テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

「平等とは」

山県市 大喜院 御住職 高橋豊和  師

先日、私は訳あって憲法を読むことがありました。中学・高校時代に読んだことがあるとは思うのですが、改めて読み直すと崇高な理想が書かれている印象を受けました。

日本国憲法の3大原理は、基本的人権の尊重、主権在民、平和主義であります。

憲法14条では、「すべて国民は法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会関係において差別されない」と記されています。

平等とは、もとは仏教用語であります。お釈迦様は、いかなるものも、本来は差別がないとして、インドで古くからあるカースト制度を否定されてきました。生きとし生きるもの、何の差別、分け隔てなく、いとおしんでくださると考えられ平等大悲という言葉もあります。

さて、平等は、みんな同じということなんでしょうが、人の人格、価値観、能力、経済力、生まれ育った環境はさまざまであり「みんな同じ」ということは、なかなか難しいと思われます。なので、最低限何を「同じ」にするのかということになるのでしょうが、このとらえ方も人それぞれなので難しいということです。

つまりは、人はそれぞれ考え方が違うので、それを認め合うことにより平等が実現するのではないかと考えます。さまざまな差別、「あの人は○○だから」の決めつけや偏見をなくすことが、日本国憲法でいう崇高な理想を実現するための一つとなるのではないでしょうか。

静かに今を見つめ、一歩を進みましょう。

岐阜県宗務所  所長 小島 尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。

皆様の益々のご健康をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

宗務所所長を拝命して早三年、私の新年テレホン法話は最後となりました。

時に今、二年以前の新型コロナウイルス感染症により、また多くの事件や事故、度重なる自然災害により、人々は心を痛め、苦しみ、悩みの中にいます。

社会は混迷の一途を辿り、私たちは自らの冷静さを見失いがちとなり、誤解や偏見、様々な分断が現われ、人間関係に希薄化が進んでいる感がいたします。

しかし、このような苦難は、過去何度も繰り返され、その度に先人たちは、学び、智慧を出し合い、慈悲の心を持って、他人を思いやり助け合って来たからこそ、私たちの今があるのです。

お釈迦様は人生における苦悩の中で菩提樹の下、坐禅を重ねられ、お悟りを開かれました。

私たちも今こそ、仏様と向かい合い、こころ静かにこの時を見つめ、先人の教えを学び、今の困難に直面しているのは自分だけではないことをまずは自覚し、他人の苦しみも共感出来る思いやりを忘るる事無く、「慈悲の心」「菩提心」を持って、日々を進みましょう。

この一日の精進が、人と人との温かなつながりを深め、この世での私たち自身の徳となり、それがご先祖様への功徳となって、更に家門繁栄、子孫長久にへと繋がることでありましょう。

小さな一歩であっても、進み続けることが、今の世に生きる私たちが安らかに暮らせる明るい明日を迎えることのできる未来への道標となるのです。

「人生はその時その時の積み重ね、正しく、明るく生きましょう。」

心静かに今を見つめ・ともに学び・ともに願い・ともに実践して、新しき良き年へと、一歩を進みましょう。

怨敵退散・如意吉祥ならんことを。

 

「友からの年賀状」

揖斐郡 妙勝寺 住職 岩谷真海 師

揖斐郡池田町の妙勝寺でございます。

令和三年の師走。年の瀬も押し迫り、何かと慌ただしくお過ごしの事ではないでしょうか?

この一年を思い起こしますと、新型コロナウイルスで始まり

コロナ禍の中で過ぎなんとしております。

私達の日常の生活も一変しました。

大変な制約の中での生活でした。

その様な中で、開催の是非は論じられましたが、

2020東京オリンピック・パラリンピックが開催され

テレビの中ではありましたが、私達に大変な感動と出会いを頂きました。

これがテレビではなく直接の出会いであったなら

その感動も倍増されたのではないかと思っております。

私は出会いはご縁だと思っております。「縁は異なもの味なもの」という言葉にあります様に、ご縁とは、男女の出会いだけでなく、人間同士の出会いが善につけ、悪しきにつけ、その人その人の人生まで左右する様な出会いになる事もあります。

「友よ、あなたとの出会いは、私のとっては生きてゆくご褒美」

これは、数年前に私の中学時代の恩師から頂いた年賀状に書かれてあった言葉です。

この友とは、お釈迦様が、同じ道を求める弟子達に言った言葉でもあります。

私にはこの年賀状は衝撃でありました。その先生は私が出家するご縁を頂いた齢九十歳の大先輩の老師であり、その師より「友よ」とのお言葉で始まる年賀状に感動の

余り不覚にも家族の前で涙致しました。

私もこのご縁を機会に、皆様にお伝え致したく思います。

「友よ、あなたに出会えて本当によかった」

ありがとうございました。

新しき年が皆様にとりまして善き年でありますよう、お祈り申し上げます。

「お盆供養によせて」

大垣市 報恩寺 住職 村田英隆 師

お盆の期間は、現在では標準的には8月13日から15日(16日)ですが、7月などに行われる地区もあります。

この供養の特色は、亡きご先祖が家に戻ってくると考えられ、その期間中に手厚く迎え、先祖をしのぶという行事の意味があります。

ちなみに初盆とは、「故人が亡くなり四十九日を過ぎた後、初めて迎えるお盆」です。

お彼岸は、お盆とは逆に、こちらから亡きご先祖様の世界に心をめぐらせ仏様の境地に寄り添う期間でもあります。

3月と9月の春と秋に墓参りをして先祖の供養をします。

一方、施食供養はいつ行っても良いものですが、お盆の時期にあわせて営まれること多いようです。

この行事の特徴は、供養されていない多くの諸霊を併せて施食棚に招いて供養することで、功徳を先祖に回向するという意味合いがあることです。

しかし昨今の猛暑やコロナでのマスクの着用でなかなか厳しいものがあります。お盆や彼岸は親族が集まり先祖への供養のお参りし、絆を深める大切な機会です。

今年は、コロナの影響でお盆の時期に実家へ帰るのをあきらめた方もおられるかもしれません

静かに自己に向き合って生き方を考えてみるのも良いかもしれません。

「飛騨 晩秋から」

高山市 久昌寺 御住職 新村雅芳 師

晩秋の朝。うす霧の中、白い息を吐きながら門頭の灯りを消す。暫くすると霧が晴れ少しづつ陽の光が射しはじめ、わずかの暖かさに有難さを感じる時。

「今朝はさぶかったなぁ」

「ほんとさぶぅなったなぁ」

と、挨拶のやりとりをして、仕事場へ急ぐ。

夕方、一日の仕事を終えて自宅へと向かう。

「日が短こうなったなぁ」

「日が暮れるとさぶいもなぁ」

「今夜はコケ鍋で一杯やるさぁ」

「コケ鍋かええなぁ」

飛騨の山からの贈り物、きのこ鍋である。

その山々の気配も静かな寂しさを感じさせて、やがて綿帽子を覆う準備にかかります。

今年もコロナコロナでくたびれました。何もかもすべてが元の通りという訳にはいかないものの、あとわずかです。元気で頑張りましょう

秋は月 冬雪さえて すずしかりけり

「普 回 向」

飛騨市 寿楽寺 御住職 柿本和孝 師

願わくはこの功徳をもってあまねく一切におよぼし

我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。

これを普回向と申します。

皆様、お経を読んだあととか写経というお経を書き写したあと、食事をしたあと。さらに、八十八ヶ所三十三ヶ所弘法様薬師様観音様などの霊場参拝の時のお経、般若心経などをお勤めしたあとの終わりにお唱えいたしますね。この普回向の意味は簡単にいうとすべてみんなの為になりますようにと言うことです。きちんとした態度で、自分が仏様のみこころに叶うより良い生活をし、正しき道が分かる人になれる為に自分さえ良ければいいと言うことでは駄目なのです。

つまり、自分はこれだけ良いことをしたのだから、自分だけ自分だけ良い人に成ろうなどと言うことでは、自分さえ良ければ他の人は他の人はどうでも良いというひとりよがりな事になってしまいます。

お経、普回向をお唱えしていただき、過去のあやまちも未来の不安も他人の目も気にせず、やり直しの効かない人生を精いっぱい生きてください。どのような結果になろうとも、どのような噂を立てられても、大きく優しく受け止めてください。

よって願わくは、仏様の御心を自分の命と思い。私が俺がと我を貼ることなく仏道を成ぜんことを。   合掌

「ひとつのことば」

高山市 正雲寺 住職 近藤元隆 師

ひとつのことばでけんかして

ひとつのことばで仲直り

ひとつのことばでおじぎして

ひとつのことばで泣かされた

ひとつのことばはそれぞれに

ひとつのこころをもっている

これは仏教詩人坂村真民さんがことばについての思いを表現されたものです。

日本ではことばのことを古来から「ことの葉」とか「ことだま」と言いますが、ことばには人を動かすほどの大きな力があると言われます。

ことばは、伝達手段として、コミュニケーションの手段として、私たちにとって欠くことのできないものです。このことばは、私たちを喜ばせたり、奮い立たせたり、信頼関係を深めたりしてくれます。でも逆に私たちを悲しませたり、失望させたり、けんかのもとになったりもします。

私どもの曹洞宗を開かれた道元禅師様は、

「人にものを言うときには、心の中で三回繰り返し、このことばが本当に相手のためになるかどうかを考えてことばを口に出しなさい」と言われています。

ひとつのことばによって救われたり、人生の大きな節目を乗り越えることが出来るのは、かけてもらった心地良いことばや、素晴らしいことばではなく、心がこもっているかどうかではないでしょうか。さらに道元禅師様は、お母さんが無条件に赤子を思うように、慈しみの心を種として発することばを、尊い行いと示されています。

孤独を感じることの多い現代にあって、人と人との絆の確かなるものにするためにも、ことばを大事にしなければなりません。

「回向」

恵那市 林昌寺 住職 宮地直樹 師

「回向」回し手向ける。向かわせる。と書きます。あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、ご法事など各種読経の後にお坊さんが一言加えているのを聞いたことがあるでしょう。

このお勤めは誰の為に、何の為に行っているのかを申し上げ仏様のご加護を乞うものであります。この回向、多くの場合は単に現場限りの祈りに留まらず、このご利益がより多くの人々に届くようにとの思いが込められているものです。

それこそが回し手向けるという「回向」本来の意味であるわけです。

さて、皆さんが電車の中でお年寄りに席を譲ったとします。

お年寄りは先に電車を降りる。「お席を譲っていただきありがとうございました。どうぞお座りください」と席を戻されます。もちろん、その時の状況によって様々ではありますが、再び自分がその席に座ったとします。

その場合、席を譲るという「善行」は二人の間で完結をしてしまいます。そこに問題があるとは申しませんが、今回は「回向」のお話でありますので、別の見方をご紹介いたします。

席を譲るという「善行」を意味あるものとするために「回向」をするわけです。どういう事かと申しますと、お年寄りが電車を降りた際に再び自分が座るのではなくて、別の人に座って頂く。そして、また別の人が座る。と言うように「善行」を人から人へと繋いでいくのです。そうすることによって、自分が行った「善行」がより多くの方へと回し手向けられる。そして、いつしか自分の所にも帰ってくるかもしれない。

それこそが「ご利益」と呼ばれるものです。

こうして、水面に落ちた小石が大きな波紋を描くように小さな行いが、限りなく広がっていく可能性を秘めているということを、知っておくのか知らずにおくのかでは大きな違いであります。

これはまた、逆の意味合いでも同じこと。小さな悪行が大きな罪へともなりうるということです。

道端に落ちているごみを拾う。そんな小さな行いが、もしかしたら多くの悩める人の心を救いるのかもしれません。

「看脚下」

中津川市 蔵田寺 住職 鬼頭大輝 師

足元をしっかり看なさい。お寺の玄関に「看脚下」と掲示されている事があります。それは履物をそろえて脱ぎなさいと言う事です。

人は他人のことを、批判したり、注意したりしますが、自分自身のことはあまり注意せず、気が付かないことが多いものです。人の事より、まず、我が身の足元をしっかりと見つめたいものです。

自分の足元をよく見なさいと言う事は実に平凡な言葉ですが、日常生活の第一歩であり、禅の仏法もここが重大であります。

闇夜に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇した時、人の多くは右往左往してこれを見失い、生きる道を遠くに求めようとするものですが、道は近きにあり、自分自身に向かって求めよ、と言うのが看脚下の一語であります。

現代のようなめまぐるしい世の中では、目だけが先に走ってしまったり、高い所を望むあまり、足元がついついおろそかになりがちです。理想や夢も確かに大事ですが、これにとらわれると足が宙に浮いてしまいます。

足をしっかり大地に着けて、爪先を正しく向けて着実に進めるならば、目をつむっていても目的地に到達出来ます。いたずらに結果にとらわれず一歩一歩、脇目を振ることなく、たった今を真剣になることです。

皆様も一度自分自身の足元をご覧になって下さい。爪先は何処を向いていますか?

「梵鐘をお迎えして」

恵那市 天長寺 住職  森 知孝 師

恵那市天長寺住職、森と申します。

先般、當山では予てよりの念願でございました山門に梵鐘をお迎えすることができました。

本来あるべき場所に、文字通りの「鐘楼門」としての姿となりました。御志納いただいた方、ご協力をいただいた皆様に、心から感謝を申し上げます。

第二次世界大戦の「金属類回収令」によって、「梵鐘」を供出して以来、約七十有余年ぶりに里山に響き渡る「鐘の音」に檀信徒も喜んでくれております。

さて、「鐘」と言いますと、『祇園精舎の鐘の声』で始まる『平家物語』の有名な一節です。

簡単に言えば、万物は止まることなく常に変化し続けるという事です。

曹洞宗には、『修証義』というお経があります。その一文に、『光陰は矢よりも迅やかなり、身命は露よりも脆し』という一節があります。一般的には、『光陰矢の如し』と言います。

私たちは、日々の暮らしの中で、毎日同じような生活を繰り返されるものだと錯覚しがちだと思います。その日、一日過ごす日々は、全くの別の時間であり、決して繰り返されることはありません。一時たりとも無駄にはできない。それが人生ではないでしょうか。

無駄にはできない人生、急には変えることは到底できません。ほんの少しでも、モノの見方の一助としてみてはいかがでしょうか。

「今日は、素晴らしい経験をした」とか、「人と楽しい話ができた」とか、「美味しいものを食べた」とかなど、繰り返されることない時間の中での経験は、多くのご縁によるものです。ご縁こそ感謝の別名だと思います。

鐘の音に、ふと佇むとき、思い出すことがあります。

もう30年くらい経ちますが、私が近隣のお寺さんにお邪魔した時のことです。厳格な老住職が夕べの梵鐘を撞いておられ、撞き終わったあと、

『鐘のゴーン・ゴーンという音は、あらゆることに感謝しなさいと仏様が言っているんだよ。だから、「御恩」という言葉があるんだ。仏様の声は、鐘の音によって伝わっているのだから』と。

今思えば、あの時の老住職の言葉は、今更ながらですが、心から感謝しています。