テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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手を合わせるおもい

岐阜県宗務所 副所長 逸見智孝師

 

手を合わせるおもい

彼岸の迎えお墓参りをし、仏壇に向かい、ご先祖に手を合わせお参りをする自然の姿でしょう。

私たちが生活する中で、手を合わせるきかいは、幾度と無く有ると思います。一例をあげれば食事をする前、し終わった時、手を合わせ「いただきます。」「御馳走様でした。」この作法は古来から行われております。では、この作法にはどのような意味が有るのでしょう。その時、食事を作って下さった方に対して、「食事を作って下さって有難う」と言う思いが有ると思います。しかしながらもう少し深く考えればその時、食材となって私たちが口にする物、お米、野菜、お肉、お魚すべてが命であると言う事なのです。私たちは、そうした命を頂いて生かさせて頂いているのです。また、「頂きます」と言う言葉には、「今から自然の恵み命を頂きます。」「御馳走様でした」と言う言葉には、「今、口にした食材つは多くの人が走り回り、そして多くの人の労を経て、今食事させて頂きました。」と言う様な意味が有るのです。こんなことから考えても、食事をする手を合わせ「頂きます」「御馳走様でした」と言う作法には、「今日、生かさせて頂くのも自然の恵み命を頂戴するからです、有難うございます。」と言う思いが有るからではないでしょうか。ご先祖に手を合わせる思いも「ありがとう」の思いではないでしょうか、彼岸のこの時季皆さんも考えて見て下さい。   

平成時代最後の漢字「災」に思う

郡上市 楊柳寺 住職 川岸承翁師

平成時代最後の漢字「災」に思う

平成三十年の世相を、一字で表す今年の漢字は、「災」に決まりました。

平成の三十年は、災害の多い年でした。自然現象や人為的原因で、人命や社会生活に被害を及ぼし、多くの人を不幸にする出来事が起こりました。災害には三災があり、火災、水害、

風災をいいますが、大規模火災、集中的な大豪雨、相次ぐ台風、その他に恐るべき地震と、熱中症の怖さをともなった猛暑も味わいました。

日本が、世界が地球が終わりなのかとさえ思いました。

仏教では、一つの世界が誕生し、成長し、寿命を終え次の世界が誕生するまでを、一サイクルとし周期的に起こる宇宙的規模の災害として捉える見方もあります。

何十年に一度の出来事とか、統計上初めての災害だといわれた事もありました。

「災」という言葉を使い、人間生活の希望を表す言葉は多くあります。無病や一病に連なる息災は、災いを消すという意味、除災招福もしかり。

良寛和尚曰く「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と、これは、天災人災に対する人の対応の妙を教えています。

災害に遭ったらひとまず受け入れよ、考え方や生き方を後から飛躍につながるよう、人生の向上の為に努力することが肝要なのである。自分の道は自分で開け、自然災害は防ぐ事は出来ない。因果関係によって作り出されたものは、全て無常であると仏教では教えられています。

「当たり前」の奇跡

郡上市 悟竹院 住職 稲村隆元師

「当たり前」の奇跡

三月となり平成も残りわずかとなりました。まだまだ先だと思っていたら、あっという間のことです。ぼんやりしていても、忙しく動きまわっていてもあっという間のことです。

毎日行うことや、月に一回、年に一回などと恒例の行事も人によって様々ではありますが、皆さんが「当たり前」だと思ってやっていることについて考えたことはあるでしょうか。挨拶をしたり、席を譲ることであったりと日常生活での何気ない「当たり前」のことはたくさんあるはずです。では、この当たり前のことはいつ、誰が、どうして始まったことなのでしょうか。専門家の方に聞けば明確に分かるかもしれませんが、いつ、誰が始めたことであったとしても、それを引き継ぎ繰り返してきた自分に至るまでの数えきれないほど多くの人たちの気持ちによって「当たり前」になってきたと言えるでしょう。

例えばどこかで誰かが、誰かに対して席を譲ってあげた。その誰かも有難いと思って今度は自分が、もしくはその様子を見た人が自分もと思って譲った。こうして繰り返されることで出来ていく「当たり前」は奇跡の集合体のように思えるのです。長い歴史の中で、どこかで誰かが他者に対して行なった一瞬の思いやりの行為が、積み重なっていくことも奇跡のようにも思えます。

「当たり前」となっていることにはもちろん気持ちの良いことばかりではありません。しかし、他者を思いやることを日常に溶け込むほど続けてきていることに先人たちの温かさを感じ、またその「当たり前」の尊さを感じます。

お彼岸にはお墓参りなどでご先祖に手を合わせる機会も増えるかと思います。そんな時、亡き方と一緒に彼らから受け継いだ「当たり前」を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

メール詐欺

美濃市 昌福院 住職 伊吹拓寛師

メール詐欺 先日自分に降りかかって来た出来事を紹介します。 ある日突然に通販最大手のアマゾンから未収金が発生しているとのメールがありました。 普段からアマゾンでショッピングしていたので、 おかしいなぁとは思いながら銀行に行き残高を確認するとまだ残っています! そこに友人から電話があり事情を話すと、直ぐにそれは詐欺だよ!早く警察に行きなさいと言われ、 それで警察署に行きメールを見せ事情を話しすると開口一番詐欺ですねと言われ、 警察官がメールに書かれていた電話番号をYahoo!で検索するとアマゾンを名乗る詐欺グループの電話と結果が出ました。 普段から自分の電話帳リストに載っていない電話は出ないし、メールもスルーして用心していました。 まさか自分があわや引っかかりそうになるとは思ってみなかったです。 そんな電話やメールの詐欺に引っかかるのはもっと年配の人が被害に合うのだと思ってたかをくくっていました。 最近は色んな詐欺が横行しています。 遭わない為には自分一人で判断せず、必ず誰かに相談して下さい。 そうすれば冷静になれるし被害遭わず未然に防げるかも知れません。 知らない番号の電話やメールは無視する、誰でも本当に緊急だったら留守電に入れるし何回も掛け直します! 一回しか掛けて来ない電話はほとんどが、電話料金が安くなるとかの迷惑電話だと思って下さい。 精々皆様も気をつけてください!

 

みんなちがって みんないい

関市 宝泉寺 住職 花村英映師

「みんなちがって、みんないい」  今日は、金子みすずさんの詩について考えて見ましょう。  「わたしと小鳥とすずと」 わたしが両手をひろげても、 お空はちっともとべないが、 とべる小鳥はわたしのように、 地面をはやくは走れない。 わたしがからだをゆすっても、 きれいな音はでないけど、 あの鳴るすずはわたしのように たくさんなうたは知らないよ。 すずと、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。  金子みすずさんの詩のなかで、もっとも人気があるのがこの「わたしと小鳥とすずと」だそうです。「みんなちがって、みんないい。」というところがとってもすてきで、うれしくなるんだそうです。 わたしもこの詩を読んだとき、「人には人それぞれのよさがあるんだから、もっとおたがいに他を認め合って、生きてゆきたいものだ」と思いました。 人種差別・いじめ問題なども、この「お互いに違うところがすばらしい」ということを忘れてしまうことから始まるのです。 本当は、人類の理想はみすずさんが歌ってくれているように「みんな違って、みんないい」なのです。 そして大人がこれに反する生きかたをしてゆくと、こどもも「みんな違って、みんないい」ということを、すてきだと思わなくなってゆくのではないかと心配されています。 一つの山に登るにも、脚の強い人は急な坂を行ってもいいし、弱い人は時間をかけてゆっくり回り道を行けばいいんです。海を見たけりゃそっちの道、いずれ頂上で会えるのです。それぞれちがって満足です。 「みんな違って みんないい」一歩止まり自分を見つめ、相手を思いやる心を持ちたいものです。

 

物を大事にしなさい

美濃市 正林寺 住職 荒田章観師

物を大事にしなさい。

皆さんもそう教えられたことがあるかと思います。ですが、よく考えてみるとモノを大事にするあまり、押し入れやタンスなどの奥深くにしまい込んでしまってはいないでしょうか?壊してしまってはいけない。汚してしまってはいけない。そう考えることはとても大切ですが、果たしてそれは本当にモノを大事にしているのでしょうか?

私が修行時代、絡子を裁縫する機会がありました。十日ほどかけて縫った絡子は不格好ながらもそれが今の自分のようであり、これを大事にしないといけないと思えるものでした。

裁縫を手伝ってくださった和尚さんが完成するのを見届けますと、朱墨と筆を持ってきました。いったいこの墨と筆で何をするのかと思っていますと、「今からこの墨で絡子に名前を書きなさい」と言うのです。そして、「自分の手で新品の絡子を汚すことで、これはもう全く汚れていない絡子ではなくなる。だからこの絡子を大事に最後まで使いなさい」と

続けられました。

お釈迦さまはお悟りになられた後、自分の残りの生涯はお釈迦様の教えをそのご縁のあった方々すべてに伝えるために使うとお誓いになられ、ご高齢になられても旅を続けながらその教えを広められました。それは自分の命を大事にしながら、しかし全て使いきる生き方だったと思います。

もうすぐ二月十五日、お釈迦様の命日が訪れます。八十年という生涯を教えを伝えるために使い切られたお釈迦様の様に皆様にも自分と、モノを大事に最後まで使い切っていただきたいと思います。

 

思いを伝えるには

加茂郡 白川町 洞雲寺 尾関 大介

人間は自分本意の価値観でものを判断する生き物です。

例え同じ場所に同じ時間で同じものを眺めたとしても、見る人の年齢や出身地、その人の人生経験などによって良いとか悪いといったどう感じるかという判断は千差万別です。更には怒っている時は何を見ても忌々しいなど、その時の感情に判断が引っ張られてしまうこともあります。

社会には様々な価値観の人がおり、そのなかで人間関係を築いていく時に、面白いことが起こります。それは、人は誰の言うことを聞くのか、と言うことです。

親の言うことは聞かないけれど兄弟の言うことは聞くとか、先生の言うことは聞かないけれど先輩の言うことは聞くなど、そういったことは世の中にあふれていることと思います。その人その人にとって強い影響力を持つ人や言葉というのは、その人にどれだけ価値観が近いか、又は共感できるかという事が一つの重要な要因なのだと思います。

人に自分の意思を伝えたいとき又は指導しようと思う時、内容が簡潔であるか、正論であるかというのは確かに大事です。しかし一番に考えるべきは伝えたい相手が話を聞ける状態であるか、ということです。

例えどんなに良い話でも、時間的又は精神的に余裕のない時には誰だって耳を傾けません。まずは相手の状態をよく見て、それからかけるべき言葉を考えた方が、より伝えたい事が正確になるだろうと思います。

相手を想う、それはとても大切な事なのです。

皆様もそういったところを気を付けて、言葉をかけてあげて下さい。

「同事」の実践

関市 千手院 住職 橋本 絢也

本日は「同事」についてお話しようと思います。「同事」とは「自分の心にも違わない 他人の想いにも違わない」という意味です。もっと言いますと「自分も他人も同じである」という事です。自分の喜びを誰かに分け与え、誰かの悲しみ苦しみを引き受ける、そのような実践を表した言葉でもあります。

日常に即して考えてみましょう。自分の立場を護るが故に、対立する考えに対して苛烈な言葉を浴びせ貶める場面を頻繁に見ますが、その「苛烈さ」を相手も持ちうることを見落としているように感じます。そのような苛烈さを自分に返されたとき、あなたはとても苦しく感じるでしょう。ですがその苦しみは、元はといえば、あなたが誰かに与えていたダメージなのです。

「誰かの今日は いつかの自分」である事を強く意識しなくてはなりません。相手の苦しみはそのままあなたの苦しみになり得るのです。そう、同事、同じ事なのです。

では我々は具体的にどう行動すべきなのでしょうか。最初に申しましたが「自分の喜びを誰かにも分け与える」事が肝要です。もっと簡単に申しますと「自分の“好き”をどんどん言葉に出していく」という事です。美味しかった料理、綺麗だと感じた風景、お腹を抱えて笑った出来事、モフモフな犬。あなたを震わせるそれら沢山のモノを本人に、誰かに、言葉で伝えてあげるのです。そしていつか誰かからも「好き」を聞くことが出来たのなら、それはとても嬉しいはずです。「好き」の連鎖はきっと気持ちの良いものなのではないでしょうか。

そのような「同事」の実践を是非心がけていきたいものです。

新しき年、新しき節を迎え、お願い申し上げます

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 小島 尚寛 師

新年あけましておめでとうございます。

皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

この度、前宗務所長岐阜市本覚寺住職時田泰俊老師が二期八年の任期を全うされ、昨年12月10日を以て退任をされました。

それに伴い、後任として新たに私、多治見市安養寺住職小島尚寛が就任することとなりました。

今後とも、何卒、宜しくお願い申し上げます。

このテレホン法話が発足して30数年となります。

しかしながら電話ということで、どうしても一方通行になりがちです。

そこで、お願い申し上げたい事があります。

この2分少々の法話をお聞きになり、心に留め得る事があれば、是非とも、周りにおられる方々にその内容をお伝えすて頂きと存じます。

更に、その方々と意見を交換し合い、また日頃ご不安に思う事やお尋ねしたい事などを近くの菩提寺さんを通ぎて、宗務所の方へお届け頂ければ、今後、我々としても、それを研修会の題材の一つとして、研鑽を重ねて行くことができます。

その成果をテレホン法話を介して皆様にお返しすることができれば、より身近なものとなって行くと思っています。

良き仏縁を結んで頂ける場として、このテレホン法話の存在をひちりでも多くの方々にお知らせ下さい。   合掌

 

自然に学ぶ

加茂郡白川町 臨川寺 住職 加納 明義

今年も僅かとなりました。地震、台風、数十年に一度と言われる自然災害により、未だ生活を余儀なくされておられる方々が多くおられます。心よりお見舞い申し上げます。

道元禅師は「峰の色 渓の響きもみなながら わが釋迦牟尼の 声と姿と」という和歌を詠んでおられます。内容はお釈迦さまの悟りを求め、学び続ける私たちに「山の色合いも、谷川の響きも、みなお釈迦さまの説法の声であり、お姿なのです」というおさとしです。

仏道を学ぶ志をもち、一心不乱に修行を続けているうちに、周囲の峰の色や、渓の響きが修行僧に悟りを開く因縁になると、道元禅師は示しておられます。

私達は周囲の評判を気にしたり、名誉、財を貪り、己を美化しようとします。先ずは自分の「名利」を捨てることが大事です。

仏教の根本は「縁起」です。さまざまな原因や条件が集まって成り立っています。

縁起して起きる真実の姿に気づき、自然と共存し、智恵の眼差しをもって「利他行」を実践していきたいものです。

松竹梅の、松は千年の翠を讃え、竹は生長が早く、節目を付けながら真っ直ぐ伸び、梅は寒中に蕾を膨らませて、春一番に花を咲かせ、私達に生きる力と喜びを与えてくれる吉祥の象徴です。どうぞ皆様良い年をお迎えください。     合掌