テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
固定電話番号 0575-46-7881

功の多少を計る

高山市 慈雲寺 住職 小林孝明師

京都の仏具を扱う方から、僧侶が身に着けるお袈裟や法衣は、いかに多くの人の手間に支えられているかを教えていただきました。

着物が手元に届くまでには、少なくとも十二の行程を経ているのだと言います。

図柄やデザインをお願いすることからはじまり、下絵をもとに型を彫る職人さん。生地の選定や色合わせの後、染めの職人さんを経て染料を定着させます。水で洗い流したあと仕上げ加工を施し、ようやく反物が完成します。次に縫子さんが縫製をします。お袈裟ならヒモをつくる職人さんも関係しますし、桐の箱を作る人や箱に文字を書く人、さらに風呂敷を作る人などの手も必要です。

お釈迦さまの時代のお袈裟は糞掃衣とも言われ、使い道のない捨てられた布を縫い合わせて身にまとっていました。文字通り、糞(汚物)をぬぐった後の布を洗って縫い合わせたものでした。

僧侶が身に着ける法衣やお袈裟は、たくさんの職人さんの手を経て、いまここに存在します。心して身に着けさせていただかねばと思います。

着物だけではなく、お米や食べものなどもおなじです。

曹洞宗では食事の前に「五観の偈」を唱えます。そのはじめに「功の多少を計り、彼の来処を量る」があります。この食事がどれだけ多くの人の手間に支えられ、どのような場所から食材が届けられたかをよく考え、感謝していただきましょうという意味です。

覚えておきたいお言葉です。

 

同事の心

飛騨市 洞雲寺 住職 大森俊道師

東日本大震災よりかなりの月日がたちました。

発災1年後より宮城県の知合いを頼りに復興行脚、行茶活動等に参加して参りました。

毎年ある仮設住宅を訪れ、行茶活動に参加した時の話です。

緊張して仮設住宅の玄関のドアを開けました

仮設住宅で、不自由な生活をしているのに

皆さん笑顔、拍手で出迎えられました。

積極的に話をして下さいました。逆に元気を頂いたように思えました

ただ、津波の話になると、目に涙を浮かべていました。明るく元気に見えましたが、私は皆さまの一側面を見ただけで、その裏には、

深い悲しみ苦しみが隠れているのだと、思いました。私の自己満足でボランティアに参加したのではないか、本当に被災者の方々の苦しみ悲しみを分ろうとしたのかと、反省しました。

『修証義』に『同事というは不違なり自にも不違なり他にも不違なり』という一節があります。『同事』とは、他人と自分の心を一つにする事、自分の心に背かず、他人の心もにも背かない事、つまり対立や区別を持たず

自他供に喜びや悲しみを共有する事です。

被災者の方々の悩み苦しみは、実際私も経験しなければ分らない事かもしれませんが、それでも相手の立場に立ち悲しみ、苦しみ、自分の事として受け止め、少しでも心の支えになれるのではないか。

初めて行茶活動をした後、ある方に『また来てくださいね、どれだけの被害があったか

地元に帰って伝えて欲しい、また話を聴いて欲しい』と言われた事が心に残りました。

時が経ち、各地で大雨、地震等の災害が起こり、また多くの悲しみ、苦しが生まれました。同事の心を持ち寄り添いあい、皆が心から笑える日々がおとずれるよう供に歩んで参りましょう。

思うがままにならない

高山市  素玄寺 住職 三塚泰俊師

 

先日の事ですが、お寺の大切な行事の前に風邪をひいてしまいました。その為に、やらなければいけない仕事が山積みなのに、思うように体が動かず、上手くいかない現状に腹をたてて過ごしていました。

よく考えれば風邪をひいたのは、健康管理をしていない自分の責任なのですから、「それまで忙しかったから」とか、「天候が不順で寒暖の差が激しすぎるから」と、周りの責任にしようとする愚かな自分に気付きました。

皆様も普段の生活の中で、何だか不思議な位に自分が思うように上手くいく時と、その逆に、どんなに努力をしても、なかなか思い通りいかない時がありその度に喜んだり悲しんだり、怒ったり、泣いたりされる事があるのではないでしょうか。

事柄の大小はあっても、この世の中は、私たちの心の思うがままにならない事ばかりです。生きる事もそうであれば、死ぬ事も思うようにならない事です。

仏教の死生観について、宗教評論家のひろさちやさんはこう解説しておられます。

「仏教では人間の存在を「苦」と見ている。大乗仏教では、「苦」とは苦痛という意味ではなくて、「思うがままにならない」という意味であり、生まれ、生きていく事、老いていく事、病んでいく事、死んでいく事は、どれも思うがままにならない事である。それを「思うがままにしよう」として苦しんでいるとすれば、そうしなければいい。なるようになると、しっかり覚悟してそれを「明らかにする」事が大切である。死後の世界を考えず、しっかりこの人生を生きればいい。」

曹洞宗の宗祖、道元禅師は「生の時は生、死の時は死であり、一日一日、一

呼吸一呼吸、一瞬一瞬の中に私たちは、生まれ、死んでいる。この一呼吸が最期になるかもしれない。だから、日常生活の一つ一つが、一期一会だと思い、今、ここ、このことに一生懸命に立ち向かわなければならない。」とお示しです。

「変えられない自分の周りの様々な事」に目を向けるのではなく、「変えられる事」に精進努力して毎日を生きていく事が大切な事なのでしょう。

 

 

お不動様

飛騨市  林昌寺 住職 中川芳秀師

 

お寺の近くにお不動様を祀ったお堂があります。毎月二十八日の縁日には、近所や信者の方が集まり、皆でお経を唱えお参りをしています。私も住職になって毎月欠かさず勤めてまいりました。

しかし今年四月の二十八日、その日私は朝から体調を崩し休んでおりました。休日で病院はやっておらず、寝ていれば良くなるだろうと安易に考えていたせいで、熱は上がるばかり。とうとうその日お参りすることが出来ませんでした。集まった方達にも申し訳ないと思いながらも数日間寝込み、その後も忙しく過ごすうちにすっかりお不動様の事も忘れておりました。

翌五月二十八日、二か月ぶりにお不動様の前へ座り、いざ法要を勤めようと太鼓を一つ打ちました。すると音がいつもと違います。ドンというお腹まで響く音ではなく、パコというなんとも情けない音がします。太鼓の裏を見ると革の一部に穴が開いていました。音を聞いたお参りの方も一様に顔を見合わせ気まずい空気が流れます。私はハッと二メートル以上もあるお不動様を見上げました。左右の目で天地をにらみ、牙をむき、両手に剣(つるぎ)と縄を持つ姿は、いつも見慣れたはずでしたが、その日はいつにもまして厳しいお顔にみえました。

「体調管理を怠るな、まさか怠け心はなかったか、仏具を丁寧に扱いしっかり管理しなさい、集まる人に迷惑をかけていけないぞ。」

全てを見透かされ、諭された気持ちでした。

全ては因縁でつながっています。体調管理を怠りお参りもせず、仏具の手入れもままならないまま、更にはお参りに来た人たちにも迷惑が掛かりました。日々の行いが色々な形でその後の自分に還ってまいります。皆さんも、一日一日を大切に、日々精一杯お過ごしください。

心のふるさとを求めて

高山市 善久寺 住職 近藤洋右師

 

私は思案に迷った時、困った時、また悩みがあった時、我が子を叱りすぎ反省する時、居ても立ってもいられずよくお寺の本堂に、一人で坐ります。思い悩む心を持て余しながら、静寂を求めて本堂に坐り、お釈迦様を拝みます。お釈迦様はいつも何事もなかったような、穏やかなお顔をしておられるだけで、何も答えてはくれません。しかし、不思議と、いつの間にか心が落ち着き、すがすがしい心地になります。

私たちの毎日は、あまりにも多忙です。あれこれと考えているうちに、月日はあっという間に過ぎていき、心を落ち着けて、自分自身をみつめる暇もありません。落ち着いていたら、世の中に置き去りにされそうな気がします。

しかし、これは間違いであります。今の世の中のように、多忙な時こそ、静かに自分自身をみつめるということが、大切なのではないでしょうか。さいわいお寺は静かであり、心を落ち着けて、自分自身をみつめるには、大変良い場所です。

お寺は騒々しい現代社会にありながらも、私たちの「心の依り所」「いこいの場所」であります。

菩提寺を訪ねられてはいかがでしょうか。

最後に昭和の詩人坂村真民さんの詩をご紹介します。

死のうと思う日はないが

生きて行く力のなくなることがある

そんな時、お寺をたずね

私は一人、仏陀の前に坐ってくる

力湧き明日を想う心が出てくるまで坐ってくる

「善い行い」

中津川市  浄光寺  住職 福谷哲生師

 

お盆も近くなり、先代の和尚さん達のお墓を掃除していると一人のお婆さんが、「花が余ったから」とお供えされて行かれました。その方は自分の家のお墓だけで無く通路の草も綺麗に取って行かれました。この暑い時期に自分の所だけでも大変なのに、皆が通る道も掃除することは、自分の為だけでなく、他人にも尽くす菩薩行と言えるでしょう。

貴方も、私もいきなり菩薩の心境に成れなくても、自分の出来ることから初めて行くことが大切なのです。

自分の欲張った気持ちを抑えて他人に譲ったり、怒りの気持ちを抑えて他人の過ちを赦したり、他人に思いやり有る優しい言葉をかけたりす

る事はだれにでもしようと思えば出来る事です。ただその時、相手のことをちゃんと考え、一方的に善意をおし付けたり、自己満足の為にしてはいけません。又、見返りを求めず、さりげなく行うことが善行と言えるでしょう。

他人の悲しみ、喜びも自分の事と感じ、他人を思いやり行動が出来人になりましょう。

亀と雀

恵那市  盛巌寺  住職 近藤昌弘師

皆さんは、曹洞宗の法要でよく読まれる「修証義」の中に動物が出てくるのをご存じでしょうか。実は亀と雀がでてまいります。

第四章に出てくる窮亀は、中国の亀が報恩した故事。病雀もまた中国後漢の故事からきています。日本にも似た様なお話があります。

亀と言えば浦島太郎、雀と言えば舌切り雀。

今年女優の市原悦子さんがお亡くなりになりました。私にとっての市原さんは子供の頃よく見ていた「まんが日本昔ばなし」の声優さんです。子供の頃は、昔話の中から困ったものがいれば助けるという人としての根本部分を知らず知らずの内に学んでいました。

例えば、道ばたのお地蔵さんに雪が積もっていれば笠をかぶせてあげる。いじめられている亀がいれば助けてあげるなど、良いことをすれば必ず自分にかえってきて、自分の為になる。

その一方で、花咲じいさんや瘤取りじいさんの様に欲をかきすぎると逆にひどい目にあう。そういった何気ない人としての生き方がそれらの中に教えとして生きています。

今の子供たちに話を聞くと、昔話を知らない子が多くいます。

テレビのCMの影響でしょうか。浦島太郎は海辺で歌を歌う人。金太郎は金に細かい人。と思っている子も増えています。

核家族化が進み、お年寄りから聞かされる昔話やその地方に伝わる民話に触れる機会も少なくなっています。ただ、人を思いやる心や、人から受けた恩は返すという日本人の美しい心を子供たちに伝えていくことが大切ではないでしょうか。

お経はお釈迦様が、人が生きていく上で何が大切なのかを示した教えです。「修証義」は道元禅師様がお釈迦様の教えを私たちにわかる様に示されたものです。「修証義」をお読みになる時、そんなことを思い読んで頂ければありがたいと思います。

 

 

 

 

愛のあるお言葉を

中津川市  善昌寺  副住職  井口昭典師

お母さん、よろしければお先にどうぞ。

ありがとう。助かりますよ。

ほんの少しの挨拶やささいな行動で、あなたも私も幸せを共有できる。

誰かに親切にされると、ハッと気持ちが明るくなったり、ホッと心が暖まったりして、私自身も周りにいる人たちに優しくなれることってありませんか。

親切や愛のある優しい言葉がけは目の前の相手を幸せな気持ちにするだけではなく、私自身の幸せにもなります。そしてその先に続く人達まで幸せが広がっていく素晴らしいパワーがあります。

愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり

曹洞宗の修証義というお経の一節に『愛語』とは、についてお示しになられております。

『愛語』 相手を思いやり、あたたかい心のこもった言葉をかけることですね。

私自身が幸せで心穏やかな気持ちでいられることが持続できると、自然と自分に自信が持てるようになるともいわれています。

自分に自信が持てるようになると嫌なことがあったとしても、不思議と何を責めることなく素直に受け入れることができ、謝れるなど落ち着いて物事を対処することもできます。良いことばかりの連鎖です。

愛語の起こすパワーが知らず知らずのうちに、遥か遠くにいる人達に幸せを運べることを想像するだけでも心がワクワクしてまいります。

そこから実践してみてください。

今月16日は令和の時代が始まり初めての 父の日

お父さんいつも支えてくれてありがとう。はい。これどうぞ。

入梅に入り、心が少し晴々しない日が続くかもしれません。

ほんの一瞬の和顔愛語のパワー、慈悲の行動を心掛けてまいりましょう。

 

どこにいるかより、ここにいるか

恵那市   洞禅院   住職  紀藤祐元師

 

「あの人に会いたい。あの人は今いったいどこにいるのだろう。」 皆さんは、ご家族や友人など、親しい間柄にあった方々を亡くされた後、このように思ったことはないでしょうか。  大切な方との突然の別れは、どなたにとってもすぐには受け入れ難く、またその悲しみも、生前のお付き合いが濃密であればあっただけ、深いものとなります。  会いたいのに、会えない。かつてのように顔を合わすことも、触れ合うことも叶わない。 このことを頭で理解するということと、心の底から納得するということとは、なかなかすぐには一致しないもののように思います。少しずつ少しずつ、時に周囲の助けを得ながら、自分の中にその厳しい現実を落とし込んでいく。そしてやがて、亡き人を亡き人として受け入れ、また元の日常へと戻っていく。誰もが、いつかは乗り越えなければならない大切なことです。  この「亡き人を亡き人として受け入れる」ことのために、是非心に留めておいていただきたいことが、冒頭の言葉「どこにいるかより、ここにいるか」です。  この世を去った大切な人を強く思うが余り、その人をどこかに探し求めてしまうことは、決して不思議なことではありません。むしろ自然な気持ちというべきものでしょう。ですがその時既に、自分の中、まさにそこに大切な人がいる。このことに是非気づき、亡き人を追い求めることによって却って膨らんでしまう寂しさから、少しでも解き放たれていただきたいのです。  ご自宅のお仏壇やお墓、菩提寺など、私たちは幸いにも、いくつもの場所で亡き人と出会うことができます。そしてそのどこもが、大切な出会いの場なのです。  どこかひとつの場所だけに亡き人がいるわけではない。大事なのは、あなたの中にその人がいる、ということ。「どこにいるかより、ここにいるか」を確かめることです。

正しい考え・正しい行い

恵那市   圓通寺 住職   森 如謙師

 

心身を乱し悩ませて、正しい判断を妨げる心の働きを「煩悩」と言いますが、この煩悩の代表として、貧り、怒り、愚かさの三つが挙げられます。煩悩の根本は自己中心の考えに基づく物事への執着から生ずるもので、人間(自分)の欲望、思いやりには大なり小なり自己中心の思い、我執がまとわりついてきます。ですから自分の思い欲望を煩悩とは言葉は違っていても内容は同じと考えられます。そのことを知っていれば、たとえわずかでも自己中心に陥らない正しい判断に近づくことが出来るでしょう。正しい判断から行いをすれば正しい行いへとなっていくのです。仏教の教えに諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教、もろもろの善は務めて行う、その基となる心を深め、清くする。これが仏の教えであると戒めています、私たちの行いを良くするには正しい判断が大切なのです。しかしながら私たちは、良かれと思い行ったことが、他人には迷惑であったりすることが、多々あるのです。それは自己中心の思いからであり、相手のことを深く考えなかったからでしょう。良い行いとはどんなことでしょう。今日の世の中は自分さえ良ければ良いという人が多く、いやなことはしたくないと遠ざけがちです。思いやりをもって行動し、正しい行いが出来るよう自分を戒め、自己中心にならないようにしたいものです。