テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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ご法事とお墓参り

多治見市  永泉寺副住職   池田昌泰師

先日のお彼岸に皆さまは、お墓参りをされましたでしょうか。

 以前には、私のお寺でもご法事の後に故人にご縁のある方々が皆さん揃ってお墓参りをされました。最近は、四十九日、三回忌、七回忌まではご親族がお寺にお参り

に来られますが、それ以後になると子供や孫は仕事や部活があるからという理由で、一人二人という少ない数でお寺に来られたり、お塔婆を書いて拝んでおいて下さいという方もみえます。ご家族がそろってお参りする事を伝えていかないと、自分が亡くなった後に子孫はお墓参りをしてくれるでしようか?昔から子供は親の背中を見て育つと言われます。自分を生み育ててくれた親、その又親などご先祖様に対する姿を見せてこそ自分も安心してあの世へ逝けると思います。本家とか、新家、新家とも言われますが、ご先祖は間違いなく同じです。改めて、ご法事やお墓参りの大切さを考えて欲しいと願います。

啐啄同時

瑞浪市  宝林寺副住職   西尾英晃師

 

季節は春。木の芽時とも言って命の芽吹きをそこかしこに感じられる時節です。

こうした情景にちなんだ禅の言葉に「啐啄同時」というものがあります。「啐」は口偏に卒業の卒と書いた字で、これは卵の内側から雛が声を出して殻から抜け出ることを言います。「啄」は歌人の石川啄木の啄の字で、親鳥がそれに合わせて殻を突いて雛が卵から出てくるのを助けることを指します。この親子両者の行いが同時になされることによって雛は無事に殻から出ることができるのです。

時機を間違えて、早すぎても遅すぎても雛は無事に殻から出ることはできません。このことから今まさに悟りを得ようとしている弟子に師匠がすぐさま教えを与えて悟りの境地へ導くことをこの言葉は指します。

これは僧侶における師匠と弟子の関係だけでなく、親と子、先生と生徒、上司と部下などといった、教え教わるあらゆる関係についてもいえることだと思います。

年度の初めには進学進級、就職または転職など新たな環境でまた新たな学びの場に身を置くことになる方も多くいらっしゃるかと思います。先に申し上げたように学びの場においては教える側と教わる側の両方の呼吸が合っていなくてはなりません。どちらか一方だけが一生懸命になっているだけではいけないのです。教わる側が一生懸命に学び取ろうとする姿勢はもちろん大切ですが、それ以上にその後押しをする教える側の細やかな心配りや助け舟を出すタイミングが重要になるのです。

教え教わるという関係はかけがえのないご縁のたまものであるといえます。教える側も教わる側も学ぶということ、そして伝えるということの喜びとありがたさを感じながら一日一日を大切にして努めていきたいものです。

 

 

新たな節目を迎えても

  

 

高山市 正宗寺住職  原田太石師

 

「一年の計は元旦にあり」ということわざがありますが、進学される方、新社会人となる方など、正月と同様、年度替わりの4月を新たな気持ちで迎えられていることと存じます。特に今年は5月から新たな元号へと移行する記念すべき年となります。多くの方が、新たな節目を迎えるような心持ちでお過ごしのことでしょう。振り返ってみて平成という時代は、皆さまにとってどのような30年だったでしょうか。

私は、昨年暮の明仁天皇陛下の誕生日の会見でのお言葉が印象に残ります。「先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」

戦争を知らない我々多くの日本人と、戦争しか知らない紛争地の人々。生きていくエネルギーとしての欲は必要ですが、それに振り回されると決して平和な世の中を築くことはできません。例えば、雪道ですれ違うのが困難なときに、「どうぞお先に」と、相手に道を譲る方の多い飛騨地方では、交通事故が起こりにくいのだと警察の方から聞いたことがあります。

新たな節目を迎えても、平和な世の中を作ろうという私たち一人一人の心がけこそが、幸せな新時代を築いてゆくのだと感じます。まずは、皆さまと共に、それぞれの地域から住みやすい社会を作っていきましょう。

 

手を合わせるおもい

岐阜県宗務所 副所長 逸見智孝師

 

手を合わせるおもい

彼岸の迎えお墓参りをし、仏壇に向かい、ご先祖に手を合わせお参りをする自然の姿でしょう。

私たちが生活する中で、手を合わせるきかいは、幾度と無く有ると思います。一例をあげれば食事をする前、し終わった時、手を合わせ「いただきます。」「御馳走様でした。」この作法は古来から行われております。では、この作法にはどのような意味が有るのでしょう。その時、食事を作って下さった方に対して、「食事を作って下さって有難う」と言う思いが有ると思います。しかしながらもう少し深く考えればその時、食材となって私たちが口にする物、お米、野菜、お肉、お魚すべてが命であると言う事なのです。私たちは、そうした命を頂いて生かさせて頂いているのです。また、「頂きます」と言う言葉には、「今から自然の恵み命を頂きます。」「御馳走様でした」と言う言葉には、「今、口にした食材つは多くの人が走り回り、そして多くの人の労を経て、今食事させて頂きました。」と言う様な意味が有るのです。こんなことから考えても、食事をする手を合わせ「頂きます」「御馳走様でした」と言う作法には、「今日、生かさせて頂くのも自然の恵み命を頂戴するからです、有難うございます。」と言う思いが有るからではないでしょうか。ご先祖に手を合わせる思いも「ありがとう」の思いではないでしょうか、彼岸のこの時季皆さんも考えて見て下さい。   

平成時代最後の漢字「災」に思う

郡上市 楊柳寺 住職 川岸承翁師

平成時代最後の漢字「災」に思う

平成三十年の世相を、一字で表す今年の漢字は、「災」に決まりました。

平成の三十年は、災害の多い年でした。自然現象や人為的原因で、人命や社会生活に被害を及ぼし、多くの人を不幸にする出来事が起こりました。災害には三災があり、火災、水害、

風災をいいますが、大規模火災、集中的な大豪雨、相次ぐ台風、その他に恐るべき地震と、熱中症の怖さをともなった猛暑も味わいました。

日本が、世界が地球が終わりなのかとさえ思いました。

仏教では、一つの世界が誕生し、成長し、寿命を終え次の世界が誕生するまでを、一サイクルとし周期的に起こる宇宙的規模の災害として捉える見方もあります。

何十年に一度の出来事とか、統計上初めての災害だといわれた事もありました。

「災」という言葉を使い、人間生活の希望を表す言葉は多くあります。無病や一病に連なる息災は、災いを消すという意味、除災招福もしかり。

良寛和尚曰く「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と、これは、天災人災に対する人の対応の妙を教えています。

災害に遭ったらひとまず受け入れよ、考え方や生き方を後から飛躍につながるよう、人生の向上の為に努力することが肝要なのである。自分の道は自分で開け、自然災害は防ぐ事は出来ない。因果関係によって作り出されたものは、全て無常であると仏教では教えられています。

「当たり前」の奇跡

郡上市 悟竹院 住職 稲村隆元師

「当たり前」の奇跡

三月となり平成も残りわずかとなりました。まだまだ先だと思っていたら、あっという間のことです。ぼんやりしていても、忙しく動きまわっていてもあっという間のことです。

毎日行うことや、月に一回、年に一回などと恒例の行事も人によって様々ではありますが、皆さんが「当たり前」だと思ってやっていることについて考えたことはあるでしょうか。挨拶をしたり、席を譲ることであったりと日常生活での何気ない「当たり前」のことはたくさんあるはずです。では、この当たり前のことはいつ、誰が、どうして始まったことなのでしょうか。専門家の方に聞けば明確に分かるかもしれませんが、いつ、誰が始めたことであったとしても、それを引き継ぎ繰り返してきた自分に至るまでの数えきれないほど多くの人たちの気持ちによって「当たり前」になってきたと言えるでしょう。

例えばどこかで誰かが、誰かに対して席を譲ってあげた。その誰かも有難いと思って今度は自分が、もしくはその様子を見た人が自分もと思って譲った。こうして繰り返されることで出来ていく「当たり前」は奇跡の集合体のように思えるのです。長い歴史の中で、どこかで誰かが他者に対して行なった一瞬の思いやりの行為が、積み重なっていくことも奇跡のようにも思えます。

「当たり前」となっていることにはもちろん気持ちの良いことばかりではありません。しかし、他者を思いやることを日常に溶け込むほど続けてきていることに先人たちの温かさを感じ、またその「当たり前」の尊さを感じます。

お彼岸にはお墓参りなどでご先祖に手を合わせる機会も増えるかと思います。そんな時、亡き方と一緒に彼らから受け継いだ「当たり前」を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

メール詐欺

美濃市 昌福院 住職 伊吹拓寛師

メール詐欺 先日自分に降りかかって来た出来事を紹介します。 ある日突然に通販最大手のアマゾンから未収金が発生しているとのメールがありました。 普段からアマゾンでショッピングしていたので、 おかしいなぁとは思いながら銀行に行き残高を確認するとまだ残っています! そこに友人から電話があり事情を話すと、直ぐにそれは詐欺だよ!早く警察に行きなさいと言われ、 それで警察署に行きメールを見せ事情を話しすると開口一番詐欺ですねと言われ、 警察官がメールに書かれていた電話番号をYahoo!で検索するとアマゾンを名乗る詐欺グループの電話と結果が出ました。 普段から自分の電話帳リストに載っていない電話は出ないし、メールもスルーして用心していました。 まさか自分があわや引っかかりそうになるとは思ってみなかったです。 そんな電話やメールの詐欺に引っかかるのはもっと年配の人が被害に合うのだと思ってたかをくくっていました。 最近は色んな詐欺が横行しています。 遭わない為には自分一人で判断せず、必ず誰かに相談して下さい。 そうすれば冷静になれるし被害遭わず未然に防げるかも知れません。 知らない番号の電話やメールは無視する、誰でも本当に緊急だったら留守電に入れるし何回も掛け直します! 一回しか掛けて来ない電話はほとんどが、電話料金が安くなるとかの迷惑電話だと思って下さい。 精々皆様も気をつけてください!

 

みんなちがって みんないい

関市 宝泉寺 住職 花村英映師

「みんなちがって、みんないい」  今日は、金子みすずさんの詩について考えて見ましょう。  「わたしと小鳥とすずと」 わたしが両手をひろげても、 お空はちっともとべないが、 とべる小鳥はわたしのように、 地面をはやくは走れない。 わたしがからだをゆすっても、 きれいな音はでないけど、 あの鳴るすずはわたしのように たくさんなうたは知らないよ。 すずと、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。  金子みすずさんの詩のなかで、もっとも人気があるのがこの「わたしと小鳥とすずと」だそうです。「みんなちがって、みんないい。」というところがとってもすてきで、うれしくなるんだそうです。 わたしもこの詩を読んだとき、「人には人それぞれのよさがあるんだから、もっとおたがいに他を認め合って、生きてゆきたいものだ」と思いました。 人種差別・いじめ問題なども、この「お互いに違うところがすばらしい」ということを忘れてしまうことから始まるのです。 本当は、人類の理想はみすずさんが歌ってくれているように「みんな違って、みんないい」なのです。 そして大人がこれに反する生きかたをしてゆくと、こどもも「みんな違って、みんないい」ということを、すてきだと思わなくなってゆくのではないかと心配されています。 一つの山に登るにも、脚の強い人は急な坂を行ってもいいし、弱い人は時間をかけてゆっくり回り道を行けばいいんです。海を見たけりゃそっちの道、いずれ頂上で会えるのです。それぞれちがって満足です。 「みんな違って みんないい」一歩止まり自分を見つめ、相手を思いやる心を持ちたいものです。

 

物を大事にしなさい

美濃市 正林寺 住職 荒田章観師

物を大事にしなさい。

皆さんもそう教えられたことがあるかと思います。ですが、よく考えてみるとモノを大事にするあまり、押し入れやタンスなどの奥深くにしまい込んでしまってはいないでしょうか?壊してしまってはいけない。汚してしまってはいけない。そう考えることはとても大切ですが、果たしてそれは本当にモノを大事にしているのでしょうか?

私が修行時代、絡子を裁縫する機会がありました。十日ほどかけて縫った絡子は不格好ながらもそれが今の自分のようであり、これを大事にしないといけないと思えるものでした。

裁縫を手伝ってくださった和尚さんが完成するのを見届けますと、朱墨と筆を持ってきました。いったいこの墨と筆で何をするのかと思っていますと、「今からこの墨で絡子に名前を書きなさい」と言うのです。そして、「自分の手で新品の絡子を汚すことで、これはもう全く汚れていない絡子ではなくなる。だからこの絡子を大事に最後まで使いなさい」と

続けられました。

お釈迦さまはお悟りになられた後、自分の残りの生涯はお釈迦様の教えをそのご縁のあった方々すべてに伝えるために使うとお誓いになられ、ご高齢になられても旅を続けながらその教えを広められました。それは自分の命を大事にしながら、しかし全て使いきる生き方だったと思います。

もうすぐ二月十五日、お釈迦様の命日が訪れます。八十年という生涯を教えを伝えるために使い切られたお釈迦様の様に皆様にも自分と、モノを大事に最後まで使い切っていただきたいと思います。

 

思いを伝えるには

加茂郡 白川町 洞雲寺 尾関 大介

人間は自分本意の価値観でものを判断する生き物です。

例え同じ場所に同じ時間で同じものを眺めたとしても、見る人の年齢や出身地、その人の人生経験などによって良いとか悪いといったどう感じるかという判断は千差万別です。更には怒っている時は何を見ても忌々しいなど、その時の感情に判断が引っ張られてしまうこともあります。

社会には様々な価値観の人がおり、そのなかで人間関係を築いていく時に、面白いことが起こります。それは、人は誰の言うことを聞くのか、と言うことです。

親の言うことは聞かないけれど兄弟の言うことは聞くとか、先生の言うことは聞かないけれど先輩の言うことは聞くなど、そういったことは世の中にあふれていることと思います。その人その人にとって強い影響力を持つ人や言葉というのは、その人にどれだけ価値観が近いか、又は共感できるかという事が一つの重要な要因なのだと思います。

人に自分の意思を伝えたいとき又は指導しようと思う時、内容が簡潔であるか、正論であるかというのは確かに大事です。しかし一番に考えるべきは伝えたい相手が話を聞ける状態であるか、ということです。

例えどんなに良い話でも、時間的又は精神的に余裕のない時には誰だって耳を傾けません。まずは相手の状態をよく見て、それからかけるべき言葉を考えた方が、より伝えたい事が正確になるだろうと思います。

相手を想う、それはとても大切な事なのです。

皆様もそういったところを気を付けて、言葉をかけてあげて下さい。