テレフォン法話

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「秋の彼岸」

各務原市 寶禅寺 住職 宮崎 證俊 師


暑かった夏から朝晩の風に心地よい涼しさを感じるお彼岸の時期になってまいりました。
お彼岸という言葉は、私たちが生きる迷いの世界「此岸(しがん)」に対して、仏様のいらっしゃる調った世界「彼岸(ひがん)」を意味しています。
さて、秋は収穫の季節ですね。田んぼには黄金色の稲穂が実り、頭を垂れています。その姿は、正しい生き方そのものを表しているようです。
たくさんの恵みを受けて豊かに実りながらも、決して威張ることなく、深く頭を垂れて大地に感謝している。
私たちがお彼岸にお墓参りをし、手を合わせる姿は、まさにこの頭を垂れた稲穂の姿そのものと言えるでしょう。
禅の言葉に「時時勤払拭(じじにつとめてふっしきせよ)」というものがあります。
「毎日こつこつと努力を重ねて、自分の心に溜まる煩悩や迷い(塵や埃)を綺麗に拭い去りなさい」という意味です。
私たちは日々の忙しさの中で、ついつい色々な欲や怒り、不満という心の塵を溜め込んでしまいがちです。
心が塵で曇っているとき、私たちは迷いの此岸にいます。
だからこそ、この秋のお彼岸の時期には、お仏壇やお墓を綺麗に掃除すると同時に、自分の心の掃除をする期間にいたしましょう。
ご先祖様へ感謝を捧げ、静かに手を合わせる。
その瞬間、心の塵は綺麗に拭き取られ、そのまま穏やかな彼岸へと変わるでしょう。

「心の平和に還る」

岐阜市 林陽寺 副住職 岩水 峰雪 師


今日は、「心の働き」について少しお話をしたいと思います。
ヨガの後に坐禅をすると、「頭がすっきりしました。」「心が軽くなりました。」という声をよくいただきます。それは特別な状態になったのではなく、絶え間なく働いている心が少し静まったからかもしれません。
心の仕事は「思うこと」です。過去を振り返り、未来を心配し、人と比べ、時には自分を責めることもあります。思うこと自体は自然な働きですが、その思いに振り回されると、私たちは心の平和から少しずつ離れてしまいます。
だからこそ、ヨガで身体を調え、坐禅で心を調える時間が大切です。ヨガでなくても、身体をゆるめ、呼吸を調える時間です。坐禅は心を止めることではありません。浮かぶ思いに気づき、それに執着せず、本来の静けさへ還る時間です。池の水も、かき混ぜるのをやめれば自然と澄んで底が見えてきます。心も同じで、静けさはもともと私たちの中にあります。
以前、メキシコで坐禅会を開いたとき、「お祈りでは何を考えているのですか。」と尋ねられました。私は「何も考えていません。ただ、自分の中の平和を感じています。」とお答えしました。
仏教では何かを願うことよりも、自分の心を調え、本来の自己へ還ることを大切にしています。
そのひと坐り、そのひと呼吸の積み重ねが、自分の内に静かな平和を育み、その平和は自然と家族や周りの人へ広がっていきます。
今日もこのひと坐りを通して、自分の中の平和を感じながら、一日を丁寧に歩んでまいりましょう。

「心に育む挨拶を」

各務原市 長楽寺 住職 古川 道弘 師


あなたは毎朝ご家族やご近所の方に「おはよう」と挨拶していますか。私は毎朝必ず家族同士の挨拶は大切に実行しています。挨拶をすることによってまず自分の心を開き同時に相手の聞かれた心の交わり方によってお互いの心を通い合わせ合い理解し合うのです。どんな話し合いも心が閉ざされていては決してうまくいきません。
人間関係はすべて挨拶にはじまり挨拶に終わります。たとえばよそのお宅を訪問した時、まず挨拶をして用件が終わり帰る時も挨拶して帰りますね。いうならば挨拶は心の交わりのための架け橋であり潤滑油だと言ってよいでしょう。
心は人とのつながりの中で育まれます。そのつながりを生むのは言葉なかでもまず第一に「挨拶」であります。朝しっかり「おはよう」と言い、自分に施してくれる方に「ありがとう」と心を込めて言葉にすることであります。
家庭内の挨拶は「おはよう」から始まって、食事の時の「いただきます」「ごちそうさま」、出かける時の「行ってきます」「行ってらっしゃい」、帰った時の「ただいま」「おかえりなさい」、そして夜休む前の「おやすみ」、この八つしかありません。この八つがすべてできなくとも、せめて五つや六つはぜひ実行したいものです。
皆様におかれましてはご自身のご修行、またこれから先に立つ頼もしい子供たちのために日々の中でたくさんの心のこもった言葉を掛け合いましょう。

「『恩返し』と『恩送り』」

飛騨市 長久寺 住職 守田 智昭 師


「恩返し」と「恩送り」という言葉があります。
どちらも恩に報いる大切な生き方ですが、その意味には少し違いがあります。
恩返しとは、自分に親切をしてくださった人へ感謝を返すことです。育ててくれた親に孝養を尽くすこと、お世話になった方へ感謝の気持ちを表すことなどが恩返しです。
しかし、私たちはいただいた恩をすべて返しきることができるでしょうか。
親からいただいた命や愛情、ご先祖さまから受け継いだご縁、仏さまの慈悲。これらはあまりにも大きく、返そうとしても返し尽くせるものではありません。また、恩を受けた方がすでに亡くなっておられることもあるでしょう。
そこで「恩送り」という考え方があります。
受けた恩を直接返すことができないなら、その恩を別の誰かへ送るのです。
親から受けた愛情を子どもや孫へ送る。苦しいときに助けてもらった経験を、別の誰かを支える力に変えるのです。そうして恩のバトンを次の人へ渡していくのです。
恩返しは感謝の心です。
恩送りは慈悲の実践です。
どちらも大切ですが、返しきれないほどの大きな恩をいただいている私たちは、恩返しの心を持ちながら、その恩を次の人へと送っていく。そこに仏教の温かな生き方があるのではないでしょうか。
今日、自分が受けた恩を一つ思い出し、それを誰かへの優しさとして送ってみましょう。それが仏さまへの何よりの恩返しになるのです。

「お盆」

高山市 善久寺 住職 近藤 洋右 師


 このごろは、木々の緑も色濃く、あかりをともして、御霊を迎える気持ちは、しみじみと落ちついたものを感じます。
 お盆は、インドの言葉で「ウランバーナ」といい、「ウラボン」と音訳されます。いつのまにか「ウラ」が取れて「ボン」「お盆」というようになりました。その意味は、「さかさまの迷いと苦しみから救う。」ということです。
 お盆のいわれは、遠くお釈迦様のお弟子、目連尊者が、餓鬼道に落ちた亡き母を救うために行った供養がその始めといわれています。ですからお盆は、いろいろのたべものをご先祖様に供えて供養するならわしです。日本でお盆が広く定着したのは、江戸時代以降とされています。そして、「迎え火」「送り火」などのゆかしい行事や「盆おどり」といった、楽しい行事も行われますが、その行事の奥に流れる、自己反省と御先祖様への感謝・報恩を忘れることなく再確認し、自分の命のつながりを意識するのです。
 現代でも、多くの人がこの時期に里帰りをして実家の墓参りをするなど「家族と先祖をつなぐ時間」として受け継がれています。お盆を迎え、御霊をおまつりするこの尊い家庭の行事を一層意義深い行事といたしましょう。

「能登に学ぶ慈悲と智慧」

高山市 善応寺 副住職 中井 康博 師


2024年元日、能登半島を中心に大きな被害をもたらした令和6年能登半島地震、そして同年9月の奥能登豪雨。度重なる自然災害から、早くも二年半が経ちました。
私は現在、石川県輪島市に身を置き、皆さまのご支援ご協力をいただきながら、支援活動に携わらせていただいております。
発災直後、輪島市を訪れた際には、言葉を失うような光景を前にしました。寒さで手はかじかみ、断水が続く厳しい環境の中で、「自分には一体何ができるのだろうか」と、無力さを痛感したことをよく覚えております。
さらに奥能登豪雨では、二重被災により心が折れてしまった方を前に、どのような言葉をおかけすればよいのか分からず、苦しみに直面する方と向き合うためには、自らが智慧を学び続けなければならないと深く感じました。
しかしそのような中で、支援に来ているはずの私自身が、能登の方々に勇気づけられ、多くの学びをいただいております。
「能登はやさしや土までも」という言葉があるように、温かい言葉に幾度も救われ、また多くの支援者にも助けられてきました。互いに見返りを求めず助け合う姿に、「三輪空寂」の教えを実感しているところです。
また、「能登のために何ができるでしょうか」と尋ねられることがあります。
その答えは人それぞれではありますが、大切なのは、自分自身に何ができるかを問い、できる範囲で行動していくことだと考えます。
その積み重ねこそが、内にある仏性を目覚めさせ、開き、発こす「開発」につながるのだと実感しております。
どれほど「助けたい」という慈悲の心があっても、正しい智慧が備わらなければ、独りよがりの行いになってしまう恐れがあります。
「慈悲」と「智慧」。この二つの両輪がバランスよく備わるよう精進していきたいものです。
能登で本堂が倒壊したある住職が、こんな言葉をおっしゃっていました。
「せっかく助かった命。本堂がなくとも、自分のいるところに人が集まり、仏教を通じて助け合っていきたい。たとえ絵に描いた餅であっても、その志を糧として生きていきたい」
この言葉に、大きな力をいただきました。
どうか今日を機に、身近なところに目を向け、自分にできる一歩を考えるきっかけとしていただければ幸いでございます。

「お盆」

恵那市 長國寺 住職 小島 現由 師


お盆の季節がやってきました。
『仏説盂蘭盆経』というお経には、お釈迦様の十大弟子であり、神通力を持つ目連尊者の話があります。
ある日、目連尊者が亡くなった母親をふと思い返し、神通力でもってあの世で暮らしているお母さんを探してみました。とてもやさしいお母さんだったので、極楽浄土の世界を探してみましたが、いくら探してもそこにはいませんでした。恐る恐る餓鬼道の世界を観てみると、なんとお母さんは餓鬼となって空腹に苦しんでいたのです。目連尊者は嘆き悲しみました。すぐに自身の神通力をもって、食べ物を施しましたが口に運ぼうとするたびに突然火が付いて灰になってしまい、結局食べることが出来ませんでした。
目連尊者はすがる想いで釈尊に相談しました。
目連「お釈迦様、母は生前とてもやさしい人間でした。なのになぜ、餓鬼道に落ちてしまったのでしょうか。」
釈尊「目連よ、あなたの母親はあなただけをえこひいきし、周りの人々に施すことをしませんでした。」
目連「母が救われる方法はないのでしょうか。どうか救いの方法をお教え下さい。」
釈尊「一つだけ方法がある。7月15日に雨期の修行期間を終えて徳の満ちた僧侶と共に、生きとし生けるものたちに食事を施しなさい。」
目連尊者は釈尊に言われた通りに法要を行ったところ、母親は食事を口にする事ができ成仏することが出来たそうです。
考えてみれば、餓鬼道にも他の餓鬼が沢山居るにもかかわらず、自分の母親だけ救い出そうとした目連尊者は、自分の息子さえ良ければいいと考えた母親と同じ次元にいたことになります。その考え方でいる限り、目連尊者も餓鬼道送りになっていたことでしょう。
今日、『お盆』とは先祖供養の期間とされていますが、本来『仏説盂蘭盆経』で先人たちが伝えたかった事とは、生きとし生ける全ての精霊に感謝の誠をささげることによって、そのうちの一部であるご先祖様にも功徳が回る、というものです。
皆様が、分け隔てのない心で穏やかに過ごせるよう願っています。

「お線香」

恵那市 長榮寺 徒弟 平山 玄映 師


皆さんが普段、仏壇やお墓にお参りする時に使うお線香。
三つほど意味があるのはご存じでしょうか?
今回はその意味のご説明をさせていただきます。

 一つ目は場や心、体を清浄にする事です。
身を清めるものとして塩などがあると思いますが、お線香にも清める効果があります。
お線香の香りには場の穢れ(けがれ)を祓って(はらって)清浄にする効果があります。
また、仏様やご先祖様に対するときに邪念を取り除いて厳かな(おごそかな)気持ちで手を合わせることができるようになります。

二つ目に天上と現世をつなぐ事です。
天に登ってゆく煙はあの世とこの世をつないで、煙を通して仏様と対話できるといわれています。
お線香を焚きながら生活の報告等をされる方も多いと思いますので、このイメージはつよいと思います。

 三つ目に仏様の食べものになるといわれています。
仏教には香食という言葉があります。
香りを食べさせると書いて「こうじき」と読みます。
亡くなられた方はお線香の良い香りを食されるという考えがあります。
仏様の好きだった飲み物などの香りをするお線香を使ったり、好きだったお菓子などをお供えしてあげてみてください。
お線香の香りに乗せて食べてもらうことで、喜ばれる供養になると思います。

これから夏に近づくにつれ使う機会が増えてくるお線香。
意味を理解することでよりよいお参りになると思います。

「過ぎて行く時の中で」

恵那市 高安寺 徒弟 各務 泰裕 師


「諸行無常」。ほとんどの人が一度は耳にした事があるであろう、
仏教の言葉のひとつです。読んで字の如く、“諸々の現象は常に移り変わり、
永遠に変わらぬものはない“という意味です。私がその「無常」を初めて強く
意識したのは、私が十九歳になる誕生日の頃でした。その日、何気なく目を向けた時計の秒針が“カチ、カチ、カチ、”と、絶えず時を刻んでいるのに気付いた途端、
「誕生日や元日といった節目に限らず、一秒、また一秒と自分は未来へ進んでいて、
そして、時計の針が逆向きには回らないように、一年、一か月どころか
たったの一秒すら取り返しがつかないのではないか」という考えが頭をよぎり、
それがひどく恐ろしかったのです。それ以降、時折その恐怖がふと首をもたげては、
しばらくの間私を苛むのでした。
そんな恐怖を拭ってくれたのは、總持寺を開かれた瑩山禅師が遺された
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」というお言葉でした。
「お茶を出された時にはお茶をいただき、ご飯を差し出されたならばご飯をいただく」。
初めてその言葉を目にした時は“何を当たり前のことを”などと捉えてしまった
ものですが、後に「雑念を交えず、今、目の前の物事だけに集中する」という
教えを示されたお言葉であると知った時、私の中にあった時間に対する恐怖は
影を潜めていたのです。思えばこの恐怖は、過去や未来といった決して手が
届かない所に執着していたが故に生じていたものなのだと思います。
さて、今もなお秒針は時を刻み、万物は絶えず移り変わっています。
そして、それを惜しむ気持ちがあるからこそ、限りある命の、今、この瞬間に
意識を向け、大切にしたいと思うばかりです。

「知識の『種』を、行いの『花』へ」

皆さま、本日はようお参りくださいました。
私たちは日々、多くのことを学んでいます。本を読み、人の話を聞き、「ああ、いいことを聞いた」「これは正しいことだ」と頭で理解します。しかし、せっかく得たその素晴らしい教えも、私たちの心の中に留まっているだけでは、まだ半分に過ぎません。
中国の思想家、王陽明が説いた**「知行合一」**という言葉があります。
これは文字通り、「知ること」と「行うこと」は、本来ひとつであるという教えです。
知識は行いの始まり
「知っているけれど、まだやっていない」という状態を、私たちはよく「知っている」と言います。しかし、この教えの厳しいところは、**「行わないのは、まだ本当には知っていないのと同じだ」**と説く点にあります。
例えば、お茶の熱さを「熱い」と知識で知っていても、実際に触れてその熱さに驚き、手を引くという体験をしなければ、本当の意味で「熱い」を知ったことにはなりません。
仏教の教えも同じです。
「慈悲が大切だ」と頭で知ることは、いわば「花の種」を手に持っている状態です。種は持っているだけでは芽を出しません。実際に困っている人に声をかける、あるいは誰かのために祈る。そうした**「行い」という土**に植えて初めて、種は命を宿し、美しい花を咲かせます。
行いは知識の完成
反対に、何も考えずに行動するのも危ういものです。
「行い」は「知識」という光に照らされて、正しい方向へと導かれます。
知ることは行いの始まりであり、行うことは知ることの完成なのです。
今日、この場所で何か一つでも「あ、いいな」と思う教えに出会ったなら、ぜひそれを「知識」として持ち帰るだけでなく、帰り道のどこかで、あるいは明日の朝の生活の中で、小さな「行い」に変えてみてください。
「知る」と「行う」が重なったとき、皆さまの心の中にある「知恵の種」は、きっと力強く根を張り、人生を彩る豊かな果実を結ぶことでしょう。
本日は、共にこの「知行合一」の心に触れられたご縁に感謝し、お話を終えさせていただきます。