皆さま、本日はようお参りくださいました。
私たちは日々、多くのことを学んでいます。本を読み、人の話を聞き、「ああ、いいことを聞いた」「これは正しいことだ」と頭で理解します。しかし、せっかく得たその素晴らしい教えも、私たちの心の中に留まっているだけでは、まだ半分に過ぎません。
中国の思想家、王陽明が説いた**「知行合一」**という言葉があります。
これは文字通り、「知ること」と「行うこと」は、本来ひとつであるという教えです。
知識は行いの始まり
「知っているけれど、まだやっていない」という状態を、私たちはよく「知っている」と言います。しかし、この教えの厳しいところは、**「行わないのは、まだ本当には知っていないのと同じだ」**と説く点にあります。
例えば、お茶の熱さを「熱い」と知識で知っていても、実際に触れてその熱さに驚き、手を引くという体験をしなければ、本当の意味で「熱い」を知ったことにはなりません。
仏教の教えも同じです。
「慈悲が大切だ」と頭で知ることは、いわば「花の種」を手に持っている状態です。種は持っているだけでは芽を出しません。実際に困っている人に声をかける、あるいは誰かのために祈る。そうした**「行い」という土**に植えて初めて、種は命を宿し、美しい花を咲かせます。
行いは知識の完成
反対に、何も考えずに行動するのも危ういものです。
「行い」は「知識」という光に照らされて、正しい方向へと導かれます。
知ることは行いの始まりであり、行うことは知ることの完成なのです。
今日、この場所で何か一つでも「あ、いいな」と思う教えに出会ったなら、ぜひそれを「知識」として持ち帰るだけでなく、帰り道のどこかで、あるいは明日の朝の生活の中で、小さな「行い」に変えてみてください。
「知る」と「行う」が重なったとき、皆さまの心の中にある「知恵の種」は、きっと力強く根を張り、人生を彩る豊かな果実を結ぶことでしょう。
本日は、共にこの「知行合一」の心に触れられたご縁に感謝し、お話を終えさせていただきます。
テレフォン法話
曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881
土岐市 荘厳寺 副住職 軽部 文章 師
本日は、『修証義』第四章「発願利生」に説かれる
「布施・愛語・利行・同事」について、お話をさせていただきます。
これは、仏さまの教えを実際の生活の中でどう生かしていくか、その具体的な姿を示した四つの行いであります。
まず「布施」。
布施と聞きますと、お金や物を施すことを思い浮かべますが、それだけではありません。席を譲る、手を貸す等――そうした小さな行いも、すべて布施であります。
次に「愛語」。
これは、やさしい言葉、思いやりのある言葉をかけることです。
私たちはつい、きつい言葉や無関心な言葉を使ってしまうことがあります。しかし、たった一言のあたたかい言葉が、人の心を軽くすることもあるのです。
三つ目は「利行」。
これは、人のためになる行いをすること。見返りを求めるのではなく、「この人のためになるだろうか」と考えて動く、その姿勢であります。
そして最後が「同事」。
これは、相手と同じ立場に立つということです。
相手と同じ目線で、同じ場所に立って関わる。ここに、仏さまのまなざしがあります。
さてこの四つの行いは、それぞれ別々のもののようでいて、実は深くつながっています。
たとえば、誰かにやさしい言葉をかける「愛語」も、それは心を施す「布施」であり、相手のためになる「利行」でもあります。そして、その人の立場に寄り添うならば、それは「同事」となります。
日々の生活の中で、一つの心が様々な形となって現れている姿なのです。
『修証義』第四章が教えているのは、まさにそのような日常の中でこそ、他者に向かう心を忘れないということです。
ほんの一言、ほんの少しの気遣い、その小さな行いが相手の心をあたため、同時に自分自身の心も整えていくのです。
多治見市 福壽寺 副住職 伊藤隆祥 師
春は自然の中で新しい命が芽吹き、花が咲き誇る季節です。寒い冬を越えて、温かい陽気が広がり、草木が生き生きと生長を始めます。このように、春は「再生」と「希望」の象徴とも言える季節です。
仏教の教えにも「生死の循環」という考え方があります。命は常に生まれ、育ち、やがて終わりを迎えます。それでも、死後にはまた新たな命が生まれるという無常の心理が私たちに伝えられています。この自然のサイクルを見つめることで私たちも命の尊さを再認識し、今この瞬間を大切に生きることの重要性を学ぶことができます。
無いという字に常と書いて無常です。「無常」という言葉には、全てのものが移り変わり、永久に同じ状態ではないという意味があります。春に芽吹く新芽も、やがては枯れていきます。それが自然の摂理であり、私たちの生き方にも通じることです。
私たちも今この瞬間に起こる出来事に無駄なく向き合い、感謝しながら生きていくことが大切です。春の陽気に包まれて心を清らかにし、周囲の人々と共に生きる喜びを感じながら過ごしていきましょう。
また、曹洞宗の教えである「禅」の精神に従い、今ここに生きることを大切にし、一つ一つの瞬間に心を込めて味わっていきましょう。
大垣市 全昌寺 住職 不破 英明 師
四月を迎えました。新たな季節が始まり、何か新しいことをやってみようと心に決めた方もあるでしょう。そんな思いを発すことを発心といいます。ただし発心と言っても何でも良いわけではありません。道元禅師様は「発心正しからざれば万行空しく施す」と説かれ、私たちの行いというものは「正しい発心」が先ず最初になければならないとお示しになります。「正しい発心」とは自分のことだけを考えて心を発すことではなく、自分も含め生きとし生けるもの全ての為に生きてゆこうと願うことです。
眼蔵会といいまして道元禅師さまが記された正法眼蔵を学ぶ研鑽の場に通っていた頃のことです。難しい内容が多く、その日の帰り道、自分にはわからないことばかりだと私は肩を落としながら歩いておりました。夕暮れ時、夕陽に向かって先を歩く先輩の和尚が私に話しかけて下さいました。「私たちは本当に有難いよね。迷うことなくお釈迦さまの御教えにただ従って日々実践して生きてゆけばよいのだから。」そうお聞きした時、何故だか分かりませんが目に涙が滲んできました。今にして思えば、「発心は一度限りではない。悩んでいても歩いているその道は正しいのだから安心してこれからも発心し続けなさい。」そう励まして下さったのだと思うのです。夕陽に向かって歩くこの一歩一歩が一つ一つの発心であるように生きてゆきたい、そう心から思いました。私がすべきことは肩を落とし歩くことではなく、その時その時自分が出来ることを行ってゆくことだと知ったのです。発心というのは「或るひと時の思い」ではありません。「その都度その都度、願いを自らに言い聞かせ歩み続けること」なのです。
この春、皆さんが心に思った目標や願いが他の人々と分かち合える正しい発心であるならば、たとえ迷うことがあっても不安になることなくその道を歩み続けて欲しい、そう思うのです。
多治見市 安養寺 副住職 小島 泰寛 師
「世は無常なり 会う者は必ず離るることあり 憂悩をいだくことなかれ 世相かくのごとし」
この世は無常、すなわち常に変わらないものは存在せず、巡り合った大切な人とはいつかは別れなければならない。これが私たちに定められた理です。それを頭のどこかで理解をし、心のどこかで覚悟していても、その別れに臨んだ時、やりきれない思いをすることがあります。
先日、私にも悲しい別れがございました。それは友人の奥様の訃報でした。出産後に体調を崩され、そのままお亡くなりになったとのことでした。
奥様とは数年前の友人夫妻の結婚式にお会いたのが最後でした。遠くに住む友人とは年に数回しか会えませんでしたが、会うたびに「いつか家族と一緒に奥様やお子さんにも会いに行くよ」と話しをしていました。しかし、その「いつか」はついに訪れることはありませんでした。「いつかではなくちゃんと時間をつくって会いにいっていればよかった」と、後悔の念に駆られました。
巡り合った大切な人は私たちに様々なことを教えてくれます。しかし、その最期の教えは誰しも同じです。
「あの時あれをやっておけばよかった。あの時こうしておけばよかった。あの人にああ接しておけばよかった。あの人にこの思いを伝えておけばよかった。そう思っても遅いのだよ。だからこそ、『いま』と大切に生きなさい。『いま』という瞬間を、怠ることなく、疎かにすることなく、先送りにすることなく、丁寧に一生懸命に生きていきなさい。そして、いま周りにいる大切な人との時間を『当たり前の時間』だと思わずに『かけがえのない時間』だと思って生きていくのだよ」と。
「憂悩をいだくことなかれ 世相かくのごとし」
去る命があれば、生まれる命もある。これもまた常ならぬ「無常」です。出会いがあり別れがあるこの人生。一喜一憂するのではなく、「出会いも別れも人生の大切な場面だからこそ、そのひとつひとつをしっかり受け止めて、とらわれることなく引きずられることなく、前を向き生きていきなさい」と釈迦様はお示しなのだと私は受け止めています。
奥様のお悔やみに伺ったとき、友人はこのように話してくれました。
「妻が残してくれた命を、託してくれた命をしっかりと育てていくこと。それを見せることが、自分にできる最大のつとめだ」と。
春は、桜が咲き、散っていくように、出会いと別れの季節でもあります。出会いも別れも大切にしながら、ともに「いま」という瞬間を大切に生きてまいりましょう。
関市 宝泉寺 住職 花村 英映 師
寒さの中にも、少しずつ春の気配を感じる三月となりました。日差しのやわらかさや、芽を出し始めた草や花の様子に、季節の移ろいを感じます。三月は、卒業や転勤、引っ越しなど、生活の節目を迎える方も多い時期です。
私たちの暮らしもまた、少しずつ変わっていきます。人とのご縁や環境、そして自分の心も、同じままではありません。仏教では、このような移ろいを大切に受け止め、日々のつながりや出来事に気づくことが大切だと伝えられています。変化は、ときにさみしさや不安を感じることもありますが、その中に新しい出会いや喜びもあります。少しずつ歩みを進めながら、毎日を大切に過ごしていきましょう。
忙しい日々の中で、心が落ち着かないと感じることもあるでしょう。そんな時は、少し立ち止まり、呼吸を整えてみてください。息を吸い、息を吐く。その当たり前の営みの中に、今ここにいる自分を感じることができます。
また、日常の小さな出来事にも目を向けてみてください。誰かとの会話、朝の光、家族や友人の笑顔。こうした一つひとつが、私たちの心を支え、暮らしを少しずつ豊かにしてくれます。日々の気づきや感謝を大切にすることも、心を落ち着かせる助けになります。
三月の一日一日を大切に過ごし、身近な出来事やご縁に心を向けながら、穏やかに過ごしてみてください。
郡上市 悟竹院 住職 稲村 隆元 師
二月も半ばになると年度末が見え始め、学生や社会人問わずそれぞれが慌ただしく焦燥感に襲われる人も少なくない時期です。やるべきことや、やりたいことを考えると一日一日があっという間に過ぎて行ってしまうことでしょう。
目標を掲げて努力することは立派なことですし、他者に評価されなくとも尊いことです。しかし、人生を歩む中でどんどんと新たな目標を作ってひたすらに走り続けられる人はごくわずかではないでしょうか。
長距離を走るマラソンランナーも給水をし、高速でサーキットを駆け抜けるF1レーサーもピットインをします。人ではない機械であってもメンテナンスは重要です。
集中して物事に専念しているときこそ一息つくのは、継続し続けるために必要なことだといえます。
坐禅をするにあたって行うことに「欠気一息」というものがあります。坐禅の姿勢を整え、ゆっくりと鼻から吸い、口から吐いて深呼吸をすることで呼吸とともに心を落ち着けていく行為です。
目標に向かって突き進む最中や、普段通りの日々を生きていく中でも、立ち止まらずに生きていける人はいません。不安や焦りを感じたときには、その場でホッと一息、「欠気一息」深く深呼吸をしてまた進んでまいりましょう。
美濃市 正林寺 住職 荒田 章観 師
「ひとたびは 涅槃の雲に いりぬとも 月はまどかに 世を照らすなり 世を照らすなり」
梅花流詠讃歌の大聖釈迦如来涅槃御詠歌(不滅)の歌詞です。毎年2月15日はお釈迦さまがお亡くなりになられた日になります。皆さんの菩提寺でもこの時期になると涅槃図が飾られているのではないでしょうか?
お釈迦さまがお亡くなりになられた後、仏教はお釈迦さまの教えを受けたお弟子さんから、そのお弟子さん、そのまたお弟子さんへと連綿と今に受け継がれて参りました。しかし、この「受け継がれる」ということは何も仏教だけではありません。今、生きている皆さんもご両親、祖父母、さらにさかのぼって…。私たちはいつでもいろいろなものを受け取って生きているのです。
お釈迦さまが亡くなられて一度は雲に隠れてしまった月が、それでもまた顔を出し世を照らすように私たちの生活の中にその教えは生きています。まずは手を合わせて「南無釈迦牟尼仏」とお唱えしてみてはいかがでしょうか。
関市 天徳寺 住職 水野 弘基 師
皆さんこんにちは、こんばんは。関市天徳寺住職、水野弘基と申します。
お正月といえば、お寺にお参りに行く機会も多くなる事と思います。本尊様に今年一年の無事を願い、ご先祖に新たな年の御挨拶をする。というものです。
お寺では正月三が日の間、毎日今年一年の無事を御祈祷し、大般若のお札を皆様のご家庭にお届けします。
かつてお正月は年が改まる大きな節目として、皆でお餅を搗き、遠方に行っているお子さんやお孫さんが実家に帰ってくる。お寺や神社に初詣をして家族団欒で過ごす、というのが普通でした。昨今は七連休だ、九連休だということで温泉に行く、海外に行くという方も多いようです。もっともこんな時じゃないと連休が取りづらいのも確かで時の流れに順応していくのも一概に悪い事だとも思いません。
先日お葬式を出された方からこんな質問を受けました。
「お葬式を出したばかりだけど、忘年会や新年会、そして初詣はどうしたら良いでしょう?」というものでした。私はこう答えました。
「昔なら一年は喪に服すものだったでしょうが、今日日は時の流れも速いので四十九日が終わっていれば問題ないでしょう。私の考えなのでご家族で相談してみて下さい。」
と言うと、少し嬉しそうに
「毎年、初詣でお伊勢参りをしているので行かないと寂しくて、どうしようか迷っていたんです。それなら行ってきます、」
と言われました。それでいい。と私は思いました。
昭和の中頃までは、どの家庭も三世代同居が当たり前で、日本の古来の風習は自然におじいちゃんおばあちゃんがやっていることを見て覚えました。昨今は核家族で、なんとなくお寺の事はおじいちゃんおばあちゃんの仕事。特に気にすることも無く、覚える間もなく、おじいちゃんおばあちゃんが亡くなってしまうと、急に何をどうしていいやら分からなくなってしまうものです。
お葬式ってどうやってやるの?法事ってどうやってやるの?お布施はいくら包んだらいいの?このご時世では仕方の無いことだと思います。お寺は何も怖いところじゃありません。どんなに初歩的なことを聞いても怒られることはありません。気軽にこうゆう時はどうしたら良いでしょう?と聞いてみましょう。きっと優しく教えてくれるはずです。そしてもし、お正月やお盆におじいちゃんおばあちゃんに会う機会があれば、そんなことを話題にしてみるのも良い事だと思います。
皆さんにとって今年がより良い年でありますように。
曹洞宗岐阜県宗務所長 多治見市 安養寺 住職 小島 尚寛 師
新年明けましておめでとうございます。令和8年の新春を迎え、皆様の万福多幸をご祈念申し上げます。
日頃より、テレホン法話をお聴きいただき、感謝申し上げます。私事ではありますが、本年12月を以て、二期8年、宗務所長としての役割を終えるに当たり、最後の新年テレホン法話となりました。合わせて御礼申し上げます。
顧みますと、特にここ数年来、生じる自然災害、事件、事故、世界各地で起きる紛争等に苛まれ、心を痛め、苦悩の日々、絶ゆることがありませんでした。
その多くの苦しみ、悩みを抱く中、私たちは慈悲の心を持って助け合い、力を合わせ生きて参りました。
しかし、この先、世の中の変化は多様化し、スピードも早まっていくような感がいたします。
このような世情にあってこそ、我々はいま何をすべきか。
「脚下照顧―自身の足元を見つめ、自分の行いや心のあり方を静かに深く顧みる―」、
「菩提心―人の幸せを願う心―」を持って、
「菩薩行―自身の救済だけでなく他者の救済、幸福、平和な世の中の現実を願い、慈悲の心―」を保ち、実践していくことが最も肝要な事と存じます。
その行いが、重なり合い、積み上げていくことがやがて大きな力となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。
我が宗門には、「授戒会」という実践修行があります。ひと言でお伝えするのであれば、今までの生き方を省みて、自らの行いを振り返り、仏様の前でお釈迦様の御教え(戒法)に沿った生き方を学び、修行することで、よい生き方を身に付け、更にお誓い申し上げ、仏弟子となって戒名を授かる儀式です。
この授戒会は自らの修行に止まらず、周りの方々をも善き道(善道)へと導く尊きご修行でもあります。
宗務所として、本年5月16、17日、6月12、13、14日、大本山永平寺禅師様をお招きして、多治見市・安養寺にて執り行います。
詳しくは菩提寺さんにお尋ねください。
そして、ひとりでも多くの方に、この善きご縁に出会い、結んでいただけますよう強く願うものであります。
今の苦難を乗り越え、
仏と出会い、善きご縁を結び
新しき良き年へと踏み出しましょう。
万福多幸 如意吉祥ならんことを
