テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「行雲流水」

各務原市 慈眼寺 住職 宮崎證俊 師

禅の言葉に「行雲流水」というものがございます。

大空を自由に流れる雲の様に、高いところから低いところへ流れる水の様に…一つのところにとどまること無く、執着せず常に変化し続ける自由な様を表す言葉です。

禅の修行僧のことを「雲水」と申しますが、それはこの「行雲流水」からきています。

私達は日々の生活の中で、こうあるべきだ、こうでなくてはならない等、物事を決め付けてしまったりすることがあります。

私自身の事で申せば、つい最近まで本は紙媒体であるべきだと考えていました。手に持った時の重さ、指でページをめくる。紙やインクの匂い…これが無ければ読んだ気にならない!と。

しかしながら、本棚には限界がありますので渋々と電子書籍を購入することにしました。

いざ読み始めると、当然といえばそうなのですが紙媒体と同じように楽しめるわけです。

ページをめくるという行為が画面をタップするに変わっただけなのです。

それ以降、圧倒的に電子書籍で購入することが多くなりました。何時でもどこでもスマホやタブレットがあれば読める利便性を重視する考えに変わったわけです。

水は温めれば気体となって雲となりやがて雨となる。製氷機で凍らせれば四角い氷となり、丸いコップにいれれば溶けて丸い水となる。

本質は同じ水なのですが、様々な姿があるわけです。執着の無い自然体のあるがままの素直な心持ちでいれば、どんな媒体でも楽しめるのです。

すこし肩の力を抜いて「行雲流水」な心持ち試してみてはいかがでしょうか。

諸悪莫作 衆善奉行

各務原市 桃春院 住職 清水宗元 師

私は長年、僧侶としての活動以外に、武道の道場での指導をしております。

特に、小学生以下、少年部の指導においては

・あいさつをする

・履物をそろえる

などの常識程度のマナーの指導以外には、上下関係などの厳しい礼儀を強要したりせず、かわりに

・ズルをしないでね。嘘をつかないでね。

・友達にいじわるをしないでね。

・友達に親切にしてね。

・お父さんお母さんは君達にいい子になってほしいと願って道場通いをさせて下さっているのだから、道場で悪いことしないでね。いい子になってね。

という事をいつも言っています。

このようなやり方、方針になったのは、経験的に、こんなシンプルな言葉がけの方が上から厳しい礼儀や上下関係を強要するよりも子供達により響くという風に感じさせてきたからです。

 

道元禅師の著された「正法眼蔵」の諸悪莫作の巻では、八世紀から九世紀に生きた中国の禅僧・鳥窼道林と、詩人の白居易との有名な問答が引用されています。

仏法の大意は何かと問う白居易に対して、鳥窼道林は「諸悪莫作、衆善奉行」であると答えました。どのような悪事ををはたらくことなく、様々な善行を行う、という意味です。

それに対して白居易が「そんな事は三歳の子供でも知っていますよ」と返すと、道林は「確かに三歳の子供でもこの仏教の道理は知っている。しかし、八十年生きた老人であっても、この道理に沿って生きることは難しい」と答えました。

白居易は道林禅師の言葉を聞いて自らの至らなさを瞬時に悟りました。そして深々と道林禅師に礼拝すると、きびすを返して去っていかせました。

 

私は若い頃より武道を通じて海外へ行くことが多かったのですが、知り合った外国人の方々は意外に宗教心・信仰心が強い人が多かったです。

宗教の違いはあれど、信仰心の強い人というのは

・ズルをしない。嘘をつかない。

・他人の心身を傷つけない。

・他人に親切にする。

そこの部分が共通していたように思います。ちなみに「七仏通試偈」といい、「諸悪莫作」「衆善奉行」の後は

「自浄某意」

「是諸仏教」

と続きます。

「一粒の種」・・『いのち』の大切さを・・

岐阜市 林陽寺 住職 岩水龍峰 師

朝のお勤めの後、犬と散歩に出かけました。ほど遠くない畑に沿って歩いていると早朝から、見慣れたご高齢のご婦人が、額から汗を一杯かいて畑仕事に勤しんでおられました。「おはようございます。」と声をかけ、今日のお仕事はとお尋ねしました。いつも珍しい野菜を丁寧に作っておられますので、何の種まきか興味が湧きます。

「今日はね‥2種類のカブラの種を蒔きました。あちらの畝は2粒づつ、こちらの畝は一粒づつ…蒔きました。上手く生えるといいですが‥蟻が食べるのですよ?‥あちらの畝に蒔いた種が、こちらの畝にあるのですよ?‥蟻が持ってきたのです。といって、元に戻してみえました。」小さな小さな種を一粒づつ蒔き、こころを込めて野菜作りに励んでおられるのです。まさに「ものの『命』の大切さを地で行く仏行」です。以前、友人から種を蒔くときには、ピンセットで一粒づづ蒔くんだよと教えられたことがありましたが、中々難しいことだと思っていました。

道元禅師様の教えに、永平寺の前の谷川の水で洗面‥柄杓で水を汲んで使った後、使い残しの水を地面にまいて捨てずに、川にもどせと教えられたということです。つまり、水にはいのちがある。そのいのちを使わせてもらったのであるから、余ればそのいのちを地面に捨てて殺さずに、川の流れに返して生かさなければならないという。

一粒の種でもその『いのち』を大切にされて農事に励まれる姿に感銘を受けました。

お彼岸を迎える心

岐阜市 洞泉寺 住職 岸 真量 師

九月も半ばになり、もうすぐ御彼岸を迎えます。御彼岸にはお寺での法要に参加したり、先祖のお墓参りをします。また、この一週間は仏教の徳目である六波羅蜜を実践する仏教週間でもあります。その最初の徳目に「布施」がありますが、曹洞宗の経典、修証義には「その布施というのは貪らざるなり」とあります。何か物やお金を施すのではなく、「貪らない」「必要以上に求めない」という事こそが布施であり、その心で施しをして、自分の欲を捨てなさい。と説かれています。

例えば電気の事を考えてみましょう。自分が節電をすれば、不要な電力消費を抑えて他人に施しているとも言えます。冷蔵庫、テレビ、照明など全て省エネの機器に変えて、必要以上の便利さ、快適を求めないということです。あの時、東日本大震災の時でも日本全国での節電によって、原発が一基も動いていなくても、電力不足を切り抜けて来ました。

「奪い合えば足らぬ分け合えば余る」です。

「放てば手にみてり」とは道元禅師のお言葉ですが、欲を握りしめたままでは何も掴めない、手を離せば何でも掴むことが出来、自由になるということです。

御彼岸を迎えて、布施の心でもっと自由になりませんか。

 ご 縁

岐阜市 龍雲寺 住職 梅村季弘師

新しい元号、令和となりました。平成は、災害が多かった印象がありますが、令和には、穏やかさと平和を望んでいます。

先日シンプルギフトという映画を観ました。

アフリカ、ウガンダのエイズで、親を亡くした子供たちと、津波に親を奪われた東北の子供たちが、ある縁を得て、ニューヨークブロードウェイの舞台を目指す、というドキュメンタリーでした。どんな境遇にあっても、人には、出会い、縁が訪れます。逆境の時、楽しい時、失意の時、幸せの時、その一瞬一瞬に、その後の人生に影響を及ぼす出会いが訪れています。私自身、今このお寺で住職をしているのは、数々の出会い、縁によるものだと日々感じています。今回、この出会いの素晴らしさを教えてくれた、映画を観る機会を与えてくれたのは、檀家の方との、ご縁でした。この縁は、私に出会いが生む人生の素晴らしさを教え、人と人とをつないでいく、大切さを改めて、認識させてくれました。

仏の導きによる良き人との出会い、これは、先程も言いましたが、だれにでも訪れます。良き縁は、いつ訪れるかは、人それぞれです。良き出会いにめぐり会うためには、今の暮らしの中で己を常に見つめ、一日一日を大切に生きることが、一人ひとりの人生を豊かなものにし、未来へとつながっているのです。

 

功の多少を計る

高山市 慈雲寺 住職 小林孝明師

京都の仏具を扱う方から、僧侶が身に着けるお袈裟や法衣は、いかに多くの人の手間に支えられているかを教えていただきました。

着物が手元に届くまでには、少なくとも十二の行程を経ているのだと言います。

図柄やデザインをお願いすることからはじまり、下絵をもとに型を彫る職人さん。生地の選定や色合わせの後、染めの職人さんを経て染料を定着させます。水で洗い流したあと仕上げ加工を施し、ようやく反物が完成します。次に縫子さんが縫製をします。お袈裟ならヒモをつくる職人さんも関係しますし、桐の箱を作る人や箱に文字を書く人、さらに風呂敷を作る人などの手も必要です。

お釈迦さまの時代のお袈裟は糞掃衣とも言われ、使い道のない捨てられた布を縫い合わせて身にまとっていました。文字通り、糞(汚物)をぬぐった後の布を洗って縫い合わせたものでした。

僧侶が身に着ける法衣やお袈裟は、たくさんの職人さんの手を経て、いまここに存在します。心して身に着けさせていただかねばと思います。

着物だけではなく、お米や食べものなどもおなじです。

曹洞宗では食事の前に「五観の偈」を唱えます。そのはじめに「功の多少を計り、彼の来処を量る」があります。この食事がどれだけ多くの人の手間に支えられ、どのような場所から食材が届けられたかをよく考え、感謝していただきましょうという意味です。

覚えておきたいお言葉です。

 

同事の心

飛騨市 洞雲寺 住職 大森俊道師

東日本大震災よりかなりの月日がたちました。

発災1年後より宮城県の知合いを頼りに復興行脚、行茶活動等に参加して参りました。

毎年ある仮設住宅を訪れ、行茶活動に参加した時の話です。

緊張して仮設住宅の玄関のドアを開けました

仮設住宅で、不自由な生活をしているのに

皆さん笑顔、拍手で出迎えられました。

積極的に話をして下さいました。逆に元気を頂いたように思えました

ただ、津波の話になると、目に涙を浮かべていました。明るく元気に見えましたが、私は皆さまの一側面を見ただけで、その裏には、

深い悲しみ苦しみが隠れているのだと、思いました。私の自己満足でボランティアに参加したのではないか、本当に被災者の方々の苦しみ悲しみを分ろうとしたのかと、反省しました。

『修証義』に『同事というは不違なり自にも不違なり他にも不違なり』という一節があります。『同事』とは、他人と自分の心を一つにする事、自分の心に背かず、他人の心もにも背かない事、つまり対立や区別を持たず

自他供に喜びや悲しみを共有する事です。

被災者の方々の悩み苦しみは、実際私も経験しなければ分らない事かもしれませんが、それでも相手の立場に立ち悲しみ、苦しみ、自分の事として受け止め、少しでも心の支えになれるのではないか。

初めて行茶活動をした後、ある方に『また来てくださいね、どれだけの被害があったか

地元に帰って伝えて欲しい、また話を聴いて欲しい』と言われた事が心に残りました。

時が経ち、各地で大雨、地震等の災害が起こり、また多くの悲しみ、苦しが生まれました。同事の心を持ち寄り添いあい、皆が心から笑える日々がおとずれるよう供に歩んで参りましょう。

思うがままにならない

高山市  素玄寺 住職 三塚泰俊師

 

先日の事ですが、お寺の大切な行事の前に風邪をひいてしまいました。その為に、やらなければいけない仕事が山積みなのに、思うように体が動かず、上手くいかない現状に腹をたてて過ごしていました。

よく考えれば風邪をひいたのは、健康管理をしていない自分の責任なのですから、「それまで忙しかったから」とか、「天候が不順で寒暖の差が激しすぎるから」と、周りの責任にしようとする愚かな自分に気付きました。

皆様も普段の生活の中で、何だか不思議な位に自分が思うように上手くいく時と、その逆に、どんなに努力をしても、なかなか思い通りいかない時がありその度に喜んだり悲しんだり、怒ったり、泣いたりされる事があるのではないでしょうか。

事柄の大小はあっても、この世の中は、私たちの心の思うがままにならない事ばかりです。生きる事もそうであれば、死ぬ事も思うようにならない事です。

仏教の死生観について、宗教評論家のひろさちやさんはこう解説しておられます。

「仏教では人間の存在を「苦」と見ている。大乗仏教では、「苦」とは苦痛という意味ではなくて、「思うがままにならない」という意味であり、生まれ、生きていく事、老いていく事、病んでいく事、死んでいく事は、どれも思うがままにならない事である。それを「思うがままにしよう」として苦しんでいるとすれば、そうしなければいい。なるようになると、しっかり覚悟してそれを「明らかにする」事が大切である。死後の世界を考えず、しっかりこの人生を生きればいい。」

曹洞宗の宗祖、道元禅師は「生の時は生、死の時は死であり、一日一日、一

呼吸一呼吸、一瞬一瞬の中に私たちは、生まれ、死んでいる。この一呼吸が最期になるかもしれない。だから、日常生活の一つ一つが、一期一会だと思い、今、ここ、このことに一生懸命に立ち向かわなければならない。」とお示しです。

「変えられない自分の周りの様々な事」に目を向けるのではなく、「変えられる事」に精進努力して毎日を生きていく事が大切な事なのでしょう。

 

 

お不動様

飛騨市  林昌寺 住職 中川芳秀師

 

お寺の近くにお不動様を祀ったお堂があります。毎月二十八日の縁日には、近所や信者の方が集まり、皆でお経を唱えお参りをしています。私も住職になって毎月欠かさず勤めてまいりました。

しかし今年四月の二十八日、その日私は朝から体調を崩し休んでおりました。休日で病院はやっておらず、寝ていれば良くなるだろうと安易に考えていたせいで、熱は上がるばかり。とうとうその日お参りすることが出来ませんでした。集まった方達にも申し訳ないと思いながらも数日間寝込み、その後も忙しく過ごすうちにすっかりお不動様の事も忘れておりました。

翌五月二十八日、二か月ぶりにお不動様の前へ座り、いざ法要を勤めようと太鼓を一つ打ちました。すると音がいつもと違います。ドンというお腹まで響く音ではなく、パコというなんとも情けない音がします。太鼓の裏を見ると革の一部に穴が開いていました。音を聞いたお参りの方も一様に顔を見合わせ気まずい空気が流れます。私はハッと二メートル以上もあるお不動様を見上げました。左右の目で天地をにらみ、牙をむき、両手に剣(つるぎ)と縄を持つ姿は、いつも見慣れたはずでしたが、その日はいつにもまして厳しいお顔にみえました。

「体調管理を怠るな、まさか怠け心はなかったか、仏具を丁寧に扱いしっかり管理しなさい、集まる人に迷惑をかけていけないぞ。」

全てを見透かされ、諭された気持ちでした。

全ては因縁でつながっています。体調管理を怠りお参りもせず、仏具の手入れもままならないまま、更にはお参りに来た人たちにも迷惑が掛かりました。日々の行いが色々な形でその後の自分に還ってまいります。皆さんも、一日一日を大切に、日々精一杯お過ごしください。

心のふるさとを求めて

高山市 善久寺 住職 近藤洋右師

 

私は思案に迷った時、困った時、また悩みがあった時、我が子を叱りすぎ反省する時、居ても立ってもいられずよくお寺の本堂に、一人で坐ります。思い悩む心を持て余しながら、静寂を求めて本堂に坐り、お釈迦様を拝みます。お釈迦様はいつも何事もなかったような、穏やかなお顔をしておられるだけで、何も答えてはくれません。しかし、不思議と、いつの間にか心が落ち着き、すがすがしい心地になります。

私たちの毎日は、あまりにも多忙です。あれこれと考えているうちに、月日はあっという間に過ぎていき、心を落ち着けて、自分自身をみつめる暇もありません。落ち着いていたら、世の中に置き去りにされそうな気がします。

しかし、これは間違いであります。今の世の中のように、多忙な時こそ、静かに自分自身をみつめるということが、大切なのではないでしょうか。さいわいお寺は静かであり、心を落ち着けて、自分自身をみつめるには、大変良い場所です。

お寺は騒々しい現代社会にありながらも、私たちの「心の依り所」「いこいの場所」であります。

菩提寺を訪ねられてはいかがでしょうか。

最後に昭和の詩人坂村真民さんの詩をご紹介します。

死のうと思う日はないが

生きて行く力のなくなることがある

そんな時、お寺をたずね

私は一人、仏陀の前に坐ってくる

力湧き明日を想う心が出てくるまで坐ってくる