テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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いかりに対して

下呂市 長福寺 住職 萼 弘道 師

仏教では「貪・瞋・痴」という心の働きを三毒といいます。

むさぼり、いかり、おろかさという私たちの心を害いやすい、煩悩の毒のことです。

中でも「瞋り」は、日々生活する中で最も日常茶飯事といえる良くない心の働きです。

前後の見境なく瞋りを爆発させれば、後で悔やむことになるでしょう。

しかし、そのことが分かっていたとしても、つい腹を立ててしまうものです。

ですが、腹立ちに耐えて瞋りをやりすごすことができると、そのあとで「ああ、怒らなくて良かった」と胸を撫でることになります。

以前、ある男性の方と意見の食い違いから言い合いになってしまったことがあります。

話していくうちに段々とヒートアップして、その方は見るからにご立腹されているようでした。私もそれに応ずるように腹が立ってしまいましたが、これでは話し合いが終わったとしても、良い結果にはならないだろうと思い、瞋りの感情を抑え、まずその方の話を全て聞くことにしました。

すると、憤怒の表情だったその男性も徐々に落ちつきを取り戻し、最終的には穏やかに話し合いを終えることができました。

その時に、自分も瞋りに身を任せなくて「ああ良かった」と思いました。

自分が瞋れば、相手も瞋る。周りも良い思いがしません。

瞋りが生まれた時は、腹を立てている自分と、それを抑えようとする自分を意識することが大切です。その時は、もう一人の穏やかな自分を思い浮かべてください。

 

「うちの飼い猫」

本巣市 悟春院 住職 戸田和雄 師

今我が家に一疋の猫が住んでおります。ちょうど六年程前息子が猫を

欲しいと言い出したので保健所に電話して貰って来ました。

小猫が二疋居ると言う中、実際は一疋しか居りませんでした。生後二~三ヶ月ぐらいの小猫で檻に入ってじっとこちらを眺めておりました。やがて家に連れて来て一日目、二日目は食事をしないでいましたが、

やがて自分から食べ始めました。その猫も亡き母の部屋に住み着いて

おります。今は猫自体もこの家に慣れて来て大事な家族の一員として

暮らしております。

毎日外に出て何時間か帰って来ない事があります。恐らく自分の縄張りを回って帰ってくるのでしょう。帰って来ると自分の部屋の外で

ニャンニャンと鳴き、その鳴き声でドアーを開け部屋の中へ入れてやります。部屋に入ると、寛いでおります。

人は地球上で、自分だけの世界ではなく地球上で暮らしている我々の身近な犬や猫や又この自然界に住んでいる動物達それが野性であっても野性でなくても生きる権利があり、人間界と同等な生存すべき権利を

持っているものと思います。

その自然界と同等な権利はわが宗派の禅の道坐禅の道と同じだと思います。

地球上の万物は人間だけでなく伴に生きる仲間と思い同等に時間を

費やすかけがえの無い社会の仲間として手を携えるべきと思います。北海道に住む羆でも身近な山野に生息している亀や狸や狐でも山の烏でも併に共存して生きて行こうと思います。

「今の自分を作ってくれたのはだれか」

揖斐郡 法幢寺 住職 赤田賢了 師

境内のイチョウもきれいな金色に色づくこの季節になると、私は、数年前に亡くなった親友のことを思い出します。その友人とは、中学、高校、大学、大人になっても「あかさん」「なっさん」と呼び合い、いろんな場所で楽しい時間を過ごしました。

彼と少しでも一緒にいたくて同じ塾に通い、そのおかげで志望の高校にも合格することができました。彼の周りに集まる友人達とも仲良くなり、今でも親友と呼べる多くの友達ができました。彼の紹介のおかげで今の家内とも結婚することができました。

彼と親友達と過ごした時間は、今でも、「あの頃は楽しかった。」と思い返すような時間の連続でした。彼は、私にとって特別な存在でした。

しかし、互いに家庭をもち、私が岐阜に住むようになってからは、年に数度しか会えなくなりました。そんな折に、彼が急に亡くなったことを聞きました。お葬式での、最後の別れの時には、「また、会おう」と声をかけて見送りました。

禅語の中に「生我者父母 成我者朋友」(われをうみしものはふぼ われをなせしものはほうゆう)という言葉があります。「この世に送り出してくれてのは両親だが、私の事を理解し、私を私としてくれたのは友人だ。」という意味です。

彼は、私にとってまさに、この禅語の言葉どおりの友人でした。今の自分を作ってくれたのは彼の存在が大きかったと思います。彼と出会えたことに本当に感謝しています。

日々いろいろな事があり忙しい毎日、個人の考えが尊重される時代ですが、みなさんと縁のある人との関係を見つめていただき、「今の自分を作ってくれた人」の気持ちや思いを想像し、感謝するだけでなく、「今の自分を支えてくれている人」への感謝の気持ちもって過ごして下さい。

そして、皆さんも誰かにとっての特別な存在になってください。

「イライラしてもいいことはない」

海津市 春光寺 住職 横井晋司 師

「お父さん、今日、運転荒くない?」

車で子どもをスポーツクラブに送っていく途中に言われました。子どもが時間になっても準備が終わっておらず遅刻しそうになっている、車が思ったように進まない、私もイライラしていました。

仏教には、貪(とん)・貪り、瞋(じん)・怒り、痴(ち)・愚痴の三毒という言葉があります。三毒は、人間の根源的な悪徳のことを指します。瞋(しん・じん)は人間の感情と切っても切れないものなのです。

子どもが言った言葉。私の怒りの感情が運転にも表れていたのでしょう。アンガーマネジメントという言葉があります。怒りに瞬間的に反応するのではなく、6秒数えて自分の怒りをコントロールする方法です。私は一呼吸置きました。

「そうだね。安全運転しなきゃね。」

もちろん、イライラが全て解消されるわけではありません。しかし、私も落ち着き、安全運転で子どもの時間にも間に合いました。安全運転でも時間には間に合ったのです。運転が荒いまま向かっていたら、思わぬ事態を招いていたかもしれません。

アンガーマネジメント。6秒は長いかもしれません。しかし、怒ってもイライラしても事態はいい方には向かいません。6秒数えるだけで、もしかしたら怒らなくても良くなるかもしれません。たった6秒、されど6秒、瞬間的に沸騰する前に数えてみませんか。

「自分を変える」

岐阜市 医王寺 住職 透  隆嗣 師

月参りに伺ったお家に、「人生八変化」と題した額が飾られていました。

その内容ですが、

  • 自分が変われば相手が変わる
  • 相手が変われば心が変わる
  • 心が変われば言葉が変わる
  • 言葉が変われば態度が変わる
  • 態度が変われば習慣が変わる
  • 習慣が変われば運が変わる
  • 運が変われば人生が変わる

というものです。

私達は、どうしても自分自身を棚に上げて相手に期待したり、相手が悪いとか、周りのせいにしたりしがちです。それぞれに違った環境に育ち、経験を経て今の自分がある中で、普段とは違った角度から物事を見ること。相手の立場に立って考えてみること。そうした冷静さを忘れずにいたいものです。

自分を変えていくには一歩離れた己自身を見つめる事が大切です。

十月五日は、インドから中国に渡り、禅の教えを伝えられた達磨大師の命日であり、その遺徳を偲ぶ「達磨忌」の法要が営まれます。

この時を一つの縁として心静かに坐り、自分自身を見つめ直す機会として頂ければ幸いです。

草刈り機の選択

各務原市 瑞巌寺 住職 巌 晃司 師

私たちは、実に多くの選択をして生きています。今日は、選択に迷った時のヒントを感じさせてくれた、お盆前のお掃除会の出来事についてお話しさせていただきます。

文字通り、老若男女の皆様に集っていただける訳ですが、ここ数年で若い方を中心に、ガソリン式ではなくバッテリー式の草刈り機の持参が多くなってきました。そんな中、ひときわ目立つ古い年式のガソリン式草刈り機を持つおじいさんがこう言うのです。

「こっちの方が長持ちするでのー。」

確かに、もう何十年と使っている様相の長持ちする草刈り機ではありましたが、おじいさんのこの言葉の本当の意味を私達はまだ理解していませんでした。朝6時半からの作業なのですが、お盆前の真夏日で気温は30度を超えていました。3・40分ほど経った頃でしょうか、若い方々達が次々に休憩に来るのです。みなさん草刈り機のバッテリー切れでした。さきほどのおじいさんはと言うと、黙々と手際よく作業を続けられていました。

「こっちの方が長持ちするでのー」

先程の言葉が深く胸に響き、本当の意味が分かった気がしました。

そして、作業が終わってから話すおじいさんの言葉に私たちは、驚かされました。

「バッテリー式の草刈り機位わしも持っとる。」

なんと、日常のご自分の田畑の手入れで使っているバッテリー式ではなく、倉庫の奥に眠る長時間作業できる古いガソリン式を持ってくるという選択をされていたのです。軽い・便利という自分の為の選択ではなく。

私たちが考えたいのは、日々の中で選択に迷ったときどんな価値観に基づいて選択をしていくのか。その一つに、他人の為という観点を1つ入れてみてはどうでしょうか?自分だけが良ければいいという選択ではない限り、きっと進歩という発展が、自らを滅ぼす選択にはつながっていかないと信じています。

まもなく始まるお彼岸は、自らの行動を見直す大切な時節です。他人の為を考えた、日々の選択を共に実践してまいりましょう。

縁について

各務原市 長楽寺 住職 古川道弘 師

本日は縁について少しお話させていただきたいと思います。

縁というのは不思議なもので、一つには思いもよらない所で繋がっていたりするものです。

新しく知り合った方と共通の友人がいたり、もしくは知り合いの身内だった、というような経験はございませんでしょうか。

また逆にいつの間にか気づかぬうちに途絶えてしまう縁でもあります。

これも諸行無常の中の一つとも言えるかもしれません。

蒸かしたお湯をそのまま放っておけば冷めていってしまうように、結ばれた縁も何もしなければ時とともに遠くなっていってしまうでしょう。

折角結ばれた縁を途切れさせないためには、何がしらの努力が必要ではないでしょうか。

ですが特別に難しいことをする必要はないと思っています。

例えば年賀状や暑中見舞いのような季節ごとのお手紙でもいいでしょう。

また今の時代多くの人がパソコンや携帯電話をお持ちと思いますで、電話したりメールを送ったりとちょっとした連絡がすぐにつくのではないでしょうか。

縁をつなぐ努力はそういったちょっとしたことでも十分だと思います。

少し話は変わりますが、縁という言葉が使われていることわざや四字熟語などを思い浮かべてみてください。

「袖振り合うも多生の縁」「合縁奇縁」など一つ二つはすぐ思いつくと思います。

そうした言葉が昔から使われていくつも残っているというのは日本人が縁というものを大事にしてきたかではないでしょうか。

このお話を聞いていだだいているのもきっと何かのご縁と思って、今までに結ばれたご縁を大事にして、少しでも長く続くように心掛けていただけたら幸いです。

「死ぬことは怖いこと?」

飛騨市 長久寺 住職 守田智昭 師

十年程前、お寺の雪囲いの撤去作業中、自分の不注意により足場を滑らし、二メートル位の高さから、落下した事があります。

頭から落ちていったので、手で防いだものの、地面のコンクリートに顔面を強打し、意識を失いかけました。一瞬視界はテレビの砂嵐状態になり、痛さの中で意識が遠のいてゆく経験を致しました。その時、死ぬという事は、この様に突然訪れるものなのだと、実感しました。

顔面は腫れあがり、左腕は骨折しましたが幸い脳に損傷もなく、軽いけがで済みました。仏様のお陰だと、つくづく感じたものです。

さて、人は何故死ぬことが怖いのでしょうか。きっとそれは、誰もが一度も死んだ経験がないからなのだと思います。死ぬ時どうなるか分からない。死んだ後どうなるかもわからない。大切な人との別れの悲しさ。その様な不安が、死の恐れに繋がっているのでしょう。

お釈迦様はおっしゃいます。生まれたものは必ず死ぬと。生れる事が自然であるように、死ぬことも自然な事なのであります。自分が死ぬことで、次に命を譲っているのです。

みんなそれを分かっていながら、直視すると不安なあまり、どこかで、この現実を胡麻化そうとしているのです。

さらに、お釈迦様は、おっしゃいます。「死は決して恐れる事ではない」と。

恐れるべき事は、「いつ死ぬか分からないこの自分が、今を『ちゃんと』生きてこなかった事」に対してであると。

いざ死を迎える時に、後悔することが無いように、今、出来るうちに、やりたい事、伝えたい事を、「しっかり」と「ちゃんと」しておきたいものであります。

「三界万霊牌」

飛騨市 光明寺 住職 藤戸紹道 師

寺には三界万霊牌がある。

境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。

三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。

どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自他平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。

私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。

それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。

これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。

そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。

それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。

せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施食の意義を忘れないでほしいものだ。

「百花春至為誰開」(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)

飛騨市 洞泉寺 住職 栃本孝規 師

まず始めに、皆様に質問があります。

最近「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことはありますか?私にはあります。それは、新型コロナウイルスのせいで、地域での集まりや様々な行事が無くなり、お寺でも皆様に集まって貰う事が出来ず、「早く収まって、また集会やお祭が出来たらいいのに」と思う事があります。

そんな時に良く思い出す禅語があります。それは『百花春至為誰開(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)』という禅語です。

春にいっせいに咲き乱れる野の花も、観賞用に庭に植えられた花も、春の訪れを知らせようと咲くわけではなく、人の心を和ませる為に咲くわけでもありません。

花はただその生命のおもむくままに、無心に咲き、無心に散っていきます。

誰の為でもなく、ためらいも不平もなく、その姿を誇ることもなく、与えられた場所で、ただありのままに精一杯咲くだけです。

人はあれやこれやと、はからいながら生きることをやめられません。「はからい」とは考えや配慮のことです。「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」など意志によって行動することです。

花を見てみて下さい。そんな「はからい」も何もなく、ただありのままに咲いているだけなのに、皆もそれぞれの色かたちで山野を彩り、私達を慰め、楽しませてくれているのではないでしょうか。

不平不満や、ちっぽけな「はからい」に惑わされず、ただ無心に生きることの尊さをこの禅語は教えてくれています。

最初に言った事以外にも想うことはあり、皆様にも「ああしたい、こうしたい」「こうなるといいな」と思うことがあると思います。そう思った時に是非ともこの禅語を思い出し、ただ無心に、ありのままに、『百花春至為誰開』と過ごしてみては如何でしょうか?