テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

支えあう

多福院 住職 市橋 正信

梅雨の季節もピーク、間もなくすると梅雨も明け、スカッとするような夏の訪れが楽しみな今日この頃です。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。日本経済は、アベノミクス効果により景気が上向き、経済的に豊かな社会を取り戻しつつあります。反面“格差”という言葉も、以前にも増して現れ、社会問題化なりつつあります。他方、ブータン王国では、一人あたりの国民総所得が約20万円と、決して高くありませんが、国民総幸福量という政策により、国民の97%は「幸せ」と回答しているそうです。この「国民総幸福量」という政策は、経済成長を重視する姿勢を見直し、伝統的な社会・文化や民意、環境にも配慮した「国民の幸福」の実現を目指した政策だそうです。

誰しもが、経済的豊かさを求めることが当然ですが、本来、人として求めるべき所ではないかと感じるところです。

ブータン王国の「国民総幸福量」という政策の背景には、仏教の価値観があるそうです。その一旦は、お釈迦様が説かれた“利他行”にあると考えます。

“利他行”とは人は「人のために生きる」という大前提にあり「人様を幸せにできないで、自分が幸せになることはない」ということです。

東日本大震災被災地域では、今なお、厳しい生活を強いられていますが「絆」と大切にし、お互いを支えあい、勇気づけあい、今日まで頑張っておられます。

このご時世、希薄社会とも言われています。利他行の実践が、価値ある人生の一旦と担うと考えます。

希望の灯火

増徳寺 住職 長宗一陽

ある日、庭を掃いていますと「こんにちは、お参りさせてください」と声がします。振り向くと、母親と四・五歳程の元気な女の子の姿が見えました。お参りが終わると、本堂から出て来られ、話を伺いました。「この子は仏像がとても好きです。子どもと出かける時はいつもきまってお寺を探して出かけます。」と言われました。「仏像が好きだから手を合わせるのですね、将来が楽しみです。」と話しました。

道元禅師の「渓声山色」この章は仏道を学ぶ者の心構えを説かれています。「仏祖を仰観すれば一仏祖なり」この言葉は「仏様に憧れたら、そのときはもう仏様になっている」「仏像に憧れたら仏像に入る」「友達に憧れたら友達に入る」と言う意味です。又その裏側では、悪しき行いに憧れたら悪に入る。何事も憧れるだけで、もうすでにその中に入っているのです。

このお子さんは、仏様に憧れ仏を心の中に抱き、仏様と共に過ごす時間が幸せなのだと思います。普段何気ない生活の中にも希望を持ち、お話しているニコニコして明るい子供でした。

私たちの生活の中で、恐怖心に襲われたり、怖い出来事が起きたときは、仏様を思い出してください。仏を思い出せなければ、お釈迦様の言葉を思い出してください。言葉を思い出せなければ、親・兄弟・仲間を思い出してください。

命の尊さ

光源寺 住職 田中 和彦

この法話を録音しているのは二月の半ばです。昨年秋から世界的に政治が乱れ、日本においてもテロに対する危険が身近になってきました。人の命を懸けて駆け引きが行われ、殺し合いが起こっています。

お釈迦様はお生まれになられたとき、七歩歩んで右手は天を、左手は地を指して「天上天下唯我独尊」とおっしゃられました。天にも地にも我という存在は一人しかいない、だからとても尊い存在なんだ。と言うことです。これは、私にとってもこれを聞いてくださってる皆さんにとっても言えることです。スペアのないたった一つに命を戴いた私たちは尊い命同志助け合い慈しみ合って生きていかなければならないと思います。

しかし、現実には立派な学力を持つ19歳の女子大生が77歳の女性を「一度殺してみたかった」との理由で殺人を犯したり、ともに近所の22歳の男性が小学5年生の男児をナタやナイフを使い殺してしまったりと、信じられないような事件が相次いでいます。他人を変えると言う事は容易なことではありません、しかし自分の人生を変化させることは出来る筈です。

自分の人生をより安心できるより良い方向へ向けていくためには、間違いを犯さず、慈悲の心をもって人とのかかわりを大切にし、一日一日を「あー今日もよい一日だった」と思える暮らしを続けて行きたいものです。

御供養すること、生きて行くこと

大垣市 全昌寺 住職 不破 英明

本年2015年は阪神・淡路大震災から二十年という節目にあたる年です。神戸の街は多くの方の願い・努力により復興をとげていますが街を襲った地震による悲しみを市民の誰もがわすれてはいません。

当時私は神戸市にて学生生活を過ごしていましたがそれまでの価値観を根本から覆すような出来事でした。震災のために友人・知人を無くしあらためてこの世の無常というものを考えずにはいられませんでした。

なにかしら同じ気持を共有したいという思いから御家族をなくされた方々の手記を読ませていただくことがありましたが、その中で大事なお子様二人を震災で亡くされたお父様のお話が強く印象に残っています。そのお父様は毎日お子様二人分の食事をご仏前にお供えし続け、自分の心の中で二人のために灯をともしているので、二人は今も自分の心の中で生き続けていますとおっしゃられていました。

私たちが大事な家族をなくしたときに、故人を忘れないよう自分の心の中にその方のための場所を作って差し上げ、そこに灯をともし続ける。そして心の中のその方とともにこの無常の世を丁寧にしっかりと生き抜く。それが故人への一番の御供養であり、また仏様とともにある私たちの姿なのです。

祖父のすがた

岐阜市岩田西 智照院 住職 宮崎 誠道

当時小学生だった私には祖父と遊んだたくさんの思い出があります。元気な祖父も八十歳を過ぎたころでしょうか、体の自由が以前のようには利かなくなり、一人で出歩くことができなくなってしまいました。そんなある週末のことでした。体調が悪かったのかその日、祖父はいつもより無口でした。二口、三口と食べると急に食べたものを全部戻してしましました。当時、小学生の私は祖父の体のことよりも、戻した事に怒り汚れた服の事で父を責めてしまいました。「この服どうするんだよ?もう着れないだろ」父は黙って祖父の背中をさすりベットに寝かせ、床の掃除を始めました。祖父は「ごめんな、ごめんな」そう言って私の頭を撫でようとしました。私はその手を払い、「もういいよ」とたまらず家を飛び出しました。

それから数か月たったあるとても寒い晩のこと、心臓の発作で祖父は急に帰らぬ人になってしまうのです。明け方頃に電話を受けみんなで病院に駆けつけました。急いで病室に入ろうとしたら、そこに父がいました。「じいちゃん。なんで急にいっちゃうんだよ。もっともっと面倒みたかったなぁ」その父を見たら何だかあの日、じいちゃんの手を払い「もういいよ」と言った時の事が急に頭の中を駆け巡りました。父に言いました。「俺、おじいちゃんに全然優しくできなかった。ごめんなさい」この時、私の中で後悔の気持ちは懺悔となり、父にすべてを打ち明けました。

懺悔とは自分自身の行動・言葉・思いから生じた罪を悔い改めることです。同時に私たちはその懺悔を自分の中に持ち続けなければいけません。私の祖父に対する懺悔は三十年以上たった今も心の中にあり、私の糧となり生き続けています。懺悔とは悔い改めると同時にその思いを持ち続けることで自分自身を律していくことなのです。

心を洗う

岐阜市此花町 医王寺 住職 透 隆嗣

肌を過ぎる風が清々しい、新緑の若葉がまぶしい季節となりました。

私たちは、雄大な自然を眺めるとき、感動する話を聞いたとき、読んだとき、心の触れる何かを感じたとき、心が洗われる様な気持ちになります。

日々の生活の中で、「心を洗う」どのようにやればよいのかと考えると思います。体の汚れは毎日お風呂に入れば落とせますが、心に浮かんでくる迷いや疑い、何かモヤモヤした気持ち、私たちの目を曇らせる様々な心の汚れを落とすには、何をすればよいでしょうか。

気持ちを切り替えて、新たに一歩を進めていく。そのために、心を鎮めて座り、自らを省みて体の中から様々な思いを振り払う。座禅をしていただくのも良い方法でしょう。しかしそれだけではなく、美味しいものを食べる、体を動かす、読書をする、散歩をする等というように気持ちを切り替える方法は人それぞれであるかと思います。

大切なことは、心の汚れをいつまでも残しておかないことであり、その日のうちに洗い流して、毎日を過ごしていきたいものです。

自分をだまさない

岐阜市太郎丸 吉祥寺 住職 志比 道栄

こんにちは。始めにお聞きします。毎日、何を大切にいきていますか。自分の人生でこれが大切というものはおありでしょうか。

今日あなたに、より自分自身を見つめて頂きたいと思いお話をします。

昔、昔、中国の唐の時代に、青原という禅師様が居ました。禅師様の所に一人の修行僧がやって来て、「仏教のさとり」は何かと尋ねたところ、青原様は「おまえの村の米の値段はいくらかね」と返事をされたというお話があります。答えを聞きに行ったつもりが、反対に米の値段を聞かれて、修行僧が困ってしまうこのお話。まるで意味不明ですね。

では、このお話で青原様の言われる「米の値段」は何を指していたのでしょうか。「米の値段」は、その年の作柄に応じて高くなったり安くなったりと変化します。私たちの心も、その時々によって毎日変化しています。

青原様は、この変化する気持ち、日常の生活の中にこそ、大切なお釈迦様の教えを実現する自分があるんだよ。本当の自分自身・生き方があるんだよ。と述べ、何かホカに特別な言葉や文字、すてきな生活が自分のソトにあるのではないか、特別な生き方がホカからやって来るのではないかと答えを求めに来た修行僧や私たちに対し、「米の値段」を例えに、大切なものは自分の中にこそ、あるんだと説明されていたのです。

もう一度伺います。あなたにとって、自分の中にある大切なもの・生き方ってなんですか。

例えば、家族・友人や、優しい気持ち・思いやる精神など様々な想いがあると思いますが、自分に大切なものや想いを持っていること。私は大変に素晴らしいことだと思います。

あなたに、私からこんな心も持ち続けて頂けたらと思います。それは「自分をだまさない」心です。ごまかしで自分自身を納得させない事。自分の心をごまかさない・だまさないで頂きたい。毎日の自分を見つめて、どの様にいきるべきか考えて生きて欲しいと私は願っています。

具体的にどうするのか、その答えは皆さんそれぞれに違うでしょう。答えは一つだけでは有りません。決まったスタイルもありません。でも自分自身で見つけ出さないといけない物です。

お互い大切な自分の心を見失わず、しっかりと捕まえて毎日を過ごして行きましょう。

あたりまえに感謝

岐阜市木造町 勝林寺 住職 等 真一

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」これは曹洞宗を開かれました道元禅師の詠まれた有名な歌であります。あたりまえに移りゆく四季の風景を詠んだ歌でありますが、このあたりまえの季節の移ろいを皆さんは感じておられますか。

今は四月春の訪れを感じる桜の季節です。又、新しい年度に変わりそれぞれが気持ちも新たにお過ごしになって見えることと思います。何かと忙しい毎日ではありますが、季節を感じ周りを見渡せる余裕はありますか。春は咲き誇る花を見て、夏はほととぎすの声を聞き、秋は美しい月を眺め、冬は真っ白な雪と寒さを感じ、春夏秋冬それぞれの季節を感じ、あたりまえに過ぎている時間の流れの中で生かされている自分を感じてみて下さい。

季節の移ろいを詠んだ道元禅師の歌に込められた思いとは、刻々と移ろいゆく時間と変わりゆく世界の中で、生かされている自分を感じ又、自分と周りの世界が決して別々ではなく、一人ひとりが役割を持って存在をしているのであるということをお諭しになられているのではないでしょうか。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」春夏秋冬それぞれの季節を感じ、あたりまえに過ぎてゆく毎日を、ありがたいと感謝できるようにありたいものです。

竹に上下の節あり

曹洞宗岐阜県宗務所所長 時田 泰俊


時田春の日差しの中、桜の花びらが風と戯れるが如くたおやかに揺らぐ時節となり、平成二十七年も水温む四月となりました。

皆様は本年の年頭に思い浮かべ、また願った日々をお過ごしでしょうか。
「竹に上下の節あり」という一文がございます。竹は上下に節があるからこそ強靭さと、風にそよぐしなやかさが保てるとの意味であります。

正月元旦より、節分、雛祭り、お彼岸、またそれぞれの個人家庭での記念日と多くの行事を重ねてみえたと思います。私達が意識することなく日々過ごし積み重ねてゆく行いこそが、人生における竹の一節一節に当たると思います。

今月八日はお釈迦様の誕生を祝う「花まつり」です。お釈迦様はお生まれになり七歩歩まれ天地を指さし「天上天下唯我独尊」と申されたと伝わっています。すべての人が尊く唯一絶対の誰に代わることもできない存在であるとの意味です。

この尊い自分が竹の如くしなやかに歩み続けるためにも、「花びらと色と香りを損なわず、ただ蜜味のみをたづさえてかの蜂の飛び去るが如く」と伝うお釈迦様の教えの様に、一つ一つの行いを欲張ることなく丁寧に大切に積み重ねてゆきたいと思います。