テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「別れと出会いの先に豊かな人生」

土岐市 仏徳寺 副住職 佐々 繁樹 師


10年に一度という寒波も終わり、三月も後半になり別れと出会いの多くなる季節になってきました。新しい学校、新しい会社、新しい土地へと生活の場が変わる方も多いでしょう。別れという言葉は単語にするとマイナスのイメージになり、出会いという言葉は単語にするとプラスのイメージになります。二つの単語を足して、別れがあれば出会いがあるという言葉にすればプラスのイメージになるでしょう。別れを超えて新しい場所へ進むことは新たな出会いがあり、新たな学びを得ることができます。

そして、今の自分があるのは今までのたくさんの出会いと別れの繰り返しの上に出来上がっているのです。もしあの時、違う学校に行っていたら、違う道に進んでいたら、違う選択をしていたらと考えると今の自分はいなくなってしまいます。人はたくさんの選択の中から今の人生を選んでいるのです。そして今の人生を満足させるには岐路に立った時、選択を他人にゆだねるのではなく自分自身で選ぶことです。他人にゆだねた結果、満足いかない結果になると他人のせいにしてしまいがちです。あの人のせいで今の自分になってしまった、本当はこんなんじゃなかった、と不満ばかりが募ってしまいます。しかし、自分で選んだ結果なら、また自分の努力で取り返すこともできます。また選びなおせばいいんです。自分の選んだ結果は受け入れることができるはずです。

そして、四月になれば新しい出会いが増える季節になります。新しい出会いの中には今の自分をさらに成長させてくれるものもきっとあります。新しい学びも、新しい選択肢もできるでしょう。これからの一年を楽しく過ごせるようたくさんの新しい出会いをつくり、選択肢を増やしていきましょう。選択肢が増えればそれだけたくさんの未来を描くことができます。その中から自分の進みたい道を選ぶ、その積み重ねが人生を豊かにしていくのです。豊かな人生の為に一歩を踏み出しましょう。

「柳は緑、花は紅」

美濃市 善應寺 住職 雲山 晃成 師

「柳は緑、花は紅」と言う禅の言葉があります。春を連想する美しい言葉ですが、みなさんはこの言葉を聞いてどの様に感じましたか?

柳は緑、花は紅。見たままの当たり前の言葉じゃないかと思う人もいるかもしれませんね。

この世の中の森羅万象を言葉にすることは中々難しい事ですが、この言葉は見事に短い言葉で言い表していると思います。

この言葉に出てきます栁や花たちは誰に褒められるわけではなくその時をしっかりと生きています。なので春になればきれいな花や葉を芽吹かせることが出来るのです。

それに比べて私たち人間は暑い夏には早く秋が来ないかと思い、寒い冬の時期になれば早く春が来てほしいと思ってしまいがちです。次の春を見れる保証は誰もいないのについつい今を見過ごしてしまって、未来ばかりを気にしてしまいます。

柳の葉っぱが輝いて見えるように、花たちの良い香りを感じるように、ありのままをしっかりと感じ、美しい自然の営みに出会っていることに感謝をし、そしてその自然の中で私たちも輝いているのだと感じられたら幸せですね。

「戦後80年を迎えて」

美濃市 永昌院 住職 高橋 定佑 師

今年で戦後80年を迎える年となります。節目の年に当たり、改めて、戦争あるいはその影響で命を落とされた多くの方に、深く哀悼の誠を奉げます。

宗門ではこれまでにも、当時を振り返り「国家政策や世論の流れに無批判に迎合してしまうことで戦争に加担しまった」として、その過ちを反省し、「二度と同じ過ちを繰り返すことがないよう、行動していかなければならない」と、談話を発表してきました。

今日、戦後生まれの人の割合は国民全体の約9割となり、戦争の記憶をつなぐことが困難になっているといいます。そんな中、永く平和を守り続けるために、私たちができることは何でしょうか。

戦時中、岐阜県内でも市街地を中心に空襲の被害があり、様々な面で各地に大きな影響をもたらしています。私の住む美濃市では、名古屋市の小学校から、疎開児童の受け入れがあり、400名を超える児童が市内の各寺院に振り分けられ、1年数か月を過ごしました。

遠く家族と離れ、毎日を過ごした彼らが、赤く染まった名古屋の夜空をどんな気持ちで見ていたのか。その不安や寂しさを想像すると胸が苦しくなります。実際に疎開された方の話からは、当時の衛生状態や食べ物が十分でなかったこと、家族に会えない寂しさなど、よりリアルな生活を想像することができます。一方で、厳しい暮らしの中でも豊かな自然や、地域の人々との交流を通して、人の温かさにも触れられた時間であったと聞きます。

戦争に関わる話は大変厳しいものが多いですが、そこには今を生きる私たちと同じように、何気ない日常の小さな幸せや喜びがありました。それは遠い昔のことではなく、身近なものです。戦争の凄惨さ、その時代を生きる人々の暮らし、それを知らずして平和の尊さを理解することはできません。

道元禅師は次のような言葉を示されています。

「自分の見方や考え方、知っていることだけがすべてではない。そのことを忘れてはならない」

人によって、それぞれ物差しは違い、知らないことも多くあります。永く平和を守り続けるために、今、私たちができることは、そのことを心に留め、それぞれが我が事として、向き合うこと。そして、過去の記憶を決して風化させることのないよう、しっかりと伝えていくことであると思います。

「人は二度死ぬ」

関市 永昌寺 住職 鬼頭 周賢 師

先日、お寺の本堂にて檀家さんの一周忌の法事を執り行なわせていただき、その後のお斎(昼食)の席にも一緒につかせていただきました。お斎が始まる前に、亡き人を偲んで盃を捧げる献杯を行いますが、その献杯の挨拶で故人の本家の方がこんな挨拶をされました。

「人は二度死ぬことができるといいます。一度目は現在の肉体の死、二度目は人々から忘れ去られた時です。本日は故人の思い出をたくさんお話しましょう」と挨拶をされました。

一度目の死は、息を引き取った瞬間に訪れる死のことです。二度目は家族や親戚、生前親しくしていた方達、関わりのあった方達の心の中から忘れ去られてしまった時に二度目の死を迎えるということです。

この「人は二度死ぬ」という言葉は大変有名で、映画やアニメでも引用されていますので、皆さん一度は聞いた事があるのではないでしょうか?

この言葉には、「亡き人が私達の心の中でいつまでも生き続けていって欲しい」という今を生きている私達の願いが込められていると同時に、「亡き人をいつまでも忘れないでいることの大切さ」を教えてくれています。残された方々が、亡き人との思い出を語り合い忘れないでいることは、亡き人からいただいたご縁や恩、つながりを忘れないと共に、「人はいつかは必ず死ぬ」という普段は目を背けがちな大切なことを忘れないということになります。

自分の人生に終わりがあるという事を日々意識して生活している人はほとんどいないでしょう。しかし、亡き人を思い出し供養していく過程を通して「人はいつかは必ず死ぬ」という無常の事実を受け止め、今という時を大切に生きていく。それが亡き人への供養につながっていくことだと思います。

「愛語よく廻天の力あり」

関市 立蔵寺 住職 伊藤 智純 師

先日、人に勧められて読んだ詩集にあった詩です。

まずは紹介させてください。

 

『私の席』

満員バスにおばあさんが乗ってきた

ポニーテールの女の人が

すぐ降りますのでと席を譲った

でもその女の人は

次の停留所でも

4つ目の停留所でも降りなかった

私は胸がいっぱいになって

いつもより1つ早い停留所でバスを降りた

あのポニーテールの女の人

私の席に座ってくれたかなあ

 

これを詠んだのは小学6年生の女の子です

人の親切に気が付く繊細な心と、自分も何かせずにはいられなくなった優しい気持ちが

素直な文章から伝わってきます。

 

曹洞宗に縁がある方であれば、修証義というお経を聞いたり、読んだりしたことがあると思います。

『衆生を利益するに四枚の般若あり、一者布施 二者愛語 三者利行 四者同時、是れ即ち薩埵の行願なり』

とありますが、ポニーテールの女性のとった愛語、利行の実践に「唯ひとえに催され」

この少女もまた利行、愛語を実践したのです。

『此の心を起せば已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流なりとも四衆の導師なり』

少女に頭の下がる思いがしました。

 

ニュースやSNSばかりを見ていると、うかつに人を信じるな、だまされるな、と

疑心暗鬼になってしまいがちでしたが、『愛語よく廻天の力あり』ということを

信じなければと思ったことでした。

 

冒頭の詩は青い窓の会『童顔の菩薩たち』からお借りしました。

「善きご縁が結ぶ仏と出会う―授戒会」

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 安養寺 住職 小島 尚寛 師

令和6年が暮れ、令和7年新春を迎え、皆さまの万福多幸をご祈念申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

今回で所長としての新年テレホン法話、7回目となりました。

顧みますと、令和6年は、正月未曾有の能登半島震災に始まり、多くの自然災害・事件・事故、世界各地に生じる紛争等に苛まされ、心を痛め、苦悩の日々、絶ゆることがありませんでした。

しかし、先人たちは、多く苦しみ、悩みの中を生き、その時、その時を乗り越えて参りました。

我々ひとりでは、なかなかその苦難に立ち向かうことは出来ませんが、お互いに助け合い、幸を願い、人を思う心、喩え小さくとも、僅かであれ、安らぎを求め、行い続ける。

その行いが、重なり合い、集まることにより大きな大きな力となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

我が宗門には「授戒会」という修行があります。

一言でお伝えするのであれば、今までの生き方を省みて、自らの行いを振り返り、仏様の前でお釈迦様のお教え(戒法)に沿った生き方を学び修行することで、より良い生き方を更にお誓い申し上げ、仏弟子となって戒名を授かる儀式です。

昨今、その儀式・修行に出会う機会が殆ど無くなってしまいました。この修行は自らの修行に止まらず、周りの方々をも善き道(善道)へと導く尊いご修行でもあります。

宗務所として、令和8年6月、大本山永平寺禅師様をお招きして、東農地区(多治見)にて執り行う予定です。

詳しくは菩提寺さんを通じてご案内致します。是非ともひとりでも多くの方に、この善きご縁に出会い、結んで頂けますよう願うものであります。

 

今の苦難を乗り越え、

善きご縁を結ぶ仏と出会う

新しき良き年へと進み出しましょう。

 

万福多幸 如意吉祥ならんことを

「やわらかに」

関市 広福寺 住職 紀藤 昌元 師

身体が柔らかい人はケガをしにくい、頭が柔らかい人はものごとを上手く進められる。「やわらかく」いるということは、私たちが生きていく上でのひとつの大切なコツであると思っています。

やわらかく、このことについて道元禅師様は次のように示されています。「ただまさにやわらかなる容顔をもて、一切に向かうべし。」ただひたすらにやわらかな表情で、すべての人や物事に向き合いなさい。こんなふうに私はこの教えを受け止めています。

今年は元日からの大地震に加え、いくたびもの災害が多くの人たちの日常を奪い、私達自身の身の回りも笑顔でいることなどとてもできないような出来事や状況で溢れています。いつでもやわらかな表情で、すべての人や物事に向き合う。実はこれほど難しいことはないのかもしれません。しかし、困難や苦悩の中にあっても、それを乗り越えて笑顔であろうとする。そういう力が私達には備わっている。そのことを忘れないで欲しい。そう道元禅師様は暖かく励まして下さっているのだと私は思います。

いつもやわらかな表情で人に接するということは、お布施のひとつでもあります。やわらかな表情は相手に安心を与えることができるからです。そして、いつもやわらかな表情であろうとする、その行いは自分自身の中に強くて大きい心を育てる修行でもあります。強くて大きい心がなければ、いつもやわらかな顔でいることはできないからです。

いつか誰かの笑顔にあなたが癒され元気付けられたように、あなたの笑顔に癒され元気づけられる人が必ずいます。

「ただまさにやわらかなる容顔をもて、一切に向かうべし。」

この教えを胸に、いつかどこかで笑顔でお会い出来る日を楽しみにしております。

「死に向かって笑顔で生きる」

坂祝町 地蔵院 徒弟 岡崎 玄一 師

人生をイメージするというのはなかなか難しいものです。肉体的には25歳まで成長し、55歳まで成熟し、平均的に80歳を過ぎて死を迎えるというのが標準的な人間の現実でしょうか。残念ながらすべての人は死をむかえるということです。しかし私達は死という締切意識を普段から意識することはあまりないように思います。

ここからはスティーブジョブズ氏の伝説のスピーチから引用します。
「もしも今日が人生の最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか」。その答えが「いいえ」。の日があまり多く続く場合には、何かを変える必要があるのだと、必ず分かります。自分がもうすぐ死ぬのだと意識しておくことは、人生の重大な選択をする際に役立つツールとしてとても重要です。なぜなら、いろいろな外部からの期待や、自分のあらゆるプライド、混乱や失敗に対するさまざまな恐れ。こういったものは、死に直面すると消えてなくなり、真に重要なことだけが残されるからです。自分も死に向かっているのだと意識することは、自分には失うものがあるのだという「思考の落とし穴」を避けるための策として、私の知る範囲では最善です。皆さんはすでに何も身につけていない状態なのです。自分の心に従わない理由はありません。

だれでも死にたくはありません。たとえ天国に行きたいと思っている人でも、そこへ行くために死にたいとは思いません。しかし、死というものは、われわれ全員共通の終着点なのです。それから逃れた人は、これまでだれもいません。そして、それはそうあるべきものなのです。なぜなら、死はほぼ間違いなく、生命に関した唯一にして最高の発明だからです。それは生命の変化の担い手です。古いものを排除し、新しいもののために道を開きます。
最も重要なことですが、自分の心と直感に従う勇気を持ってください。あたなの心と直感は、あなたが本当はどうしたいのかをすでに知っているのです。

なかなか言葉にしにくいキーワードを並べてきましたが、日常を生きるにあたり、最後に明るい話をしたいと思います。それは「笑顔」で過ごすということ。「楽しいから笑う」のではなく「笑うから楽しい」そう思うと脳が記憶して、幸せホルモンをだしたり、リラックス効果が表れるそうです。自分のために笑顔を作ってみてください。

「未来をたくましく生きぬくために」

本巣市 千光寺 住職 岡田英隆 師

未来を生きぬくためには「たくましさ」が必要です。「たくましさ」とは、「意志が強くてくじけない」といった意味です。つまり「たくましい人」とは、「苦難を克服して力強く生きる人」のことを言います。

では、「苦難を克服して力強く生きる人」とはどんな人のことでしょうか。私は「強さ」と「しなやかさ」を兼ね備えた人のことだと思います。

よく「強さ」や「堅さ」を表現するときに「焼き物」の話が用いられます。「堅い」ものと「堅い」ものがぶつかると割れてしまうという話です。同じように堅い木と堅い木がぶつかると折れてしまいます。しかし、そこに「しなやかさ」が加わると「竹」のように折れなくなります。「竹」のような「強さ」と「しなやかさ」を、身に付けることができれば「たくましい」生き方に少しでも近づくのではないでしょうか。

竹がしなやかで折れない理由のひとつに「節」が挙げられます。この「節」があることで「強さ」と「粘り」が備わります。私たちにとって「節」とは、「生活環境が変化した時」や「新年を迎える時」などがあります。また、「自分の成長が実感できた時」なども大切な「節」になります。

天に向かって真っすぐ伸びる「竹」の様子は、自分の目標に向かって、未来を切り拓き、突き進んでいる姿そのものです。

ご自身と重ね合わせると、「未来を生きぬく」ために「たくましさ」を身に付けることは大切なことだと思いませんか。

「経のしずく」

神戸町 榮春院 住職 阿原道雄 師

私も寺に生まれ、育って50年近くが過ぎました、これだけ寺にいれば、少しはマシな人間になったかと我が身を反省しますと、我ながらゾッとします。

欲は深いし、すぐに怒る、愚痴は次々に出てくると、考えれば考えるほど顔が赤くなるばかりです。

皆さんには、欲をすて、怒らず穏やかに、愚痴は災いのもとと言いながら、その自分が、時には坊さんであることを忘れて行動するのだから、どうしようもありません。

「しまったなぁ」と、思う時には、後の祭りです。

こんなことでは仏教を信ずる意味が無いのでは?と、自問自答する事が多々あります。

こんな人間が坊さんをしていていいのだろうか?と、思うことも、しばしばですが、その時に出した結論は、自分は寺に生まれ、育ち、寺にいて、坊さんをしているから、この程度で居られるのだと・・・。

もし、坊さんをしていなかったら、いったい今頃どうなっていたか分からないです。

考えてみますと、私の心は組み目の広いザルと一緒です。

ザルに水を、いっぱい入れても、全てもれてしまいます。

でも、よくよく考えると、ザルの組み目に「しずく」が残っているではありませんか?

私も同じように、全てもれてしまうと思っていたのですが、それなりに「しずく」の、いくつかが、きっと残って、この程度でおさまっているのだと思いました。

それならば、寺にいること、坊さんをしていることが、私にとってどれだけ大切なことかと改めて気づかせて頂きました。

教えを受けても、その時その時は、その意味が分からなくても「しずく」は、必ず心に残ります。

逆に、教えを受けなければ、心に残らないのは当たり前なのです。

仏教の教え、人の教え、そして人との繋がりを大切にして、毎日を過ごしていきたいと思う、今日この頃です。