テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「当たり前と思わぬ心」

多治見市 安養寺副住職 小島泰寛 師

間もなく令和2年度が終わりを迎え、新しく令和3年度がやってまいります。

年度替わりのこの時期は出会いと別れの季節であり、新生活の始まりの季節でもあります。

毎年、年度が替わるころ、その年度を振り返り、次の年度に向けて気持ちを新たにされる方もいらっしゃるでしょう。

私も昨年度末、来る令和2年度に向けての抱負を持って新たな年度を迎えようとしていました。その抱負の中に「やろうやろうと思いながら昨年度中にできなかったから来年度にはやろう」と思っていたことがいくつかありました。

しかし、結局それは叶いませんでした。

ご存知の通り、この令和2年度は新型コロナウイルス感染症による未曾有の状況によって私たちの生活が大きな影響を受けました。

「当たり前」だ思っていたことが「当たり前」でなくなった。そんな一年ではなかったでしょうか。

お釈迦様は「諸行無常」だとお示しになりました。「世の中のすべてのものは常に変化し続ける」すなわち「この世に当たり前に存在し続けるものはない」という教えです。

私も頭では理解していたつもりの「諸行無常」。しかしながら心のどこかでは「また同じ機会がやってくる」そう思っていた部分がありました。

だからこそ、「すべきこと」「しなければいけないこと」をまた「いつか」と先送りにしてしまい、心のどこかで「当たり前」だと思っていた日常が「当たり前」でなくなった時、私の思い描いていた「いつか」はついにやって来なかったのです。

いつか、また今度、と思っている間に私たちの限りある人生は終わってしまいます。「いま」すべきことを「いま」しっかり行っていく。この繰り返しが私たちの人生を豊かなものにしてくれます。

「いま」すべきことは何か。常に自分に問い続け、それを実行していく強い心を持ち、日々実践していきましょう。

「日日是好日」

高山市 慈雲寺 住職 小林孝明 師

十年前の三月十一日、東日本太平洋沖で起きた地震は、東北地方の広範囲に甚大な被害をもたらしました。福島第一原子力発電事故の被害も、万人周知の事実です。

また、数年前から毎年起こる豪雨災害は、被災からようやく復興しはじめた人たちに対して、傷口に塩を塗るような試練を与えています。

古くは文政十一年、現在の新潟県に起きた三条地震という大地震がありました。この地方に被害があった人に、江戸時代の名僧良寛さまが送った手紙があります。要約しますと、

「地震はまことにたいへんでした。突然のことで、こんな憂いを見ることはやりきれないことです。

しかし、災難に遭う時には災難に遭うがよく、死ぬ時には死ぬしかありません。これは災難を逃れる妙法であります」と。

災難に遭ったら災難を受け入れよ、死ぬときがきたら死を受け入れよ、私達にはかなり難しいアドバイスですが、仏教は常に、死と苦悩を見つめていかに今を生きるかを説きます。

災難も死も、日常生活から離れて存在するものではありません。日常の中には、良いことも、試練も含まれており、そこを逃げずに生ききって毎日を送ることを「日日是好日」と言います。

仏教は、日々の過ごし方を問い続ける道であると言えるでしょう。

「涅槃会に思う」

高山市 善応寺 住職 中井光博 師

二月十五日はお釈迦様の亡くなられた日、涅槃会でございました。

お釈迦様は、生まれ生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、いずれは死んで行ってしまうという不安の苦しみ、この生老病死という避けては通れない苦しみに向き合うことで、出家され修業を積み、お悟りを開かれました。

私たちもこの一年、新型コロナウィルスという大変な苦しみの中で生活してきました。

世の中の状況の変化の中で生活に対する不安、感染して病にかかる不安、それにより誹謗中傷される不安など、多くの不安の中での生活を強いられました。

そのような心の不安のせいなのか、感染者や自粛が十分でない方、自分とは考えの違う方に対して、激しく非難したり誹謗中傷する場面も多く目にすることもありました。

また、それとは反対に「コロナ過によって、生活に困る弱いものに寄り添う方々」「困難に立ち向かい人を助ける医療従事者」「世の中を何とか立ち直らせようと努力する方々」を目にすることもありました。

同じような状況の中で、人によってそれの受け止め方が違い、行いにも随分と差があったのではないでしょうか。

お釈迦様は、生老病死という如何ともしがたい苦しみに真剣に向き合うことで、自分を悟りの境地まで昇華されました。

こういう時だからこそ、様々な苦しみの中におられる自分以外の方々の立場に立って、その苦しみを自分の事のように受けとめ生きることが大事ではないかと考えます。

コロナ過の時代を、ただの苦しみだけの時とせずに、こういう時だからこそ人間らしい理性ある行動や思いやりを持って生きることが、今のこの苦しい時だからこその、私たちの修業なのかもしれません。

「やっぱり怒ってもらえるうちが華…でした」

高山市 雲龍寺 副住職 亀山和浩  師

曹洞宗をお開きになられました道元禅師さまは、私たちの暮らしがより良いものになるように実践するべき行いとして「利行」を説かれました。読んで字の如く、人の利になる行い、人の為になる行いを進んでしましょうというお教えです。仏教に限ったことでなく、社会通念上としても当たり前のことだと思います。ですがこの当たり前と思われる「利行」が何とも難しいことだと思う今日この頃です。それは何故かと言えば、人の為になるのであれば、注意をすることや、時に叱責することも「利行」であると思うからです。皆様にはこのような経験はございませんでしょうか?ちょっと注意をしようと喉まで言葉が出てきたけれどそのまま飲み込んでしまった。嫌だと思われたくない、私がしなくても誰か他の人がしてくれるかも、ひょっとしたらパワハラになってしまうのではないか。そんなことが脳裏をよぎり思いとどまってしまう。また、その相手がどうでもよい人であったり、この人には言っても無駄だと思えばやはり注意を控えるでしょう。誰も好き好んで注意したり怒ったりしたい人はいないはずです。そもそも注意をする方がその事柄をきちんと出来ていない場合、その注意は何の説得力も持ちません。注意する、怒るというのはそれほどパワーと責任感のいる行いだと思います。恥ずかしながら最近久しぶりにきつくご注意をいただくことがありました。人間きつく注意されればがっくりと落ち込むものです。私もその時は大変へこんだものです。ですが、今は本当に有難いことだと感謝しています。私がその時配慮を欠いていた事に気付かせていただけたこと、そして何より私に対して真剣に向き合ってくださっていることの証がそのご注意だったと思うからです。昔は「怒ってもらえるうちが華」という言葉をよく耳にいたしました。人に対して無関心という風潮が当たり前になりつつある今、真剣に注意をしてもらえる、怒ってもらえるという最高の「利行」の有難さを今一度認識したいものです。

お焼香について

恵那市 普門寺 住職 東谷英昭 師

法事や、葬儀に参列すると 必ず焼香をしなければならない。

 焼香には、その香気によって仏前を清めると云ういみがあるためだ。

 参列者全員が焼香することにより、儀式が遺族と僧侶だけのものではなく、広がりの有るものとなるためだろう。

 焼香には「抹香」を焚くものと、「線香」をあげるものがあるが、葬儀や法事では、抹香を焚く場合が多い。

 宗派によって、焼香の作法は多少異なるが基本原則は同じである。

 数珠を両手に掛け位牌、写真を仰いで

合掌 礼拝をする

 左手に数珠を持ち、右手で香をつまみ

軽く左手を添えて額に押しいだき念じて

から静かに香炉の中に入れる。

 一度目に焼香した お香のそばに二度目の焼香をする 三度目は額に押しいただかなくて良い

 再び数珠を両手にかけ 合掌礼拝する

 遺族に会釈して退く

 焼香は、お釈迦様から続けられた儀式であり、自らの精進を表しています

 仏教伝来とともに、身を清め、仏を供養する習慣として儀式に取り入れられました

 俗に、「線香臭い」と云う言葉があるが、お香の匂いが衣類に染み付いた様を云うもので、お坊さんの香、面白みのないことを指す言葉であるとかないとか。

「共に助け合いこの困難を乗り越えよう」

岐阜県宗務所 所長 安養寺 住職 小島尚寛 師

新年明けましておめでとうございます。皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴頂き御礼申し上げます。

昨年は新型コロナウイルス感染症に恐怖や不安を抱え、悩まされる一年でした。

しかし、その中、医療従事者の皆様を始めとして、この苦境に立ち向かう多くの方々に敬意と感謝の気持ちをお伝えしたいと存じます。

私たちはとかく、目に見えない恐怖や先行きに分からない不安の中に、それを遠ざけようとして、自ら冷静さを見失い、誤解や偏見、差別・風評被害を起こしがちになっているやもしれません。

「人間は考える葦である」不正確な情報に惑わされず、正しい見識を持って、この時こそ静かに自分自身を見つめ直す機会と捉え、今の困難に直面しているのは自分だけではないことを弁え、他人の苦しみも同様に共感できる思いやりを忘る事無く、「慈悲の心」を持って昨年のお正月にもお伝えしましたが、人々をお助けする力となる菩薩の願い、四つの智慧「布施」「愛語」「利行」「同事」という「四摂法」に従って前に進みましょう。

私たちは一人ひとりが、苦しみ、悲しみ、悩みを分かち合い、共に助け合いながら、逆境を順境に転じて、この苦難を乗り越え、維日を早く、元の生活に戻れるよう、新しい日を迎える事が出来るよう、努めて参りましょう。

「明けない夜はありません」

・ともに学び

・ともに願い

・ともに実践してまいりましょう

「コロナに負けるな」 合掌

「除夜の鐘と三毒」

中津川市 萬獄寺 住職 皮地昇雲  師

今年も早いもので師走となり、間もなく大晦日を迎えます。

12月に入ると、お正月を迎える準備で忙しくなります。例えば、大掃除をしたり、餅つきをしたり、門松の準備をするご家庭もあるでしょう。そのほか、地域に伝統的に伝わる多くの民間の行事にならって、新年を迎える準備を行うことと思います。

さて、12月31日は大晦日と呼びます。昔は、毎月の終わりの日を晦日と呼んでいました。そして、この12月の終わりは1年の終わりなので、特別に大晦日と呼ぶようになったのです。

この大晦日は1年の最後の日で、古い年を除き去り、新年を迎える日という意味から「除日(じょじつ)」といい、その夜は「除夜」といいます。この除夜に煩悩を祓うために打つ鐘を「除夜の鐘」ということは誰でもご存じで、その打つ回数108回が煩悩の数に由来していることも、多くの方が知っていることでしょう。

人間には煩悩という切り離せない穢(けが)れたものがあります。

その108の煩悩をさらに突き詰めていくと、貪瞋痴の三毒に集約されます。すなわち、『貪(とん)』は、貪欲(とんよく)、むさぼりの心、『瞋(じん)』は瞋恚(しんい)、いかりの心、『痴(ち)』は愚痴、おろかな心。この三毒こそが人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心の働きで、生きていれば誰にでも表れてくる悪い心です。ここで大切なのは、それらを消すことではなく、それらが「自分の中に在ること」を知ることなのです。それによって自分が劣っていることでも、他人を見本として克服したり、他人の失敗も自分と重ね合わせることで寛容に受け止めることが出来る、ということにも繋がると思います。

除夜の鐘を聴きながら、過去の自分を反省し、清浄潔白な心になって新年を迎えたいものです。

「未来を考える」

恵那市 長徳寺 住職 松本康巡 師

今年は新型コロナウイルスの為、また豪雨などの災害もあり、本当に大変な年でありました。皆様の無事・健康をお祈り申し上げますと共に、これからも油断せぬ様、気をつけて過ごして行きたいのものです。

この様な状況の中で気付く事もありました。特に思うのは先の事をよく考えるべきという事です。先々の予定を立てたりするのは当然の事ですが、今以上に未来を予測して十分な準備・行動をする必要があると思います。

仏教で、過去・現在・未来についての教えがあります。過去は現在の原因であり、未来は現在の結果であると考え、過去には戻れないし、未来に行く事は出来ないので、今現在の一瞬一瞬をしっかりと生きて行く事が大切であるという教えです。

まさにその通りですが、現在の病気や災害などが起こる社会情勢の中、未来がどうなるか分らないという不安がありました。これからもそれに向き合い、悪い状況も想定しての対策を社会でも個々でも行って行かなくてはなりません。

社会全体でも、これを境に色々な物事がより合理的に変化して行くと思います。かなり急激な変化ですが、時世に応じて考え方や価値観は変わります。変わらずにはいられない状況もあり、時勢をみて柔軟に変化をして行く事が良いのではないでしょうか。

未来がどうなっているのかを考えて、そこからどうして行くのかを考える事が重要になると思います。更には、人生において何が大切なのか見つめ直し、改めて考える事もして行きたいものです。

「今を一心に」

関市 正武寺 副住職 岩田潤法 師

お釈迦様のお言葉のなかに「過去を想わざれ、未来を願わざれ、過去は既に過ぎ去りしものなり、未来は未だ来たらざるものなり。ただ今を一心に為せ。誰か明日の死を知らん」とあります。このお言葉は、ただ単に「過去を想ってはいけない、未来を願ってはいけない」という意味ではありません。

過去の中の思い出には、人それぞれ大事な、そして大切なものがあります。その大切な思い出を想ってはいけないというのではなく、過去にとらわれてはいけないとおっしゃっているのです。

私たちは今と比べて、「昔は良かったな」「あの時ああすれば良かった」などと思い出にひたったり、あるいは悔やんだりしますけど、思い出ばかりで過去にとらわれ現実を見ない、何もしないというのがいけないのです。

新型コロナウイルスの影響で様々な不幸がもたらされております。しかし、こうした苦境を乗り越えた経験は、コロナ禍の今こそ活かされるはずです。

また、未来についても、夢や希望を持つことは素晴らしいことですが、「今の生活が嫌だ」「ああしたいな、こうしたいな」と空想するばかりで何もしない。こうしたことがいけないのです。今を一生懸命生きること、努力することが夢や希望をかなえることに繋がるのだと思います。今晩目を閉じて明日目を開けることができるという保証はございません。だからこそ一日一日を悔いの残らないように大切に生きる。今という一瞬は二度と戻ってきません。

生かされているこの人生が、長い生命の営みの過去から未来へとつながっていく一コマにすぎなくとも、自分はその中で一つ役割を果たせたと思えた時、人はそこで自分自身の役割がなんであったか理解でき、自分の人生に満足できるのだと思います。

今あるこの命を生きるということの大切さを心に、どうぞ一日一日を大切に、そして一心に人生を歩んでいただきたいと思います。

「火を消す」

美濃市 長徳院 住職 永田将人 師

みなさんこんにちは。長徳院住職の永田将人でございます。当院は、中濃地区では引いたら倒れるようなお寺でございまして、そんななかで、この老化が激しいこの田舎の私の頭ではとても法話は務まりませんが、すこし思い出話をさせていただきたいと思います。

昔、ある関東のお寺にお邪魔していましたときに、宗門の高校に通う学生さんが参禅に来ておりました。そのなかの一人とお話しをしておりまして、その子はお寺の息子として生まれて、将来はお寺を継ぐということでした。ただ、小さな頃から夢がありまして、消防士になりたいと。その夢はどうしても叶えたいが、なかなか現実はそうはいかないと言っておりました。消防士を何年かやってからお寺を継げばいいのではないかと言ったのですが、それもなかなか難しいと、かなわないということでした。

ただまあ、消防士というのは、火を消す、人の命を救う、そういった使命がございまして、それはもちろん大事なことですが、そこに至るまで、それを予防するのがより大事なのだと思います。だから火の用心とか、いろんな火災予防といった啓発活動をしているのが実際のところでありまして、そういったことで言いますと、たとえ消防士になれなくてお寺さんを継いだとしても、人の心に火事が起こる前に予防として仏道を伝えるという、そういった伝道の活動をするということが大事なのではないかと。人を救うという意味では、お寺も消防士も同じではないかと、私の若い頭でそんな話をした思い出がございます。