「しあわせ」の見える目・目を開けて眠っている人

関市 満願寺 住職 酒井能道 師

人間は無くてもがまんできることの中に、しあわせを追い求め、それがなくてはしあわせなど成り立ちようのない、大切なことを粗末に考えているようです。たとえば、子どもが優等生で有名学校に入学するというようなことの中に、しあわせをを追い求めるあまり、子どもが健康でいてくれるというような、それなしにはしあわせなど成り立ちようのない大切なことを粗末に考えているのではないでしょうか。「それなくしては、しあわせなど成り立ちようのない大切なこと」「あたりまえ」のすばらしさの見えない人、そういう人を「目をあけて眠っている人」というのです。

 あたりまえのすばらしさ、それは、朝目が覚めて吸う澄んだ空気、仰ぎ見る大空と明るい日差し、風の気持ちよさ、鳥のさえずり、一杯の水のありがたさ・・・・・どれもこれも、あたりまえのことですが、なんらかの事情で五感で感じる、それらのことが出来ない多くの人がいるのです。そう考えると、私たちは、決して「目をあけて眠っている人」になってはいけません。

 盲学校の全盲の生徒が、「先生、そりゃ見えたらお母ちゃんの顔が見たいわ。でも、もし見えたら、あれも見たいこれも見たいということになって気が散ってダメになってしまうかもわからへん。見えんかて別にどういうことあらへん。先生、見えんのは不自由や、でも、ぼく”不幸や“思ったこと一ぺんもあらへん。先生、不自由と不幸は違うんやな」と言ったといいます。大好きなお母さんの顔さえ見ることができない、光のない世界を生きながら「不幸や思ったこと一ぺんもあらへん」と言い切ることのできる、この子の「しあわせの見える目」を思うと、私などずかしくなってしまいます。