テレフォン法話

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「合掌の作法から気づいたこと」

岐阜市 林陽寺徒弟 岩水峰雪 師

私達の生活の中で合掌をすることが時々あると思いますが、皆さんは、合掌の形をきちんと意識したことはありますか?

先日、ある友人が合掌をする時に、親指から小指まできちんと手を揃えてから息を調えていくと心が落ち着きますと話してくれました。普段そこまで合掌の手を意識したことがなかった私は彼女に習い、合掌の時に指が離れている時と、離れていない時の息と心の感じ方を試してみました。すると、どうでしょう。指が離れている時はどことなく気持ちが外側を向いて息も意識しづらく心は注意散漫としてきます。逆にきちんと指を揃えた合掌は、息が意識しやすく気持ちも内側に集中していき、この瞬間に心が向きやすくなっていきます。修行中によく合掌の小指が離れていることを指摘されていたのですが、こういう大切な事が隠れていたのだと恥ずかしながら、ようやく知ることができました。

禅の世界では、「調身・調息・調心」の教えを大切にします。まず形という作法を重んじます。そして、次に息を意識していきます。その結果、心が調い自分自身を見つめる力が生まれていきます。なぜ、一番最初に形を大切にするかというと、最初から心を調えようとしても、思考が邪魔をして調えられるものではないからです。「身体、息、心」この3つは密接に繋がっています。「姿勢を調え」、「息を調え」、「心を調える」、この順番にも意味があるのです。ステップバイステップ、一歩ずつ着実に事を運ぶことで心は落ち着き、自らを見直す力が生まれてきます。

お盆やお正月には合掌をする機会も多いと思います。皆さんも合掌をする際には手の合わせ方をちょっと意識してみてはいかがでしょうか。

「挨拶について」

各務原市 慈眼寺 住職 宮崎證俊 師

私は数年前から体力作りの為に登山を始めました。

地元の低山から北アルプスの3000メートル級の山まで時間を見つけては登っています。

 

登山のマナーとして他の登山客とすれ違う時に挨拶を交わすというものがあります。

これは日常的なマナーであるという他に、遭難や滑落といった万が一の時の目撃情報に繋がるという意味合いもあります。なにより純粋に挨拶を交わしあうのは気持ちのいいものですよね。

 

私自身まだまだ登山初心者ですので、出来るだけ挨拶は欠かさないようにしています。特に初めて登る山では、下山してくる方にこの先の様子や注意点を聞いたりもしています。

しかし、挨拶しても毎回必ず返事が帰ってくるとは限りません。

相手をよく見てみましょう。急な登りで息を切らしていないか、会釈で挨拶してくれていないか、咲いている花や景色に夢中になっていないか。

マナーに固執して本来の登山の楽しみや目的を忘れてしまっては本末転倒です。

 

挨拶というのは元々、仏教の「一挨一拶」という言葉で、お師匠さまが弟子に悟りを試す禅問答に由来します。そこから一般的に広まり、人に会った時や別れる時に交わす言葉や動作となりました。元の意味を考えますと、互いの心を開き、向き合うことこそが挨拶なのです。温かい気持ちでふれあうことが大事なことであり、返事を期待してかける言葉が挨拶ではありません。

 

「おはよう」「おやすみなさい」「いただきます」「ごちそうさまでした」「ただいま」「おかえり」

何の為の誰の為の挨拶なのか。その時の状況にあった言葉や行動を心がけ、皆様が気持ちよく生活できる事を願います。

「ありがとうという言葉」

岐阜市 龍雲寺 住職 梅村季弘 師

人は「ありがとう」という言葉を、一生の間に何回言うのでしょうか。

「ありがとう」という言葉は、人がいる場所を和ませる力を持っていると思えます。「ありがとう」という言葉、感謝するという心は、私たちが生きていくうえで、とても大切な事柄です。

先日、車を運転していて、横断歩道にさしかかりました。歩行者の姿を見つけ、車を停止させました。すると、高齢の歩行者の方は、頭を下げられ、声は聞こえませんが、口の動きから、ありがとうと言っているのがわかりました。横断歩道で、車が止まるのは当然の事です。しかし、その歩行者の方は感謝の心を伝えてくれました。其のことによって、私の心の中にとても温かく、さわやかな感情が生まれました。止まってよかった、ゆっくり渡ってくださいね、という、相手を気遣う心にゆとりまで生まれました。感謝の言葉を伝えるというささやかな行動が、もたらしてくれた出来事でした。もし、この時、歩行者の方が、ただ渡るだけで、無言で渡ったら、此のことは、日常の出来事の一つとして、忘れられていきます。しかし、感謝を伝えるという、行動ひとつで、他者の心に温かく、明るい光をともし、平凡な日常の中で、彩りとなり、心の栄養となっていくことになりました。

見知らぬ者に対してのほんの小さな、感謝を伝えるという行動で、心が温かくなるのならば、毎日顔を合わせる家族にも、ぜひ、感謝の心を向けて欲しいと思います。ありがとうの言葉がけは、日々の暮らしをきっと、穏やかで、明るいものにしてくれます。物を渡されたとき、お茶を入れてくれた時、ほんの些細な事で、良いのだと思います。「ありがとう」この穏やかな、温かい気持ちは、人に伝わります。「ありがとう」という言葉は、優しさを生み出してくれるのです。

「変わり続ける」

飛騨市 光円寺 住職 大森武徳 師

毎月1日の托鉢を回っていると、最近この辺りで熊出るから気をつけてくださいね。

びっくりすることを聞いてしまいました。

熊が出てきたらどうしようと、不安に思いながら托鉢を回っていると、キノコとり名人のおばあさんに会いました。

「熊が人里に出てくるようになったのも山が変わった一つ。20年前はこの辺りでイノシシすらいなかった。山も変わっているよ。山も変わるのだから人も変わって当然。」こんなことを話してくださいました。

長年、山にキノコを採りに行っているおばあさん、昔はよく採れた、最近は少なくなった、キノコがよく生える場所が無くなったなどの話ではなっかた。山全体が変わっているという。

見慣れている山、樹木は春夏秋冬、色々な姿へ変化しています。無機質に思える山が変わるなんて思いもしていませんでした。普段遠くから見ている山は、何も変わらずに見えていました。しかし、山の中は、常に変わり続けているようです。

山も変わっているのだから、同じように人の世も変わっていくのです。

お釈迦様の教えの中に、「無常」という言葉があります。「この世の中のあらゆる物事は一瞬たりとも停止することなく、常に変化し続けている」ということです。

普段同じように見えている事でも、実際には常に変化し続けている。変化しているということは、滅びるものもあれば、新しく生まれるものもあるということです。

言い換えれば、困難に直面しても、変化して良い方向にもっていけることも出来るわけです。

どんな変化も受け入れられる柔軟な心になりたいものです。

「諸行無常」

飛騨市 慈眼寺 住職 原田好崇 師

身近な方、愛する方を見送るということは私の経験からもいかに心に大きな傷を受けるかということがわかります。身体的な傷であれば、自分も他人も傷の深さはわかりますが心の傷はどんなに深い傷であっても外からは見分けにくいものです。身近な人が亡くなったとき突然涙が出てくる、将来どうなるんだろうと不安になる、生きていく希望を失う。こういったことは誰にでも起こることです。誰にでも起こりうることなんだと受け入れ自分を大事に見守りましょう。

大事なのは自分の気持ちを自分の中だけに溜め込まないことだと思います。誰かに聞いてもらうことが助けになることもあります。「何も言わなくてもいいからただ聞いてくれ」と頼んでもいいかもしれません。へたな慰めは逆効果になることもあるからです。人に甘えて自分中心にさせてもらいましょう。聞くだけなら甘えられる側も協力してくれることでしょう。

心の傷は完全には消えることはないかもしれませんが、時間と共に確実に回復していきます。

どんな方でも時間は平等に過ぎていきます。仏教ではこれを「諸行無常」といいます。すべては移り変わり永遠に変わらないものはないという教えです。生きている以上必ず老いそして死を迎えなければなりません。

一休和尚の詩に 門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなしという詩があります。これは正月はめでたいがその分冥土へ行くときが近づいたことになるのでうれしくもあるが悲しくもあるという意味です。

修証義というお経ではこうした内容を説かれています。このお経は一から五章まであり大変長いお経ですがお亡くなりになられた方が仏弟子となる為の行いや生きかたなどが書かれています。この修証義の五章に

光陰は矢よりも速やかなり身命は露よりも脆し、・・・・・

 

という一文があります。これは時が経つのは光のごく早くそして人の命は一滴の露のように脆い、・・・・・

 

簡単に解釈するとこう言った意味です。

すべての生あるものには平等に諸行無常があり、光陰は矢よりも速やかなり身命は露よりも脆しです。

同じ諸行無常であるならば後悔しないよう前を向いて過ごしていくようにしたいものです。

「終活」

飛騨市 玄昌寺 住職 澤田祥信 師

現在、人口減少時代、人生100年時代と言われています。何か、高齢者ばかりの世界になるのではないかと、世間では、どちらかといえば、悲観的なことばかりで、若者に未来がなく、年寄りがあたかも悪いようにも思えるような言われ方をしています。

老いは、私たちが何をしようともおとずれるものです。

高齢者にとり喜び、幸せの要素とは、「健康の維持」「良い人間関係」「ある程度の経済生活」です。どれ1つ不足していても、良い人生が送れないものです。

また、私たちには、必ずや死というものがやってまいります。その死を恐れてばかりいるのではなく、安心して、その日を迎えることができるように準備が必要です。

自分の歴史をまとめておくこと、家族、親族、親友、たいせつな人のこと、自分の体のこと、預貯金のこと、財産のこと、借金のことなど、自分がいなくなれば、残った親族が困らないように、きちんと残しておくことが大切です。

私たちは、100歳まで頑張って、健康で生きて、死を迎えた時には、すべてを、きちんと整理できていて、惜しまれながら、この世を去れればと思います。

今からでも遅くありません。自分の身のまわりから始めませんか。

「感謝の言葉」

中津川市 大林寺 徒弟 村瀬弘信 師

先日私が電車に乗っていた時の事です。マスクの着用も個人の判断となり、昔よりも車内の人が多くなってきたな。なんて考えておりました。

2人がけの席に1人で座っていたのですが、ある駅に着いた時1人の女性が電車に乗り込んできました。「失礼します」そう言って私の隣の席に座りました。しばらく経って、目的の駅に着いたのか席を立ちました。その時その女性は私に「ありがとうございます」と言いました。ですが、私には感謝される様な事をした覚えはありませんでした。なぜだろう、1人で二つの席を使っている様に見えたのかな。などとしばらく考えておりました。

仏教の中に、「愛語」という言葉があります。相手に対して優しい言葉をかけましょうという意味です。

普段からお坊さんとして心掛けている言葉であったのですが、すぐにそれを思い出す事が出来なかったのです。そればかりか、相手がなぜこんな事を言うのだろうと疑問に思ってしまったのです。

それに気づいてから、自分の未熟さを感じました。

ですが、疑問を抱いていた心は幸せな気持ちになりました。

あの女性はきっと「愛語」という言葉は知りません。ですが、知らなくてもそれを実践できる方だったのです。

今思うと、姿や立ち振る舞いまで素敵な人だった様に思えてきます。

「愛語よく廻転のちからある事を学すべきなり」

愛語を使うことは世界を変える力があると道元禅師様はお示しになられております。

常日頃から感謝と優しさを心掛けて生活をしていれば、いつかより良い人間になれます。そしてその行動は周りも巻き込んでいく事でしょう。まずは自分から日々の生活の中で「ありがとう」これを意識して生活してみてはいかがでしょうか。

「ありがとうを伝えましょう」

恵那市 長栄寺 副住職 平山洋司 師

皆さんは「ありがとう」と最近いつ言いましたか?

親切にしてくれた方に。優しくしてくれた方に。

いろいろな言葉の中で、「ありがとう」という言葉は、相手に感謝の気持ちを伝える、   もっともすばらしい言葉の一つだと思います。

日常生活の中には、いろいろな場面で、「ありがとう」を言う機会があると思います。   でも、恥ずかしかったり、照れくさかったりで、なかなか素直に言えなかったり、     やってもらえて当たり前、気付かなかったりで言えていなかったりしていませんか。

大袈裟かもしれませんが、「ありがとう」と言えなかった為に気持ちがすれ違ってしまい、心にない言葉を選んでしまい人が離れていってしまったり、あの時「ありがとう」という 言葉を口にして伝えていたらと後悔してしまう前に今一度、周りにいる大切な人に

「ありがとう」と伝えてみてはいかがでしょうか。

 

仏さまの教えでは、この「ありがとう」のような言葉を、「愛語」と言います。       「愛語」というのは、人々に対して慈しみ愛する心をおこし、愛情に満ちた言葉を語ることです。この地球上で言葉を自由に使えるのは、私たち人間だけです。

「ありがとう」その言葉ひとつで笑顔になれたり、救われたり報われたり        この5文字の言葉、「ありがとう」は、人が人を思いやり、言葉にして繫がれるとても素敵な言葉だと思います。

 

現代の日本は、言葉が乱れていると言われます。耳を塞ぎたくなるような汚い言葉を使ったり、妙に縮めた言葉を使ってみたり。言葉も日々進化し、変化するものですから、それはそれでいいのかもしれませんが、そのような言葉を耳にすると、やはり、さみしい気持ちになります。

日々、自然と「ありがとう」が出てくる世の中であれば、心が温かくなり優しい言葉も

増え私たちは穏やかに楽しく毎日を過ごせるのではないでしょうか。

「ある雨の日のこと」

恵那市 圓頂寺 住職 市岡 宜展 師

少し前のことです、次男坊を車に乗せて買い物に出かけました。

寒い冬の雨の日でした。買い物のついで出す予定だった手紙を助手席に座る次男に渡して投函するよう頼み、国道沿いのポストの前で車を停めました。

雨降りだったので、窓を開けて背伸びして手を伸ばせば車の中から投函できると思い、そう頼みました。

封書やハガキ3.4通を投函するだけなのに妙に時間を要したので、車を走らせながらその訳を聞くと、ポストの口が雨で濡れていて、そのままだと出す手紙が湿ったり、文字のインクがふやけると、あげる人が可哀想だから拭いていた。といいました。どうやら着ていたトレーナーの袖口を引き伸ばして拭いたようでした。

中学時代、そんな情景を読み込んだ短歌を授業で習ったようなかすかな記憶があり、我が子の行為でそれを思いだし、なんとも温かい気持ちになったものでした。

【雨の日のポストの口をわがぬぐい手紙を入れてあとすがすがし】

念のため、物置へ行って探しましたら当時の国語の教科書が保管されてあり当該の短歌も見つかりました。

ある文学者が新聞の短歌コーナーで見つけ、秀作として紹介していました。いわゆる、「詠み人知らず」ですが、愛のある行いとして心に響きます。

この相手を思いやる気持ち、それこそポストに郵便物を出す際など、ふとした時には、思ってみてください。

最近はポストを用いなくとも、早くて確実な通信手段はいくつもあります。効率も良いうえ経費なども考えるととてもありがたいです。それならば便利になった分、送る前に相手がどう思うか、書いた内容、つまり行動を少し考える時間は作れるかなと思います。

この相手を思いやる気持ち、心のありようを、曹洞宗の開祖道元禅師は折に触れて様々な表現でお示しくださっています。道元さまのみならず、歴史に名をとどめた宗教者や指導者の多くはそれぞれの教え方でもって、多くの人を導いています。

技術の進歩で湿った手紙が届くことはなくなるかもしれませんが、中身で心が湿らないようにしたいですね。

季節は六月、雨の季節にそんなことを考えます。

「日常と仏の心」

多治見市 大龍寺 徒弟 五島 秀崇 師

これはある日私が飲食店を訪れた時の話である。そのお店は、入口付近にタッチパネル式の券売機が1台あり食券を購入してから空いている席に座るというものだった。ランチタイムだったということもあり、すでに8名ほど券売機の前に人が並んでいる。私も最後尾に並ぶ。すると70代ぐらいの老夫婦の順番になり、2人でタッチパネルを操作している。少し時間がかかっているようだった。老夫婦は後ろのお客さんを気にしてか「お先にどうぞ」と次のお客さんへ順番を譲った。しかし老夫婦は列には並ばずそのまま帰ってしまった。

私の順番が回ってきて、券売機で操作したときにはっと気づく。普段タッチパネルの機械に慣れている者には簡単な操作方法だが、老夫婦には少し分かりづらかったのかもしれない。操作方法がわからず諦めて帰ってしまったのではないか。そのことに早く私が気づいていればよかったと反省するという出来事があった。

皆さんも少なからず似たような経験があるのではないでしょうか。あの時はできなかったが、次はできるよう常に意識することがとても大切なのです。

修証義のお経にもなっていますが道元禅師はこのように仰っています。

『設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を發すべし』と。

あらゆる場面、あらゆる立場の人であっても、真っ先に自分が救われるのではなく、まず他者が救われるように心掛けなさいという意味です。この心得を常に持って常に実践している人は滅多にいないのかもしれません。他者を救うのは、とても勇気が要ることですし、犠牲を伴う行為なのです。ただ犠牲を伴う行為だからこそ、他者に感謝されるのです。感謝をされることは良いことですが、その行為に対して見返りを求めて行ってはいけません。自分のできる範囲で、他者を救ってあげましょう。そうすれば気づけばあなたの周りには、あなたを救ってくれる人がいるのです。他者のため、自分のために良い行いをこれからも続けていきましょう。