テレフォン法話

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「禅の心、その一歩」

岐阜市 医王寺 徒弟 透 晃潤 師

気持ちがどうにも落ち着かない時間が訪れたことがあると思います。

妙にそわそわして、じっとしていられない。

なにかをしている時でも、やけに時間の流れが遅い。

あるいは、その逆も。なんの気力も沸かない鬱屈とした時間も、

忘れたい時間も、訪れたことはあるでしょう。

 

これらは、過去や未来にとらわれていることが原因で起こります。

これを乗り越える事は、一見難しそうですが、

今回、私が話されてきた「禅の心」を、簡単にお裾分けさせていただいて、

なにかの糸口になれば幸いです。

 

一意専心、という言葉がございます。

これは、他のものごとに心を向けず、一つの物事に集中することを意味します。

自分がしたいことをしている時、

眼の前にお出しされた仕事でも真剣に、

料理でも、目一杯味わうなど。

目の前のものごとに、ひたすらに集中する。

このことが、禅の心にも通じてきます。

 

坐禅でも同じように、

只管打坐、という言葉があります。

曹洞宗の開祖、道元禅師が説かれたこれは、

坐禅の本質として重要視されています。

他事を考えることなく、ただ姿勢よく坐る。

修行中に掛けられた言葉ですが、

姿勢が良くなれば、息が整う。

息が整えば、心が調っていく。

心が調えば、曲のついた姿勢も整っていきます。

ですが、それらを目的にして坐禅をするのではなく、

大事なのは、「ただ打ち込むこと」にあります。

ただひとえに、坐ることに集中しよう、ということです。

 

坐禅と同じように、

本を読むことでも、目を瞑ってただ座ることも、

或いは何もしたくない状況でも。

真剣にやっていれば、次第に何かしらの結果がついてきます。

退屈な時間や、忘れたい時間が過ぎ去るといった結果も、です。

これこそ、今を大事にしている、という事でございましょう。

目の前のことにひたすら立ち向かっている時、

過去にも未来にもとらわれない、「今」歩みたい方向を向いている、

禅の心の持ち主となるのではないでしょうか

「お互いを敬う」

高山市 素玄寺 住職 三塚泰俊 師

近年は、私の住んでいる高山市にも連日多くの外国人観光客が訪れます。

先日、若いアメリカ人男性の方が、ご朱印を求めにお寺にお越しになりました。お互いに

日本語や英語を交えてやり取りをし、ご朱印帳をお渡し致しました。その方はお帰りにな

られる時、直立不動でとても綺麗な合掌をしながら深々とお辞儀をされ、日本語で「有難

うございました。」と御礼を言われました。

私は、そのお姿を拝見し、とてもすがすがしい気持ちになりました。それと同時に、

僧侶である自分は、その方のような丁寧な合掌と相手に対する御礼ができているのかなと

、少し恥ずかしい気持ちになりました。

仏教で合掌とは、右手は清らかな仏様を表し、左手は至らない自分自身を表し、その

両手を合わせることで仏様と心を一体にすると言われており、仏様への帰依の姿です。

また、私たちは普段の生活で合掌する機会が多くあります。ご先祖へのお参り、食前食後

の挨拶や、御礼やお詫びをする時など、感謝や有難い気持ちを表す姿です。

永平寺などの修行道場では、修行僧がすれ違う際に、合掌をしてお辞儀をします。

それは「あなたは仏様になられるよう修行を積んでおられる尊い方です。私もそのように

なりたいです。」というお互いに尊敬をしている心の表れの行為です。

私たちは、日々の生活の中で、様々な方々と出会っています。お互いの存在を敬い、

合掌ができない場面なら、心の中で「ありがとうございます。」と合掌をし合えるような

日々を過ごしてゆきたいものです。

「今を生きる」

飛騨市 洞雲寺 住職 大森 俊道 師

私たち曹洞宗では、道元禅師さまの教えの中でも特に「只管打坐(しかんたざ)」ただ坐る、という修行を大切にしています。坐禅とは何かを求めるための手段ではなく、ただ静かに坐り、いまを生きるという実践そのものです。

けれども私たちは、日常の中でどうしても「過去」や「未来」に心を奪われがちです。

「もっとこうしておけばよかった」「あのとき、ああ言わなければよかった」

あるいは「この先どうなるんだろう」「老後は大丈夫だろうか」そんな思いが頭を巡ります。

もちろん、それも人間らしい心の働きです。しかし、それが過ぎてしまうと、「いまここにある幸せ」に気付けなくなってしまいます。

たとえば、朝に飲む一杯のお茶。日差しの暖かさ。子や孫の顔。こうした何気ないことの中に仏さまの教えが生きています。道元禅師は「日常生活こそ仏道である」と説かれました。食事をいただくとき、掃除をするとき、人と話すとき。その一つひとつが、すべて仏道の実践になるのです。

仏教には「知足(ちそく)」足るを知る、という言葉もあります。

いま自分に与えられているものに気付き、それに感謝する。そうすれば、心静かに満ちていきます。坐禅をしても雑念は浮かびます。それでも構いません。ただ、その雑念に気付き、また呼吸に、戻る。それを何度も繰り返します。まさに、私たちの人生そのものです。心がどこかに飛んでいっても、また「いま、ここ」に戻ってくる。それが修行です。いまこの瞬間を味わい、感謝して生きる。

その積み重ねが、私たちの人生を穏やかで豊かなものにしてくれるのです。

 

「言葉よりもっと大切なもの」

高山市 雲龍寺 住職 亀山 和浩 師

コロナ禍がおわり、昨年度の訪日外国人観光客の数は過去最高を記録しました。

日本でも有名な観光地である私の町にもそれは沢山の方々がいらっしゃっり、ただただ驚くばかりです。これまでは、お寺の方まで足を運ばれる方は少なかったのですが、最近は遊歩道を散策しながら境内を歩かれる方がとても増えました。

ある日、私が洋司に出かけようとすると、本堂前の階段に、外国の方が数人寝そべって会話をしていました。さすがに本尊様のまえですので、寝そべってというのは如何なものかと思いましたが、急いでいたこともありその場は通り過ぎることにしました。

その後、用事を済ませて帰ってくると、やはり同じように寝そべって談笑しています。せめて仏様の真ん前を避けることは、我々の文化を理解してもらうという点からも大事なことでありますので、ここはしっかり伝えようと思いました。

こういった場合、英語で何と言えば良いものかと色々思慮しているうちに、向こうから年配の女性が歩いてきました。この女性はお墓参りによくいらっしゃる方で、必ず本堂の前で帽子を脱ぎ、しばらく手を合わせて行かれます。この日も同じように本堂の前で帽子を脱ぎ、手を合わせられました。

すると、今まで寝そべっていた外国の方が何かに気付いたように慌ててその場を離れました。その女性の姿を見て、自分たちが居た場所がどれだけ大切な場所であるかに気付いたのでしょう。その一連の様子を目の当たりにしながら、その女性の姿がどれだけ尊いことか私自身も改めて気付いた次第です。

曹洞宗では「不立文字 教外別伝(ふりゅうもんじ きょうげべつでん)」という教えを大切にいたします。言葉や文字ももちろん重要ですが、それ以上に大切なものがあるという教えです。

その時、私が言葉であれこれ伝えようとしても、女性のその尊い姿以上にその真意を伝えることはできなかったでしょう。

仏様の教えに限らず、人を動かすのはやはり自分自身がどうこうどうするかなのではないでしょうか。

「善い行い」

中津川市 浄光寺 住職 福谷 哲生 師

お盆も近くなり、先代の和尚さんたちのお墓を掃除していると、一人のおばさんが花が余ったからとお供えされて行かれました。

その方は自分の家のお墓だけでなく通路の草も綺麗にとっていかれました。この暑い時期に自分の処だけでも大変なのに皆が通る道も掃除することは、自分の為だけでなく、他人にも尽くす菩薩行と言えるでしょう。

あなたも私もいきなり菩薩の心境になれなくても、自分のできることから始めて行く事が大切なのです。自分の欲張った気持ちを抑えて他人に譲ったり、怒りの気持ちを抑えて他人の過ちを許したり、他人に思いやる優しい言葉をかけたりすることは、誰にでもしようと思えば出来ることです。ただその時、相手のことをちゃんと考え、一方的に善意を押し付けたり、自己満足の為にしてはいけません。また、見返りを求めず、さりげなく行うことが菩薩行と言えるでしょう。

他人の悲しみ、喜びも自分のことと感じ、他人を思いやり、行動ができる使途になりましょう。

「挨拶」

中津川市 宗泉寺 副住職 大石 光潤 師

私たちが仲良く暮らしていくうえで挨拶をする習慣があるということは、とても素晴らしいことです。

もし、挨拶というものが無かったら、沈黙があるか、用件のみの寂しい会話があるだけで、彩りのない毎日を暮らすことになってしまうでしょう。

「おはようございます」、「こんにちは」、「ありがとう」、「失礼します」、「おやすみなさい」。

お互いに挨拶を交わすことで、喧嘩したばかりの二人でもいつの間にか仲直りしてしまいます。

挨拶という言葉の「挨」という文字には軽く触れること、「拶」という文字には強く触れるということを意味し、

はじめは、禅宗のお坊さんの間で使われた言葉でした。

むかし、禅宗の僧侶が弟子に問答をして悟りの度合いを試すことを挨拶と言いました。

ちょっと声をかけて、弟子の返す答えによって修行の完成度や仏教についての理解度をチェックしていたわけです。それが転じて、今日では一般に親愛の言葉をかけあうことに変わって行きました。

相手の返事で喜怒哀楽がわかるように、挨拶には人の姿勢や感情がとてもよく現れます。曹洞宗を開かれました道元禅師様の教えの中に「愛語よく廻天の力あり」ということばがあります。愛情に満ちた言葉は、相手の心を動かし、状況を好転させる力がある。という意味でありますが、人と人、心と心をつなぐ挨拶もまた愛語になりうるのです。私たちは、言葉に思いや、願い、祈りを込めることができます。

いつでもどこでもだれとでもできる挨拶にも仏教の教えが込められているのです。

それではみなさん、ありがとうございました。

「洗心」

恵那市 宗久寺 副住職 松本 真英 師

先日お寺の工事で水道が止まった時がありました。そのとき改めて気がついたのは、普段の生活の中で水を使いたいと思うタイミングが想像以上に多いということでした。

今の時代を生きる私たちは毎日たくさんの水を使っていますが、中々普段の生活の中で意識することがありません。気候風土の影響もあり昔から日本人はお風呂好きと言われるほど日常的にたくさんの水を使っています。体や物についた目に見える汚れを落とすだけでなく、儀式の場を清めるために清めの水として使うこともあります。

さて、目に見える汚れは気になってすぐに洗い落としたくなりますが、心にたまった汚れには気づけているでしょうか?心の汚れはためてしまうと洗い落とすのが難しくなってしまいます。

禅語に「洗心」という言葉があります。偏見、欲望、執着といった心の汚れを坐禅や瞑想、自然の中に身を置くことで洗い流し心を清めるという意味です。

この情報化社会では多くの暗いニュースを目にしたり、仕事や身の回りの忙しさから知らず知らずのうちにストレスがたまってしまう機会が多くなっているように感じます。技術の進化により便利な世の中になっているはずなのにどうしてか忙しさは増していると感じる方も多いと思います。それとは逆に自分を見つめ直すために心を落ち着ける時間をとれない人が増えているのではないでしょうか。

心の内面を見つめ直す方法は人それぞれ違うかもしれません。自分に合ったやり方で見つめ直しても良いですし、坐禅をしてみるのもいいでしょう。更にいえば日々の生活の中で人を思いやり優しく接することで自分自身も穏やかな気持ちになった経験は誰しもあると思います。そんな日常の些細な出来事でも自己を見つめ直す機会につながっているものです。

皆さんも心の汚れを洗い落とす時間をつくってみて下さい。

「物の命」

可児市 天龍寺 住職 太田  恒次 師

今日は、「物を大切に使い切ること」について、お話をさせていただきます。

お釈迦さまは、「この世のすべては移り変わり、やがては朽ちるもの。だからこそ、今あるものを慈しみなさい」と教えてくださいました。

それは、人だけでなく、私たちの手にする物にも当てはまる教えであります。

昔、友人布の話をしてくれたのを思い出します。

一枚の布の話です。

最初は、きれいタオルとして、大事に使われていました。

汗をぬぐい、涙をぬぐい、大切な場面で寄り添う、そんな存在でした。

やがて年月が経ち、布は少しずつ色あせ、ほつれはじめます。

そこでその布は、小さな端切れに縫い直され、今度は台フキンとして、毎日の食卓を拭く役目を担いました。

さらに月日が流れ、布はすり切れ、つぎはぎだらけになります。

それでも捨てられることはありませんでした。

最後は雑巾となり、床を磨き、仏壇の掃除をし、家のすみずみまできれいにして、ようやく役目を終えたのです。

この布は、最初から最後まで、命を全うしました。

そして、その布に寄り添った人もまた、一つひとつに「ありがとう」と感謝しながら、布を使いました。

この小さな布の歩みこそ、まさに仏さまの教えそのものではないでしょうか。

天地自然の恵みから生まれ、多くの人の手を経て、私たちの手に届いた命。

それを最後まで使い切り、役目を全うさせる。

この心こそが、物を尊び、命を尊ぶ、仏の道につながっています。

今は、物が豊かにありふれている時代です。

しかし、心が豊かであるかどうかは、物の量ではなく、一つひとつにどれだけ「ありがたい」と手を合わせるかにかかっています。

どうか皆さま、身近なものに、そっと目を向けてみてください。

使い古した布、すり切れた道具、何げない一つひとつにも、命があり、物語があります。

それに気づき、最後まで大切に使い切る心を育てること――

それが、私たち自身の心を磨き、仏さまに近づく道となることでしょう。

「掬水月在手、弄花香満衣」

瑞浪市 宝林寺 副住職 西尾 英晃 師

5月に入って新しい年度の始まりから一か月となりました。新しい環境に身を置かれるようになった方々も大勢おられることかと思います。そうした中で今一生懸命に頑張っている方もいれば、悩みを抱えている方もおられると思いますが、そんな皆様に向けて今日は禅の言葉を一つ紹介させていただきます。

「水を掬(きく)すれば月手に在り、花を弄(ろう)すれば香(かおり)衣に満つ」

言葉としての意味は「月夜に水面に映る月を両手で掬(すく)うとその手の水に月が宿り、

花を摘んで遊んでいるとその香りが知らぬ間に衣服に染み込んでいる」といったものになります。天然自然の風流なものと戯れる何とも美しい情景を表した言葉ですが、はてこれが仏教や禅とどう関係するのだろうと思われるかもしれません。

様々な解釈がありますが、月と花は悟り・仏の教えの象徴として用いられ、水を掬う、花を摘むという天然自然の清らかなものに触れる行為は修行や善行の象徴と考えられます。

それを踏まえて意訳しますと、「遥か彼方にある月も掌に掬った水面に宿るように、仏は実はあなたのすぐそばにある。花の香りが自然に衣服に移るように、清らかなものに触れているとその影響は知らず知らずのうちにあなた自身に身に付いていく」といったところになります。

ここで大切なのはあなた自身が手を伸ばして自分の意志で触れることです。あなたの助けになるものは、あなたが手を伸ばせば実はすぐそばにあります。しかしながら、そうしたものはあなたが手を伸ばした時に初めてあなたに届くのです。

思いやり、優しさ、親切そうした善きものに触れてあなた自身もそうなっていけると

また次の誰かにその善きものは伝わっていくことでしょう。香りを受け取るだけでなく周りへ分け隔てなく与えていけるようになりたいものです。

「苦しみのその先」

瑞浪市 開元院 副住職 逸見 謙尚 師

4月、春の訪れを感じる季節となりました。

桜が咲き誇り、新しい始まりを迎える方々が多い一方で、この時期は花粉症や年度替わりの忙しさなど、様々な苦しみや悩みが押し寄せる時期でもあります。

ここで、こうした苦しみにどう向き合えば良いのか考えて行きましょう。

仏教には苦しみの苦に諦めるのあきらで「苦諦(くたい)」という言葉があります。人生には苦しみがつきものだという教えです。

この教えは、私たちに絶望を与えるためではなく、苦しみを静かに見つめ、それを受け入れる方法を教えてくれます。

苦しみはただ避けるべきものではなく、人生の中で学びと成長を私達に与えてくれる機会になるはずです。

道元禅師様の教えに「只管打坐(しかんたざ)」ただひたすらに座るという教えがあります。

坐禅は、過去や未来への不安や悩みに捕らわれず、今この瞬間に集中する方法の1つです。

苦しみを否定するのではなく、ただひたすらに苦しみと向き合い、それをただ一つの感覚として見つめることで、苦しみの中にある本質を受け止め、心を豊かにすることができるでしょう。

四月は、新たな環境や変化が多い季節です。その変化が時に不安や緊張を伴うとしても、それは私たちが学び、成長する絶好の機会です。

また、苦しみを経験することで他者への思いやりが育まれます。

自分が感じる苦しみは、同じように悩む他者を理解し、支える心を生むのです。この相手を思いやるその心が、私たちを豊かにしてくれます。

この四月、苦しみを避けるのではなく、その先にある学びを探してみてください。

自分自身と向き合い、季節の移ろいの中で新しい道を見つけ豊かな心で1日1日を過ごしましょう。