テレフォン法話

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「有求皆苦 無求即楽」

白川町 廣通寺 住職 尾関 大介 師

今回は禅の言葉「有求皆苦 無求即楽」について、お話しさせていただきます。

「有求皆苦」とは、求める心があるかぎり、人は苦しみから逃れられないという意味です。そして「無求即楽」、何も求めない心でいれば、自然と楽になれるという事です。
私は令和6年の冬、能登半島地震の被災地で炊き出しのボランティアに参加させて頂きました。当時は水道も自由に使えないと言う事で、水のペットボトル40ケースを車に積み、現場に持ち込む事で対応しました。飲み水も、調理も、手を洗うのも、すべてその限られた水から使わなければなりませんでした。

普段であれば、蛇口をひねれば当たり前のように水が出る。でもそのときは、手を洗うだけでも「もったいない」と思うほど、水が貴重に感じられたものでした。

そのときふと、「ああ、自分はどれだけ多くのものに支えられて生きていたのだろう」と気づかされました。

水、電気、食べ物、家族……当たり前と思っていたものが、実は非常にありがたいものだったのです。
それに気づいたとき、自然とそれぞれに感謝の心が湧いてきました。

そして普段、「もっとこれがほしい」「もっと快適に過ごしたい」と求めていた心が、
かえって自分を苦しめていたことにも気づかされたのです。

「無求即楽」――求める心を手放すことで、今あるものの尊さに気づくことができます。

何事も無く蛇口から水が出る事、電気が使えること、ご飯が食べられること。
それだけで、実は十分にありがたいことなのです。

どうか、当たり前の中にある「ありがたさ」に、今一度目を向けて頂きたいと思います。

「手を合わせているとき」

本巣市 大亀寺 住職 戸田 祥隆 師

先日法事の際、お参りの皆さんが順にお仏壇の前で焼香をされ、手を合わせている様子を見ておりましたら、その中のお子さんが“ふっと”間を作って手を合わせている姿が目に止まりました。

大人の方ですとそれほど気にならないのですが、お子さんだったからでしょうか、「この子は今どんなことを思って手を合わせているのだろう」そんなことを考えながら、その子のお参りする姿を見ておりました。

私たちの生活の中で、手を合わせる機会を思い返してみますと、現代の生活において、日常的に手を合わせる機会は、それほど多くはなくなってきたように感じます。

そして、周りを見渡しても、食事の前後などは、残念ながら少しおざなりになっていると感じるときもしばしばあります。

だからこそ、その子がほんの数秒かもしれませんが、時間をかけて手を合わせる姿が印象的に見えました。

自分が受けている恩を知る、という意味の「知恩」という言葉があります。私たちが手を合わせる意味の一つに、感謝の気持ちを表す、という意味がありますが、どのようなときに感謝の気持ちが芽生えるのか。それは、私たちが周りからの優しさに触れたとき、自分を支えてくれている恩に気づいたときではないでしょうか。

心を込めて手を合わせることができたその子は、きっとその時、恩に触れていたのだろうと思います。

私たちも、日頃から“ふっと”心を込めて手を合わすことができるよう、自分を支えてくれている周りの優しさに気づくことのできる生活をしたいものです。

「穏やかに生きる」

揖斐川町 観音寺 住職 田中 和彦 師

私が若いころには「十年ひと昔」と言われていましたが、昭和から平成になりパソコンが普及し、凄ましい速さで社会に受け入れられ、令和になった今では誰もがいつでも手元にネットを通じて世界中に繋がる端末を持つ時代になりました。

いつの間にか便利さを享受しながらも、いつも手元にあるその機械に頼り切っている私がいます。その便利な機械に今では振り回されているとも感じる時さえあります。

しかし、便利なものにも良い面と悪い面の両極があります。良い面としては調べ物をする時や知らない土地に行った時、時には文字や言葉の翻訳なども瞬時に行えます。

しかし、実は悪い面も全く同じだと思います。指一本の操作であらゆる物事を解決できる為に、すぐに回答を求めたり、自分の中でしっかりと答えを導き出すというような事が出来なくなっているのではないでしょうか?

ちょっとした事が我慢出来なかったり、だんだんと自分勝手で我が儘な人間になっていくような気さえしています。

私は、こんなスピード社会にこそ心の平安が大切なのではないかと考えます。

時には文明の利器を離れ、ゆったりと自分の時間を楽しむのも良いと思います。例えば本を読んでみたり、好きな事にたっぷりと時間をかけてみたり、などです。

私が数年前から積極的に行っているのは禅宗ならではの「坐禅」です。

壁に向かい、足を組み、効率も生産性も求めず、自分の内面に向かう貴重な時間がとても心地よいです。

私のお寺では、月に三度の坐禅の機会と、いつでも予約にて「体験坐禅」ができる場を提供しています。

ぜひ、スピード社会といわれる今こそ、ご自身とじっくり向き合う時間を作り、穏やかな時を過ごしてみてはいかがでしょう。

「感謝の心」

大垣市 薬王寺 住職 若山 篤優 師

秋の風が心地よく吹き、木々が色づき始める頃、自然は静かに冬への準備を始めます。そんな季節の移ろいの中で、私たちは日々の「ありがたさ」に気づく機会を得るのかもしれません。

仏教では「感謝の心」がとても大切だと説かれています。私たちは一人で生きているように見えて、実は多くの人や自然の恵みに支えられて生きています。朝目覚めることができるもの、食事ができるもの、誰かが働いてくれたおかげ。水や空気、太陽の光も、すべてが命を支える大切なご縁です。

ある日、お寺に来たお子様が「どうして『ありがとう』って言わなきゃいけないの?」と尋ねました。

私はしばし考えて言いました。「『ありがとう』は、心の花なんだよ。その花が咲くと、自分もまわりの人も、あたたかい気持ちになるんだよ。」

感謝の心は、幸せの土台です。何かをしてもらったときだけでなく、何気ない日常の中にも「ありがとう」はたくさんあります。誰かの笑顔、静かな時間自然の美しさ──それらに気づくことができれば、心は豊かになります。

仏教の教えに「知足(ちそく)」という言葉があります。足るを知る心、つまり「今あるものに満足し、ありがたく思う心」です。欲ばかりを追い求めると、心はいつまでも満たされません。

けれど、今あるものに感謝できれば、心穏やかになり、幸せが広がっていきます。

秋の実りに手を合わせるように、日々の小さな恵みにも感謝の心を忘れずに過ごしてまいりましょう。その心が、仏さまの教えに近づく一歩になるのです。

「三拝九拝」

岐阜市 勝林寺 住職 等 真一 師

お寺の法要にお参りをされますと、法要のはじめと終わりにお導師様やお役の和尚様方が三度の合掌礼拝をされるのをお気づきのことかと思います。この動作を三拝といいます。

法要によってお導師様は九拝されることもございます。一般に使われております三拝九拝とは何度も頭を下げて拝むこと。またそのようにして頼むことと言う意味として使われておりますが、仏教では三拝九拝と何度もお拝をすることが大切な項目となっており、特に禅宗ではこれを丁寧に行います。

禅宗の和尚様達は常にこの三拝九拝をもって仏様にご挨拶をし、感謝の誠を捧げております。もちろん仏様ばかりではなく私たちを取り巻くすべてのものに感謝しなければなりません。「ありがたいと思う心が今日の幸せ」

「ありがとうと言われるように言うように」

という標語がありますが、本当の三拝九拝は

お拝をされる方もする方も、そのまま仏様であり、お悟りの姿そのものでなければなりません。拝むからこれをしてほしいとか、お願いをするような三拝九拝ではなく、一人一人がありがたいと自然と手を合わせて頭を下げる本来の三拝九拝をすることが、人々の幸せにつながっていくのではないでしょうか。

 

「修行の場である場所」

羽島市 本覚寺 住職 大橋 陵賢 師

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように今年の猛暑も過ぎ去り過ごしやすい時期になりました。彼岸の意味を知らなくても、お彼岸はお墓参りに行くという行いは誰もが知っていることではないでしょうか。そのお墓、石塔を建てる他に永代供養墓や樹木葬など数多の形態がございます。どれが良いとかではなく、重要なのは「皆が集う場所」であることです。

仏教では旅立った後の世界つまり死後の世界と今生きている世界を分け隔てなく捉えています。そこで旅立った皆様と今生きている私たちが集える場所がお墓であるのです。お仏壇は個人宅にあり親族がいつでもお参りできるわけではありません、ですが墓地のそのほとんどが二十四時間いつでも御参りできるのです。困りごと、人生での分岐点など迷いごとがあったら、どうかお墓の前で手を合わせてみて下さい。右の道なのか左の道なのか必ずその進むべき道筋を示していただけます。自分自身を見つめなおす行いを実践する場所がお墓なのです。お彼岸だからお墓参りに行こうというだけでなく、いつでも生きている私たちも旅立った皆様方も集っていただける場所であるのです。

「禅の心、その一歩」

岐阜市 医王寺 徒弟 透 晃潤 師

気持ちがどうにも落ち着かない時間が訪れたことがあると思います。

妙にそわそわして、じっとしていられない。

なにかをしている時でも、やけに時間の流れが遅い。

あるいは、その逆も。なんの気力も沸かない鬱屈とした時間も、

忘れたい時間も、訪れたことはあるでしょう。

 

これらは、過去や未来にとらわれていることが原因で起こります。

これを乗り越える事は、一見難しそうですが、

今回、私が話されてきた「禅の心」を、簡単にお裾分けさせていただいて、

なにかの糸口になれば幸いです。

 

一意専心、という言葉がございます。

これは、他のものごとに心を向けず、一つの物事に集中することを意味します。

自分がしたいことをしている時、

眼の前にお出しされた仕事でも真剣に、

料理でも、目一杯味わうなど。

目の前のものごとに、ひたすらに集中する。

このことが、禅の心にも通じてきます。

 

坐禅でも同じように、

只管打坐、という言葉があります。

曹洞宗の開祖、道元禅師が説かれたこれは、

坐禅の本質として重要視されています。

他事を考えることなく、ただ姿勢よく坐る。

修行中に掛けられた言葉ですが、

姿勢が良くなれば、息が整う。

息が整えば、心が調っていく。

心が調えば、曲のついた姿勢も整っていきます。

ですが、それらを目的にして坐禅をするのではなく、

大事なのは、「ただ打ち込むこと」にあります。

ただひとえに、坐ることに集中しよう、ということです。

 

坐禅と同じように、

本を読むことでも、目を瞑ってただ座ることも、

或いは何もしたくない状況でも。

真剣にやっていれば、次第に何かしらの結果がついてきます。

退屈な時間や、忘れたい時間が過ぎ去るといった結果も、です。

これこそ、今を大事にしている、という事でございましょう。

目の前のことにひたすら立ち向かっている時、

過去にも未来にもとらわれない、「今」歩みたい方向を向いている、

禅の心の持ち主となるのではないでしょうか

「お互いを敬う」

高山市 素玄寺 住職 三塚泰俊 師

近年は、私の住んでいる高山市にも連日多くの外国人観光客が訪れます。

先日、若いアメリカ人男性の方が、ご朱印を求めにお寺にお越しになりました。お互いに

日本語や英語を交えてやり取りをし、ご朱印帳をお渡し致しました。その方はお帰りにな

られる時、直立不動でとても綺麗な合掌をしながら深々とお辞儀をされ、日本語で「有難

うございました。」と御礼を言われました。

私は、そのお姿を拝見し、とてもすがすがしい気持ちになりました。それと同時に、

僧侶である自分は、その方のような丁寧な合掌と相手に対する御礼ができているのかなと

、少し恥ずかしい気持ちになりました。

仏教で合掌とは、右手は清らかな仏様を表し、左手は至らない自分自身を表し、その

両手を合わせることで仏様と心を一体にすると言われており、仏様への帰依の姿です。

また、私たちは普段の生活で合掌する機会が多くあります。ご先祖へのお参り、食前食後

の挨拶や、御礼やお詫びをする時など、感謝や有難い気持ちを表す姿です。

永平寺などの修行道場では、修行僧がすれ違う際に、合掌をしてお辞儀をします。

それは「あなたは仏様になられるよう修行を積んでおられる尊い方です。私もそのように

なりたいです。」というお互いに尊敬をしている心の表れの行為です。

私たちは、日々の生活の中で、様々な方々と出会っています。お互いの存在を敬い、

合掌ができない場面なら、心の中で「ありがとうございます。」と合掌をし合えるような

日々を過ごしてゆきたいものです。

「今を生きる」

飛騨市 洞雲寺 住職 大森 俊道 師

私たち曹洞宗では、道元禅師さまの教えの中でも特に「只管打坐(しかんたざ)」ただ坐る、という修行を大切にしています。坐禅とは何かを求めるための手段ではなく、ただ静かに坐り、いまを生きるという実践そのものです。

けれども私たちは、日常の中でどうしても「過去」や「未来」に心を奪われがちです。

「もっとこうしておけばよかった」「あのとき、ああ言わなければよかった」

あるいは「この先どうなるんだろう」「老後は大丈夫だろうか」そんな思いが頭を巡ります。

もちろん、それも人間らしい心の働きです。しかし、それが過ぎてしまうと、「いまここにある幸せ」に気付けなくなってしまいます。

たとえば、朝に飲む一杯のお茶。日差しの暖かさ。子や孫の顔。こうした何気ないことの中に仏さまの教えが生きています。道元禅師は「日常生活こそ仏道である」と説かれました。食事をいただくとき、掃除をするとき、人と話すとき。その一つひとつが、すべて仏道の実践になるのです。

仏教には「知足(ちそく)」足るを知る、という言葉もあります。

いま自分に与えられているものに気付き、それに感謝する。そうすれば、心静かに満ちていきます。坐禅をしても雑念は浮かびます。それでも構いません。ただ、その雑念に気付き、また呼吸に、戻る。それを何度も繰り返します。まさに、私たちの人生そのものです。心がどこかに飛んでいっても、また「いま、ここ」に戻ってくる。それが修行です。いまこの瞬間を味わい、感謝して生きる。

その積み重ねが、私たちの人生を穏やかで豊かなものにしてくれるのです。

 

「言葉よりもっと大切なもの」

高山市 雲龍寺 住職 亀山 和浩 師

コロナ禍がおわり、昨年度の訪日外国人観光客の数は過去最高を記録しました。

日本でも有名な観光地である私の町にもそれは沢山の方々がいらっしゃっり、ただただ驚くばかりです。これまでは、お寺の方まで足を運ばれる方は少なかったのですが、最近は遊歩道を散策しながら境内を歩かれる方がとても増えました。

ある日、私が洋司に出かけようとすると、本堂前の階段に、外国の方が数人寝そべって会話をしていました。さすがに本尊様のまえですので、寝そべってというのは如何なものかと思いましたが、急いでいたこともありその場は通り過ぎることにしました。

その後、用事を済ませて帰ってくると、やはり同じように寝そべって談笑しています。せめて仏様の真ん前を避けることは、我々の文化を理解してもらうという点からも大事なことでありますので、ここはしっかり伝えようと思いました。

こういった場合、英語で何と言えば良いものかと色々思慮しているうちに、向こうから年配の女性が歩いてきました。この女性はお墓参りによくいらっしゃる方で、必ず本堂の前で帽子を脱ぎ、しばらく手を合わせて行かれます。この日も同じように本堂の前で帽子を脱ぎ、手を合わせられました。

すると、今まで寝そべっていた外国の方が何かに気付いたように慌ててその場を離れました。その女性の姿を見て、自分たちが居た場所がどれだけ大切な場所であるかに気付いたのでしょう。その一連の様子を目の当たりにしながら、その女性の姿がどれだけ尊いことか私自身も改めて気付いた次第です。

曹洞宗では「不立文字 教外別伝(ふりゅうもんじ きょうげべつでん)」という教えを大切にいたします。言葉や文字ももちろん重要ですが、それ以上に大切なものがあるという教えです。

その時、私が言葉であれこれ伝えようとしても、女性のその尊い姿以上にその真意を伝えることはできなかったでしょう。

仏様の教えに限らず、人を動かすのはやはり自分自身がどうこうどうするかなのではないでしょうか。