テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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全宇宙の命への祈り

美濃市 善応寺 住職 雲山 晃成 師

私たち曹洞宗のお坊さんが坐禅をするとき、釈迦如来坐像の姿を参考にして坐ります。多くの寺院の須弥壇上中央にいらっしゃるお釈迦様を見ていただくと想像がつくかと思います。足を組んで結跏趺坐をして下っ腹のところに両手を重ねて組んでいます。このとき両親指をくっ付ける様にします。この手の組み方を法界定印と言います。この形を作ることには意味があるのですが、この印は宇宙を形取ったものであると言われています。

宇宙の形なんて我々は見たこともないし、形なんて宇宙から飛び出さない限り見ることはできません。これは見るとか見えないとかという問題ではなく、宇宙の中心に自分はいるのだということです。

この宇宙を構成している自然現象、身近なものには山や川、空気、家や人いろんなもの同士がこの宇宙には存在していて、別々なものではありますが、お互いにこの宇宙を共有しながら存在しています。そしてこの存在はとても尊いものなのです。

釈迦如来が坐禅をしているとき、いつもこの尊い存在を想い、宇宙の一切を守りたいという本願の心がこの法界定印という形を作り、お釈迦様の苦行の姿となっているのです。

法界定印をしているお釈迦様は、私たち人間だけを救いたいと考えているだけではなく、宇宙を構成している一切のものが正常であることを祈り続けておられるのです。この釈尊の博愛の心、この心を私たちは法界定印の印相から教えられているのです。

自他は無窮なり

関市 下有知 龍泰寺 住職 宮本 洪純 老師

ここ数年来お寺の裏山に猿の群が十匹程住みつくようになり、作った野菜等を持っていってしまうので地元の農家が困っていた。そこで畑に電柵を作ることにした。しかし猿は屋根から柵を飛び越え入ってくる。観察していると数匹が群をなし、一匹は屋根の上で見張り役、子猿が作物をとり柵の隙間から外に出し、それを親猿が持ち去っていく。役割分担が猿の中でも決まっているようだ。電柵を付けてからは前よりも来なくなったが、それでも被害は多かった。それが今年に入ってからは一匹も来なくなった。近隣の農家に聞いてみると、一匹の子猿が柵に挟まれて死んでしまったようである。このことを機会に来なくなったということである。来なくなれば来なくなったで他の猿は今頃生きているだろうかと気になった。猿が懸命に生きている姿が思い浮かんだ。

最近は生きるということ、生命ということがおろそかにされているような気がする。少年の自殺や親が我が子を殺してしまうようなことが毎日のように報じられている。自分の生命の分身である子殺しは何とも悲しい気持ちになる。自分が生きているということは、人間同士、自然界更には周りの全ての生命に依って生かされているという観念からは程遠い感じがする。自分の生命と他の生命には区切りはない。自分の生命と他の生命とはつながっている。修証義にも「自他は時に随うて無窮なり」とある。裏山の猿の生き方を見ることで、学んだ経験である。

お彼岸を迎える

美濃市 安毛 永昌院 住職 高橋 定申 老師

暑かった夏もようやく峠を越えて 道端のあちらこちらに真っ赤なヒガンバナが咲き始める季節となりました。ヒガンバナは曼珠沙華とも言い法華経にも出てきますが サンスクリット語で天上に咲く赤い花、「一目見れば悪行を離れられる天の花」と言われて この花を見ると自然と悪行をしたくなくなるという教えがある、まさに仏様の花です。このような花の咲く彼岸は、泣いたり笑ったり苦しんだり愚痴ったりするこの世「此の岸」に対して  欲や妄想から離れて落ち着いた心でいつも感謝し平和な境地に至る世界「彼の岸」です。

毎月月経にお伺いする、あるお檀家の95歳のおばあ様は私がお伺いすると必ず「今日はありがとうございます。おじいさんもきっと喜んでみえます。」と手を合わせて「お嫁さんが良くしてくれて本当に幸せです。」といつも感謝の言葉でお話しされます。こんな心もちが彼岸の教えではないでしょうか。

お仏壇やお墓をきれいにし お花やお線香をたててご先祖様に感謝とお礼のお参りをすることで俗世間にいる私たちも迷いや悩みのない世界を感じることができるのです。しかし日ごろは忙しく雑事に追われ忘れがち。「今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな」菩提とは悟りを意味します。さあ、お彼岸 今日あることを感謝してご先祖様にお参りしましょう。

 

世界で一番貧しい大統領の警告

関市 西神野 常栄寺 住職 成田 英道 老師

先般、南米ウルグアイの元大統領であったホセ・ムヒカ氏が来日した。テレビ・新聞等で取り上げられ、その存在を知った。同氏は二〇一二年の国際会議でのスピーチが注目され、日本では絵本となって何万部の売れた由である。ムヒカ氏の言動をみると、現在こんな政治家が存在するのかと目を疑った。自己の目先の利益しか考えない政治の世界にあって、人類の根本問題に視点を置いて発言していることは、誠に稀有な存在と思われる。

ムヒカ氏は、若い頃、ゲリラ活動に参加し、軍事政権に捕らえられ、十三年間、過酷な牢獄に入れられ、その体験から人生観・政治観が形成された模様である。ムヒカ氏のスピーチは、この体験から発せられた全世界の人類に対する警告である。

ムヒカ氏の言に依れば、現代は消費の時代であり、この消費によって生産も経済もコントロールされ、ひいては人間の自由も、自主性も、幸福もコントロールされていると見るのである。この消費経済の元は、残酷な競争に基づく市場経済であり、市場経済の元は、個人のエゴイズムに基づく資本主義であると見るのである。この点は、仏教においても、迷いの根元はエゴと見るのであり、視点を同じくする。

ムヒカ氏は、消費経済がこのまま進めば貧富の差が拡大するとし、ドイツと同水準の生活をインドの全国民がするならば地球の資源は忽ち枯渇するであろうと云う。この貧富の差の拡大を止めるのが政治の役目であると云う。

ムヒカ氏はアナーキスト(無政府主義者)であり、国家をなくすことは出来ないが信用出来ぬと云い、国家はなくてもよいと断言する。人類の歴史上、国家が存在するのは十パーセントに過ぎないと云う。ムヒカ氏は、国家権力の横暴悪行を身を以て知っているからであろう。人類の戦争の歴史を見れば、如何に国家が戦争を起こし、莫大な人間を殺しているか明白である。日本では昔、鎮護国家と云われ、仏教がその役割を果たすべきと言われたが、仏の世界は国家を超えたもので、国家の範疇に入るものではない。その点、ムヒカ氏無政府主義と視点を同じくするのもである。

ムヒカ氏は又、政治・宗教における狂信性を伴わない。戦前n日本は狂的な国家主義者によって太平洋戦争に突入し、滅亡に導いた。道元禅師は、迷信・邪信・狂信ではなく、正信を得よと云う。エーリッヒ・フロムは正気の社会を云う。

ムヒカ氏は、公私共に自分の政治信念を実践し実行した。宗教もその在り場所は実践にある。

現代の世界は、昔と一寸も変わらず国家エゴに基づいて自国の利益のみを追求しているが、このまま行けば遠からず人類は滅亡に到るのみで、競争している暇はなく、協力して滅亡を防ぐ、道を探さなければならないとするのがムヒカ氏の警告である。

遠い目標を持ち、今、ここを頑張る

 

美濃市 安毛 永昌院 副住職 高橋 定佑 師

この夏、高校野球やオリンピックを夢中になって観た、という方は多いのではないでしょうか。私もその一人で、テレビにかじりつき、毎日毎日観戦をし、多くの選手の姿に元気づけられました。

なぜ、高校野球やオリンピックはこれほどまでに、私たちを惹きつけるのか。

それは、この一瞬のために必死になって力を尽くしてきた、彼らの努力を容易に想像することができるから。私たちは、オリンピックや甲子園といった「遠い目標を持ち、今、ここを頑張る」その生き方が、決して簡単ではないことを知っているし、それにどこか憧れを感じているからではないでしょうか。

以前、私が学校に勤めていた時、最も尊敬する先生の一人がこんなことを仰っていました。

「1位を目指して練習しても、1位になれるのはただ1クラス。目標を達成するのは困難なことだと分かります。でもその困難に向かって汗を流す人でありたい。本当のねらいはそこにあります。」

その先生が担任した学級は、体育大会や合唱祭で1位を取ることは一度もありませんでしたが、生徒たちの顔はいつも輝き、生き生きとしていました。思えば、彼らはもっと先を見ていたのかもしれません。

私たちは、目標の達成に向け頑張っていても、苦しいことがあると、辞めたいと思ったり、逃げ出したいと感じたりするものです。また残念なことに、望んでいた結果が得られないことが多くあります。しかし、私たちが生きていくうえで、本当に大切にすべきことは、1位になることなどの結果ばかりではありません。遠い目標に、困難に向かって汗を流す、その過程そのものが大切なのだと思います。

遠い目標は、漠然とした抽象的なイメージかもしれないし、鮮明で具体的な課題かもしれません。決して簡単ではないけれど、遠い目標に向かって、ただひたすら「今、ここを頑張る」。

この夏、懸命に輝いた選手たちから学べる生き方が、ここにある。そんな風に思います。

授かりし子供の行く末を考える

関市 富之保 満願寺 住職 酒井 能道 老師

「子どもは何年後につくるつもりだ」とか「三人ぐらいはつくりたい」などと、まるで引き出しから物を出してくるような言葉をよく耳にします。しかし、昔の人が言うように子どもは「授かる」ものだということです。

私達が今生きているのは、見たこともない何百万年も昔の祖先の生命が一度も途切れることなく続いて自分たちに至っているのであり、祖先の誰一人でも欠けていたら私達は存在しないのです。当然のことながら、出産、育児については「お前たちに子どもを授けるから、しっかり育てろ」と祖先が命じているのです。ここではっきりしておきたいのは「しっかり育てろ」と命令しているのは祖先なのであって、決して生まれてきた子どもではないという点です。私達の子孫である子どもが、祖先である親に命令することはあり得ません。ところが子どもはとても可愛いので、あたかも天使であり、その命令に従わなければならないかのような錯覚を持ってしまうことがあるのです。しかし子どもは天使でもなければ祖先の使者でもありません。放っておいたら楽な方へしか行かない可愛い小あくまなのです。うっかり振り回されると、その時から命令は祖先からではなく、この小あくまから発せられるようになってしまい「オレを育てろ」と子どもに迫られる事態になるのです。子どもからの命令が日常的になると、そのには順位というものがなくなって、無秩序な家族が出来あがっていきます。親はとめどなく子どもの要求をのみ、子どもに常に丁寧語を使うまるで同居人のような親へと退化していくのです。これは、子どもの人権を尊重しているのとは違うし、自由や独立を保障しているのではありません。だから子どもが思春期を迎え、自己主張が強くなってくると、子どもの要求をのむにも限界が出てきます。こうなると自分の体裁を押しつけ、説教しか出来ない親に変貌するしかないのです。

「いただきます」ということ

関市 天徳寺 住職 水野 弘基 師

こんにちは、今日は食事の時の挨拶、「頂きます。」についてお話ししたいと思います。

先日、ある食堂で食事をしていると、ダメージジーンズと言うのでしょうか穴の開いたジーパンに耳に3個鼻に1個ピアスをした二十代と思われる青年が隣に座りました。これはまたチャラい奴が来たなぁと思って見るとは無しに気にしていたら、いざ食事が運ばれてくると、しっかり手を合わせて「頂きます。」小さい声ではありますがしっかり言っていました。耳を疑ったというか、外見だけで人を見下していた自分が恥ずかしくなりました。

十年ほど前でしょうか、ある小学校で御父兄から、うちは給食をめぐんでもらっている訳じゃない。正当な対価として給食費を払っているのだから、子どもに頂きますと言わせるのはおかしい。とクレームが出たというニュースがありました。皆さんはどうお感じになりましたでしょうか?この人はタダで物を貰った時にだけ使う言葉だと思っていたのでしょう。

頂きますの元々の語源は神様に御供えした供物を下げて食べる時、位の高い人からご褒美や御すそ分けを貰う時、額に押し頂いて食べたり貰ったりした所から「食べる」「貰う」の謙譲語として「頂く」という言葉が生まれ次第に食事の前の挨拶として定着していったようです。

食事の時の頂きますには、2つの意味があると思います。

一つは、食材である野菜や食用肉、あるいは魚介を生産してくれた方、またその食材を美味しく調理してくれた料理人に対しての感謝の言葉。

一つは、私の肉となり血となり生きていくために野菜や動物・魚の命を頂きますという感謝の言葉。

子どもに、ちゃんと頂きます。と言いなさい。と躾けてきた我々大人たち。学校の給食や家ではさておき、町で食堂・レストランで「頂きます」をしている大人が何人いるでしょうか?私も何十年も生きてきましたが、街中で頂きますをしている大人はほんの数人しか見た事がありません。

子どもにはやらせるけど大人はやらなくていいのでしょうか?恥ずかしいからやらないのでしょうか?はたまた先の父兄の様にお金を払っているからする必要が無いと思っているのでしょうか?

先日出会ったあの青年、格好いいと思います。我々も格好いい大人でありたいものです。

 

「地域で見守る」

関市 小屋名 円通寺 住職 岡田 英賢 老師

ある朝のことです。通学路で子供達とすれ違うと「おはようございます」と大きな声で挨拶をしてくれました。子供達が元気に挨拶をしてくれることに嬉しい気持ちになりました。地域の交通安全委員の方が「◯◯くん、いってらっしゃい」と声をかけてみえました。子供達は、地域の方々に見守られて、共に活動することで、地域の人や、物、行事に興味を持って地域の一員となって成長していきます。

曹洞宗を開かれました道元禅師様は「利行は一法なり普く自他を利するなり」とお示しになりました。利行とは相手に見返りを求めない行いのことでございます。互いに相手のことを思いやる行い、そこには優しい心が育まれます。人に優しくする人は、自分が困った時に必ずたくさんの人が助けてくれます。相手のことを思いやる心は、つまりは自分自身を幸せにしてくれることにもつながります。

子供達が家庭や学校という枠を超えて、さまざまな人たちと交流をし、関わることで、地域の一員としての誇り、地域への愛情が生まれてきます。そして互いに助け合い、認め合うことを学ぶことで、自らを幸せな豊かな人生へと導いていくことにもつながります。この地域への愛情こそ、より良い社会を作る第一歩となるのではないでしょうか。

子供達の素晴らしい未来のために、地域や社会で子供達を見守る。そして、私たち大人がこの「利行」行いを率先して実践できる日々にしていきたいものでございます。

徳あるは讃むべし徳なきは憐むべし

関市 倉知 大龍寺 住職 竹山 玄道 老師

人間が生活していく上で、もっとも大切なことは自分以外の人とのコミュニケーションではないでしょうか。今テレビや新聞などを騒がせている痛ましい事件の多くはコミュニケーション不足が原因になっています。私たちは生まれてからこれまでに大変多くの人々のお世話になって、今日の生活が成り立っています。その中で幸せに日常生活を送っていくには人とのコミュニケーションは不可欠といえるでしょう。

修証義の経本の第四章に「徳あるは讃むべし徳なきは憐むべし」という一文が記されております。家庭においても、学校においても社会においても、人として、素晴らしいことを行った人は、その功績を誉めましょう。当たり前のことですね。ですが、徳のない人に対してはどうでしょう、例えば、嫌なことを言われたり、腹の立つことをいう人に対しては、当然怒りや、憎しみを抱き、時には立ち直れないほど、傷つきます。でも、そうではなく、憐みの心で接しなさいと、道元禅師様は、説かれております。怒りや憎しみ、悲しみのマイナスの想いは、そこに、その人がいない時にもあたかも、今目の前にいるかのように反復して自分を蝕みます。ですが、当の相手は全く関係ない時間を過ごしているのです。そんな、過去の怒りに無駄な時間を費やすのではなく、ああこの人はこんな言い方しかできない憐れな人なのだと思い。徳を無くしているのだと、憐みの心を持てば、おのずと生活の中に、マイナスの感情が消えていくでしょう。

私たちの周りには日々色んなことが起きます。それを、どうとらえるのかは自分しだいです。

簡単なことではありますが実はとても難しいことだと思います。当たり前の生活の中にこそ仏の教えはあるのです。

修行って何?

加茂郡 白川町 洞雲寺 住職 尾関幸憲 老師

「私たちの毎日は、絶えず修行である。」といろいろな方々が、申されておられます。

では、なぜそのようなことを言われるのでしょうか?。

修行をしていろいろなことがわかってくるならば、それ以上修行する必要が無い様に思われます。「私はこれまで十分修行をしてきたから、もうこれでいいだろう。もう修行をする必要なんか無い。」と思いがちです。

「修行で学んだ事は絶対だ。間違っていない。」と、勘違いしてしまうのです。しかし、その事が大きな迷いを生む原因となるのです。その時は、正しい答えでもそれに執着してしまうと、その一つの事が自分自身を縛ってしまうのです。

私達の知らないことは山ほどあります。

道元禅師様は「本来、人は皆仏であるとするならば、なぜ人は修行をしなければならないのか?。私たちが皆仏であるならば、修行をする必要は無いのではないか?。」その事で大きく迷われたのです。

一つのことが分かったならば、それはとても良いことです。しかし、それにとらわれてしまうとそれは大きな迷いを生む原因となるのです。迷いは分かったことから始まります。だからこそ修行が大切なのです。「人は本来、誰もが仏となる要素を持っています。」

ただし、その意味はお釈迦様がおときになった教えを、この生活の中で役立てていくこと。それを実践していくこと。自分の考えを捨て、お釈迦様の教えに従うことなのです。

すなわち、お釈迦様の教えられた行動を学び自らがそれを実践していくこと事こそが、仏様なのです。それが、修行なのです。「わかったと言う迷い」に囚われないよう大切な人生、お釈迦様のみ教えに従って、自らを省みて暮らしていきたいものでございます。