大師の「無功徳」は重い言葉ですね。

 

余談ですが梁という国は建国後、約50年で滅びてしまい武帝一代で終わってしまいます。

とんでもない部下の裏切りにあって、籠城した武帝は餓死(88歳)したとも捕らえられて処刑されたともいわれています。

この時代の中国は、乱れに乱れて裏切りや毒殺、一族同士の殺し合い等でまともな国王がいなかったとされ、50年続いた梁はまだマシだったようです。その後の陳もあっという間に滅んでしまいます。隋の煬帝が台頭して、秦の始皇帝以来、再びの中華統一です。

 

「皆にて褒める人もなく皆にて謗る人もなし」

岐阜市 自福寺 住職 古川元弘 師

最近、テレビや新聞・雑誌・インターネットを見ていると「お悩み相談」といった内容の記事をよく目にすることがあります。またお悩みの中でも「人間関係」に関する相談が多いように感じます。

 

・職場で上司の指導が厳しい

・同僚の中でも特定の相手からキツく当たられる

・後輩の指導が上手くできない

・反りがあわない人が多い

 

などなど、みなさん様々なお悩みを抱えているようです。

 

実は私は寺の住職になる前、会社勤めをしていた時期があるのですが、その時に同じような経験をしたことがあります。

人間関係の悩みって本当に辛いですよね。

なんで相手の人は自分に対して辛くあたるような態度をとるのか?

なんか私が悪いことをしているような感覚になってしまい、仕事に行くのが嫌になってしまうことがよくありました。

 

そんなときインターネットのSNSに、こんな書き込みを見つけました。

「そもそも世界中の人、全員から好かれることなんてない。一人や二人の人と人間関係がうまくいかないことなんて当たり前。いちいち気にすることなんてない!」

少々荒っぽい書き込みですが、当時の私には「なるほど!そうだよな!」となんか救われた気持ちになったことがありました。

 

 

仏教をひらかれたお釈迦様の言葉に

「皆にて褒める人もなく、皆にて謗る人もなし」

という言葉があります。

 

どんなに立派な人でもすべての人から好かれることはないし、またどんなに嫌われる人でもすべての人から嫌われることはないという意味の言葉です。

 

人の好き嫌いはその人の都合によるもので、その人によって都合の良い人は好かれますし、都合の悪い人は嫌われます。

 

お釈迦様でさえ3分の1の人に好かれ、3分の1の人に嫌われ、残りの3分の1の人には知られていなかったそうです。

 

お釈迦様ですらそうなのですから、私達が皆から好かれようとしても心が疲れてしまうだけなのです。

 

また逆に「皆にて謗る人はなし」とお釈迦様がおっしゃられるように、どんなに辛い立場に立たされても、全員から嫌われることはありません。必ず誰かがあなたのことを支えてくれるのです。

多くの人が集まれば様々な意見があります。それらの意見が一致することはなかなかないでしょう。皆から好かれることを求めて、無理にその場を取り繕って疲れてしまうよりも、あなたのがんばりに気づいて応援くれる人の事を大切にすることのほうが、良いのではないかと私は思います。