テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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十二月の記念日

中津川市 法禅寺副住職 稲村博元 師

こんにちは、テレホン法話でございます。
秋の深まりと共に年の瀬の足音も聞こえて参りました昨今、十二月と申しますと、皆様は何を思い浮かべられますでしょうか。
慌ただしげな年末の諸行事ですとか、中にはクリスマスとお答えになる方もいらっしゃるかと思います。申し上げるまでもなく、いわゆるクリスマスはキリスト教の祭日でございますが、今日におきましては日本でも広く、祝うというか催されている行事でございます。他方、仏教におきましても、この十二月には非常に重要な行事がございます。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、成道会と申しまして、お釈迦様がおさとりをお開きになられた日を記念する行事でございます。十二月のはじめより菩提樹の下で坐禅を始められ、八日目の朝におさとりを得られたと伝えられております。この十二月八日、成道会の日は、四月八日の降誕会、いわゆる花まつり、お釈迦様のお誕生日と、二月十五日の涅槃会、お釈迦様のご命日でございますが、そのふたつと並んで三仏忌、仏教における重要な祭日と定められております。
師走、というほど慌ただしくなってまいります本年最後の月、どうか皆様お身体にお気をつけ頂くと共に、お釈迦様のおさとりの心に思いを馳せられ、心平らかにお過ごし頂きますようお祈り申し上げます。

看脚下

中津川市 禅林寺副住職 鬼頭大輝 師

足元をしっかり看なさい。お寺の玄関に「看脚下」と掲示されている事があります。それは履物をそろえて脱ぎなさいと言う事です。
人は他人のことを、批判したり、注意したりしますが、自分自身のことはあまり注意せず、気が付かないことが多いものです。人の事より、まず、我が身の足元をしっかりと見つめたいものです。
自分の足元をよく見なさいと言う事は実に平凡な言葉ですが、日常生活の第一歩であり、禅の仏法もここが重大であります。
今から九百年も前のことです。ある晩三人の弟子と一人の老僧が灯火を照らして歩いておりました。その日は風が強く、下げていた灯火が消えてしまったのです。すると突然、老僧が弟子達に対し、「この場に臨んで各自一句を述べよ」と命じました。つまり、《夜道を行くには灯火が何よりの頼りになる。その火が消えた。さぁ、お前たちどうする。》と、言うのです。
弟子達は三人三様の答えを出しましたが、中でも一人の弟子が「看脚下」と一言、看は見る、脚下は足元、つまり、足元を見よ、と答えました。
闇夜に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇した時、人の多くは右往左往しこれを見失い、生きる道を遠くに求めようとするものですが、道は近きにあり、自分自身に向かって求めよ、と言うのが看脚下の一語であります。
現代のようなめまぐるしい世の中では、目だけが先に走ってしまったり、高いところばかりを望むあまり、足元がついついおろそかになりがちです。理想や夢も確かに大事ですが、これにとらわれると足が宙に浮いてしまいます。
足をしっかり大地につけて、爪先を正しく向けて着実に進めるならば、目をつむっていても目的地に到達出来ます。いたずらに結果にとらわれず一歩一歩、脇目を振ることなく、たった今を真剣になることです。
皆様も一度自分自身の足元をご覧になって下さい。爪先は何処を向いていますか?

笑顔の施し

中津川市 萬嶽寺住職 皮地昇雲 師

私のお寺の近所には保育園があります。通園の子供たちがニコニコしながら「おはようございます」と言ってくれるのですが、清浄無垢なとても良い笑顔なのです。だれしも笑顔にならずにはいられない微笑ましい光景です。
笑顔で人に接することは、仏教では他人に対する大切な施しです。和顔施と言い、たとえお金や物が無くても、誰でもすることができる立派な布施行(無財の七施)の一つなのです。言い換えれば、仏の清浄なる心の施しと言えるかもしれません。
ところが、最近はパソコンや携帯電話が普及して、笑顔どころかお互いの顔も見ずに会話をすることが当たり前になりつつあります。
以前よく流れていたファーストフードのCMに、こういうものがありました。客が店員に「スマイル下さい」といって、最後に「スマイル¥0」というキャッチコピーが出るのです。笑顔までも商品の一つになってしまった様な、笑顔が当たり前ではなくなっている現代の世相は、それだけ殺伐としているということなのでしょうか。
この様な御時世だからこそ、私たちは清浄な、心からの笑顔にどれだけ心救われることでしょうか。
幼子の次第次第に知恵付きて 仏に遠くなるぞかなしき(読み人知らず)
という句があります。私たちは成長するに従って、良い悪い、好き嫌い、欲しい欲しくない、色々な考えが生じ、本来持っている清浄な心を見失いがちです。しかし、心からの笑顔に接した時、お互いが見失いかけた仏の心に気付くことができるのではないでしょうか。どうか、皆様も多くの人に慈しみを持った、仏様の笑顔を施してあげて下さい。

自然を大切に

恵那市 萬光寺住職 龍田正宏 師

私の住んでいる町は、上矢作町と言います。
矢作川の源流とも言うべき、上村川という川あり、長野県と愛知県の県境にある町です。近年、少子高齢化が言われていますが、当町もそうであり、高齢化比率は40パーセントを超え、人口の減少化に歯止めがかかりません。ただ、その中で増えているのは、サル・イノシシ・クマ等、昔であるならば山中にいて、人里では余り見ることが出来なかった野生の動物が、人間の社会生活に害を及ぼしているのです。何故かその原因の一つに植林があります。一昔前は、家を建てるといったら日本材でした。それが今では日本材は高く、外国からの輸入である外材の方が安く、日本材で家を建てる人は少なくなりました。その結果、山の手入れはされなくなり、青木ばかりが増え、雑木林は減りました。青木ばかりの山は下草が生えず、山の保水力はなくなり、雨が降れば、川の増水や山崩れが多くなり、自然災害の基となり、山に住む動物は人里に出て来て、田畑を荒らす結果となっています。最近、テレビや新聞等でも言われているように、私達人間は、自然に生かされて生きているという事を忘れてしまったのではないでしょうか。
ここで、前永平寺貫主・宮崎禅師様の言葉を紹介させていただきます。
「私は日記をつけておるが、何月何日に花が咲いた、何月何日に虫が鳴いた、ほとんど違わない、規則正しい、そういうのが法だ、法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる、だから、自然の法則を真似て人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして、生きておれたらいいね。」
宮崎禅師様の言葉です。一考察してみて下さい。
ご清聴ありがとうございました。

日々是好日

恵那市 玉泉寺住職 龍田無名 師

永い人生において、今まで良い事もあれば、悪い事もある。それは誰もが経験してきた事かと思います。人は自分の都合の良い様に物事が運んだ時は、気分的にすごくいい感じを得るかと思いますが、その反面、悪い事が起こった時、その事実を避けて通りたく思ってしまいます。例えば今日お出かけという時に、朝起きて大雨が降っていたら、気分的にすごく残念な気持ちになるかと思います。それと同様、せっかく出かけるのを楽しみにしていた家族や友達も皆、気分的に重くなる様な気持に包まれる事かと思います。しかしそれはいたしかたありません。逆に天気が晴れた時は、すごくいい気分になる事かと思います。ただ、天気は私達の都合よく晴れたりはいたしません。
ただ天気だけでなくどんな状況に置かれても、良い時が訪れた時、もしくは悪い時が訪れたにしろ、私という人間にとって、その日、その時というのは一度しかありません。『日々是好日』というのは、雨であれ晴れであれ現実を受け入れれば、どんな日でも毎日は、新鮮で最高に良い日だという意味です。
良い日も悪い日もその時その時を大いに味わって過ごせば、その時というのは又その日というのは、かけがえのない日になるという事です。
私達の今生きているこの尊い時間を大切にお過ごししていただき、『日々是好日』という言葉をふと思い浮かべていただければ、どんな状況であれ、その日というのは、大変かけがえのない日でございます。『日々是好日』どんな日でも良い日だといえますか?

調身調息して冬への準備

中津川市 善昌寺副住職 井口昭典 師

10月に入り、心地よい風が秋の気配を感じさせます。
今年の夏は異常気象、更に気温が高い日が続いたため、まだまだ夏の疲れが残っている方もいるのではないでしょうか。
この季節は、疲れている体と心を調えて、来たるべく冬の準備をする絶好の機会だと思います。皆さんそれぞれ体を動かしたり、色々な方法で体調を維持されていると思いますが、その中に是非、静かに坐るという時間を取り入れて下さることを、お勧めいたします。
それではまず正座をして下さい。もちろんイスでも構いません。最初に時計の振子のように体を左右に動かし、徐々に小さくしていき真ん中で止まります。深呼吸をした後、ゆっくり息を調えます。背筋を伸ばし、腹式呼吸。手はひざの上におき、あごをひきます。目線を斜め下にして、心静かに5分から10分くらい坐ります。時間がきたら、左右に体を揺らしてほぐし終わりです。
ただ静かに坐ってみる。それだけですが、普段の生活では気がつかなかった、新しい何かが見えるかもしれません。
皆さん、毎日の生活の中に、ゆったりと坐る時間を加えてみませんか。もしかしたら、今まで知らなかった楽しみや、幸せな時間が待っているかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

半月板

福昌寺 住職 坂本宗陽師

昨年の秋に、小学校の運動会を見に行きました。確かこれで4回目になると思います。リレーを見るのが楽しみですが、他にも、本当は騎馬戦とか、棒倒しとか個人的には見たいなあと思いますが、今迄の経験からない事は知っていました。
ところが今回は綱引きもありませんでした。危ないし怪我し易いという理由でなくなったのでしょうか。なんだか淋しい気がしました。体がぶつかり合ったり、思い切り力を振りしぼったりした中で、痛かったことや友達と連帯感を感じたりしたことなどは、私にとっては大切な思い出だからそう感じるのかもしれません。
また、先日小学校の授業参観で、何気なく見ていたら、先生の位置が低いことに気がつきました。教壇がないのでした。先生が子供に上から教えることが良くないという見識によってこうなったのだとしたら、なんだか肌寒い気がします。年上、目上の人、先輩を敬うことは大切ではないのだろうか?と疑問に思いました。
話は替わりますが、檀家の総代さんが最近膝の手術を受けられました。膝の関節の半月板が磨り減ってくるのが原因で膝の痛みが徐々に大きくなって、人工の関節を膝に入れる大変な手術です。ですが、私が知っているだけでも、この手術を受けられたのは4人目です。幸い手術後は順調で、今はリハビリに頑張っておられます。
私は、私たちの心も喩えてみればこの膝の半月板と同じではないかと思います。年を重ねて老いてくると心が弱って磨り減ってきます。何気ない言葉や、叱られる言葉、強い言葉に、以前だったらじっと受けとめたり、「ふん、何を言うか」と笑い飛ばしたり、跳ね返す力があったのに、同じ言葉でも傷ついたり辛くなったりするのです。
お年寄りは頑固になる、とか言いますが、仏説父母恩重経というお経の中にも「父母、年高けて、気老い、力衰えぬれば、倚るところの者は唯だ子のみ、頼むところの者は唯だ婦のみ」とありますように決して強くはありません。
私たちは、やはり人の痛みがわかり、お年寄りを敬い、いたわることが出来る人間になれるよう心がけたいものです。

先人の声に耳を傾けましょう

立蔵寺 伊藤 智純

今回の法話の当番をいただきまして、30年ほど前のテレホン法話集というものが書棚にありましたので、さて諸先輩方はどんなお話をされたのかと興味をひかれて読み進めておりました。3・40年前どんな時代だったんでしょう。どんなことがあったのかよく覚えていませんが、そこには海外の戦争に怒り、未成年による殺人を嘆き、自分中心、利己的な事件を諌めるそんな文章が並んでいます。

 今、私がお話しようとしてもやはりテロが続く不安定な世界、未成年による重大犯罪、インターネットを通じてしばしば話題になる身勝手でわがままな人達、そんなことを話題にすることになりそうです。もっともわずか30年ではそんなに変わらないのも当然かもしれません。では800年前3000年前ではどうだったでしょう。当時の人々にとっても争いの絶えない世の中、自分大事で、他人を木津つけることを顧みない人々。そういったことに心を痛めた人達がいたに違いないと思うのです。古今東西を問わず、人はそうした社会の有り様を通じて、いかに生きるべきか、生とは何か、死とは何か、考え続けてきたのだと思います。
 少年時代の道元禅師やブッダとなられる前の青年シッダールタ王子、私たちと同様に悩み考えそしてその答えをお示しくださいました。先人の声に耳を傾けましょう。本を読みましょう。話を聞きましょう。生きるヒントがきっとあると思います。
 最後に最近、心に残った言葉を紹介いたします。長い間、私の人生はまだこれからだと思っていた。やりかけの仕事、返すべき借金、果たすべき義務。それらを片付けてからが本当の人生だ。ある日気づきました。そうじゃない。そんな邪魔者こそが私の人生そのものなんだ。そして私は知りました。幸せへの道などない。道こそが幸せなのだと。幸せは旅の過程であって、目的地ではないのです。アルフレッドスーザンという、神父さんの詩だそうです。

お彼岸によせて

広福寺 住職 紀藤昌行師

猛暑の続いた夏も終わり、やがて訪れるお彼岸が過ぎれば「暑さ寒さも彼岸まで」のことばのように過ごしやすくなることと思います。
お盆に長期休暇を過ごされた方も多いことでしょう。そして今月はまた5連休が待ち構えています。日本には、土日の他に年間15日の祝日が法律で定められています。既に去年の法改正で8月11日の「山の日」が制定されており来年からは16日になります。
国民の祝日に関する法律の第1条に、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築き上げるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の休日」と名づける。」とその意義が述べられています。さらに、第2条には、各祝日の日にちと意味が載せられています。
そこで、秋のお彼岸のお中日「秋分の日」はというと、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」と定義されています。今、生かさせていただいている私たち一人一人に対し、10代さかのぼれば、1,024人のご先祖さまが、さらに10代さかのぼれば、 1,048,576人のご先祖様がおられます。長い歴史の中で、多くのご先祖さまの願いと見守りをうけて、私たちはこの世に暮らさせていただけているのだと思います。
誰一人としてご先祖さま無くして今の私はありません。この祝日の意義を今一度思い起こし、折角の休日のどこか一日、それぞれの祖先を偲び、感謝の思いで墓前に手を合わせ、ご先祖様との語らいをしてみてはいかがでしょうか。

成功への道

福田寺 副住職 橋本崇典

成功する為には、自分がどのようになれば成功者と言えるのでしょう。長寿であることでしょうか。病気にならないことなのでしょうか。あるいは、いつまででも若くいられることでしょうか。それとも、自分の思うように何でも手に入れることでしょうか。これが成功と言えばそうなのかもしれません。しかし、これらの事をよく見ると、自分のことばかりで相手の存在がありません。長寿であるためには、その人の心がけもあったでしょうが、周りの人の支えもあったはずです。私たちは一人では生きていけませんから、成功を考える場合、相手のことを念頭に置いて考えることが大事ではないかと思います。はじめに自分のことを考えれば、自分を活かしきって生きているということが一つの成功のあり方と考えられます。そこに相手のことを考えあわせれば、自分を活かしきる生き方が自分の幸せに通じ、それがまた、相手の幸せにも通じていく、そんな生き方が成功の道を歩いて行くことではないかと思います。自分を活かすことが、相手の幸せに通じていく為には、まず正しい考え方を学んでいくことが必要です。考えには力があるとよく言われることですが、自分が今何を考えるかで、幸、不幸が分かれていきます。自分が不幸であると思ったとき、今の自分の考え方が誤っていると気付き、自らを顧みることが大事です。そして大概の人は、自分のことを考えやすいので、周りの人のことを先に考えたり、相手のことを理解することを優先する、そんな生き方の癖をつけていくことも大事です。  を無くし、感謝できる自分であれば、成功への道を歩んで行くことになるのです。