「経のしずく」

神戸町 榮春院 住職 阿原道雄 師

私も寺に生まれ、育って50年近くが過ぎました、これだけ寺にいれば、少しはマシな人間になったかと我が身を反省しますと、我ながらゾッとします。

欲は深いし、すぐに怒る、愚痴は次々に出てくると、考えれば考えるほど顔が赤くなるばかりです。

皆さんには、欲をすて、怒らず穏やかに、愚痴は災いのもとと言いながら、その自分が、時には坊さんであることを忘れて行動するのだから、どうしようもありません。

「しまったなぁ」と、思う時には、後の祭りです。

こんなことでは仏教を信ずる意味が無いのでは?と、自問自答する事が多々あります。

こんな人間が坊さんをしていていいのだろうか?と、思うことも、しばしばですが、その時に出した結論は、自分は寺に生まれ、育ち、寺にいて、坊さんをしているから、この程度で居られるのだと・・・。

もし、坊さんをしていなかったら、いったい今頃どうなっていたか分からないです。

考えてみますと、私の心は組み目の広いザルと一緒です。

ザルに水を、いっぱい入れても、全てもれてしまいます。

でも、よくよく考えると、ザルの組み目に「しずく」が残っているではありませんか?

私も同じように、全てもれてしまうと思っていたのですが、それなりに「しずく」の、いくつかが、きっと残って、この程度でおさまっているのだと思いました。

それならば、寺にいること、坊さんをしていることが、私にとってどれだけ大切なことかと改めて気づかせて頂きました。

教えを受けても、その時その時は、その意味が分からなくても「しずく」は、必ず心に残ります。

逆に、教えを受けなければ、心に残らないのは当たり前なのです。

仏教の教え、人の教え、そして人との繋がりを大切にして、毎日を過ごしていきたいと思う、今日この頃です。