テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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お彼岸のこと

飛騨市神岡町 金龍寺 住職 杉崎 良憲 老師

昨年の秋、ノーベル物理学賞を受賞された梶田先生が、研究を重ねた施設、スーパーカミオカンデがある、東茂住の金龍寺住職です。

私のお寺では、春・秋の彼岸の中日には、彼岸会を勤修しています。彼岸会とは、お彼岸中に行う供養会の事です。

お釈迦様は、『彼岸へ渡れ』と、説いておられます。彼岸とは『人々が欲や煩悩から解放された世界』の事です。その逆に、我々が住んでいる世界を『此岸』といい、欲や煩悩にまみれた世界であります。

お釈迦様の住んでおられた地域の言葉の、サンスクリット語では、彼岸を『パーラム』渡るを『イター』といい、彼岸に渡るは、『パーラミター』と言います。『パーラミター』『パーラミター』『パーラミター』・・・・

お経をお聞きになった方々や、お唱えされている方々は、どこか聞いたことのあるような気がしませんか?

そうなんです。般若心経の一節の『波羅密多』の事なのです。般若心経の般若とは『仏の知恵』という意味です。

欲や煩悩にまみれた世界にいながらも、般若を身につけ・実践し、此岸にいながら、彼岸の世界の境地となり、心の満たされた人生を、過ごすことができるというわけです。

『仏の知恵』とは、人に尽くす心・他人を思いやる心・嘘偽りのない心・自らの行いを見つめ直し改める心、のことです。

解った‼ではだめなんです。実践しなければ絵に描いた餅と同じです。まずは、身近な日常生活から始め、よい習慣として、身につけることに、心がけましょう。

般若心経の最後に、『ぎゃーてぇー・ぎゃーてぇー』と、お唱えますが『さあー始めましょうよ。始めましょうよ』という意味なんです。

たもちかた

飛騨市宮川町 洞泉寺 副住職 栃本 孝規 師

諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽、お葬式の祭壇の上に掲げてあるのをご覧になったことはありますか。これは、「物はみな移り変わり、現われては滅びる、生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる。」と言うことです。

その時は、残された人々は、悲しみ、憂いを抱き、手を合わせます。しかし、皆行く道です。そこでもう一度考えて下さい。

仏教には無生法忍という言葉があります。あらゆる現象や存在が、生じることも、滅することもないと認め知って安らぐの法です。

あるがまま、そのまま全部「もとこちら」

あるがまま、そのまま全部「あたりまえ」

あるがまま、そのまま全部「ちょうどよい」

あるがまま、そのまま全部「たすけあい」

あるがまま、そのまま全部「いかしあい」

あるがまま、そのまま全部「すばらしい」

あるがまま、そのまま全部「ありがたい」

ああ、ありがたい、ありがたい。

もとは命、もとは自分・・・いかがですか。

「信心銘」の至道無難、唯嫌揀擇よりいただきました。

仏様にそのままをお任せしましょう。

身と心が楽しくなりましょう。

身・心・真

飛騨市古川町 寿楽寺 住職 栃本 和孝 老師

永平寺の道元禅師様は、仏の面目を、花のごとく美しく、春日のごとく温かく、月光のごとく清く澄みきって。真を誠を申す。・・・それは、お釈迦様の真を拝み、仏々祖々、あらゆる人々の真を拝むことに、一瞬一刻も怠ることなく祈り続けられております。そしてそれは、私たち一人一人の心へ届くようにです。

人間は、自分に身のあることを知っています。心のあることを知っています。命のあることを知っています。が、真のあることを忘れている人が少なくありません。

真というものが、皆様の身にも心にも命にもいきわたる。その人独特の姿を働きをなさしめています。生きているのあかしです。この身には、頭があります。胸があります。腹があります。手足があります。そして、これは、極めて大切なものでありますのに、それを忘れ無茶苦茶にこき使ったり、いつまでもほったらかしにしておいたりするようなことが、ありはしないでしょうか、真を大切にする方法は坐禅です。どんな場所でも少しの時間があれば出来ます。禅法にこだわらづ、静かに目をつむって身を正し鼻で息を静かに長く、落ち着きのあるように致してください。それが、身と心と命を真を大切にする基盤になるのです。

坐禅のギリギリは、その呼吸を天切宇宙のあらゆるものと和み親しみ合い、自分の真を拝むことなり、素晴らしい人生となる事を念じます。

仏教徒としての自覚

飛騨市古川町 林昌寺 東堂 中川鐵哉

皆さんは御自分の家の宗教を御存知ですか?又、御自分も信ずる宗教がありますか?日本人は、大抵仏教徒であると答えます。さらに宗派はとの問いに、「禅宗」「真宗」「日蓮宗」

「真言宗」等とだいたい答えます。その本尊様はとの問いに「南無釈迦牟尼仏」「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」等と答えますが、さらに仏教の教えは何かとの問いに、ほとんどの方が答えに窮してしまいます。キリスト教の信者の方は、はっきりと私達はキリストの愛を信じています。又、キリストの奇跡を信じていますと答えられます。

私達仏教徒は、はっきりと、仏の慈愛を信じていると言える方は少ないのです。世界の宗教は皆「人間愛」を説いています。しかし日本人の日常の生活には、日の出を拝み、日の入りを拝み、自然を大切にし、いろんな物事に対し、尊敬し、感謝し、礼拝することに何の違和感もなく生活してきました。知らず知らずに「仏教の教え」を実践してきたのです。近年生活が豊かになり、何でも手に入る時代に生活する私達は、礼拝する世界から遠のき、仏教をなおざりにし、迷い、それがあたりまえの時代となってきました。

今こそ、日々の暮らしの中に、仏教徒としての自覚を持ち、お寺へ行き、又、自宅の仏壇の前で手を合わせ、その大切な行持として「三帰依」をお唱えすること。

「南無帰依仏」仏様に帰依致します。

「南無帰依法」仏様の教えに帰依致します。

「南無帰依僧」仏様のすべての弟子に帰依致します。

この三帰依を実践することによって、仏教徒となり、各自が「仏教徒としての自覚をもつ」「意識する」ことから正しい生活が始まります。

一期一会

飛騨市古川町 慈眼寺 住職 原田 好崇 師

一期一会という言葉がありますが、これは茶道に由来する日本のことわざです。茶会にのぞむ際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て互いに誠意を尽くす心構えを意味し、茶会に限らず「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないと いう覚悟で人には接しなさい」と戒める言葉です。一般的には一生に一度の出会いかもしれないのでその出会いを大切にしなければならないという意味で用いられることが多いのではないでしょうか。一生の間には沢山の出会いがあります。その出会いには出会えてよかったと思うものや出会わなければ良かったと思うもの等様々な出会いがあります。ですが無駄な出会いはありません。もし、いやな思いをして出会わなければ良かったなと思うことがあったとしても、自分はいやな思いをしたから他人にはしないようにしようと思い勉強することが出来たとしたら、それは決して無駄な出会いであった訳ではないのです。

生きていくうえで必ず出会いはあります。これからの出会い、勉強出来てよかったと思われるのではなく、出会えてよかったと思ってもらえるような出会いなるように心がけたいですね。

大好きなお寺参り

飛騨市古川町 林昌寺 住職 中川芳秀 師

隆君は小学一年生の男の子です。その日は、一昨年亡くなったおばあさんの参回忌のお参りに家族でお寺にやってきました。

これまで、お葬式や、四十九日の法要、一周忌や納骨のご供養と、何度もお参りに来るうちに、すっかりお寺にも慣れた様子で、本堂での読経が終わるや否や、お寺の中を駆け回っていました。

おばあさんが亡くなった時、保育園に通っていた隆君も、今は一年生。一回りも二回りも大きくなっていました。そこで私は、「隆君、大きくなったら何になりたいんだい」そう質問しました。すると隆君は大きな声で、「ラーメン屋さんと・・・お坊さん!」そう答えました。私は驚いたと同時に、不思議に思い「どうしてラーメン屋さんとお坊さんなの」ともう一度聞きました。すると「どっちのお仕事も楽しそうなんだもん」と笑顔で答えました。おいしいラーメンを作るお仕事が楽しそうなのはわかります。しかし、悲しいお葬式や法事を見てきた隆君にとってお坊さんが楽しそうに見えるのは・・・と益々不思議に思いました。

しかしよくよく聞いてみると、法事の度に、きれいな服を着せてもらい、家族や、親戚とお出かけをし、おいしいご飯を食べられるお寺へのお参りは、隆君にとってとても楽しいイベントだったのです。

ご先祖様を供養する法事を勤めることが出来るというのは本来とても幸せなことです。亡くなられたご先祖様が残してくださった、家や家族があり、そして何よりもそのご先祖様に頂いた自分の命というものが、絶えることなく又、脈々とつながっている。だからこそ、家族が皆でお参り出来るのです。

隆君には、大好きな家族みんなで、お寺へ出かけることがとても楽しみだったのでしょう。きっと、亡くなられたおばあさんも、そんな隆君やご家族の姿を見て、天国で微笑んでいらっしゃるはずです。

頂いた命の尊さに気付きましょう。素直な心で手を合せ、御先祖様へ感謝の心を伝える、そんなご法事を勤めて頂きたいと思います。

念ずれば花開く

高山市丹生川町 正宗寺 東堂 原田道一 老師

念ずれば花ひらく 苦しいとき 母がいつも 口にしていた このことばを

わたしもいつのころからか となえるようになった

そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつひとつ ひらいていった

私がこの言葉に出会い、この詩を書かれた坂村真民さんにお会いしたのは、今から五十年も前のことです。

高校教師をしていた私は、三十歳を過ぎた頃に人間関係のもつれや宗教上の悩みなどから、失意のどん底にありました。さらにメニェール氏病を発病し、いよいよ入院という時にふと、「坂村真民」の名が頭をよぎったのです。

返事はまったく期待せず「これから入院します」という手紙をタンポポ堂に出しました。

すると、入院中の私に真民さんからハガキが届いたのです。

一読して「この人だ」という直感とともに、真っ暗な心に一条の光がさっーと差し込んできました。

それから文通が始まり、ある時、私のことを「ポェジー」があると褒めてくださいました。

真民さんは「万法のもとは詩である」と常々語っておられたので、認めていただいたようで本当に嬉しく思いました。

居ても立ってもいられない思いで、友人と四国のタンポポ堂を訪ねたのは、昭和43年頃、突然の訪問にもかかわらず歓迎していただき、奥様が大きなおむすびを出して下さいました。

《むすびあう、にぎりあう》心が込められたおむすびのおいしさは忘れられません。

昭和46年の秋、当寺私が住職をしていた神岡の正眼寺を真民さんは訪ねて下さいました。

当寺本堂の改築中で、蓆の上に布団を敷くというありさまでしたが、真民さんは『水の音がして、蛙が水に飛び込むような寺が一番いい』と大層喜んで詩《この世の花》を書いてくださいました。

この世の花

念願だった朴餅

朴みそ

朴のおにぎりを

食べさせてもらい

朴との縁が

いよいよ深くなった

台風19号のかぜのなかで

飛騨山中の朴の群れが

葉裏を花のように光らせ

その存在を示してくれたことを

わたしは忘れない

朴よ

人の世を幸せにする

この世の花であれ

年頭に当たり

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 時田 泰俊 老師

新年あけましておめでとうございます。皆様に取りましてこの一年が充実したものとなりますよう心より祈念いたします。

どのような想いで新しき年をお迎えでしょうか?今年こそ、今年だけでも、今年も引き続き、と目標を定めるにも様々と思いますが、目標に向かって努力を継続する大変さは多くの方の共通の認識でしょう。

中国の唐の時代のお話です。

木の上で座禅をしている道林という和尚さんの噂を聞きつけ、当時地方の官僚でもあり詩人としても名高い白楽天が訪れ問いかけました。「仏様の教えの中心とは?」

道林はこう言い放ちました。「良いことをして、悪いことをしないこと、そうすれば心が清らかになる。これが仏様の教えだ。」

白楽天は思わず「三歳の子供でも分かっている道理である。」と返答しました。すると道林はさらにこう付け加えました。その通り「三歳の子供でも分かっているが、八十歳の翁でもこれを行うことは難しいことなのだ。」

この逸話に限らず、正しい行いの実行とその継続の難しさを伝えるには多くの文言と言い伝えが存在します。

私自身への善き行いへの課題として、少なくとも去年より善いと思われることを積極的に心掛けたいと思います。

皆様も去年より、半歩でも一歩でも、僅かでも善い行いへの心掛けと、気配りをしていただけたらと願っています。

このわずかな積み重ねが仏様の願いと通ずるものと確信しています。

停電が教えてくれ

恵那市 円頂寺住職 市岡宜展 師

十日ほど前でしょうか、私どもの住む地域で原因は分かりませんが、2時間ほどの停電になりました。丁度夕食の準備をしていた最中の停電で、妻は大変な思いで子供の食事と入浴を済ませました。
電気が回復して数分もすればまた忘れてしまいますが、電気の有り難さもさることながら、当たり前に満たされていることの有り難さを痛感致します。日没以後の照明がわずかなロウソクの明かり一つだけだったころ、暖を取るものは火だけだったころ、このわずかな明かりがどれほど有り難かったことでしょう。
暖をもたらし、明かりをくれる火は、扱いによっては身の危険にもなり得ますから、先人たちは、火の取り扱いには殊更に注意を払い、火には畏敬の念を持って接していたことでしょう。
便利で快適な暮らしは誰もが憧れるところですが、ロウソクのわずかな明かりに照らされた家族の横顔を見て、寄り添うことで、息遣いや鼓動までもが聞こえてくるようでした。
そこにいて、一緒に生きていく仲間がいることの有り難さを、停電をもって実感致しました。
電気で満たされた暮らしも有り難いものですが、機会がありましたら、テレビも電気も消して、パソコンも消して、一つのロウソクを囲み、ご家族やお子様とお話をしてみてはいかがでしょうか?
わずかな時間ではありますが、節電にもなります。
火の取り扱いには、十分ご注意下さい。

早起きの功徳

恵那市 長徳寺副住職 松本康巡 師

皆様は早起きを心がけていますか。
『朝を制する者は世界を制す。』中国には昔からこの様な言葉があるそうです。早起きという当たり前に言われて来た事が、最近とても注目されている様なのです。
かつて私は福井県にございます、曹洞宗の大本山・永平寺で修行をしておりました。当時は起床が午前三時半で、とても大変であったのですが、なぜこんなに早く起きねばならないのか、それは早起きこそ人が幸せに暮らす為の正しい第一歩だったからです。
夏でしたら、朝の涼しいうちに仕事がはかどり、動いているうちに頭の回転も身体の動きも良くなります。時間の余裕があるので、身だしなみにも十分気を使えて、自分に自信を持って外出出来るでしょう。朝食をしっかり食べる事で、子供さんの学力向上にも繋がります。心にもゆとりを持てて、ストレスの無い気持ちで過ごせるに違いありません。そして人より先に情報を得られる事で、全てに先んずる事が出来るのです。
色々と良い事がある早起きですが、朝早く起き、それぞれ正しく勤めるというのは、大昔から仏教で説かれている教えです。仏教の基本は人が幸せに生活していく為の正しい方法を示しているのですから、それに従えば必ず光明が見えて来るはずです。仕事などで難しい方もいらっしゃると思いますが、出来る方は今より少しづつで良いので、早く起きていく事で世界が変わると思います。ちなみに早く起きれば早く寝ます。節電にもなって一番のエコとなります。やがて生きる目標を見出し、人生を豊かにしていく事となるに違いありません。