テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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当たり前のことに感謝して

揖斐郡大野町 智量院 住職 杉原 重明 老師

勤めを辞めてから、十数年が経ちました。何か、自分を育ててくれた地域のために、少しでもお役にたちたいと考えていましたが、その間、全く予期しない仕事が次から次へと出てきました。自治会の仕事から、退職した会の仕事、社会福祉の活動、文化財の保護活動と、必要で多義にわたって舞い込んできました。月の半分以上はそれらの仕事に出かけます。そして、保育園から老人クラブの人たちまで多くの人との出会いがあり、出会いを通して教えられたり、学ぶことが多く、疲れも出てきますが、明日への活力となって頑張ることができています。四十年余の勤めは、組織の中で生き、組織の中で生かされ、喜びも苦しみも多く、自分なりに頑張ってきました。六十歳過ぎたのちは、その人の本当の人柄と人間性になって現れてきます。世の中には、このことに気がつかないでいる方も多くいます。私は、せめて与えられた人生を、親や先祖に感謝して、当たり前のことが当たり前になってできるよう日々過ごしたいと考えております。人が尊いのは、誠実であるからです。誡実は一切の徳の根本です。その誠実を守り通す勇気と信念が必要です。まだまだ、学ぶことが多い中、思いやりのある言菓で、人のために何かをしたい、当たり前のことが当たり前にできるよう、見返りを求めず、常に感謝を忘れず、自らの心を耕し、少しでも役に立ちたいと考えております。

 

お盆の思い出

岐阜市 大覚寺 住職 山守隆弘

早いもので本年も7月を迎えました。まもなくお盆の時期でございます。

お盆には亡くなられたご先祖さまが我が家に戻られ、生きている方も故郷へと帰省します。自宅には、生きている方と亡くなった方が共に暮らし、過去、現在、未来の命が集う場となります。

毎年お盆の準備をしていると、小さい頃の思い出が蘇ります。

お盆の入りの13日の夕刻、祖父が私に言います。「これからご先祖さまのお迎えをしよう」そういって境内へでて、お墓や、庭先の前でおがらを焚きます。これが毎年祖父ともに行っていた習慣でした。「こうして火を焚いて、ご先祖さまたちが迷わずに帰ってくるように目印にするんだよ」と祖父が教えてくれました。

そして、16日の明け方、祖父とお寺の前に流れる川へ行きお経をあげ、お供え物や、キュウリやナスで作った馬と牛を船に乗せ、川へそっと流します。

幼かった私は、その時は何をやっているのか、わかっているようでわかっていませんでした。しかし、あの時一緒に行っていた習慣を今僧侶となって、祖父が大切なことを教えてくださったのだと改めて気づきました。

皆さまも伝統的行事であるお盆をお子さまやお孫さんとともに一緒に勤めてまいりましょう。今は理解できないかもしれませんが、大人になったとき幼いころに行った思い出によって伝わるはずです。ご先祖さまとともに過ごすお盆。皆さまでご先祖さまをお迎えし、尊い時間をすごしましょう。

偏らない心

瑞巖寺 住職 巖晃司

私が受験生だったころに、必死に覚えた英文法があります。

not only A but also B」日本語に訳すならAだけでなくBも)となります。

月日は流れ住職になった今、この英文法を思い出すと、語学という枠を超え、「偏らない心」という大切な仏様の生き方を示しているように感じるのです。

さて、7月に入ったということは、平成29年度もあっという間に4分の1が過ぎてしまったという事になります。この数か月は、私自身寺、お寺や所属する各種団体の会議が多くございました。どんな時も全ての意見に耳を傾けられる自分であり続けたいと心がけています。例えばAという提案に対しB案が出てきたとき、協議の末にAB案を創り上げます。初めは独りよがりの思い付きの企画であったとしても、多くの方の意見を取り入れ協議を重ねることで磨き上げられていきます。単にAやBという限定的な世界ではなく、幅広い視野で物事を捉えることができます。そうして練り上げられた企画は、決して独りではたどり着けなかった夢と希望のあるものへと生まれ変わっていきます。そして何より、共に協議を重ねることにより想いを共有する仲間が増えていくのです。

どこにも偏らない心で物事を見る事の大切さを改めて感じた数か月でした。

さて、この「偏らない心」について、お釈迦さまは、

『前を捨てよ、後ろを捨てよ、中間を捨てよ』(法句経)とお示しになられています。

単に、AやBの妥協点を探すのではなく、AやBやCといった様々な案をそれぞれ深く理解したうえで、自らの道を、自らの選択で進んでいくことが大切なのではないでしょうか?

さぁ、平成29年度もまだ4分の3残っています。偏らない心で、進むべき道を進んでまいりましょう。

合掌

縁によって生かされる

各務原市 宝禅寺 住職 宮崎 證俊

皆様は験を担いだりしますか。

私は車に乗るとき事故の無いようにと、ハンドルをコンコンと2回叩くのを験担ぎとしています。

 つい最近、交差点で一時停止を無視した車に衝突しそうになりました。

幸いにもブレーキが間に合い事なきを得ました。これも験担ぎの効果なのかもしれません。

 さて、この験担ぎのゲンという言葉には「仏教の修行を積んだ効果」や「効き目」という意味の他に「縁起」の逆さ言葉だという説もあります。エンギがギエン、そしてゲンとなったわけです。

この縁起という言葉は、仏教の基本的な考え方を示しています。この世界のありとあらゆるものは、すべて関わりを持って存在しているというのです。

私たちに例えますと、自分の命は自分だけのものではないということです。

太古の昔、地球の海に一つの細胞が誕生し、その時から一度も命の糸が途切れることがなかったから、今ここに私たちがいるのです。

そう考えると私が事故に遭わなかったのも多くの縁に守られているからだと思いました。

家族や友人、ご先祖様、そして仏さまのおしえ。多くの繋がりによって今私は生かされているのです。

今この時を大切にし、多くの縁に感謝し生きていくことで、また新たな縁が生まれるのではないでしょうか。

毎日お参りに来られるお年寄り

各務原市 宝林寺 住職 石屋 義弘

寺庭のなかで作務をして居りますと、ほぼ毎日お参りにこられるお年寄りがおいでになられます。ゆっくりゆっくりと参道を歩き本堂の戸を開け正面の経机の前に座り、りんを二つ鳴らし、手を合わせて祈り、さいせんを入れて行かれます。その静かな姿は寺の観世音菩薩に全てをまかせてお参りをされて居るようです。それを終えると寺の境内地に有る、秋葉神社と稲荷神社にゆっくりとお参りになり境内地を一廻りされるようにしてお帰りになります。

そうその一時あのお年寄りには、さとりきった状態になっておいでになっていたのではないでしょうか。仏前に座り座禅をするのではなく、経の一巻も読まれる訳ではないのですが、その静かな顔は全く安心のゆったりした姿でした。お釈迦様が示された細いさとりの道と道とをはずれないように、世俗にたらしおかれたくもの糸の登り方をおしえと下さった道元禅師様の深い心を思い欲望をコントロールできる人間になれ、そうすると自由になれるということです。そして有能ですなお、端正であれ、恵い言葉を語って、いつも優しく、心に笑みををもち決していばらのない、そんな人間になれと慈しみ教え下さっているのです。

誠につたないお話を聞いていただきありがとうございました。

自灯明・法灯明

各務原市 桃春院 住職 清水 宗元

お釈迦様は亡くなる前、「これから何を頼りに生きていけばいいのでしょう」と嘆き悲しむ弟子に、

「自らを灯明とし自らを頼りとして,他を頼りとせず,法を灯明とし,法を頼りとして,他のものをよりどころにせずあれ」と語られたといいます。

「自灯明,法灯明」の教えとして有名な言葉です。「灯明」とは,あかり,ともしびのことです。

とかく私達は、人のことに左右されがちです。特に近年は,高度情報化社会になり,情報が 溢れかえる中で,「TVでいってたから。人気番組でいってたから」,などとまちがった情報を鵜飲みにしてしまい、結果「だまされた」気持ちになってしまったなどというもよく聞く話です。

また先行きの不安な情勢で、「勝ち馬に乗る」,大きい方、強い方についた方が安心という心のもと,権威・権力のある人の言葉に安易に追随する,そういう風潮もあるような気がします。

 そしてまた、こちらも思うような利益を得ることができず、「だまされた」という気持ちになってしまったというのもよく聞く話です。

 結局は人の言葉を鵜飲みにして頼るのではなく、自分で考え自分で何が正しいかと見定めること、そしてそれができる自分を確立していくことが大切なのです。

 それとお釈迦様は、「自灯明」と同時に「法灯明」とも教えられています。

 「法」とは,仏教の教え,すなわち物事の真理,本質の事です。

 仏教を学ぶこと,物事の真理,本質を学び知ることが、あやまった情報や間違った言葉におどらされず、自分の考えで正しく物事を見定められる,そういう自分を確立していく,そういう事を教えられています。

 情報が 溢れかえる現代社会,そして権威や権力のある人の言葉に安易に追随する風潮がある現代社会だからこそ

「自灯明・法灯明」

 お釈迦様の最後の言葉をかみしめたいものだと思います。

「少欲」の教え

高山市 正雲寺 住職 近藤元隆

このところ巷では、「エコ エコ」とよく耳にいたします。エコバッグ、エコ減税、エコポイント、これだけ毎日毎日耳にしていると、一体エコとは何ぞや?という疑問が湧いてきたりします。「環境を表すエコロジーと経済を表すエコノミー」を合わせた言葉なのだそうですが、まず頭に浮かぶのは、あふれるほどの物を造りながら、一方で節約ブームと謳っている矛盾点に疑問が湧いてきます。自分の周りをよく見渡してみて下さい。案外必要の無いものに囲まれて生活していることに気が付いたりもします。

確かに地球の環境を守り、無駄を無くすのは素晴らしい考え方です。個人で出来ることは限られていますが、一人一人が意識を持つことで、世の中はゆっくりと変化を遂げていきます。

仏教の教えに「少欲」という言葉があります。お釈迦様は「欲望というものは、満たせば必ず次の欲望を生む」これが人間の迷いの根幹であると指摘されました。しかし一方では欲望を満たすのがいけないとは申されてはいません。欲望というものは、絶えず危険性を伴うものであることを知り、その制御を学びなさいということを教えられています。

何かにつけて闇雲にエコを唱える前に、まず日常からこの欲をコントロールすることが大事だという「少欲」の教えを意識して生活することこそ、本当のエコに繋がるのではないでしょうか。今一度、考えてはいかがでしょう。

仏に祈る

高山市 大隆寺住職   中井 滕岳

私達宗門は、必ずご祈祷の法要から始まります。最高最尊の釈尊とその教えの法、そして

この大宇宙にうごめくエネルギーを仏教では、報身仏と云って仏様と仰ぎ見て供養致します。

その功徳力を願って、どうか「国土安穏、万邦和楽」と祈念するので有ります。即ち、毎年

地震や風水害などの自然災害で多くの被災者が大変な目に遭っています、そして、きょう

明日に起きるかも知れない最大級の東南海地震が予測されていながら、科学や人の力では

どうすることも出来ない、ただひたすらに穏やかで有って欲しいと、全てがかなわぬとも、

心を込めて祈らずにはおれないのでありませんか。

ところで、自然界や人間社会は常に著しく変化をしています、その中で現代知識人の多くは

神や仏はいないといいながら、自らの命に関わる様なハットした時、思わず手を合わせた事が

有りませんか,或いは身近な方が病気になられた時、心の中で祈る事が有りましょう。その時

何に向かって祈っているのでしょうか、測り知れない大宇宙のうごめくエネルギーを感知して

その精神的心の中にあるものを仏と信じて祈るのです。科学では割り切れない不思議な現象

それが宗教の世界なのです。ぜひ、貴方も本尊様を通して真剣に念じ祈ってみては如何か。

思い悩む様な問題が生じた時など、必ず自ずと応えが返ってきて、大安心が得られるので

あります。

「良い香りのする生活」

高山市 雲龍寺 副住職 亀山 和浩

薫習という教えがあります。薫に習うと書いて薫習です。良い香りであれ嫌な香りであれ、しばらくそこに居ると香りというものは体や衣服に染み移ります。そのように香りがいろいろなものに染みて移っていくのと同じように、人の心や行いというのもまた染み移っていくものであるという教えです。確かにこの人はいつも穏やかだから近くにいると自分もなんだか穏やかな気持ちになる、この人はいつもニコニコしているから自分もなんだかニコニコしている気がするなんてことはありませんか?逆にこの人は、いつもイライラしているから自分までイライラしてしまうなんてこともあります。私は週に1.2度、先輩や同級生とチームを作ってバレーボールをしています。そのメンバーの中にとても一生懸命で、プレーも上手なコーチのような先輩がいらっしゃいます。その先輩は、練習中からとにかくよく声を出して、私が良くないプレーをすれば「もっと集中しないとダメだ」、とか「最後まで諦めるな、足を出せ」と叱咤してくれます。そうすると、そう言われないようにもっと頑張ろうと思います。また逆に良いプレーをすれば、「ナイススパイクだ」とか「失敗したけど良いプレーだったぞ」と褒めてくださいます。そうするとより一層頑張ろうという気持ちになります。私だけでなく、誰に対してもそういう風なので、自然と皆もたくさん声が出るようになり、チームの雰囲気が良くなって一体感が生まれ、足も出るようになり良いプレーも沢山出るようになります。その先輩の一生懸命な姿、香りが、チームのメンバーに染み移っていく、まさにこれが薫習なのかなと思いながらプレーをしています。皆様の周りにもそのような方はいらっしゃいませんでしょうか?そういった良い香りを感じながら、また自分自身も良い香りを周りの人たちに移してあげられる生き方、生活をしたいものです。