テレフォン法話

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「人の心元より善悪なし」

恵那市 瑞現寺 副住職 坂 英世 師

道元禅師さまは、私たちにもとから善い心や悪い心があるのではなく、善い縁に出会えば善くなり、悪い縁に出会えば悪くなっていくのだとお示しくださっております。

何年か前から、子どもの人生は親の地位や経済状況によっておおよそ決まっている、という意見を耳にするようになりました。私たちの人生が生まれによって決まっているという考え方は、古代のインドでもそうであったように、ある意味根強い考え方です。しかしお釈迦さまは、私たちの人生は生まれではなく、行いによって決まるのだとお説きになられました。道元禅師さまのお示しは、このお釈迦さまのみ教えに連なるものです。

生まれた環境が私たちの人生を左右しているように見えるのは、一面では正しいことかもしれません。問題は、それを全く動かしがたい運命のように考えてしまうことです。環境もまた、私たちの行いから成り立っていると考えてみるのはどうでしょうか。これまで生きてきた中で、身近な人や尊敬する人のふるまい、ことばから、全く影響を受けていないという方はおられないと思います。普段意識することはないとしても、私たちの行いは善くも悪くも影響力をもっています。

生まれというとほかの人から自分への影響に偏りがちですが、行いと考えてみると、自分の行いはどうだろうかとも思い至ります。私がしていることは周りにどういう影響を与えているのだろうか、はたして善い縁になり得ているのだろうか。周りに善い影響を与えようとまで考えると行き過ぎですが、自分のふるまい、ことばを顧みることは、自分を助けることでもあります。

私自身にとりましても、自覚なくふるまったりことばを話したりすることは恐ろしく、また恥ずかしいことです。「人の心元より善悪なし」このお示しは、自身のふるまい、ことばを顧みるためにも、大切にしているおことばです。

「勝利は鞘の中にあり」

恵那市  長国寺 住職 小島現由師

一昨年来より続いているコロナ禍や、昨今のウクライナ情勢に伴い、私たちの生活や行動が大きく制限され、思い通りに事を進めることがこと更に難儀な世の中になりました。

変化に対応した生活を送ること自体も大変なことではありますが、時節にあわせて心の落ち着きを取り戻すことにも苦労してしまいます。

お釈迦様は、この「自分の思い通りにならない」という状況を指して『苦』と表現されました。そしてその『苦』というのは文字通り苦しい事だけを指しているのではなく、『一切皆苦』と仰っています。即ち、「すべてのものごとは自分の思い通りにはならない」という意味です。

連日報道されるウクライナ情勢には心が痛むばかりですが、これも、「思い通りにならない相手」の存在を認められなかったことが発端となっています。

戦国時代、現在の山形県に林崎甚助という居合道の始祖がおりました。

相手よりも早く刀を抜き、相手よりも早く斬ることを極めた人物ですが、その居合道の極意は刀を抜かないところにあるというのです。

「居合の至極は常に鞘の中に勝ちを含み、刀を抜かずして天地万物と和する所にあり」

自分にとって不都合な相手に遭遇したとしても、すぐに刀を抜かない、相手にも抜かせない。斬らない、斬らせない。話し合いを以て和合することを第一の要心としているのです。

刀を抜いたら最後、どちらかが斬られ、そこには勝敗など存在しない。

勝利というのは、刀が鞘の中に収まっている状態で和合することであると。

その上で、万が一、刀を抜かねばならない事態に直面した時には、相手よりも早く抜刀をし、身を守る。これが居合道だというのです。

お釈迦様も、ダンマパダ(和名:真理の言葉)という原始経典において、「殺してはならぬ。殺させてはならぬ。」とお示し下さっております。

思い通りにならないことを力で解決しようとするところに、勝者は存在しないということを、今一度私たちも肝に銘じる必要があります。

 

「無縄自縛の罠」

恵那市 自法寺 住職 小栗隆博 師

私の好きな江戸時代の禅僧で、絵をよくした、出光コレクションなどで有名な仙崖義梵というお坊さんがいます。彼の作品の一つに、道端に落ちた縄の切れ端を、蛇と勘違いして怖がる人々を描いた作品があります。

心温まる画風と、ユーモアあふれる作品の中にも、鋭く物事の本質に切り込んでいくあり方に、一枚の絵に厳しい修行を重ねた禅僧の気概が感じられます。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺があります。実際には無いものをあると勘違いしたり、あるいは人々にそう思わせることで

間違った判断を招いてしまうこともある。

これまでの数年間、多くの専門家とされる人たちが、それぞれの立場でさまざまな「予測」を立ててきました。「専門家」である以上、間違いはないであろうと皆に思われてきた人たちが、その予想を大きく外し、世間を混乱に陥れてきたこともあります。しかし彼らにとっては、その専門分野での自身の所見の中では、少なくとも間違ってはいなかったのでしょう。

仏教の修行では「正見」、正しくものを見るということがまず最初に求められます。

この場合の「正しい」とは一体何でしょうか。自分にとっての「正しい」こととは、単に自分の利益になることであり、その逆は反対に誰かに不利益を押し付け、傷つけることになりはしないのか。自分というフィルター越しに見たものは、己のバイアスを通した以上、既に「正しい」ものではなくなっているのではないか?

そう考えると、全てのバイアスから完全に解き放たれ、本当に物事の真実を捉えることのできる人は、お釈迦様以外に存在しないのではないかと私は思います。

片方の正義は反対の立場の者にとっての不義であり、例えば戦争中でも戦後でも、それぞれの正義不正義は結局のところ容易には推し量れません。

自分の立場を絶対的なものとしてそれを中心に考えるのではなく、あくまで互いの関係性の中で物事を捉えていくように努力することや、何か絶対的な正しい価値観だけを求めるのではなく、あるいは誰かが与えてくれる「正しい」とされるものにすがるのでもなく、互いの関係性、時間や空間、歴史の中での立場の違い、あるいは「間」と言ってもいいかもしれません。そのバランスの中でそれぞれの立場を尊重し、ちょっと間合いをとって考えてみることが必要でしょう。

ありもしない縄に囚われて、自ら動きが取れなくなってしまう。あるいは絶対的な価値観を求めるあまりに柔軟さを失ってしまう。このような危険性を表す「無縄自縛」という言葉があります。この罠に嵌らないためには、ありきたりかもしれませんが日々の生活を丁寧に行じていくことが大切とされます。今改めて、私もそのような修行の日々を過ごすことができればと思っております。

「喫茶去」

土岐市 正福寺 副住職 大島佑貴 師

2年前から突然世界に広まった新型ウイ ルスによって世界中の人々の生活は一変して しまいました。今まで通り普通に食事を楽しんだり、旅行を楽しんだり、人々との日常的 な交流が突然制限され、この先どうなってし まうのか、いったいどうすればよいのか不安 な日々をお過ごしの方も多いと思います。世 界を見てみれば、令和になった今現在でも人 の命を奪い合う悲惨な状況が無くなる事もなく続いております。大変悲しい事です。このような非常に厳しん世の中で、果たしてどう 生きていけばよいのか迷いは深まるばかりで はないでしょうか。色々と考え過ぎて目の前 の事象を見ることができず、さらに悪循環に 陥りかねません。そんな時は、ゆっくりお茶 を飲んでみてはいかがでしょうか。日本には 誰しもが知っている習慣の一つに、お茶を飲む事があげられます。一言にお茶といっても、 奥深い作法にのっとっていただく「お抹茶」、 手軽に飲む事ができる緑茶、最近ではペット ボトルの普及により、いつ、どこでも簡単に いろんな種類のお茶を楽しむ事ができるよう になりました。お茶というは6世紀頃、南イ ンドの達磨様が中国に持ち込み、鎌倉時代に 中国で学んだ栄西が禅と共にお茶の種を日本 に持ち込んだ事から広がったものとされています。 仕事柄お茶に接する機会は非常に多くありま すが、中国の有名な禅僧である趙州禅師の逸 話に次のようなお話があります。禅師のもと に修行僧が訪ねてくると、「ここに来た事が 有りますか」答えが「はい」でも「いいえ」 でも、まぁお茶を飲みなさい。と答えます。 「悟りを開くにはどうしたらよいか」と質問 しても「まぁお茶を飲みなさい」禅師の居る お寺のものが「なぜ同お答えなのですか」と 聞くも答えは「まぁお茶を飲みなさい」だったそうです。一連の流れを見て、一杯のお茶 を飲む時は、ただ無心にお茶を飲む事に集中 する。何でもないこと、当たり前の事を他に  気を取られることなくひたすらやる。その行 為そのものの大切さに気付いたそうです。お 茶を飲む時は他ごとを考えず、お茶を飲む事 だけに集中する。自分が今できない事ばかり 考えて、目の前の事に対して集中できない事 への戒めの為に「喫茶去」という言葉が伝えられているのではないでしょうか。 世の中には不安な事は数えきれないほどありますが、目の前にある事、自分に出来る事 に集中して取り組んでいけば、必ず前に進んでいけるのではないでしょう

因と縁

土岐市 仏徳寺 副住職 佐々繁樹 師

五月に入り田植えの時期が近づいてきました。私の住んでいる地域は田舎ですので、今の時期は町のみんなは田んぼに畑に大忙しです。そして何かを作るという事はとても大変な事です。たとえば、同じ品種のモミダネを使っていても、土壌の良し悪し、田んぼの手入れの良し悪しといった環境の違いによって、出来るお米の味は変わってきます。これはモミダネが因であり、環境が縁となります。因が同じでも縁が変われば結果も変わるのです。

私たちの生活も同じように因と縁で形作られています。良い縁があればいい方向へ、悪い縁があれば悪い方向へ進んでいきます。お釈迦さまは、一切法は因縁生なりといわれ、すべての物事は、因だけでは結果は生じない。因と縁とが結びついて初めて結果になるのだと教えていかれました。

因は同じでも、縁が違えば、結果は異なります。ですから、お釈迦さまは、より良い縁を選びなさいと教えて行かれました。
なぜなら、私たちの心は弱く、ちょっとした縁でコロコロと変わるからです。朱に交われば赤くなると言われるように、周りにいる人や環境などの縁に大きく影響を受けてしまうからです。どんな人に交わるか、どんな環境に身を置くかで、これからの人生も変わってきますから、周りにいる人や環境という縁はとても大事です。精一杯、努力をしていても思うような結果が出ないときはそれはまだ、縁が来ていないだけです。縁が来れば、春に一斉に花が開くようにこれまでのたねまきがパッと花咲かせます。焦る必要はないのです。タネをまかなければ結果は現れませんが、同時に縁がそろわなければ、タネが芽を出して花開くことはありませんから、縁はとても大切です。皆さんもより良い縁を探しましょう。

「忍辱修行」

瑞浪市 増福寺 住職 辺見智光 師

忍辱ということばをご存じでしょうか。忍辱とは「我慢する」「耐え忍ぶ」ということで、佛教の大切な修行の一つです。

思えば私たちの住むこの世界は生きて行くだけでも我慢し、辛抱することだらけの世界でもあります。

私達は人間関係や暑い寒いといった自然環境、自分の身体であっても病気になったり、年をとったり思い通りにならないことばかり。そんなとき私達は我慢したり、辛抱したりしなければならないことに出会います。

それでも自分のことばかりでなく、他者を思いやり調和をとることや、自然の移り変わりや自分の身体とも上手に付き合っていく方法を探していきます。そうしたことが忍辱ということでありましょう。

今はちょうど彼岸の時節、この忍辱は彼岸に実践すべき修行、六波羅蜜という6つの修行の一つでもあります。

昨年からの新型コロナウイルスの流行以来、私はこの忍辱修行ということを思わずにはおられません。今はみんなで自由に集まって飲食したり、旅行にでかけたりすることもできず、マスクの着用や密集・密接・密閉をさけることをみんなが徹底しております。一人一人が自分だけでなく他者のことを思いやり社会全体の事を考え、我慢し、辛抱し新型コロナウイルスの流行と戦っております。

これまでの日常を取り戻すもうしばしの間、忍辱修行、みんなで共に耐え忍んで参りましょう。

「どこかで誰かが見ていてくれる」

高山市 正宗寺 御住職 原田太石 師

映画やテレビの時代劇で、斬られ役の名優といわれた福本清三さんが、昨年お亡くなりになりました。数年前、娘が、小学校の国語教科書に紹介された福本さんのことを話してくれたことを思い出しました。福本さんは,五十年以上もずっと日本刀で刺されたり,斬られたりしてきました。観ている人が、「あれ? 大丈夫?」となるような斬られ方ができる方でした。斬られ役を見事に演じきる姿は世界的に認められ、アメリカのハリウッド映画にも出演されました。

後日、娘の学級通信には、クラスの女子児童の日記の一文が紹介されていました。

「私の係は、台ふきです。あまり目立つ仕事ではありません。 でも、私は台ふきがとても好きなので、いつもさぼらずやります。そしたら、『係の仕事、がんばっているね。』と掲示板に書かれていました。その時、私は、今日の福本さんの話と同じように、『どこかで、誰かが、見ていてくれるんだな』と感じました。」

さて、今年のNHK大河ドラマの舞台となっている鎌倉時代、大本山永平寺をお開きになられた道元禅師は、弟子たちに次のようにお示しになりました。

「たいていの人は善いことをすると、他人に知られようと思い、悪いことをすると知られまいと思うものです。しかし、間違いは悔い改め、真実の徳は内に隠すのです。どのような役割であっても、自分の利益を意識せず、生きとし生けるものに利益を与えるよう努力することが、仏の道に生きる者のあるべき姿です。」

コロナ禍中の大変な時代だからこそ、福本さんや道元禅師が言われるように、自分の役割をしっかりと果たすよう努めたいと、改めて自分の心に言い聞かせました。

「なるようにしていきましょう」

美濃市 霊泉寺 住職 佐藤隆定 師

年が明けてしばらく経ちました。私が住職を勤めている霊泉寺では、毎年1月に新年の多幸を祈る大般若祈祷法要を行っています。幸せなことが多い年であることを祈るわけですが、これは良いことが起こるのを待つという、受け身の発想なだけではありません。

たとえば、晴れの日と雨の日があったとき、どちらの天気が良い天気でしょうか。一般的に「天気が良い」と言ったとき、それは晴れを意味しています。逆に、天気が悪いと言うとき、それは雨や曇を意味していることが多いでしょう。

しかしながら、晴れと雨について、一概に良い悪いを言うことはできないはずです。雨が降らなくては作物は枯れてしまいますから、雨を心待ちにしている人だっており、その人にとっては雨降りこそが良い天気なわけです。恵みの雨、というような言い方もします。

つまり、良いことや悪いことというのは、最初からそのようなものがあるわけではないということ。もっと言えば、起きたことに対して、自分自身がどのような受け取り方をしたかによって、同じことでも良いことと思えたり悪いことと思えたりするということです。雨降りの日を良い日にするか、悪い日にするか、それは自分の受け取り方次第。幸不幸の分かれ目は、起きた事柄にあるのではなく、自分側にあるということです。

禅の世界には、「日日是好日」という言葉があります。毎日毎日が良い日だ、という意味に解釈されることが多いですが、もう一歩踏み込んで考えれば、毎日毎日を良い日として生きてみよ、という課題と受け取ることができます。実際この言葉は、師匠から弟子へと投げ掛けられた課題の言葉なのです。

多幸な一年を願うだけでなく、多幸な一年になるように生きていきましょう。

「涅槃会について」

美濃市 永昌院 東堂 高橋定申 師

今月二月十五日はお釈迦様が亡くなられた日です。

お釈迦様は今から約三千年前、インドの北クシナガラ河畔にある沙羅双樹の林の中に、床をのべられました。右の脇を下にして横になられ、近くにいたお弟子達に最後の教えを説かれてから、静かに永遠の眠りにつかれたのです。

八十歳の御生涯は、多難な日々の中にも世の常なることを悟り、私達のために諸行の無常をお説きになりました。

教えを聞き、それぞれの道の正しさを知った多くのお弟子達と、多くの生物が悲しみの涙を流している情景の絵が涅槃図です。

今私のお寺の本堂でも、まだお彼岸まで飾っていますので、是非一度お参りいただき、ご覧になって下さい。

皆さんがこの絵を前にした時、どんなことを感じるでしょうか。

今は元気で私たちのために心配をして下さる、お父さんお母さんもいつかは亡くなり、私達の前から姿が消えてしまいます。

今のうちに孝行をしなくてはと思っても、ついそびれてしまう。そんな自分でいいのでしょうか。親孝行は、お墓に入った両親より、生きているうちに行うことが一番ですね。素直な心で一生懸命に働き、学び、両親に安心してもらいましょう。お涅槃の御絵図はやがて我が身に訪れる姿を写して、静かに私たちに教えてくださっているのです。

 

「自分が自分にする供養」

郡上市 林廣院 住職 梅澤元禅 師

昔、お年寄りに、徳をつみなさいよと言われた覚えがあります。何をしたら、どうしたら、徳を積むことが出来るのか分かりません。例えば、人に親切に声掛けても、お年寄りに手を差し伸べても、現代では、小さな親切大きなお世話になりかねません。では、どの様にしたら徳が積めるのかと悩んでしまいます。

近所で知り合いが亡くなったと聞けば、早々にお悔やみに行かなくてはならないが、暑い夏もあれば、寒い冬もあります。更にあの方には大変お世話になったから、行かねばならない場合もあれば、それ程でもないが、仕方ないから行ってくるかという場合もあると思います。

どちらにしても、その場所に足を運ぶ、その行為が亡き人への供養であります。さらに、「自分が自分にする供養」ではないかと思います。しかし、伺う時期はまちまちで暑いから、寒いから、忙しいからと、いろいろ理由を付けながらも、お悔やみに足を運び亡き人の供養を終え、ふっと思い返してみると、その行為が「自分が自分にした供養」。つまり、これがお徳積みではないかと思うのです。

心ある供養には、形式などありません。素直な気持ちで、さらには、先祖の墓参り、月に数回の墓掃除、これもただ花や水を捧げるだけでなく、墓は先祖の身体です。水をかけ、タオルで墓石の汚れを落とし、水で洗い流し、新しいタオルで拭き上げてこそ、何となく爽やかな気持ちになれます。これがお徳積みになるのではないでしょうか?