テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「欠気一息」

郡上市 悟竹院 住職 稲村 隆元 師

二月も半ばになると年度末が見え始め、学生や社会人問わずそれぞれが慌ただしく焦燥感に襲われる人も少なくない時期です。やるべきことや、やりたいことを考えると一日一日があっという間に過ぎて行ってしまうことでしょう。

目標を掲げて努力することは立派なことですし、他者に評価されなくとも尊いことです。しかし、人生を歩む中でどんどんと新たな目標を作ってひたすらに走り続けられる人はごくわずかではないでしょうか。

長距離を走るマラソンランナーも給水をし、高速でサーキットを駆け抜けるF1レーサーもピットインをします。人ではない機械であってもメンテナンスは重要です。

集中して物事に専念しているときこそ一息つくのは、継続し続けるために必要なことだといえます。

坐禅をするにあたって行うことに「欠気一息」というものがあります。坐禅の姿勢を整え、ゆっくりと鼻から吸い、口から吐いて深呼吸をすることで呼吸とともに心を落ち着けていく行為です。

目標に向かって突き進む最中や、普段通りの日々を生きていく中でも、立ち止まらずに生きていける人はいません。不安や焦りを感じたときには、その場でホッと一息、「欠気一息」深く深呼吸をしてまた進んでまいりましょう。

「世を照らすなり」

美濃市 正林寺 住職 荒田 章観 師

「ひとたびは 涅槃の雲に いりぬとも 月はまどかに 世を照らすなり 世を照らすなり」

梅花流詠讃歌の大聖釈迦如来涅槃御詠歌(不滅)の歌詞です。毎年2月15日はお釈迦さまがお亡くなりになられた日になります。皆さんの菩提寺でもこの時期になると涅槃図が飾られているのではないでしょうか?

お釈迦さまがお亡くなりになられた後、仏教はお釈迦さまの教えを受けたお弟子さんから、そのお弟子さん、そのまたお弟子さんへと連綿と今に受け継がれて参りました。しかし、この「受け継がれる」ということは何も仏教だけではありません。今、生きている皆さんもご両親、祖父母、さらにさかのぼって…。私たちはいつでもいろいろなものを受け取って生きているのです。

お釈迦さまが亡くなられて一度は雲に隠れてしまった月が、それでもまた顔を出し世を照らすように私たちの生活の中にその教えは生きています。まずは手を合わせて「南無釈迦牟尼仏」とお唱えしてみてはいかがでしょうか。

「新年によせて」

関市 天徳寺 住職 水野 弘基 師

皆さんこんにちは、こんばんは。関市天徳寺住職、水野弘基と申します。

お正月といえば、お寺にお参りに行く機会も多くなる事と思います。本尊様に今年一年の無事を願い、ご先祖に新たな年の御挨拶をする。というものです。

お寺では正月三が日の間、毎日今年一年の無事を御祈祷し、大般若のお札を皆様のご家庭にお届けします。

かつてお正月は年が改まる大きな節目として、皆でお餅を搗き、遠方に行っているお子さんやお孫さんが実家に帰ってくる。お寺や神社に初詣をして家族団欒で過ごす、というのが普通でした。昨今は七連休だ、九連休だということで温泉に行く、海外に行くという方も多いようです。もっともこんな時じゃないと連休が取りづらいのも確かで時の流れに順応していくのも一概に悪い事だとも思いません。

 

先日お葬式を出された方からこんな質問を受けました。

「お葬式を出したばかりだけど、忘年会や新年会、そして初詣はどうしたら良いでしょう?」というものでした。私はこう答えました。

「昔なら一年は喪に服すものだったでしょうが、今日日は時の流れも速いので四十九日が終わっていれば問題ないでしょう。私の考えなのでご家族で相談してみて下さい。」

と言うと、少し嬉しそうに

「毎年、初詣でお伊勢参りをしているので行かないと寂しくて、どうしようか迷っていたんです。それなら行ってきます、」

と言われました。それでいい。と私は思いました。

昭和の中頃までは、どの家庭も三世代同居が当たり前で、日本の古来の風習は自然におじいちゃんおばあちゃんがやっていることを見て覚えました。昨今は核家族で、なんとなくお寺の事はおじいちゃんおばあちゃんの仕事。特に気にすることも無く、覚える間もなく、おじいちゃんおばあちゃんが亡くなってしまうと、急に何をどうしていいやら分からなくなってしまうものです。

お葬式ってどうやってやるの?法事ってどうやってやるの?お布施はいくら包んだらいいの?このご時世では仕方の無いことだと思います。お寺は何も怖いところじゃありません。どんなに初歩的なことを聞いても怒られることはありません。気軽にこうゆう時はどうしたら良いでしょう?と聞いてみましょう。きっと優しく教えてくれるはずです。そしてもし、お正月やお盆におじいちゃんおばあちゃんに会う機会があれば、そんなことを話題にしてみるのも良い事だと思います。

皆さんにとって今年がより良い年でありますように。

「菩提心を持って菩薩行を行ず~授戒会~」

曹洞宗岐阜県宗務所長 多治見市 安養寺 住職 小島 尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。令和8年の新春を迎え、皆様の万福多幸をご祈念申し上げます。

日頃より、テレホン法話をお聴きいただき、感謝申し上げます。私事ではありますが、本年12月を以て、二期8年、宗務所長としての役割を終えるに当たり、最後の新年テレホン法話となりました。合わせて御礼申し上げます。

顧みますと、特にここ数年来、生じる自然災害、事件、事故、世界各地で起きる紛争等に苛まれ、心を痛め、苦悩の日々、絶ゆることがありませんでした。

その多くの苦しみ、悩みを抱く中、私たちは慈悲の心を持って助け合い、力を合わせ生きて参りました。

しかし、この先、世の中の変化は多様化し、スピードも早まっていくような感がいたします。

このような世情にあってこそ、我々はいま何をすべきか。

「脚下照顧―自身の足元を見つめ、自分の行いや心のあり方を静かに深く顧みる―」、

「菩提心―人の幸せを願う心―」を持って、

「菩薩行―自身の救済だけでなく他者の救済、幸福、平和な世の中の現実を願い、慈悲の心―」を保ち、実践していくことが最も肝要な事と存じます。

その行いが、重なり合い、積み上げていくことがやがて大きな力となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

我が宗門には、「授戒会」という実践修行があります。ひと言でお伝えするのであれば、今までの生き方を省みて、自らの行いを振り返り、仏様の前でお釈迦様の御教え(戒法)に沿った生き方を学び、修行することで、よい生き方を身に付け、更にお誓い申し上げ、仏弟子となって戒名を授かる儀式です。

この授戒会は自らの修行に止まらず、周りの方々をも善き道(善道)へと導く尊きご修行でもあります。

宗務所として、本年5月16、17日、6月12、13、14日、大本山永平寺禅師様をお招きして、多治見市・安養寺にて執り行います。

詳しくは菩提寺さんにお尋ねください。

そして、ひとりでも多くの方に、この善きご縁に出会い、結んでいただけますよう強く願うものであります。

 

今の苦難を乗り越え、

仏と出会い、善きご縁を結び

新しき良き年へと踏み出しましょう。

 

万福多幸 如意吉祥ならんことを

「あおいくま」

関市 大龍寺 住職 竹山 玄道 師

皆さんは、モノマネ芸人のコロッケさんをご存じでしょうか、面白い形態模写のモノマネで今も現役で活躍されている人です。先日、徹子の部屋というテレビ番組にゲストとして出演されていました。その時のエピソードの1つに、お母さんが、昔からこれだけは守っていきなさいという「あおいくま」の話がありました。あおいくまとは、社会の中で生きていくための大事なことを綴った頭文字です。「あ」は焦るな、「お」は怒るな、「い」は威張るな、「く」は腐るな、「ま」は負けるな、だそうです。焦るなには、急いで結果を求めるのではなく、じっくりと物事に向き合う姿勢の事。怒るなは感情に流されず冷静に判断する事。威張るなは他人に対する思いやりや謙虚さを忘れない事。腐るなは、困難な状況でも諦めず挑戦を続ける事。負けるなは他人との競争ではなく自分自身との闘いであることを示しているとの説明でした。

彼は母親の言葉を胸に自分を律することで他人に対する嫉妬や怒りの感情が減り、周囲との関係が円滑になったといいます。この経験は自身の宝と語っていました。

「あおいくま」このエピソードは、僕もテレビを見ていて本当に心に残りました。これは、現代を生きる人々にとっても参考になる人生哲学であると思います。日々を大切に生きることが結果として成功や幸福につながるという考え方は、仏の教えにも繋がるものです。

焦るな、怒るな、威張るな、腐るな、負けるな。この言葉を日々の生活に生かし謙虚に前向きに生きていくことが出来れば、その分人生は楽しくなるはずです。令和七年もあとわずか、今年の大晦日、お寺で除夜の鐘を突き煩悩を払い一年の闇を除き、新しい年を迎えたいですね。

「有求皆苦 無求即楽」

白川町 廣通寺 住職 尾関 大介 師

今回は禅の言葉「有求皆苦 無求即楽」について、お話しさせていただきます。

「有求皆苦」とは、求める心があるかぎり、人は苦しみから逃れられないという意味です。そして「無求即楽」、何も求めない心でいれば、自然と楽になれるという事です。
私は令和6年の冬、能登半島地震の被災地で炊き出しのボランティアに参加させて頂きました。当時は水道も自由に使えないと言う事で、水のペットボトル40ケースを車に積み、現場に持ち込む事で対応しました。飲み水も、調理も、手を洗うのも、すべてその限られた水から使わなければなりませんでした。

普段であれば、蛇口をひねれば当たり前のように水が出る。でもそのときは、手を洗うだけでも「もったいない」と思うほど、水が貴重に感じられたものでした。

そのときふと、「ああ、自分はどれだけ多くのものに支えられて生きていたのだろう」と気づかされました。

水、電気、食べ物、家族……当たり前と思っていたものが、実は非常にありがたいものだったのです。
それに気づいたとき、自然とそれぞれに感謝の心が湧いてきました。

そして普段、「もっとこれがほしい」「もっと快適に過ごしたい」と求めていた心が、
かえって自分を苦しめていたことにも気づかされたのです。

「無求即楽」――求める心を手放すことで、今あるものの尊さに気づくことができます。

何事も無く蛇口から水が出る事、電気が使えること、ご飯が食べられること。
それだけで、実は十分にありがたいことなのです。

どうか、当たり前の中にある「ありがたさ」に、今一度目を向けて頂きたいと思います。

「手を合わせているとき」

本巣市 大亀寺 住職 戸田 祥隆 師

先日法事の際、お参りの皆さんが順にお仏壇の前で焼香をされ、手を合わせている様子を見ておりましたら、その中のお子さんが“ふっと”間を作って手を合わせている姿が目に止まりました。

大人の方ですとそれほど気にならないのですが、お子さんだったからでしょうか、「この子は今どんなことを思って手を合わせているのだろう」そんなことを考えながら、その子のお参りする姿を見ておりました。

私たちの生活の中で、手を合わせる機会を思い返してみますと、現代の生活において、日常的に手を合わせる機会は、それほど多くはなくなってきたように感じます。

そして、周りを見渡しても、食事の前後などは、残念ながら少しおざなりになっていると感じるときもしばしばあります。

だからこそ、その子がほんの数秒かもしれませんが、時間をかけて手を合わせる姿が印象的に見えました。

自分が受けている恩を知る、という意味の「知恩」という言葉があります。私たちが手を合わせる意味の一つに、感謝の気持ちを表す、という意味がありますが、どのようなときに感謝の気持ちが芽生えるのか。それは、私たちが周りからの優しさに触れたとき、自分を支えてくれている恩に気づいたときではないでしょうか。

心を込めて手を合わせることができたその子は、きっとその時、恩に触れていたのだろうと思います。

私たちも、日頃から“ふっと”心を込めて手を合わすことができるよう、自分を支えてくれている周りの優しさに気づくことのできる生活をしたいものです。

「穏やかに生きる」

揖斐川町 観音寺 住職 田中 和彦 師

私が若いころには「十年ひと昔」と言われていましたが、昭和から平成になりパソコンが普及し、凄ましい速さで社会に受け入れられ、令和になった今では誰もがいつでも手元にネットを通じて世界中に繋がる端末を持つ時代になりました。

いつの間にか便利さを享受しながらも、いつも手元にあるその機械に頼り切っている私がいます。その便利な機械に今では振り回されているとも感じる時さえあります。

しかし、便利なものにも良い面と悪い面の両極があります。良い面としては調べ物をする時や知らない土地に行った時、時には文字や言葉の翻訳なども瞬時に行えます。

しかし、実は悪い面も全く同じだと思います。指一本の操作であらゆる物事を解決できる為に、すぐに回答を求めたり、自分の中でしっかりと答えを導き出すというような事が出来なくなっているのではないでしょうか?

ちょっとした事が我慢出来なかったり、だんだんと自分勝手で我が儘な人間になっていくような気さえしています。

私は、こんなスピード社会にこそ心の平安が大切なのではないかと考えます。

時には文明の利器を離れ、ゆったりと自分の時間を楽しむのも良いと思います。例えば本を読んでみたり、好きな事にたっぷりと時間をかけてみたり、などです。

私が数年前から積極的に行っているのは禅宗ならではの「坐禅」です。

壁に向かい、足を組み、効率も生産性も求めず、自分の内面に向かう貴重な時間がとても心地よいです。

私のお寺では、月に三度の坐禅の機会と、いつでも予約にて「体験坐禅」ができる場を提供しています。

ぜひ、スピード社会といわれる今こそ、ご自身とじっくり向き合う時間を作り、穏やかな時を過ごしてみてはいかがでしょう。

「感謝の心」

大垣市 薬王寺 住職 若山 篤優 師

秋の風が心地よく吹き、木々が色づき始める頃、自然は静かに冬への準備を始めます。そんな季節の移ろいの中で、私たちは日々の「ありがたさ」に気づく機会を得るのかもしれません。

仏教では「感謝の心」がとても大切だと説かれています。私たちは一人で生きているように見えて、実は多くの人や自然の恵みに支えられて生きています。朝目覚めることができるもの、食事ができるもの、誰かが働いてくれたおかげ。水や空気、太陽の光も、すべてが命を支える大切なご縁です。

ある日、お寺に来たお子様が「どうして『ありがとう』って言わなきゃいけないの?」と尋ねました。

私はしばし考えて言いました。「『ありがとう』は、心の花なんだよ。その花が咲くと、自分もまわりの人も、あたたかい気持ちになるんだよ。」

感謝の心は、幸せの土台です。何かをしてもらったときだけでなく、何気ない日常の中にも「ありがとう」はたくさんあります。誰かの笑顔、静かな時間自然の美しさ──それらに気づくことができれば、心は豊かになります。

仏教の教えに「知足(ちそく)」という言葉があります。足るを知る心、つまり「今あるものに満足し、ありがたく思う心」です。欲ばかりを追い求めると、心はいつまでも満たされません。

けれど、今あるものに感謝できれば、心穏やかになり、幸せが広がっていきます。

秋の実りに手を合わせるように、日々の小さな恵みにも感謝の心を忘れずに過ごしてまいりましょう。その心が、仏さまの教えに近づく一歩になるのです。

「三拝九拝」

岐阜市 勝林寺 住職 等 真一 師

お寺の法要にお参りをされますと、法要のはじめと終わりにお導師様やお役の和尚様方が三度の合掌礼拝をされるのをお気づきのことかと思います。この動作を三拝といいます。

法要によってお導師様は九拝されることもございます。一般に使われております三拝九拝とは何度も頭を下げて拝むこと。またそのようにして頼むことと言う意味として使われておりますが、仏教では三拝九拝と何度もお拝をすることが大切な項目となっており、特に禅宗ではこれを丁寧に行います。

禅宗の和尚様達は常にこの三拝九拝をもって仏様にご挨拶をし、感謝の誠を捧げております。もちろん仏様ばかりではなく私たちを取り巻くすべてのものに感謝しなければなりません。「ありがたいと思う心が今日の幸せ」

「ありがとうと言われるように言うように」

という標語がありますが、本当の三拝九拝は

お拝をされる方もする方も、そのまま仏様であり、お悟りの姿そのものでなければなりません。拝むからこれをしてほしいとか、お願いをするような三拝九拝ではなく、一人一人がありがたいと自然と手を合わせて頭を下げる本来の三拝九拝をすることが、人々の幸せにつながっていくのではないでしょうか。