生を明らめ死を明らむるは

中津川市 東円寺住職 松山 宗永 師

作家の五木寛之さんと瀬戸内寂聴さんの対談の中に、こんな話がありました。

五木さんがこう質問されました

「単純な質問なんですけど、この科学の発達して宇宙へも行く時代に、どうして人間はこれほどまでに魂とか心とかにこだわるのでしょうか?」

瀬戸内寂聴さんは

「それはやっぱり死後ということを考えざるを得ませんでしょうね。だって人間は全部死ぬんですもの。死ぬために生きているんですもの。そうすると、死ぬために生きてるんだったら、初めから生まれてこない方がいいですからね。

しかも御釈迦様に言わせたら、この世界は苦の世界でしょう。

なぜ、その苦しみを味わうために生きて行かなきゃならないか。その挙句に結局死ぬんだったら、一体私の人生なんだ!

とみんな思うでしょう。だから、死後の世界に対して、もうちょっと自分の納得の行くものが欲しい。と思ってジタバタして、そこに宗教が生まれるんじゃないでしょうか。仏教というのは、死を極めることなんですものね。

大事な人を失うと、火葬にして骨と灰になる。これだけ?と思いますよね。魂があるんじゃないか?とか

あらゆる宗教は死について考えることですし、そして必ず死の向こうにまた、一つの世界があると思うことでしょう。」

と答えられました。

永平寺を開かれた道元禅師様は、

「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」

生きること、死ぬことを明らかにすることが仏教の一番大事なことですよ。とお示しになられております。

望んでも死者は返らず、若さはとどまらない。人生の出来事は全て無常である。しかし、その無常の結果として「今ここに」自分があるわけです。

怒れる日もあるし、しょげる日もあります。でも、きっと明日はいい日ですよ!