テレフォン法話

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「洗心」

恵那市 宗久寺 副住職 松本 真英 師

先日お寺の工事で水道が止まった時がありました。そのとき改めて気がついたのは、普段の生活の中で水を使いたいと思うタイミングが想像以上に多いということでした。

今の時代を生きる私たちは毎日たくさんの水を使っていますが、中々普段の生活の中で意識することがありません。気候風土の影響もあり昔から日本人はお風呂好きと言われるほど日常的にたくさんの水を使っています。体や物についた目に見える汚れを落とすだけでなく、儀式の場を清めるために清めの水として使うこともあります。

さて、目に見える汚れは気になってすぐに洗い落としたくなりますが、心にたまった汚れには気づけているでしょうか?心の汚れはためてしまうと洗い落とすのが難しくなってしまいます。

禅語に「洗心」という言葉があります。偏見、欲望、執着といった心の汚れを坐禅や瞑想、自然の中に身を置くことで洗い流し心を清めるという意味です。

この情報化社会では多くの暗いニュースを目にしたり、仕事や身の回りの忙しさから知らず知らずのうちにストレスがたまってしまう機会が多くなっているように感じます。技術の進化により便利な世の中になっているはずなのにどうしてか忙しさは増していると感じる方も多いと思います。それとは逆に自分を見つめ直すために心を落ち着ける時間をとれない人が増えているのではないでしょうか。

心の内面を見つめ直す方法は人それぞれ違うかもしれません。自分に合ったやり方で見つめ直しても良いですし、坐禅をしてみるのもいいでしょう。更にいえば日々の生活の中で人を思いやり優しく接することで自分自身も穏やかな気持ちになった経験は誰しもあると思います。そんな日常の些細な出来事でも自己を見つめ直す機会につながっているものです。

皆さんも心の汚れを洗い落とす時間をつくってみて下さい。

「物の命」

可児市 天龍寺 住職 太田  恒次 師

今日は、「物を大切に使い切ること」について、お話をさせていただきます。

お釈迦さまは、「この世のすべては移り変わり、やがては朽ちるもの。だからこそ、今あるものを慈しみなさい」と教えてくださいました。

それは、人だけでなく、私たちの手にする物にも当てはまる教えであります。

昔、友人布の話をしてくれたのを思い出します。

一枚の布の話です。

最初は、きれいタオルとして、大事に使われていました。

汗をぬぐい、涙をぬぐい、大切な場面で寄り添う、そんな存在でした。

やがて年月が経ち、布は少しずつ色あせ、ほつれはじめます。

そこでその布は、小さな端切れに縫い直され、今度は台フキンとして、毎日の食卓を拭く役目を担いました。

さらに月日が流れ、布はすり切れ、つぎはぎだらけになります。

それでも捨てられることはありませんでした。

最後は雑巾となり、床を磨き、仏壇の掃除をし、家のすみずみまできれいにして、ようやく役目を終えたのです。

この布は、最初から最後まで、命を全うしました。

そして、その布に寄り添った人もまた、一つひとつに「ありがとう」と感謝しながら、布を使いました。

この小さな布の歩みこそ、まさに仏さまの教えそのものではないでしょうか。

天地自然の恵みから生まれ、多くの人の手を経て、私たちの手に届いた命。

それを最後まで使い切り、役目を全うさせる。

この心こそが、物を尊び、命を尊ぶ、仏の道につながっています。

今は、物が豊かにありふれている時代です。

しかし、心が豊かであるかどうかは、物の量ではなく、一つひとつにどれだけ「ありがたい」と手を合わせるかにかかっています。

どうか皆さま、身近なものに、そっと目を向けてみてください。

使い古した布、すり切れた道具、何げない一つひとつにも、命があり、物語があります。

それに気づき、最後まで大切に使い切る心を育てること――

それが、私たち自身の心を磨き、仏さまに近づく道となることでしょう。

「掬水月在手、弄花香満衣」

瑞浪市 宝林寺 副住職 西尾 英晃 師

5月に入って新しい年度の始まりから一か月となりました。新しい環境に身を置かれるようになった方々も大勢おられることかと思います。そうした中で今一生懸命に頑張っている方もいれば、悩みを抱えている方もおられると思いますが、そんな皆様に向けて今日は禅の言葉を一つ紹介させていただきます。

「水を掬(きく)すれば月手に在り、花を弄(ろう)すれば香(かおり)衣に満つ」

言葉としての意味は「月夜に水面に映る月を両手で掬(すく)うとその手の水に月が宿り、

花を摘んで遊んでいるとその香りが知らぬ間に衣服に染み込んでいる」といったものになります。天然自然の風流なものと戯れる何とも美しい情景を表した言葉ですが、はてこれが仏教や禅とどう関係するのだろうと思われるかもしれません。

様々な解釈がありますが、月と花は悟り・仏の教えの象徴として用いられ、水を掬う、花を摘むという天然自然の清らかなものに触れる行為は修行や善行の象徴と考えられます。

それを踏まえて意訳しますと、「遥か彼方にある月も掌に掬った水面に宿るように、仏は実はあなたのすぐそばにある。花の香りが自然に衣服に移るように、清らかなものに触れているとその影響は知らず知らずのうちにあなた自身に身に付いていく」といったところになります。

ここで大切なのはあなた自身が手を伸ばして自分の意志で触れることです。あなたの助けになるものは、あなたが手を伸ばせば実はすぐそばにあります。しかしながら、そうしたものはあなたが手を伸ばした時に初めてあなたに届くのです。

思いやり、優しさ、親切そうした善きものに触れてあなた自身もそうなっていけると

また次の誰かにその善きものは伝わっていくことでしょう。香りを受け取るだけでなく周りへ分け隔てなく与えていけるようになりたいものです。

「苦しみのその先」

瑞浪市 開元院 副住職 逸見 謙尚 師

4月、春の訪れを感じる季節となりました。

桜が咲き誇り、新しい始まりを迎える方々が多い一方で、この時期は花粉症や年度替わりの忙しさなど、様々な苦しみや悩みが押し寄せる時期でもあります。

ここで、こうした苦しみにどう向き合えば良いのか考えて行きましょう。

仏教には苦しみの苦に諦めるのあきらで「苦諦(くたい)」という言葉があります。人生には苦しみがつきものだという教えです。

この教えは、私たちに絶望を与えるためではなく、苦しみを静かに見つめ、それを受け入れる方法を教えてくれます。

苦しみはただ避けるべきものではなく、人生の中で学びと成長を私達に与えてくれる機会になるはずです。

道元禅師様の教えに「只管打坐(しかんたざ)」ただひたすらに座るという教えがあります。

坐禅は、過去や未来への不安や悩みに捕らわれず、今この瞬間に集中する方法の1つです。

苦しみを否定するのではなく、ただひたすらに苦しみと向き合い、それをただ一つの感覚として見つめることで、苦しみの中にある本質を受け止め、心を豊かにすることができるでしょう。

四月は、新たな環境や変化が多い季節です。その変化が時に不安や緊張を伴うとしても、それは私たちが学び、成長する絶好の機会です。

また、苦しみを経験することで他者への思いやりが育まれます。

自分が感じる苦しみは、同じように悩む他者を理解し、支える心を生むのです。この相手を思いやるその心が、私たちを豊かにしてくれます。

この四月、苦しみを避けるのではなく、その先にある学びを探してみてください。

自分自身と向き合い、季節の移ろいの中で新しい道を見つけ豊かな心で1日1日を過ごしましょう。

「まかぬ種は生えぬ」

高山市 正宗寺 住職 原田 太石 師

飛騨の片田舎にある正宗寺では、一反余りの田んぼを世話しています。田植えや稲刈りの際には、近所の農家さんにお世話になりながらも、あぜ草刈りや水管理、田の草取りは住職夫婦で担っています。

さて、4月8日はお釈迦さまの誕生日です。お釈迦様は「蒔かぬ種は生えぬ」と言われました。同じように種を蒔いても、日照時間はじめ、肥料や水やりの頻度、除草の手間のかけ方で収量や味に差が出ます。

実際、私たち家族が口にする食材なので、なるべく低農薬で育てるよう心がけています。反面、草は生えやすくなり、草取りの手間がかかります。

有るとき、水はけの悪い沼田で泥だらけになり、草を取りながら、ふと思いついたことがあります。

私たち人間は皆、それぞれの幸せを求めて暮らしています。

AIすなわち人工知能によるシステム等、何でも自動で対応のできる便利な商品が日々開発されています。スイッチ一つ、号令一つ、ともすると頭に浮かぶ事に即座に反応する生活に幸福感を得られるでしょうか。さまざまな最新技術によって助けられる一方、少しでも楽をしようとする気持ちに負けて、体力や生きがいを失ってはいないかと、時々反省します。

田んぼを維持するには手間とお金がかかります。先祖代々の田畑を荒らさぬように、農地を守って下さる方が近年減りつつあります。イノシシを始め害獣被害にあう年、猛暑や自然災害で収量が少ない年もあります。

いつまで続けられるかはわかりませんが、今後も手間をかけ美味しいと感じられるお米を味わえるよう作物の手入れをしていきたいと思います。自分の手をかければ、収穫の喜びもひとしおだろうと感じるからです。
毎年、作物の出来がちがう米作りを通じて、「まかぬ種は生えぬ」といわれたお釈迦さまの教えを肌で感じています。

 

「別れと出会いの先に豊かな人生」

土岐市 仏徳寺 副住職 佐々 繁樹 師


10年に一度という寒波も終わり、三月も後半になり別れと出会いの多くなる季節になってきました。新しい学校、新しい会社、新しい土地へと生活の場が変わる方も多いでしょう。別れという言葉は単語にするとマイナスのイメージになり、出会いという言葉は単語にするとプラスのイメージになります。二つの単語を足して、別れがあれば出会いがあるという言葉にすればプラスのイメージになるでしょう。別れを超えて新しい場所へ進むことは新たな出会いがあり、新たな学びを得ることができます。

そして、今の自分があるのは今までのたくさんの出会いと別れの繰り返しの上に出来上がっているのです。もしあの時、違う学校に行っていたら、違う道に進んでいたら、違う選択をしていたらと考えると今の自分はいなくなってしまいます。人はたくさんの選択の中から今の人生を選んでいるのです。そして今の人生を満足させるには岐路に立った時、選択を他人にゆだねるのではなく自分自身で選ぶことです。他人にゆだねた結果、満足いかない結果になると他人のせいにしてしまいがちです。あの人のせいで今の自分になってしまった、本当はこんなんじゃなかった、と不満ばかりが募ってしまいます。しかし、自分で選んだ結果なら、また自分の努力で取り返すこともできます。また選びなおせばいいんです。自分の選んだ結果は受け入れることができるはずです。

そして、四月になれば新しい出会いが増える季節になります。新しい出会いの中には今の自分をさらに成長させてくれるものもきっとあります。新しい学びも、新しい選択肢もできるでしょう。これからの一年を楽しく過ごせるようたくさんの新しい出会いをつくり、選択肢を増やしていきましょう。選択肢が増えればそれだけたくさんの未来を描くことができます。その中から自分の進みたい道を選ぶ、その積み重ねが人生を豊かにしていくのです。豊かな人生の為に一歩を踏み出しましょう。

「柳は緑、花は紅」

美濃市 善應寺 住職 雲山 晃成 師

「柳は緑、花は紅」と言う禅の言葉があります。春を連想する美しい言葉ですが、みなさんはこの言葉を聞いてどの様に感じましたか?

柳は緑、花は紅。見たままの当たり前の言葉じゃないかと思う人もいるかもしれませんね。

この世の中の森羅万象を言葉にすることは中々難しい事ですが、この言葉は見事に短い言葉で言い表していると思います。

この言葉に出てきます栁や花たちは誰に褒められるわけではなくその時をしっかりと生きています。なので春になればきれいな花や葉を芽吹かせることが出来るのです。

それに比べて私たち人間は暑い夏には早く秋が来ないかと思い、寒い冬の時期になれば早く春が来てほしいと思ってしまいがちです。次の春を見れる保証は誰もいないのについつい今を見過ごしてしまって、未来ばかりを気にしてしまいます。

柳の葉っぱが輝いて見えるように、花たちの良い香りを感じるように、ありのままをしっかりと感じ、美しい自然の営みに出会っていることに感謝をし、そしてその自然の中で私たちも輝いているのだと感じられたら幸せですね。

「戦後80年を迎えて」

美濃市 永昌院 住職 高橋 定佑 師

今年で戦後80年を迎える年となります。節目の年に当たり、改めて、戦争あるいはその影響で命を落とされた多くの方に、深く哀悼の誠を奉げます。

宗門ではこれまでにも、当時を振り返り「国家政策や世論の流れに無批判に迎合してしまうことで戦争に加担しまった」として、その過ちを反省し、「二度と同じ過ちを繰り返すことがないよう、行動していかなければならない」と、談話を発表してきました。

今日、戦後生まれの人の割合は国民全体の約9割となり、戦争の記憶をつなぐことが困難になっているといいます。そんな中、永く平和を守り続けるために、私たちができることは何でしょうか。

戦時中、岐阜県内でも市街地を中心に空襲の被害があり、様々な面で各地に大きな影響をもたらしています。私の住む美濃市では、名古屋市の小学校から、疎開児童の受け入れがあり、400名を超える児童が市内の各寺院に振り分けられ、1年数か月を過ごしました。

遠く家族と離れ、毎日を過ごした彼らが、赤く染まった名古屋の夜空をどんな気持ちで見ていたのか。その不安や寂しさを想像すると胸が苦しくなります。実際に疎開された方の話からは、当時の衛生状態や食べ物が十分でなかったこと、家族に会えない寂しさなど、よりリアルな生活を想像することができます。一方で、厳しい暮らしの中でも豊かな自然や、地域の人々との交流を通して、人の温かさにも触れられた時間であったと聞きます。

戦争に関わる話は大変厳しいものが多いですが、そこには今を生きる私たちと同じように、何気ない日常の小さな幸せや喜びがありました。それは遠い昔のことではなく、身近なものです。戦争の凄惨さ、その時代を生きる人々の暮らし、それを知らずして平和の尊さを理解することはできません。

道元禅師は次のような言葉を示されています。

「自分の見方や考え方、知っていることだけがすべてではない。そのことを忘れてはならない」

人によって、それぞれ物差しは違い、知らないことも多くあります。永く平和を守り続けるために、今、私たちができることは、そのことを心に留め、それぞれが我が事として、向き合うこと。そして、過去の記憶を決して風化させることのないよう、しっかりと伝えていくことであると思います。

「人は二度死ぬ」

関市 永昌寺 住職 鬼頭 周賢 師

先日、お寺の本堂にて檀家さんの一周忌の法事を執り行なわせていただき、その後のお斎(昼食)の席にも一緒につかせていただきました。お斎が始まる前に、亡き人を偲んで盃を捧げる献杯を行いますが、その献杯の挨拶で故人の本家の方がこんな挨拶をされました。

「人は二度死ぬことができるといいます。一度目は現在の肉体の死、二度目は人々から忘れ去られた時です。本日は故人の思い出をたくさんお話しましょう」と挨拶をされました。

一度目の死は、息を引き取った瞬間に訪れる死のことです。二度目は家族や親戚、生前親しくしていた方達、関わりのあった方達の心の中から忘れ去られてしまった時に二度目の死を迎えるということです。

この「人は二度死ぬ」という言葉は大変有名で、映画やアニメでも引用されていますので、皆さん一度は聞いた事があるのではないでしょうか?

この言葉には、「亡き人が私達の心の中でいつまでも生き続けていって欲しい」という今を生きている私達の願いが込められていると同時に、「亡き人をいつまでも忘れないでいることの大切さ」を教えてくれています。残された方々が、亡き人との思い出を語り合い忘れないでいることは、亡き人からいただいたご縁や恩、つながりを忘れないと共に、「人はいつかは必ず死ぬ」という普段は目を背けがちな大切なことを忘れないということになります。

自分の人生に終わりがあるという事を日々意識して生活している人はほとんどいないでしょう。しかし、亡き人を思い出し供養していく過程を通して「人はいつかは必ず死ぬ」という無常の事実を受け止め、今という時を大切に生きていく。それが亡き人への供養につながっていくことだと思います。

「愛語よく廻天の力あり」

関市 立蔵寺 住職 伊藤 智純 師

先日、人に勧められて読んだ詩集にあった詩です。

まずは紹介させてください。

 

『私の席』

満員バスにおばあさんが乗ってきた

ポニーテールの女の人が

すぐ降りますのでと席を譲った

でもその女の人は

次の停留所でも

4つ目の停留所でも降りなかった

私は胸がいっぱいになって

いつもより1つ早い停留所でバスを降りた

あのポニーテールの女の人

私の席に座ってくれたかなあ

 

これを詠んだのは小学6年生の女の子です

人の親切に気が付く繊細な心と、自分も何かせずにはいられなくなった優しい気持ちが

素直な文章から伝わってきます。

 

曹洞宗に縁がある方であれば、修証義というお経を聞いたり、読んだりしたことがあると思います。

『衆生を利益するに四枚の般若あり、一者布施 二者愛語 三者利行 四者同時、是れ即ち薩埵の行願なり』

とありますが、ポニーテールの女性のとった愛語、利行の実践に「唯ひとえに催され」

この少女もまた利行、愛語を実践したのです。

『此の心を起せば已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流なりとも四衆の導師なり』

少女に頭の下がる思いがしました。

 

ニュースやSNSばかりを見ていると、うかつに人を信じるな、だまされるな、と

疑心暗鬼になってしまいがちでしたが、『愛語よく廻天の力あり』ということを

信じなければと思ったことでした。

 

冒頭の詩は青い窓の会『童顔の菩薩たち』からお借りしました。