テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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支え合う

関市 円通寺 住職 岡田 英賢 師

穏やかな春を迎え、緊張した表情の新1年生や、新入社員を見かけます。皆、それぞれの夢や希望に向かって、様々な経験を積み重ねていくことでしょう。心を震わせるようね感動や喜び、またそれとは逆にどんなに頑張ってもダメなことや出来ないこともあるのかもしれません。誰にも相談出来ずに涙を流す日もあるかもしれません。

でも、これだけは覚えておいて下さい。「人は人に支えられて今を生きている」ということを。人に傷つけられて悩むこともあります。でも、それを癒やしてくれるのも、これまた人の優しさです。誰かの言葉を力をもらったり、かけがえのない瞬間を分かち合ったり、生き方も考え方も違う誰かとの出会いが、あなたの未来を作っていきます。

私たちは多くの人とつながって関わりをもって生きています。

迷惑を恐れて、人に頼むことを避けていませんか?時には人に頼って、そして誰かが悲しんでいるときには、近くにいてあげてください。人にやさしくする人は自分が困ったときに必ずたくさんの人が助けてくれます。支えあうということは、つまりは自分自信を幸せにしてくれることではないでしょうか。

そしてもう一つ、毎日を笑顔で・・・。人は幸せだから笑顔になれるのではありません。笑顔だから幸せになれるのです。

あなたには、無限の可能性があります。

すばらしい出会いを・・・。

そして、毎日を笑顔で、相手を思いやるそんな日々でありますように・・・

初心忘るべからず

曹洞宗岐阜県宗務所 副所長 等 真一 師

「初心忘るべからず」このことわざを御存じない方はおられないかと思います。「始めた時は新鮮で謙虚な気持ちと、志を忘れてはいけない」という意味で理解して使われていることかと思います。

このことわざは室町時代に能を大成させた「世阿弥」の書からの言葉であります。「初心忘るべからず」には続きがあり、「時々の初心を忘るべからず」「老後の初心忘るべからず」と続きます。

世阿弥の言う「初心」は「最初の志」だけでなく人生の中にいくつもの初心があり、その時々の初心を忘れることなく「芸」に精進するように説いておられるのであります。

「芸」の道に限らず、私達の人生に当てはめてみても、それぞれの年代であったり成長の過程で「初心」を忘れることなく精進することが大切なのではないでしょうか。

新年度を迎え、新たな環境で生活を始められる新入生や新社会人の方は、志も新たに日々過ごされることかと思いますが、少し慣れてきたころに基本や基礎的なことがおろそかになることがありがちになることもあります。そんな時は「初心」にかえって新鮮で謙虚な気持ちを思い出してほしいものです。又様々な経験を経て30代、40代、50代と年齢を重ね年相応の立場や役割につき、人生において最も重要な年代んもこの頃。又、様々な問題や壁にぶつかることの多い頃かとも思います。そのような時に「時々の初心を忘るべからず」この言葉は如何に気持ちの切り替え(リフレッシュ)が出来るかを説いているのではないかと思います。心もからだも上手に切り替える(リフレッシュ)ことによって新しい考えや答えが見つかるのではないでしょうか。超高齢化社会の現代においては老後の過ごし方が重要視されております。世阿弥の時代と違って「老後の初心忘るべからず」この教えの大切さを特に実感させられるような気がします。これまでの人生経験を踏まえたうえで、また新たに事を始める(リスタート)ことによって、老後の人生を如何に楽しむか、これこそが現代の解釈としての「老後の初心忘るべからず」かと思います。

それぞれ違った日々の暮らしの中で、その時々の「初心」に帰り新鮮な気持ちを思い出してみることによって更に充実した人生を送れるのではないでしょうか。

真夜中の食事

中津川市 蔵田寺 住職 鬼頭 大輝 師

今からおよそ数百年昔、陰之和尚と言う優れたお坊さんがおられました。そこには多くの修行僧が集まり、その中に元轟と言う修行僧がおりました。

彼はある時、台所の係りを希望して熱心に修行に励み、その為お師匠様から深く信頼されていました。ところが仲間の修行僧達からの評判はあまり良くありません。

「元轟の奴、また夜中に一人だけ起きてこっそり何か食べているぞ。」

事実、毎晩の様に続くので彼らは陰之和尚に元轟の話を告げて言いました。ところが元轟を信頼している陰之和尚は「何かの間違いだろう」と、信用しません。ですが、あまりに皆がしつこく言うので陰之和尚も渋々調べてみることにしました。

次の晩、真夜中になるのを待って陰之和尚がそっと台所のそばを通ると中からプーンと良い匂い。まさかと思い戸を少し開けて中を覗いてみると、確かに元轟が何かを煮ているではありませんか。

「おい!元轟!」

ガラッと戸を開けて中に入ると慌てて元轟は鍋を隠そうとします。

「こんな夜中に何を煮ている!

「はっ、はい。私の食べ物であります。」

陰之和尚は奪い取る様にその鍋を取り上げ、中の物を食べたところ、とても食べられる様な物ではありません。それは、ナスのヘタ、人参の葉、豆の皮等です。陰之和尚が訳を聞くと、彼は「最近は修行僧の人数が増え食糧が足らなくなり何とか皆に食事が行き渡る様に私一人分のわずかな量ですが、他の人に食べてもらおうと、昼間は食事を取らず、こうして夜中に食べていたのでございます。」それを聞いた陰之和尚は一時でも元轟を疑ってしまった事を悔やみました。

次の日の朝、陰之和尚は修行僧達を集め、「台所に生きた仏様がおられる。」と言い、一同を引き連れ台所に行くと、元轟に向かって手を合わせ丁寧に額を床につけて礼拝を繰り返すのでした。陰之和尚は昨夜の出来事を詳しく語って聞かせました。

「私は弟子の元轟を拝むのではない。彼の陰徳と菩薩行を拝むのだ。私は元轟の心の中の仏様を拝むのだ。」そう言うとまた、礼拝を繰り返しました。

元轟の両目からは、どっと感激の涙が溢れます。

「お師匠様、どうかお止め下さい。お止め下さい。」そう言うと、元轟もまた、涙にむせびながら何度も何度も礼拝を返しました。

あなたは、身近な人、大切な人の心の中の仏様を見過ごしては居ませんか?

日々を大切に生きる生き方を

中津川市 源長寺 横田 英和 師

3月になりました。春に近づき少しずつ暖かくなっていく気温の変化の大きい季節になります。また、この時期から卒業、入学、入社など生活環境も様々な変化が起きる時期かとも思います。

この様に環境の変化が大きいときは新しく良いことも悪いことも起きる物です。例えばよい人との出会いが有ったり、自分のやりがいとなるものがみつかったり、新しい活動の場が自分になかなか馴染まなかったり、気候の変化で体調を崩したりなどと色々な事があると思います。

ですが自分にとって良いと思える日も悪いと思える日も一日一日私たちを作り上げていく大切な日なのです。このことを教えてくれる言葉に「日々是好日」という言葉があります。

この「日々是好日」という言葉は中国のある僧侶が弟子に「今後15日がどの様な日になるか答えよ」と問いかけ、弟子から納得のいく答えがなかったので問いかけた僧侶が「日々是好日」とおっしゃったと言われています。

これを聞いてふと疑問に思わないでしょうか。なぜ過去の日ではなく、未来の日が好日と言えるのかと。

この僧侶が言われるには晴れの日も雨の日も色々な日があり、良いことも悪いことも次につながる大切な出来事や経験なのです。ですから自分の物差しで物事の良し悪しを判断して一喜一憂したりせずに今この時をあるがままに大事に生きることこそ好日であると。

私の話になりますが以前、体調を崩していたことがありました。なかなか自分の思い通りに動けず、そのことから悩み、苦しんでいた時期がありました。ですがこの時にも友人がいつもと変わらない形で私に声をかけ、接してくれました。それ以前も友人の大切さは分かっていましたが、このことで更に友人の有難さや人にやさしく接することの大切さを感じました。その時は気付けませんでしたが今思うとこの苦しんだ日も大切なことを教えてくれたかけがえのない瞬間であったと思います。

皆様も良い日悪い日ではなく、代わりの無いこの一瞬一瞬が良いときになるように心がけ生活してみてください。今この時を生きている事を大切に思い、少しでも心穏やかに日々を過ごしていただければ幸いです。

鬼は外 福は内

中津川市 大林寺 住職 村瀬 泰信 師

「鬼は外 福は内」先日私のお寺でも節分の豆まきを致しました。炒った大豆を一升枡に入れて、御本尊様の前で家族そろってお経をあげます。お勤めが終わりますと、まずは大戸を開けて「鬼は外」と第一声、すると家族が「ごもっとも」と唱和いたします。次に「福は内」またまた家族が「ごもっとも」と唱和します。これを繰り返しお寺の中を順番にまわります。少し変わった豆まきですが、師匠の代から続いておりますので「ごもっとも」がないと豆まきをした気になれません。

さて、鬼というと怖い物の代名詞ですね、地獄に鬼がいて悪い人は鬼にいじめられる、閻魔様はいつも見ていて「うそ」をついてもすぐ解るんだよ、と子供の頃に教えられました。私などは、いまだに「うそ」をつくときは、閻魔様に舌を抜かれないよう、口元を手で押さえてしまいます。

ところで、鬼は何処に居るのでしょうか?近年、恐ろしい事件が増えたような気がしかす。9人の男女を殺してしまう人、妹を恨んで刀を振るって殺してしまう人、テロと称して罪の無い人々を巻き添えにして殺す人、どの事件も主人公は人です。人が人を殺し傷つける。本当の鬼は人の中に住んでいるのです。お釈迦様は、むさぼる心「貪」怒りの心「瞋」愚かな心「痴」この三つの貪・瞋・痴こそが、人の心に住む鬼であると説いてみえます。どなたの中にも小さな鬼は居るような気がします、ご自分の中にいる鬼に言ってください。「鬼は外」と精一杯、追い払ってください。自然に穏やかな心「福は内」が戻ってきます。「ごもっとも・ごもっとも」

AI(人工知能)と科学技術の発展に人間としてどう向き合うのか?

恵那市 玉泉寺 住職 龍田 無名 師

皆様、今日は。私は恵那市にあります玉泉寺住職の龍田無名と申します。今年も瞬く間に時が過ぎ去ろうとしております。常日頃、一日一日を過ごしておりますと、時間が経つのが長く感じますが、一年が過ぎ去るのは早いと感じられる方が多いのではないかと思います。不思議なことですが、特に年の瀬が迫ってくると、尚更感じられるのではないでしょうか。そこで本題に入りますが、近年文明の発展とともに科学技術の発展や世の中の変化が、物凄い勢いで進んでいます。子供のころにテレビで見たSF映画の世界が現実になろうとしていることもあります。AI(人工知能)のそのひとつであります。

以前、新聞やテレビでも掲載されておりましたが、AIの発達により将来なくなる職業が紹介されておりました。そのうち私たち僧侶もそのひとつであります。お経を大人慧するのも人間ではなく、いわゆるロボットがしてくれます。銀行でも人員削減が進んでおります。企業側からすれば、人件費削減といったメリットもありますし、人間よりも確実であるという点があるかと思います。今後、様々な分野でAI(人工知能)が急速に応用されることは避けられないでしょうし、また新たな時代を迎えることでしょう。

私は,AIを否定しているわけでもなく、科学技術の発展を否定しているわけでもありません。私自身、その恩恵をいただいているわけですから。申し上げたいのは、人間とAI

科学技術の程よい調和つまりバランスが大切ではないかということです。

そして私たち人間の心のバランスのとり方が、今求められているのではないでしょうか。

乳と水

可児市 天龍寺 住職 太田 恒次

日頃、仕事場など人が集まる場所では、考え方の違いなどから、○○さんと一緒にしてほしい、○○さんとはやめてほしい。と思うことは誰にでもあることだと思います。

しかし、本来、どなたとでも仲良く信頼し合い生活することができれば、大変すばらしい事でありますね。

そこで今回、私たちが修行する際、僧堂で生活をする時の教えの一つを紹介したいと思います。

道元禅師様が「重雲堂式」という僧堂内での規則の中で、「乳水和合」という言葉を使い、大勢で寝食を共にする集団生活のあり方を教えています。

乳とは牛乳のこと、水はみずのことです。和合とは混ぜ合わせるという意味であり、人間関係でいえば、仲良く親しみ合うということです。

牛乳と水は互いに違った液体であっても一つの容器に入れるとケンカすることなく、すっと自然に混ざり合います。これに例えて、修行僧に対し、お互いが会い難いご縁によって一緒に修行する身になったのですから、いがみ合うことなく互いに協力し、研鑽を深め合うという教えであります。

私たちも日頃から乳と水のような素晴らしい人間関係が築けるようになれるといいですね。

いつか困った時は、「乳水和合」という言葉もあるんだと思い出してみてくださいね。

決して水と油の関係にはならいないようにお願いしまして、話しを終わらせていただきます。

御先祖様へのありがとう

瑞浪市 増福寺 住職 逸見 智光

あるお宅へ月参りに伺った時の事です。いつもの様にお婆さんとお勤めを終え、お話しておりますと「和尚さん見てやってください、三年生になる孫が学校で作ってお供えして行ったんですよ」渡されたそのカードを開いてみると「お爺さん、いつも見守ってくれてありがとう」と書かれておりました。亡くなったお爺さんへ三年生の子が感謝の言葉をお供えしていたのです。亡き方、御先祖様への感謝の気持ちは供養にとって一番大事な物ではないでしょうか。お経を読んだり、好物をお供えしたり、香を手向けたり、色んな供養の形はありますが、そこにご先祖様への感謝の気持ちがあってこその供養でありましょう。この子はその一番大事な感謝の気持ちをしっかり伝えていたのです。ですがお爺さんが亡くなって七年、果たしてこの子はお爺さんの事を覚えているのか?お婆さんに聞いてみると、「はっきりは覚えていないみたい、でも通信簿をもらった時、テストで良い点とった時はお爺さんに報告してきなさい、お菓子食べたいと言ったら、仏さん、お爺さんにお供えしてから貰ってきなさいといつも言っているのです」と。

この子は生前のお爺さんの事を覚えていない、でもいつも仏壇に向かって手を合わせることで亡くなってからのお爺さんを身近に感じ、御蔭で自分が今こうしてあるという事、そして見守ってくれているという事をちゃんと感じているんだ。あのカードはだからこそ言える感謝の言葉であったのだな。

ご先祖様へ感謝の気持ちを伝えられていますか?。私達が今こうしてある事、それは紛れもなくご先祖様あってこそ。深く感謝し、その感謝の気持ちをご先祖様へ伝えて参りたいものであります。「ありがとう」と

新年のご挨拶

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 時田 泰俊

新年あけましておめでとうございます。初詣はお済になりましたか?諸仏諸菩薩に八百万の神々のもと、多くの願い事がなされていると思います。

お寺の近くに一体の小さなお地蔵さまが祭られています。初詣に向かう方々が気づくことなくその前を足早に通り過ぎて行きます。柔和な笑顔のお地蔵さまは通り過ぎる人々に「足元に気を付けなさいよ」と優しく声をかけているようです。

今日はこのお地蔵さまについてお話をいたします。お地蔵さまは代受苦の佛とも呼ばれています。代受苦とは、私どもの代わりに苦を受け止めていただくという意味になります。昔話の笠地蔵のように6体並んで祭られていることも多く、これは仏教の説く輪廻を繰り返す六つの世界、天上界・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄、それぞれの世界において私たちを救い導いて頂けることを表しています。

今から二千五百年程前、お釈迦様は坐禅によりお悟りをひらかれ仏様となられました。そして次に私どもの前に仏様として現れるのが、現在天上界で修行中の弥勒菩薩沙汰といわれていますが、そのときは五十六億七千万年後というあまりにはるかな時の流れの先となります。この長き間、私たちを救い導いてくれる大切なお役目を負っているのがお地蔵さまです。

延命地蔵菩薩経には、多くの者に姿、形を変え陰日向となり私どもを救済頂けると述べられています。

こんな役割を負い路傍にたつお地蔵さまにも、気が付いたら手を合わせ感謝するのもよい初詣になると思います。

改めて皆様方のご多幸を祈念申し上げます。

一期一会

瑞浪市 開元院 住職 逸見 智孝 老師

「一期一会」よく知られた言葉です。一期とは一生、一会とはただ一度の出会い、という意味です。茶道の世界ではよく使われる禅の言葉で「主人と客は生涯ただ一度の出会いと心得て、そのとき精一杯、尽くしなさい」ということです。またたとえ再び出会う機会があったとしても、その時のその出会いはもう二度とは戻ってはこないのです。一年の経つのはあっという間です。一日はもっと早く過ぎ去ります。毎日顔を合わせる家族、同僚、毎日の様で実は最初で最後の出会いなのです。その時その時が最初の出会いで最後の出会いなのです。その時はもう二度とは廻ってはこないのです。

しかし、いちいちそのようなことを考えて顔を合わせているわけではありませんが、一度立ち止まってその時その場を見つめてみることも大切でしょう。絶え間ない無常という変化の中で、生きている今の一瞬を感じる事でしょう。朝、おはようございますと言い、夜、おやすみなさいと言う、その時はすべて一回限りです。昨日の自分は今日の自分ではありません。平成二十九年、今年も十二月半ばを過ぎ、多くの出会いがあったことでしょう。一期一会は茶の湯の世界だけではありません。私たちが生活しているすべてが一期一会なのです。一瞬の出会いも大切に一度きりの人生を生きていきたいものだと思います。