テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「挨拶は心温まるもの」

郡上市 北辰寺 住職 岡本幹彦 師

ある日の事です。郡上市の国道156号線を自家用車で走っていました。信号のないのどかな田舎道です。ところが、急に前の車が止まりました。車間距離も離れていましたので、難なく止まることが出来ました。よく見ると、もう少し先に横断歩道がありました。横断歩道には、自転車を引いた子どもたちが立っていました。前の車は横断歩道で、子ども達が立っていたから止まったのでした。私は早速ハザードを付けて、後ろの車に知らせました。前方から走ってくる車も横断歩道の前で止まったので、子ども達は自転車を引いて渡っていきました。渡り終えると、子ども達はふり返り大きな声で「ありがとうございました」と言って頭を下げました。私はニコッと笑いかけて、手を上げました。何だか心が温かくなってその後の運転も楽しいものになりました。

人と人の出会いは「挨拶」で始まります。どんな挨拶をするかで、その後が決まります。私の心が温かくなり楽しくなったのは自転車の子ども達の「挨拶」です。「挨拶」は人と人とのつながりを支えます。

さて、「挨拶」という言葉です。この言葉は仏教、それも禅の言葉から出ています。中国の仏教書「碧巌録」には「一挨一拶」お互いに相手の悟りの深い浅いを試すこととあります。それが「挨拶」となりました。挨拶の挨は軽く押し開くこと、挨拶の拶は強くふれ迫ることです。仏教では出会いの中での「挨拶」は重要なこととなります。自分の心を開いて「挨拶」をすることで相手の心も開きます。

おはようございます。おやすみなさい。こんにちは。ありがとうございました。さようなら。ごめんなさい。いただきます。「挨拶」はコミュニケーションのツールです。

私達は、人と人とのつながりの最初のアクションである「挨拶」を忘れないようにする事で、温かい世の中となる事と思います。

「命を支えている食事」

関市 延寿寺 住職 早川明宏 師

私達の命を支えている食事とは、他の動植物の命を戴くことです。人間だけでなく他の動物も、食べることによって体内に栄養を吸収しています。地球の生態系は食物連鎖のバランスで保たれています。満腹のライオンは決していたずらに狩りをしません。ほとんどの動物は自分より弱い生き物によって自分の命が支えられている事を本能的に知っているのかもしれません。乱獲は、自らの命を滅ぼすことになってしまいます。

植物と動物とは、二酸化炭素と酸素の相互依存関係です。このように私達の命は、生態系の調和によって保たれています。現在の地球上の全生命体の起源は、三十七億年前に生まれた一個の細胞でした。それが分裂しながら遺伝と進化を繰り返して、現在の生態系となりました。その意味では生命は同根であり、命そのものに、優劣・上下・貴賤はありません。生命は平等であり、何よりもかけがいのない存在です。その平等な生命奪うのが食事ですから、食事という殺生を懴悔し、頂戴した命に感謝しましょう。

「同事の行い」

美濃市 善應寺 住職 雲山晃成 師

皆さんは、修証義と言うお経は知って見えるかと思います。

そのお経の中に四つの大切な行いが、記されています。

今回はその四つの行いの一つ同事について、お話をさせて頂きます。

同事とは、同じと言う字と、事と言う字です。事を同じくすると書きます。

たとえば、水を器に入れるとします。水はその器に隙間を作らず、ぴったりとあって器に入ります。どんな形の器にもぴったりと自ら形を変えて入ります。しかし、水自体は形は変われど、何も変わりません、しっかりと水であり続けます。

人間の如来は、人間に同ぜるが如しと道元禅師様が言われているように、仏様が人を導く時は、仏様の姿ではなく人の姿になって導かれるのです。

同事とは、人に寄り添い周りの人達と融和協調し、時には助け合いながら行う菩薩経です。どんな人にも水のように柔軟に、ぴったりと心を寄せて行うことが出来たならば、仏様に私が変わって行ったと同じことなのでしょうね。

『目に見えないもの」

美濃市 永昌院 副住職 高橋定佑 師

こんにちは。今日は「目に見えないもの」についてお話ししたいと思います。

皆さんは「いのちのつながり」について考えたことがありますか。私は、以前教員として中学校に勤務していた時、子どもたちに「いのちのつながり」について考えてほしくて一冊の絵本を紹介したことがあります。『ヌチヌグスージ』という本です。「ヌチヌグスージ」とは沖縄の方言で「いのちのまつり」という意味だそうです。

舞台は沖縄のお墓参り、島独特の大きなお墓に親戚一族が集まります。絵本の中で、おばあさん「おばあ」が坊やに、「坊やにいのちをくれた人は誰ねー?」と聞くと、坊やが「それは・・・・・・、お父さんとお母さん!」と答えます。

いのちのつながりについて、独特で親しみのある挿絵と言葉で展開され、坊やの頭の中ではお爺さん、お婆さん、ひいお爺さん、ひいお婆さん。さらにその前へと、いろんなご先祖様の顔がグルグル回り、つながりの数が2倍、2倍、さらに2倍と増えていきます。

そして、つながりあう一人ひとりの顔が、紙面いっぱいに無数に描かれ、広大無辺ないのちのつながり、広がりを感じることができます。

絵本の中では、いのちのつながりを数として取り立てて見ることはしていませんが、あえて数字で見てみると

その数は10代で2000人を超え、20代遡るとご先祖さまの数はなんと200万人を超えます。

物凄い数です。しかも、そのご先祖さまそれぞれに、今私たちが生きているのと同じように、喜びや悲しみ、苦しみがある中でつながれてきた。そうやって考えると、素直に感謝の気持ちが湧いてきます。

つながっているのは勿論、いのちだけでありません。

私たちは目に見えるもの、誰が見ても分かりやすいものに意識が偏りがちで、目に見えないものはあまり意識されません。しかし、その目に見えないもの、存在によって、確かに私たちの日々の営みは支えられています。

社会環境の変化が著しい時代だからこそ、その変化に振り回されることなく、ご先祖さまを始め、目に見えないものに想いをいたし、その複雑な絡み合いから、時には苦しみに近いものがあったとしても、少しでも感謝につながる気持ちをもてることが大切です。

そうすることよって、私たちはよりよい未来を描いていくことができるのだと思います。

自ら先に直す

関市 永昌寺 住職 鬼頭周賢 師

皆さん、こんにちは。

日頃、相手の欠点ばかりが目につきイライラしてしまうことはないでしょうか?夫婦の間でも、親子の間でも、兄弟姉妹の間でも、他人との間でも、自分の悪い所を反省して直そうとするよりも、相手の悪い所ばかりが目について、それを指摘し直させようと責めているのではないでしょうか?

相手を責めれば責めるほど相手は責め返してきますし、相手ばかり責めて悪い所、気にいらない所を直させようとするのは少しも効果のないことです。この話を聞いて「なるほど」と思い、この話を相手に押し付けて自分は反省しない愚かさを私達人間は持っています。

人間のこうした愚かさを思う時、静かに自分を見つめる時間を持つことが如何に大切で必要であるかということに気づきます。「自分を見つめ、まず相手より自分が先に直していく、そうすれば自ずと相手も直ってくる」と知ること、悟ることこそが大切です。

現代は、あらゆる面で批判の目を持つことが大切と言われ、その目を養うことが必要とされ、それが世の中を見極めることとされています。確かに必要な事です。

しかし、日常生活の中での人間同士の関わり合いには、自分をしっかり見つめる目があってこそ、自分を見つめ直すことが出来てこそ、人と人との交わりを円滑に保つ重要なポイントであることを忘れてはなりません。

まず相手を責めるよりも、深呼吸をして自分を見つめ直すことから始めてみましょう。

「言葉の力」

加茂郡白川町 住職 宇都宮英俊 師

近頃では、テレビの報道などで発言した言葉で責任を負う場面をよく見かけます。どのような場面でも、言葉で伝えることの難しさがあり、使う場面で状況が変化し良いほうへも悪いほうへも進む力があり、言葉の力というものは影響力を持ちます。

公の場以外でも気を付けなければならない場面が多々見られ、言葉を発するときには気を遣うこともありますが、必要以上に構えてしまうと言葉を発せなくなります。

言葉は人と人とが伝えあう大切なコミュニケーションのひとつです。身近なところでは挨拶があると思います。家族に朝起きたら「おはようございます。」と、お互いに声を掛け合います。そのときに相手から返事がなかったり挨拶の声の明暗でその日の調子が伺えたりもするものです。

家族以外でも学校、近所づきあい、会社などでも会えばまず挨拶をしますが、その人その人でその日の様子がうかがえるものです。

言葉には秘めたる力があります。一番の言葉の力は自分自身を鼓舞する言葉であります。例えば今描いている夢や希望を口に出したり、前へ進むために気持ちを高めたり、自分に自信が持てるよう言葉を発して奮起させることです。その発した言葉は言い続けることで、夢への実現につなげたり、くじけそうになった時にも必ず支えて前に進める力となることでしょう。

良い言葉を発すると自然といい流れになるということ、このことは古より伝わっていて、仏教の教えの中の愛語という教えがその中で息づいています。良い言葉を掛け合えば人の心は穏やかになります。罵声や人を傷つける言葉を発すれば心は病んでいきます。

このように私たちは、生活していくうえで言葉の掛け合い方ひとつで、様々な影響を受けやすいということがわかり、言葉は非常に大切とされることを体験します。

家族や友人、近所の方や勤め先などで話すときは、言葉には力が宿っているということを思い発することで、言葉に重みを感じ、自然と優しい言葉を使うようになることでしょう。言葉を出す前に一度頭と心で考えて発すると相手に気持ちが伝わるのではないかと思います。

それではまず相手に気持ちのこもった挨拶をして、言葉の秘めている力を感じてみてはいかがでしょうか。

「しあわせ」の見える目・目を開けて眠っている人

関市 満願寺 住職 酒井能道 師

人間は無くてもがまんできることの中に、しあわせを追い求め、それがなくてはしあわせなど成り立ちようのない、大切なことを粗末に考えているようです。たとえば、子どもが優等生で有名学校に入学するというようなことの中に、しあわせをを追い求めるあまり、子どもが健康でいてくれるというような、それなしにはしあわせなど成り立ちようのない大切なことを粗末に考えているのではないでしょうか。「それなくしては、しあわせなど成り立ちようのない大切なこと」「あたりまえ」のすばらしさの見えない人、そういう人を「目をあけて眠っている人」というのです。

 あたりまえのすばらしさ、それは、朝目が覚めて吸う澄んだ空気、仰ぎ見る大空と明るい日差し、風の気持ちよさ、鳥のさえずり、一杯の水のありがたさ・・・・・どれもこれも、あたりまえのことですが、なんらかの事情で五感で感じる、それらのことが出来ない多くの人がいるのです。そう考えると、私たちは、決して「目をあけて眠っている人」になってはいけません。

 盲学校の全盲の生徒が、「先生、そりゃ見えたらお母ちゃんの顔が見たいわ。でも、もし見えたら、あれも見たいこれも見たいということになって気が散ってダメになってしまうかもわからへん。見えんかて別にどういうことあらへん。先生、見えんのは不自由や、でも、ぼく”不幸や“思ったこと一ぺんもあらへん。先生、不自由と不幸は違うんやな」と言ったといいます。大好きなお母さんの顔さえ見ることができない、光のない世界を生きながら「不幸や思ったこと一ぺんもあらへん」と言い切ることのできる、この子の「しあわせの見える目」を思うと、私などずかしくなってしまいます。

 

「慈悲の功徳・心を届けよう」

宗務所所長 安養寺 住職 小島尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

新年号令和元年は暮れ、令和二年の新しい年を迎えました。

しかし、昨年は度重なる自然災害が生じ、その度に涙し、心を痛める一年でした。

被災された方々は、その中前を向いてしっかりと歩み出されています。

私たちは一人では何もできないかもしれませんが、一人一人が繋がり、大きな輪となれば悩みや不安の中から抜け出すことができることでしょう。

その輪となり、人々をお助けする力となるのに、菩薩の願い、四つの智慧(四摂法)の実践がありません。

・一つには/布施-貪らず、この世とあの世の幸せへの種蒔きをする-人の役に立てるべき、僅かなものであっても自分の持てる力で素直な気持ちで広く施すこと-

・二つには/愛語-心を満たす愛情の言葉を送る-人のことを思うとき、慈しみの心を持って、優しき言葉を差し向けること-

・三つには/利行-助け合う喜びの心を持ち合わせる-困っている人がいれば、だれにでも素直な心で救済すること-

・四つには/同事-逆らわず、押し付けず、へつらわざる慈悲の心を持ち伝える-相手を思い、悲しみや苦しみを共にし、自分を相手に和し、同じくして、協力をなすこと-

被災地の復興にはまだまだ、時間もお金もかかることでしょう。

岐阜県宗務所として、皆様の心を届けたく菩提寺さんを通じて、復興義捐金を募りたいと思っている次第でございます。

今、私たちのできることは、僅かなことかもしれませんが、皆様の人を思う心が一つの輪となって、四つの智慧を実践することが、復興への手助けとなることと強く思います。

本年が皆様にとっても良い年とならんことを願い、共に精進してまいりましょう。

「変化を受け入れる」

関市 大龍寺 住職 竹山玄道 師

私達の身の回りには何時も何らかの変化が起こっています。体型は変化する。親は年を取る。人間関係も、ビジネス、経済天候も、環境も変化する。ゆっくりと変化することもありますが、ある時一瞬にして全てが変わる場合もあります。様々な変化を自然に受け入れられるようになると、得るものは多いと思います。もちろん言うは易く行うは難しなのですが、実際人生の様々な局面で変化をシンプルに考えるようになると、くよくよする回数がぐっと減るはずです。私達は、変化というと、まず、不安や恐れを抱く事が多いです「ああ、年は取りたくないものだ」「定年後は何をすべきか」などなど、必ずというわけではありませんが、変化とは辛く悲しい方へ変わることだと思っています。しかし、変化を楽しんで積極的に考えれば、不安は軽減することがあります。「ああこのままでいいのに」と思うのと「ほら何かが変わるよ」と思う事では雲泥の差があります。それは、期待に胸膨らませ変化を受け入れるか、あるいは不安でいっぱいになるかの違いです。ある新聞に掲載されたNK細胞の活性化で知られる、昇幹夫氏が著書「笑いを科学する」に書いてあった話を最後に紹介します。泣くはシクシクで4×9で36。笑うはっはで8×8で64足してちょうど100泣いて笑って、でも笑いの方が少し多かったらいい人生という考え方です。素敵ですね。今年の五月には、平成から令和に年号が変わりました。そして、その令和元年もあと数日で変わろうとしています。私たちがどう思うおうと変化は必ず起きます。穏やかな気持ちで変化を受け入れることが出来、笑いとばすことが出来れば、その分人生は楽しくなるはずです。今年最後の大晦日お寺で除夜の鐘を突き煩悩を払い一年の辛い闇を除き、新しい新年を迎えたいですね。

「怒りをおさえる」

関市 立蔵寺  住職  伊藤智純 師

アンガーマネジメントという言葉をお聞きになったことがあるでしょうか

日本語にすれば「怒りを管理する技術」といった意味になるでしょうか、1970年代のアメリカで始まり、パワハラ、セクハラなど他者への攻撃的態度が問題化するなかで日本でも企業研修に取り入れられることが多くなっているそうです。

怒りはもともとは、動物にとって自分の身が「危険にさらされた」と感じたときに起こる防衛反応であり根源的、本能的な感情なのですが、人間の場合、必ずしも身体的な危険ばかりでなく自尊心や名誉、信念や価値観に対しても同様の反応を起こし、攻撃されたと感じてしまうことで人間関係を難しくしてしまっているのです。

怒りをどうコントロールすればよいのでしょう。

怒りは極めて衝動的であり、いかりのピークは最初の6秒間だそうです。

6秒以内に反応してしまうと、物に当たってしまったり、相手にひどいことを言ってしまったり、あとで後悔することになりますから、まずは深呼吸をしたり、その場を離れてしまうことも有効だそうです。

怒りは現実ではなく思考であるといいます。

目の前で起こった出来事に自分で意味づけをして、それに対して怒っているのです。

怒りのうらには「何々するべき」「何々であるべき」という自分の価値観とそうではない他者の価値観の衝突があります。自分と他人を客観的にみる訓練をすることで怒りを抑えることができるようになるでしょう。

怒りは二次的な感情であり、もとになる不安、心配、残念、恥ずかしいなどの一次感情の表現の仕方である、といいます。

自分がなぜ怒っているのか、もとの感情をよく理解すれば怒りのエネルギーは小さくなり、また相手に伝えるにも怒りそのものでなく、もとになった感情を上手に伝えた方が受け入れてもらうことができるでしょう。

仏教において「怒り」は克服するべき3つの煩悩「貪り、怒り、無知」の一つに数えられ、3つの毒「三毒」と呼ばれています。

仏陀は「怒りを捨てよ」「毒の根であり甘味を損なうものである怒りを滅ぼせ」「巧みな御者が走る車を抑えるように、むらむらと起こる怒りを抑えよ」と繰り返しお示しくださっています。

まずは最初の6秒間、と心に気を付けてみてはいかがでしょうか。