テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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一期一会

飛騨市古川町 慈眼寺 住職 原田 好崇 師

一期一会という言葉がありますが、これは茶道に由来する日本のことわざです。茶会にのぞむ際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て互いに誠意を尽くす心構えを意味し、茶会に限らず「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないと いう覚悟で人には接しなさい」と戒める言葉です。一般的には一生に一度の出会いかもしれないのでその出会いを大切にしなければならないという意味で用いられることが多いのではないでしょうか。一生の間には沢山の出会いがあります。その出会いには出会えてよかったと思うものや出会わなければ良かったと思うもの等様々な出会いがあります。ですが無駄な出会いはありません。もし、いやな思いをして出会わなければ良かったなと思うことがあったとしても、自分はいやな思いをしたから他人にはしないようにしようと思い勉強することが出来たとしたら、それは決して無駄な出会いであった訳ではないのです。

生きていくうえで必ず出会いはあります。これからの出会い、勉強出来てよかったと思われるのではなく、出会えてよかったと思ってもらえるような出会いなるように心がけたいですね。

大好きなお寺参り

飛騨市古川町 林昌寺 住職 中川芳秀 師

隆君は小学一年生の男の子です。その日は、一昨年亡くなったおばあさんの参回忌のお参りに家族でお寺にやってきました。

これまで、お葬式や、四十九日の法要、一周忌や納骨のご供養と、何度もお参りに来るうちに、すっかりお寺にも慣れた様子で、本堂での読経が終わるや否や、お寺の中を駆け回っていました。

おばあさんが亡くなった時、保育園に通っていた隆君も、今は一年生。一回りも二回りも大きくなっていました。そこで私は、「隆君、大きくなったら何になりたいんだい」そう質問しました。すると隆君は大きな声で、「ラーメン屋さんと・・・お坊さん!」そう答えました。私は驚いたと同時に、不思議に思い「どうしてラーメン屋さんとお坊さんなの」ともう一度聞きました。すると「どっちのお仕事も楽しそうなんだもん」と笑顔で答えました。おいしいラーメンを作るお仕事が楽しそうなのはわかります。しかし、悲しいお葬式や法事を見てきた隆君にとってお坊さんが楽しそうに見えるのは・・・と益々不思議に思いました。

しかしよくよく聞いてみると、法事の度に、きれいな服を着せてもらい、家族や、親戚とお出かけをし、おいしいご飯を食べられるお寺へのお参りは、隆君にとってとても楽しいイベントだったのです。

ご先祖様を供養する法事を勤めることが出来るというのは本来とても幸せなことです。亡くなられたご先祖様が残してくださった、家や家族があり、そして何よりもそのご先祖様に頂いた自分の命というものが、絶えることなく又、脈々とつながっている。だからこそ、家族が皆でお参り出来るのです。

隆君には、大好きな家族みんなで、お寺へ出かけることがとても楽しみだったのでしょう。きっと、亡くなられたおばあさんも、そんな隆君やご家族の姿を見て、天国で微笑んでいらっしゃるはずです。

頂いた命の尊さに気付きましょう。素直な心で手を合せ、御先祖様へ感謝の心を伝える、そんなご法事を勤めて頂きたいと思います。

念ずれば花開く

高山市丹生川町 正宗寺 東堂 原田道一 老師

念ずれば花ひらく 苦しいとき 母がいつも 口にしていた このことばを

わたしもいつのころからか となえるようになった

そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつひとつ ひらいていった

私がこの言葉に出会い、この詩を書かれた坂村真民さんにお会いしたのは、今から五十年も前のことです。

高校教師をしていた私は、三十歳を過ぎた頃に人間関係のもつれや宗教上の悩みなどから、失意のどん底にありました。さらにメニェール氏病を発病し、いよいよ入院という時にふと、「坂村真民」の名が頭をよぎったのです。

返事はまったく期待せず「これから入院します」という手紙をタンポポ堂に出しました。

すると、入院中の私に真民さんからハガキが届いたのです。

一読して「この人だ」という直感とともに、真っ暗な心に一条の光がさっーと差し込んできました。

それから文通が始まり、ある時、私のことを「ポェジー」があると褒めてくださいました。

真民さんは「万法のもとは詩である」と常々語っておられたので、認めていただいたようで本当に嬉しく思いました。

居ても立ってもいられない思いで、友人と四国のタンポポ堂を訪ねたのは、昭和43年頃、突然の訪問にもかかわらず歓迎していただき、奥様が大きなおむすびを出して下さいました。

《むすびあう、にぎりあう》心が込められたおむすびのおいしさは忘れられません。

昭和46年の秋、当寺私が住職をしていた神岡の正眼寺を真民さんは訪ねて下さいました。

当寺本堂の改築中で、蓆の上に布団を敷くというありさまでしたが、真民さんは『水の音がして、蛙が水に飛び込むような寺が一番いい』と大層喜んで詩《この世の花》を書いてくださいました。

この世の花

念願だった朴餅

朴みそ

朴のおにぎりを

食べさせてもらい

朴との縁が

いよいよ深くなった

台風19号のかぜのなかで

飛騨山中の朴の群れが

葉裏を花のように光らせ

その存在を示してくれたことを

わたしは忘れない

朴よ

人の世を幸せにする

この世の花であれ

年頭に当たり

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 時田 泰俊 老師

新年あけましておめでとうございます。皆様に取りましてこの一年が充実したものとなりますよう心より祈念いたします。

どのような想いで新しき年をお迎えでしょうか?今年こそ、今年だけでも、今年も引き続き、と目標を定めるにも様々と思いますが、目標に向かって努力を継続する大変さは多くの方の共通の認識でしょう。

中国の唐の時代のお話です。

木の上で座禅をしている道林という和尚さんの噂を聞きつけ、当時地方の官僚でもあり詩人としても名高い白楽天が訪れ問いかけました。「仏様の教えの中心とは?」

道林はこう言い放ちました。「良いことをして、悪いことをしないこと、そうすれば心が清らかになる。これが仏様の教えだ。」

白楽天は思わず「三歳の子供でも分かっている道理である。」と返答しました。すると道林はさらにこう付け加えました。その通り「三歳の子供でも分かっているが、八十歳の翁でもこれを行うことは難しいことなのだ。」

この逸話に限らず、正しい行いの実行とその継続の難しさを伝えるには多くの文言と言い伝えが存在します。

私自身への善き行いへの課題として、少なくとも去年より善いと思われることを積極的に心掛けたいと思います。

皆様も去年より、半歩でも一歩でも、僅かでも善い行いへの心掛けと、気配りをしていただけたらと願っています。

このわずかな積み重ねが仏様の願いと通ずるものと確信しています。

停電が教えてくれ

恵那市 円頂寺住職 市岡宜展 師

十日ほど前でしょうか、私どもの住む地域で原因は分かりませんが、2時間ほどの停電になりました。丁度夕食の準備をしていた最中の停電で、妻は大変な思いで子供の食事と入浴を済ませました。
電気が回復して数分もすればまた忘れてしまいますが、電気の有り難さもさることながら、当たり前に満たされていることの有り難さを痛感致します。日没以後の照明がわずかなロウソクの明かり一つだけだったころ、暖を取るものは火だけだったころ、このわずかな明かりがどれほど有り難かったことでしょう。
暖をもたらし、明かりをくれる火は、扱いによっては身の危険にもなり得ますから、先人たちは、火の取り扱いには殊更に注意を払い、火には畏敬の念を持って接していたことでしょう。
便利で快適な暮らしは誰もが憧れるところですが、ロウソクのわずかな明かりに照らされた家族の横顔を見て、寄り添うことで、息遣いや鼓動までもが聞こえてくるようでした。
そこにいて、一緒に生きていく仲間がいることの有り難さを、停電をもって実感致しました。
電気で満たされた暮らしも有り難いものですが、機会がありましたら、テレビも電気も消して、パソコンも消して、一つのロウソクを囲み、ご家族やお子様とお話をしてみてはいかがでしょうか?
わずかな時間ではありますが、節電にもなります。
火の取り扱いには、十分ご注意下さい。

早起きの功徳

恵那市 長徳寺副住職 松本康巡 師

皆様は早起きを心がけていますか。
『朝を制する者は世界を制す。』中国には昔からこの様な言葉があるそうです。早起きという当たり前に言われて来た事が、最近とても注目されている様なのです。
かつて私は福井県にございます、曹洞宗の大本山・永平寺で修行をしておりました。当時は起床が午前三時半で、とても大変であったのですが、なぜこんなに早く起きねばならないのか、それは早起きこそ人が幸せに暮らす為の正しい第一歩だったからです。
夏でしたら、朝の涼しいうちに仕事がはかどり、動いているうちに頭の回転も身体の動きも良くなります。時間の余裕があるので、身だしなみにも十分気を使えて、自分に自信を持って外出出来るでしょう。朝食をしっかり食べる事で、子供さんの学力向上にも繋がります。心にもゆとりを持てて、ストレスの無い気持ちで過ごせるに違いありません。そして人より先に情報を得られる事で、全てに先んずる事が出来るのです。
色々と良い事がある早起きですが、朝早く起き、それぞれ正しく勤めるというのは、大昔から仏教で説かれている教えです。仏教の基本は人が幸せに生活していく為の正しい方法を示しているのですから、それに従えば必ず光明が見えて来るはずです。仕事などで難しい方もいらっしゃると思いますが、出来る方は今より少しづつで良いので、早く起きていく事で世界が変わると思います。ちなみに早く起きれば早く寝ます。節電にもなって一番のエコとなります。やがて生きる目標を見出し、人生を豊かにしていく事となるに違いありません。

十二月の記念日

中津川市 法禅寺副住職 稲村博元 師

こんにちは、テレホン法話でございます。
秋の深まりと共に年の瀬の足音も聞こえて参りました昨今、十二月と申しますと、皆様は何を思い浮かべられますでしょうか。
慌ただしげな年末の諸行事ですとか、中にはクリスマスとお答えになる方もいらっしゃるかと思います。申し上げるまでもなく、いわゆるクリスマスはキリスト教の祭日でございますが、今日におきましては日本でも広く、祝うというか催されている行事でございます。他方、仏教におきましても、この十二月には非常に重要な行事がございます。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、成道会と申しまして、お釈迦様がおさとりをお開きになられた日を記念する行事でございます。十二月のはじめより菩提樹の下で坐禅を始められ、八日目の朝におさとりを得られたと伝えられております。この十二月八日、成道会の日は、四月八日の降誕会、いわゆる花まつり、お釈迦様のお誕生日と、二月十五日の涅槃会、お釈迦様のご命日でございますが、そのふたつと並んで三仏忌、仏教における重要な祭日と定められております。
師走、というほど慌ただしくなってまいります本年最後の月、どうか皆様お身体にお気をつけ頂くと共に、お釈迦様のおさとりの心に思いを馳せられ、心平らかにお過ごし頂きますようお祈り申し上げます。

看脚下

中津川市 禅林寺副住職 鬼頭大輝 師

足元をしっかり看なさい。お寺の玄関に「看脚下」と掲示されている事があります。それは履物をそろえて脱ぎなさいと言う事です。
人は他人のことを、批判したり、注意したりしますが、自分自身のことはあまり注意せず、気が付かないことが多いものです。人の事より、まず、我が身の足元をしっかりと見つめたいものです。
自分の足元をよく見なさいと言う事は実に平凡な言葉ですが、日常生活の第一歩であり、禅の仏法もここが重大であります。
今から九百年も前のことです。ある晩三人の弟子と一人の老僧が灯火を照らして歩いておりました。その日は風が強く、下げていた灯火が消えてしまったのです。すると突然、老僧が弟子達に対し、「この場に臨んで各自一句を述べよ」と命じました。つまり、《夜道を行くには灯火が何よりの頼りになる。その火が消えた。さぁ、お前たちどうする。》と、言うのです。
弟子達は三人三様の答えを出しましたが、中でも一人の弟子が「看脚下」と一言、看は見る、脚下は足元、つまり、足元を見よ、と答えました。
闇夜に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇した時、人の多くは右往左往しこれを見失い、生きる道を遠くに求めようとするものですが、道は近きにあり、自分自身に向かって求めよ、と言うのが看脚下の一語であります。
現代のようなめまぐるしい世の中では、目だけが先に走ってしまったり、高いところばかりを望むあまり、足元がついついおろそかになりがちです。理想や夢も確かに大事ですが、これにとらわれると足が宙に浮いてしまいます。
足をしっかり大地につけて、爪先を正しく向けて着実に進めるならば、目をつむっていても目的地に到達出来ます。いたずらに結果にとらわれず一歩一歩、脇目を振ることなく、たった今を真剣になることです。
皆様も一度自分自身の足元をご覧になって下さい。爪先は何処を向いていますか?

笑顔の施し

中津川市 萬嶽寺住職 皮地昇雲 師

私のお寺の近所には保育園があります。通園の子供たちがニコニコしながら「おはようございます」と言ってくれるのですが、清浄無垢なとても良い笑顔なのです。だれしも笑顔にならずにはいられない微笑ましい光景です。
笑顔で人に接することは、仏教では他人に対する大切な施しです。和顔施と言い、たとえお金や物が無くても、誰でもすることができる立派な布施行(無財の七施)の一つなのです。言い換えれば、仏の清浄なる心の施しと言えるかもしれません。
ところが、最近はパソコンや携帯電話が普及して、笑顔どころかお互いの顔も見ずに会話をすることが当たり前になりつつあります。
以前よく流れていたファーストフードのCMに、こういうものがありました。客が店員に「スマイル下さい」といって、最後に「スマイル¥0」というキャッチコピーが出るのです。笑顔までも商品の一つになってしまった様な、笑顔が当たり前ではなくなっている現代の世相は、それだけ殺伐としているということなのでしょうか。
この様な御時世だからこそ、私たちは清浄な、心からの笑顔にどれだけ心救われることでしょうか。
幼子の次第次第に知恵付きて 仏に遠くなるぞかなしき(読み人知らず)
という句があります。私たちは成長するに従って、良い悪い、好き嫌い、欲しい欲しくない、色々な考えが生じ、本来持っている清浄な心を見失いがちです。しかし、心からの笑顔に接した時、お互いが見失いかけた仏の心に気付くことができるのではないでしょうか。どうか、皆様も多くの人に慈しみを持った、仏様の笑顔を施してあげて下さい。

自然を大切に

恵那市 萬光寺住職 龍田正宏 師

私の住んでいる町は、上矢作町と言います。
矢作川の源流とも言うべき、上村川という川あり、長野県と愛知県の県境にある町です。近年、少子高齢化が言われていますが、当町もそうであり、高齢化比率は40パーセントを超え、人口の減少化に歯止めがかかりません。ただ、その中で増えているのは、サル・イノシシ・クマ等、昔であるならば山中にいて、人里では余り見ることが出来なかった野生の動物が、人間の社会生活に害を及ぼしているのです。何故かその原因の一つに植林があります。一昔前は、家を建てるといったら日本材でした。それが今では日本材は高く、外国からの輸入である外材の方が安く、日本材で家を建てる人は少なくなりました。その結果、山の手入れはされなくなり、青木ばかりが増え、雑木林は減りました。青木ばかりの山は下草が生えず、山の保水力はなくなり、雨が降れば、川の増水や山崩れが多くなり、自然災害の基となり、山に住む動物は人里に出て来て、田畑を荒らす結果となっています。最近、テレビや新聞等でも言われているように、私達人間は、自然に生かされて生きているという事を忘れてしまったのではないでしょうか。
ここで、前永平寺貫主・宮崎禅師様の言葉を紹介させていただきます。
「私は日記をつけておるが、何月何日に花が咲いた、何月何日に虫が鳴いた、ほとんど違わない、規則正しい、そういうのが法だ、法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる、だから、自然の法則を真似て人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして、生きておれたらいいね。」
宮崎禅師様の言葉です。一考察してみて下さい。
ご清聴ありがとうございました。