テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「終活」

飛騨市 玄昌寺 住職 澤田祥信 師

現在、人口減少時代、人生100年時代と言われています。何か、高齢者ばかりの世界になるのではないかと、世間では、どちらかといえば、悲観的なことばかりで、若者に未来がなく、年寄りがあたかも悪いようにも思えるような言われ方をしています。

老いは、私たちが何をしようともおとずれるものです。

高齢者にとり喜び、幸せの要素とは、「健康の維持」「良い人間関係」「ある程度の経済生活」です。どれ1つ不足していても、良い人生が送れないものです。

また、私たちには、必ずや死というものがやってまいります。その死を恐れてばかりいるのではなく、安心して、その日を迎えることができるように準備が必要です。

自分の歴史をまとめておくこと、家族、親族、親友、たいせつな人のこと、自分の体のこと、預貯金のこと、財産のこと、借金のことなど、自分がいなくなれば、残った親族が困らないように、きちんと残しておくことが大切です。

私たちは、100歳まで頑張って、健康で生きて、死を迎えた時には、すべてを、きちんと整理できていて、惜しまれながら、この世を去れればと思います。

今からでも遅くありません。自分の身のまわりから始めませんか。

「感謝の言葉」

中津川市 大林寺 徒弟 村瀬弘信 師

先日私が電車に乗っていた時の事です。マスクの着用も個人の判断となり、昔よりも車内の人が多くなってきたな。なんて考えておりました。

2人がけの席に1人で座っていたのですが、ある駅に着いた時1人の女性が電車に乗り込んできました。「失礼します」そう言って私の隣の席に座りました。しばらく経って、目的の駅に着いたのか席を立ちました。その時その女性は私に「ありがとうございます」と言いました。ですが、私には感謝される様な事をした覚えはありませんでした。なぜだろう、1人で二つの席を使っている様に見えたのかな。などとしばらく考えておりました。

仏教の中に、「愛語」という言葉があります。相手に対して優しい言葉をかけましょうという意味です。

普段からお坊さんとして心掛けている言葉であったのですが、すぐにそれを思い出す事が出来なかったのです。そればかりか、相手がなぜこんな事を言うのだろうと疑問に思ってしまったのです。

それに気づいてから、自分の未熟さを感じました。

ですが、疑問を抱いていた心は幸せな気持ちになりました。

あの女性はきっと「愛語」という言葉は知りません。ですが、知らなくてもそれを実践できる方だったのです。

今思うと、姿や立ち振る舞いまで素敵な人だった様に思えてきます。

「愛語よく廻転のちからある事を学すべきなり」

愛語を使うことは世界を変える力があると道元禅師様はお示しになられております。

常日頃から感謝と優しさを心掛けて生活をしていれば、いつかより良い人間になれます。そしてその行動は周りも巻き込んでいく事でしょう。まずは自分から日々の生活の中で「ありがとう」これを意識して生活してみてはいかがでしょうか。

「ありがとうを伝えましょう」

恵那市 長栄寺 副住職 平山洋司 師

皆さんは「ありがとう」と最近いつ言いましたか?

親切にしてくれた方に。優しくしてくれた方に。

いろいろな言葉の中で、「ありがとう」という言葉は、相手に感謝の気持ちを伝える、   もっともすばらしい言葉の一つだと思います。

日常生活の中には、いろいろな場面で、「ありがとう」を言う機会があると思います。   でも、恥ずかしかったり、照れくさかったりで、なかなか素直に言えなかったり、     やってもらえて当たり前、気付かなかったりで言えていなかったりしていませんか。

大袈裟かもしれませんが、「ありがとう」と言えなかった為に気持ちがすれ違ってしまい、心にない言葉を選んでしまい人が離れていってしまったり、あの時「ありがとう」という 言葉を口にして伝えていたらと後悔してしまう前に今一度、周りにいる大切な人に

「ありがとう」と伝えてみてはいかがでしょうか。

 

仏さまの教えでは、この「ありがとう」のような言葉を、「愛語」と言います。       「愛語」というのは、人々に対して慈しみ愛する心をおこし、愛情に満ちた言葉を語ることです。この地球上で言葉を自由に使えるのは、私たち人間だけです。

「ありがとう」その言葉ひとつで笑顔になれたり、救われたり報われたり        この5文字の言葉、「ありがとう」は、人が人を思いやり、言葉にして繫がれるとても素敵な言葉だと思います。

 

現代の日本は、言葉が乱れていると言われます。耳を塞ぎたくなるような汚い言葉を使ったり、妙に縮めた言葉を使ってみたり。言葉も日々進化し、変化するものですから、それはそれでいいのかもしれませんが、そのような言葉を耳にすると、やはり、さみしい気持ちになります。

日々、自然と「ありがとう」が出てくる世の中であれば、心が温かくなり優しい言葉も

増え私たちは穏やかに楽しく毎日を過ごせるのではないでしょうか。

「ある雨の日のこと」

恵那市 圓頂寺 住職 市岡 宜展 師

少し前のことです、次男坊を車に乗せて買い物に出かけました。

寒い冬の雨の日でした。買い物のついで出す予定だった手紙を助手席に座る次男に渡して投函するよう頼み、国道沿いのポストの前で車を停めました。

雨降りだったので、窓を開けて背伸びして手を伸ばせば車の中から投函できると思い、そう頼みました。

封書やハガキ3.4通を投函するだけなのに妙に時間を要したので、車を走らせながらその訳を聞くと、ポストの口が雨で濡れていて、そのままだと出す手紙が湿ったり、文字のインクがふやけると、あげる人が可哀想だから拭いていた。といいました。どうやら着ていたトレーナーの袖口を引き伸ばして拭いたようでした。

中学時代、そんな情景を読み込んだ短歌を授業で習ったようなかすかな記憶があり、我が子の行為でそれを思いだし、なんとも温かい気持ちになったものでした。

【雨の日のポストの口をわがぬぐい手紙を入れてあとすがすがし】

念のため、物置へ行って探しましたら当時の国語の教科書が保管されてあり当該の短歌も見つかりました。

ある文学者が新聞の短歌コーナーで見つけ、秀作として紹介していました。いわゆる、「詠み人知らず」ですが、愛のある行いとして心に響きます。

この相手を思いやる気持ち、それこそポストに郵便物を出す際など、ふとした時には、思ってみてください。

最近はポストを用いなくとも、早くて確実な通信手段はいくつもあります。効率も良いうえ経費なども考えるととてもありがたいです。それならば便利になった分、送る前に相手がどう思うか、書いた内容、つまり行動を少し考える時間は作れるかなと思います。

この相手を思いやる気持ち、心のありようを、曹洞宗の開祖道元禅師は折に触れて様々な表現でお示しくださっています。道元さまのみならず、歴史に名をとどめた宗教者や指導者の多くはそれぞれの教え方でもって、多くの人を導いています。

技術の進歩で湿った手紙が届くことはなくなるかもしれませんが、中身で心が湿らないようにしたいですね。

季節は六月、雨の季節にそんなことを考えます。

「日常と仏の心」

多治見市 大龍寺 徒弟 五島 秀崇 師

これはある日私が飲食店を訪れた時の話である。そのお店は、入口付近にタッチパネル式の券売機が1台あり食券を購入してから空いている席に座るというものだった。ランチタイムだったということもあり、すでに8名ほど券売機の前に人が並んでいる。私も最後尾に並ぶ。すると70代ぐらいの老夫婦の順番になり、2人でタッチパネルを操作している。少し時間がかかっているようだった。老夫婦は後ろのお客さんを気にしてか「お先にどうぞ」と次のお客さんへ順番を譲った。しかし老夫婦は列には並ばずそのまま帰ってしまった。

私の順番が回ってきて、券売機で操作したときにはっと気づく。普段タッチパネルの機械に慣れている者には簡単な操作方法だが、老夫婦には少し分かりづらかったのかもしれない。操作方法がわからず諦めて帰ってしまったのではないか。そのことに早く私が気づいていればよかったと反省するという出来事があった。

皆さんも少なからず似たような経験があるのではないでしょうか。あの時はできなかったが、次はできるよう常に意識することがとても大切なのです。

修証義のお経にもなっていますが道元禅師はこのように仰っています。

『設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を發すべし』と。

あらゆる場面、あらゆる立場の人であっても、真っ先に自分が救われるのではなく、まず他者が救われるように心掛けなさいという意味です。この心得を常に持って常に実践している人は滅多にいないのかもしれません。他者を救うのは、とても勇気が要ることですし、犠牲を伴う行為なのです。ただ犠牲を伴う行為だからこそ、他者に感謝されるのです。感謝をされることは良いことですが、その行為に対して見返りを求めて行ってはいけません。自分のできる範囲で、他者を救ってあげましょう。そうすれば気づけばあなたの周りには、あなたを救ってくれる人がいるのです。他者のため、自分のために良い行いをこれからも続けていきましょう。

「修証一如」

瑞浪市 慈照寺 住職 石神 智道 師

仏教の花といえば蓮の花ですが、蓮の花はインドでは高貴な花として尊とばれています。その理由は2つあります。一つは、その根をドロ深いところに置きながら、茎を伸ばして素晴らしい花を咲かせること。人間もかくありたい、という理想の生き方を示しています。二つ目は、花が咲いた時その中心には既に実ができていること。つまり努力をすること(修)とその結果(証)が一体になっている姿を見せてくれています。努力と結果は一体、ということを「修証一如」といいます。

昨年末に横浜に居住している兄より連絡が入りました。兄からの突然の連絡に驚きつつその連絡を読みますと、姪の結婚式をしたいという連絡でした。特に昨今のコロナ禍の中では会うことも難しかった中での大変うれしい便りとなりました。

この結婚式と申しますとまずは新郎新婦の誓いの言葉が浮かびます。「変わらぬ永遠の愛」を誓い合うのが一般的でしょうか。ただ私はいつもこの「変わらぬ愛」というものには違和感を覚えてしまいます。お付き合いをしている時の愛、結婚をして二人での生活の中の愛、子供をもうけ育てている時の愛、それぞれ全く違うものと思うのです。少なくとも全く形の変わらない愛などというものはないのではないでしょうか。

では夫婦に限らず自分自身以外の人間と良い関係を続ける為に何が必要なのでしょう。またこれから家族という固い絆を築き上げようとする者たちが共に誓うべき言葉は何でしょう。それは漠然とした「変わらぬ愛」ではなく「常に想われ続けるような人であるよう努力をすること」ではないでしょうか。

今回結婚をする二人にも、この法話をお聞きの皆さんにも、普段から他の人に「良い関係でいようと努力し続けていくこと」を誓い、そうすることで他の人を「信頼していることを証明すること」を日々実践をしてもらいたいと思うのです。それこそが「修証一如」であり仏の教えなのです。

「コロナ(御縁)に包まれて、そして包み返して」

多治見市 法喜寺 住職 沖田 泰裕 師

コロナ禍も丸三年が経過し、この5月からは平時に戻そうという体制になります。あたり前の事が出来なくなったこの間、私は坐禅以外で、自分への「こだわり」を、身も心も解き放たれた「きづき」を体験致しました。それは「お寺の領域全体、除草剤を一切つかわず、冬を迎えるまで手で草を取った時」の事です。

諸行事の中止により、時間的余裕ができ、お寺の庭及び裏庭、来客用・墓参り用駐車場すべてが未舗装で、かなりの広さに渡りますが「お盆の日」を目標に、3月より「除草剤の力を一切借りずに草を抜ききる」という目標を立て、一日2時間はげみました。以前は草を見て、義務感により草を取り、他事を考えたり苦痛を感じることが多かったですが、今回は一本一本の草や土の状態を、あるがままにとらえ、心が集中できて、他事を考える事なく、あっという間に2時間が過ぎていました。また、範囲が広い為、ひと廻りするのに10日程かかるのですが、繰り返していると、10日前に終わった場所はまた草が生えてきているだろうから「また取らなくては」と思うようになり、なんの抵抗もなく「お盆の前日」まで続け、それ以降も「お彼岸」を目標に取り続けました。

その時ふと、「都合、計らい、こだわりがなく、草と一体となっている私」がいることに気づきました。

永平寺を開かれた道元禅師は「仏を実践する方法は、自分への『こだわり』を忘れる事であり、全ての物事から気づかされる事であり、自分と他の物事との分けへだて、こだわりをなくしてしまう事である」とお示しです。

日ごろ我々は、自分と自分以外の物事を分けへだて、計らい事、こだわりを持って暮らしていますが、今回の事であらためて、あるがままに心を集中して事に当たる事が「心おだやかに暮らせる秘訣である」と、大いに気づかされました。

「放てば手に満てり」

関市 龍泰寺 住職 宮本 覚道 師

私が住職を務めるお寺の境内には幼稚園があります。今年も三月に園児が卒園していきました。コロナ禍になったのは今から約三年前。この子たちは入園から卒園までのすべてをコロナ禍で過ごしたことになります。例年であれば感染症に気を遣わずに何の制限もなく普通にのびのびと過ごせたはずなのに、と思ってしまいます。しかし、この子たちと共に過ごす中で、そうではないと考えさせられた経験がありました。ここではそのお話させていただきます。

三年前の今頃、感染症が急拡大し自宅待機が続きました。この期間に私は何かできないかと思いオンラインでの研修に励みました。その時に私の考え方が変わる教えに出会いました。こういった教えです。

「信用してはいけない人が無意識に使っている言葉」があります。それは、「普通は」という言葉です。これを言う人は、人の考えに流されているだけで実は何も考えておりません。自分の言葉に責任をもたずに物事の本質を見ようとしない人は、この言葉を無意識に使っています。

これを知った時、ハンマーで頭を叩かれたような衝撃が走りました。

なぜかと言いますと、実際に私自身がこの「普通は」という言葉を使っていたからです。お檀家様や幼稚園の保護者の方々に「普通はそうだから」と答えていた自分が少なからずいたからです。そう思うと、自分のことが情けなくてたまりませんでした。

それ以来、私は、この「普通は」という言葉を使わずに自分の言葉に責任をもって伝えるようにしています。そうしたら、不思議なことに、清々しい気持ちで毎日を過ごすことができるようになりました。

大本山永平寺を開かれた道元禅師は「放てば手に満てり」と示されておられます。「手放すことによって大切なものが手に入る」というお示しです。コロナ禍になり「普通ならできるのに」と思ってしまうのが私たち人間です。しかし、「普通はそうだから」と思う前に、本当にそれは自分にとって必要なのだろうか、それが無ければ本当に自分は幸せになれないのだろうかと物事の本質を考えてみる。そして、無くても良いと思えたものは思い切って手放してみる。すると驚くほど心が清々しくなります。

日々の「普通」の生活に息苦しさを感じている方は、是非「普通」と言われるものを手放してみてください。きっと、心が清々しくなります。

「縁」

土岐市 清安寺 住職 大久保 厚志 師

春のお彼岸がやってきます。古くから「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お彼岸は日本の伝統的な行事です。お寺やお墓にお参りし、脈々と伝わるご先祖さまの「おかげ」に手をあわせてください。また、ご自身の生活をみつめる仏道修行の期間としていただければと思います。

さて、春は出会いの季節とも言われます。様々な存在が関わり合うことを仏教では「縁」といいますが、その縁はその人の心掛け次第で、「善縁」にもなり「悪縁」にもなります。

折角結んだご縁であれば、善きご縁にしたいと思うのは誰しも共通なことと思います。

縁は自分で作り上げて行くもの。つながりをどう受け止め、どう行っていくかが大事です。

仏教でいう「善」とは、お釈迦様の教えに寄り添う生き方であります。「善」なる行いの積み重ねは、きっとご自身を清らかにし、周りの方にも良い影響を与えることと思います。教えに背を向けた「悪」の生き方をしないよう一人ひとりが「善縁」に包まれると同時に、周りへの発信源となれるようお祈り申し上げます。

「伝えつなぐこと」

美濃市 正林寺 住職 荒田 章観 師

2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた涅槃会となります。毎年各寺院では涅槃図をかけ、お釈迦様をご供養します。涅槃図を見ると横たわるお釈迦様の周りではお弟子様だけでなく、たくさんの動物たちも一緒に悲しんでいることが分かります。

お釈迦様が最後にお説きになられた教えが佛垂般涅槃略説教解経「ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう」(佛遺教経「ぶつゆいきょうぎょう」)です。その中でお釈迦様は「私の教えは全て皆に授けた。これからは皆がその教えを伝えていく番だよ。そして、それが続く限り私はずっとそばで見守っているよ。だからそんなにも悲しまないでおくれ」とおっしゃられました。ご病気でご自身が苦しい中でも最後までお弟子様の行く末を案じておられたのです。

私が普段から大変お世話になっているご老僧に「自分が学んだことはできるだけ伝えるから、それを自分なりの形にして誰かに伝えてあげて」と教えられたことがあります。それは法要の作法であったり、お経の読み方であったり、お釈迦様や道元禅師様の教えの考え方であったりと、さまざまでした。なかなか上手にならない私のために根気強く何度でも教えていただきました。

師匠から弟子へ、また親から子へ。教え続け、伝え続けることが、お釈迦様が最後まで大事にされたことであり、今こうしてお話を聞いていただいた皆さんへのご縁へと続くものでもあります。伝えることの喜びをどうぞ大事にしていただきたいと思います。