「無縄自縛の罠」

恵那市 自法寺 住職 小栗隆博 師

私の好きな江戸時代の禅僧で、絵をよくした、出光コレクションなどで有名な仙崖義梵というお坊さんがいます。彼の作品の一つに、道端に落ちた縄の切れ端を、蛇と勘違いして怖がる人々を描いた作品があります。

心温まる画風と、ユーモアあふれる作品の中にも、鋭く物事の本質に切り込んでいくあり方に、一枚の絵に厳しい修行を重ねた禅僧の気概が感じられます。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺があります。実際には無いものをあると勘違いしたり、あるいは人々にそう思わせることで

間違った判断を招いてしまうこともある。

これまでの数年間、多くの専門家とされる人たちが、それぞれの立場でさまざまな「予測」を立ててきました。「専門家」である以上、間違いはないであろうと皆に思われてきた人たちが、その予想を大きく外し、世間を混乱に陥れてきたこともあります。しかし彼らにとっては、その専門分野での自身の所見の中では、少なくとも間違ってはいなかったのでしょう。

仏教の修行では「正見」、正しくものを見るということがまず最初に求められます。

この場合の「正しい」とは一体何でしょうか。自分にとっての「正しい」こととは、単に自分の利益になることであり、その逆は反対に誰かに不利益を押し付け、傷つけることになりはしないのか。自分というフィルター越しに見たものは、己のバイアスを通した以上、既に「正しい」ものではなくなっているのではないか?

そう考えると、全てのバイアスから完全に解き放たれ、本当に物事の真実を捉えることのできる人は、お釈迦様以外に存在しないのではないかと私は思います。

片方の正義は反対の立場の者にとっての不義であり、例えば戦争中でも戦後でも、それぞれの正義不正義は結局のところ容易には推し量れません。

自分の立場を絶対的なものとしてそれを中心に考えるのではなく、あくまで互いの関係性の中で物事を捉えていくように努力することや、何か絶対的な正しい価値観だけを求めるのではなく、あるいは誰かが与えてくれる「正しい」とされるものにすがるのでもなく、互いの関係性、時間や空間、歴史の中での立場の違い、あるいは「間」と言ってもいいかもしれません。そのバランスの中でそれぞれの立場を尊重し、ちょっと間合いをとって考えてみることが必要でしょう。

ありもしない縄に囚われて、自ら動きが取れなくなってしまう。あるいは絶対的な価値観を求めるあまりに柔軟さを失ってしまう。このような危険性を表す「無縄自縛」という言葉があります。この罠に嵌らないためには、ありきたりかもしれませんが日々の生活を丁寧に行じていくことが大切とされます。今改めて、私もそのような修行の日々を過ごすことができればと思っております。