テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「挑戦すること」

白川町 豊川寺 住職 宇都宮英俊 師

新年を迎え半月以上が経ちました。新たな気持ちで新年を迎え、今年こそは達成したい目標はあるかと思います。

私自身何年もかけて挑戦してきたことがあります。その挑戦はとある資格の取得に向けての取り組みでした。合格率は20パーセントと言われ、中々合格するには大変だという認識でいました。はじめはもともと受からなくてもよいと思い軽い気持ちで何度か挑戦しました。ただ年数が経つうちに学習する意欲にむらがあり、集中して取り組もうということもできずにただ挑戦しているだけという自分がいました。しかし、職場の同僚や先輩方に頑張れと、声をかけてもらえたり、一緒に挑戦して頑張りましょうと、前向きな声がかかるようになってきて、今のままではいけないと心を入れ替え挑戦をあきらめずに続けました。まわりからの声で自身の怠惰な気持ちに気づき、自分の気持ちの甘さに反省をしました。それから心を入れ替え時間を見てコツコツと自身にあった学習方法で何とかその挑戦を果たすことができました。

ひとはあるところまで達すると少し歩みを止めて先に進むことをやめてしまうことがあるように思います。「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」という禅のことばがあります。

この言葉はあるところまで達すると竿の先まで達して、竿の先にはもう道がなくさらに一歩を進もうとするということであり、尽力を尽くしても、さらに尽力するという教えです。

みなさまもすでにやりつくしてしまっていることがあり、悶々とすごしている方もあるかと思います。そんな時にこの言葉のようにさらに勇気を持って、前進してみてはいかがでしょうか。その先にまた新しい世界が広がっているかもしれません。

「仏に向かい合い―自分に問う」

曹洞宗岐阜県宗務所所長 多治見市 安養寺 住職 小島尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

今回で、所長としてのテレホン法話、6回目となりました。

新型コロナ感染症もここに来て、稍や落ち着き始めたといえども、世の中は多くの事件、事故、自然災害と苦難の日々は絶ゆることはありません。

我々一人一人の力では、その苦難に立ち向かうことはなかなか出来ません。

しかし、助け合い、幸せを願い、それが喩え小さくとも、僅かであれ、安らぎの時を願い、行い続ける。

そして、人を思う心ことが、集まり、重なり合えばこそ、やがて大きな力となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

積土成山(せきどせいざん)「努力を積み重ねれば、大きなことを成し遂げられる」ひとつひとつの積み重ねがやがて大きな山となる。

その中に今、自分として何が出来うるか、常に私たちを見守り続けて頂いている、仏壇に居ませし、ご本尊様、ご先祖様、そして菩提寺のご本尊様であるがこそ、その仏に向き合い、自分に問うことにより、我が道が開けるのかもしれません。

人生はその時その時の積み重ね。心静かに今を見つめ、ともに学び、ともに願い、ともに実践して、仏に向き合い、自分に問う。新しき良き年へと、共に一歩を進み出しましょう。

怨敵退散、如意吉祥ならんことを。合掌。

「現代における諸行無常」 

関市 福田寺 住職 橋本崇典 師

今年も残りあと僅かとなりました。1年過ぎるのは本当に早いですね。

先日今年の新語・流行語大賞が発表され、その中にチャットGPTという言葉がありました。チャットGPTとは人工知能AIを使用した会話型のサービスのことです。人工知能を持ったコンピューターと会話ができます。ここで「崖から落ちそうになった男」の話をします。

とある男が崖から落ちそうになった。死の恐怖に錯乱した彼だが、とっさに観音様に拝んだ。そうすると平穏を取り戻し、通りかかった人たちに助けられた。それ以来彼は観音様を厚く拝むようになった。信仰とは己に向き合い、心の平穏を保つもの。慌てふためき、動揺するときこそ仏様を思い出し穏やかな心で生きましょう。

ふーんなるほどと思った話ですが、これは人工知能AIに法話を作ってと書かせた話です。なんだ人工知能が作った話かと揶揄するところですが、便利な時代になりました。

お釈迦様の教えのひとつに「諸行無常」があります。この世のあらゆる物事は一瞬たりとも停止することなく、常に変化し続けているということを伝えています。また、怠らず努めよとも言われました。今という時間を真摯に受け止め、今すべきことを考え積極的に過ごしましょうと。先ほどの人工知能はこれから欠かせない時代となって行くでしょう。人の働き方が変わり、価値感が変化していく時代に改めて人にしかできないこと、大切にしていくことを考え怠らず努めていくことが重要だと思います。

それでは、よいお年をお迎えください。

「ギブ&ギブ」

関市 圓通寺 住職 岡田英賢 師

本日は「ギブ&ギブ」というお話をしたいと思います。

「ギブ&テイク」は知っていても「ギブ&ギブ」って何?と思われる方もみえるかもしれません。

私たちは日ごろ、“あの人に何かしてあげたから”、“今度は何かお返しをしてもらいたい”といったように相手から見返りを求めてしまったり期待をしてしまったりすることは、少なからず誰にでもあるのではないでしょうか?

先日、ある建築会社の社長さんが、「ご住職ね、仕事というのは人から与えられるのですよ。だから、その人の心を動かさないとダメなんですよね。この人に頼みたいって・・・そう思ってもらえるようにならないといけないんですよ」と話してくださいました。

その社長さんは、いつもどうしたら喜んでもらえるか?お客さんの立場に立って損得よりもその人に合った家つくりを心がけてみえる方でした。

相手からの見返り“テイク”は後回しで、まさに「ギブ&ギブ」を実践される方でした。

私たちは相手から何かをしていただくと「今度は何かこちらからお返しをしなければ」と、そう思うものです。本当に相手のことを思って続けた結果が相手から信頼と、この人に頼みたいと思ってもらえる成功へとつながっていったのです。

曹洞宗を開かれました、道元禅師さまは、

「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」

とお示しになりました。

利行と申しますのは、「見返りを求めない、無条件に相手のためになす行い」のことでございます。

すべての人に、思いやりの心で向き合っていくこと。そして、そこには、相手の気持ちに寄り添っていく心が大切になってきます。家族が支えあい、社会が支えあう。「ギブ&ギブ」とはみなさんのお仕事においても、また、私たちの日常の様々な人間関係を円滑に進めていく一つの術となるのではないでしょうか?

お互いに思いやる心「ギブ&ギブ」の心が世界中に広がりますように。

「あいさつで街の活性を」

岐阜市 金剛寺 住職 山田一義 師

我々の校区では、15年以上前から防犯パトロール隊のボランティア活動をしています。会員は約80名で主として学童の下校時の交通事故や犯罪防止のため、主要箇所を中心に立ち実施しています。

また、10年前から、さらに安全・安心な校区にするため青色回転灯装着車両による、防犯パトロール巡回も実施しています。会員の協力により現在まで何の事故や犯罪などもない活動ができ、各方面より大変感謝されています。

このボランティア活動をやっていて、特に学童にふれあう時間が大変多い。一般的にかわす挨拶は、おはよう・こんにちは・おかえり、また成人の方々には、季節のこと・天候・あるいは近頃の情勢など、あいさつは人間関係を円滑にする上で、大変重要な役割を持っています。

学童下校時で防犯パトロールの当番日、「おかえり」と言うとみんなが「ただいま」と返事が返ってくる。また、朝の登校時、道へ出ると小学生が並んで学校に向かう。「おはよう」「いってらっしゃい」と声をかける。「いってきます」などの返事が返ってくる。

こうして笑顔であいさつができ、子供たちだけでなく、このボランティア活動により地域の方々とも広くつながりができ、連携が密になった気がします。

我々の防犯パトロール隊の出迎え。青色回転灯車両の巡回で、自主的な防犯活動を行う中で、色々な犯罪防止に役立ち、事故のない安心で平穏、さらにはいつでもあいさつができ、明るい町づくりをこれからも維持してまいりたいものです。

「迷惑を許す」

揖斐川町 月桂院 副住職 杉山秀宣 師

今の日本は超高齢化社会となっており、65歳以上の方が人口の3分の1にまで増えております。当然、高齢者の人口が増えるという事は、介護が必要な高齢者も増えるということになります。人は誰しもが老い、そして誰かのお世話になるのです。

私は僧侶の傍らで介護保険のケアマネジャーの仕事を担っております。普段から高齢者の方やご家族の方とお話をする機会が多くあります。

お話を伺うと「家族に迷惑を掛けたくない。施設に入った方が良いのかも知れん」という言葉がよく聞かれます。その方は自分の存在が家族に迷惑を掛けているのではないかと思い悩まれるのです。ご家族の方は「そんな事はない。迷惑だなんて思わないで」と言われます。

私は、人は周りに迷惑をかけずに生きる事はできないと考えます。生きている以上、必ず他人に迷惑をかけているのです。それを許される事によって生きさせてもらっているのではないでしょうか?インドでは子供に「人に迷惑をかけるな」とは教えないそうです。「人は迷惑をかけるものだから、他人の迷惑を許す様に」と教えるそうです。自分が迷惑をかけている事が解っていれば、他人の迷惑を許す事が出来るのです。

私は、この様な相談を受ける時には「お互いがお互いを想う気持ちがあって悩まれているのであると、その気持ちが相手に伝わる事で、結果が自宅で介護してもらう事になっても、施設で介護してもらう事になっても、それが最善の選択になります」とお伝えして安心していただきます。

皆さんも生活のどんな場面でも、相手の事を考え迷惑を許す思いやりのある言葉(愛語)を伝える様にしてはいかがでしょうか。人との関係や大きく言えば社会環境が変わって来るかも知れません。

「心を落ち着ける」 

垂井町 即現寺 住職 神野元秀 師

新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてから約3年半が経ちました。様々な行動などが制限され、以前とは日常生活も大きく変わりました。日本では、5月から新型コロナウイルスは5類に引き下げられ、少しずつ以前のような生活が戻りつつありますが、コロナ禍によって、以前とは変わったことも多く、日常生活の中で悩みやストレスを抱えている方も多いと思います。私自身、うまくいかずにイライラしたり慌ててしまうことも多くあります。そんな時には、一度、ゆっくりと深呼吸してみてください。

道元禅師は坐禅の指導書である「普勧坐禅儀」のなかで「鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し」と記されております。欠気一息とは身体の中の空気をゆっくりとすべて吐き出すことです。坐禅の心得として身を調える「調身」、息を調える「調息」、心を調える「調心」があります。この「調身」、「調息」、「調心」の三つは相互にかかわりあっています。つまり、自分の姿勢に気を配り、呼吸を調えることで、自然と心も調ってくるのです。これは日常生活にも生かすことができると思います。一度立ち止まり、ゆっくりと息を吸ってゆっくりと息を吐く。こうすることで心が落ち着いていきます。忙しい日常生活の中、少しだけ立ち止まって、深呼吸をして心を落ち着けてみてはいかかでしょうか。

「合掌の作法から気づいたこと」

岐阜市 林陽寺徒弟 岩水峰雪 師

私達の生活の中で合掌をすることが時々あると思いますが、皆さんは、合掌の形をきちんと意識したことはありますか?

先日、ある友人が合掌をする時に、親指から小指まできちんと手を揃えてから息を調えていくと心が落ち着きますと話してくれました。普段そこまで合掌の手を意識したことがなかった私は彼女に習い、合掌の時に指が離れている時と、離れていない時の息と心の感じ方を試してみました。すると、どうでしょう。指が離れている時はどことなく気持ちが外側を向いて息も意識しづらく心は注意散漫としてきます。逆にきちんと指を揃えた合掌は、息が意識しやすく気持ちも内側に集中していき、この瞬間に心が向きやすくなっていきます。修行中によく合掌の小指が離れていることを指摘されていたのですが、こういう大切な事が隠れていたのだと恥ずかしながら、ようやく知ることができました。

禅の世界では、「調身・調息・調心」の教えを大切にします。まず形という作法を重んじます。そして、次に息を意識していきます。その結果、心が調い自分自身を見つめる力が生まれていきます。なぜ、一番最初に形を大切にするかというと、最初から心を調えようとしても、思考が邪魔をして調えられるものではないからです。「身体、息、心」この3つは密接に繋がっています。「姿勢を調え」、「息を調え」、「心を調える」、この順番にも意味があるのです。ステップバイステップ、一歩ずつ着実に事を運ぶことで心は落ち着き、自らを見直す力が生まれてきます。

お盆やお正月には合掌をする機会も多いと思います。皆さんも合掌をする際には手の合わせ方をちょっと意識してみてはいかがでしょうか。

「挨拶について」

各務原市 慈眼寺 住職 宮崎證俊 師

私は数年前から体力作りの為に登山を始めました。

地元の低山から北アルプスの3000メートル級の山まで時間を見つけては登っています。

 

登山のマナーとして他の登山客とすれ違う時に挨拶を交わすというものがあります。

これは日常的なマナーであるという他に、遭難や滑落といった万が一の時の目撃情報に繋がるという意味合いもあります。なにより純粋に挨拶を交わしあうのは気持ちのいいものですよね。

 

私自身まだまだ登山初心者ですので、出来るだけ挨拶は欠かさないようにしています。特に初めて登る山では、下山してくる方にこの先の様子や注意点を聞いたりもしています。

しかし、挨拶しても毎回必ず返事が帰ってくるとは限りません。

相手をよく見てみましょう。急な登りで息を切らしていないか、会釈で挨拶してくれていないか、咲いている花や景色に夢中になっていないか。

マナーに固執して本来の登山の楽しみや目的を忘れてしまっては本末転倒です。

 

挨拶というのは元々、仏教の「一挨一拶」という言葉で、お師匠さまが弟子に悟りを試す禅問答に由来します。そこから一般的に広まり、人に会った時や別れる時に交わす言葉や動作となりました。元の意味を考えますと、互いの心を開き、向き合うことこそが挨拶なのです。温かい気持ちでふれあうことが大事なことであり、返事を期待してかける言葉が挨拶ではありません。

 

「おはよう」「おやすみなさい」「いただきます」「ごちそうさまでした」「ただいま」「おかえり」

何の為の誰の為の挨拶なのか。その時の状況にあった言葉や行動を心がけ、皆様が気持ちよく生活できる事を願います。

「ありがとうという言葉」

岐阜市 龍雲寺 住職 梅村季弘 師

人は「ありがとう」という言葉を、一生の間に何回言うのでしょうか。

「ありがとう」という言葉は、人がいる場所を和ませる力を持っていると思えます。「ありがとう」という言葉、感謝するという心は、私たちが生きていくうえで、とても大切な事柄です。

先日、車を運転していて、横断歩道にさしかかりました。歩行者の姿を見つけ、車を停止させました。すると、高齢の歩行者の方は、頭を下げられ、声は聞こえませんが、口の動きから、ありがとうと言っているのがわかりました。横断歩道で、車が止まるのは当然の事です。しかし、その歩行者の方は感謝の心を伝えてくれました。其のことによって、私の心の中にとても温かく、さわやかな感情が生まれました。止まってよかった、ゆっくり渡ってくださいね、という、相手を気遣う心にゆとりまで生まれました。感謝の言葉を伝えるというささやかな行動が、もたらしてくれた出来事でした。もし、この時、歩行者の方が、ただ渡るだけで、無言で渡ったら、此のことは、日常の出来事の一つとして、忘れられていきます。しかし、感謝を伝えるという、行動ひとつで、他者の心に温かく、明るい光をともし、平凡な日常の中で、彩りとなり、心の栄養となっていくことになりました。

見知らぬ者に対してのほんの小さな、感謝を伝えるという行動で、心が温かくなるのならば、毎日顔を合わせる家族にも、ぜひ、感謝の心を向けて欲しいと思います。ありがとうの言葉がけは、日々の暮らしをきっと、穏やかで、明るいものにしてくれます。物を渡されたとき、お茶を入れてくれた時、ほんの些細な事で、良いのだと思います。「ありがとう」この穏やかな、温かい気持ちは、人に伝わります。「ありがとう」という言葉は、優しさを生み出してくれるのです。