テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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いのちをつなぐ「はし」

各務原市 宝禅寺 住職 宮崎證俊 師

テレビのニュースで海外の学生の方々が、東日本大震災の被災地を慰問され、津波にあわれた人から、その時の体験談をうかがったり、復興の様子を学ばれたりしておられることを伝えていました。

その学生さんたちの代表の方が、私たちは国と国をつなぐ「橋」になりたいと現地の方々とのお別れの席で述べておられました。

私たちは国と国をつないで、お互いに助け合っていくことが大事だとも述べていました。

たしかに国と国をつなぐ助け合いの架け橋が、やがて人と人を結ぶ懸け橋になり、心と心をつなぐ橋にもなると思いました。

「はし」はつなぐ役目をもっています。

さて、私たちがお食事をするときに使う「箸」はどうでしょう。

字は違えど「はし」というからには、何かをつないでいるのではないでしょうか。

食べ物を一つひとつ口まで運んでくださる二本の「はし」

そこには沢山の意味があると私は思います。

その一つは食べ物のいのちを戴いているということです。お肉もお野菜も、そのいのちを「はし」が運んでくださり、私達は生かされているのです。

そう思いますと「箸」に感謝しなければなりませんね。

私自身も「はし」のように、あとに続く人たちの架け橋になれたらと、慰問くださった学生さんを見ながら思ったことでございます。

生き抜く力

岐阜市 洞泉寺 住職 岸 真量 老師

花々が咲き誇り、日差しが強くなるこの季節。道端にはタンポポが綿毛を飛ばしていたり、まだ花をつけているものがあったりします。花が大きく背の高いのが西洋タンポポで、控えめで背の低いのが日本のタンポポだそうです。風にその身を任せ運命を託して、たどり着いたコンクリートやアスファルトのひび割れなど、わずかな隙間に長い長い根を伸ばしてしっかりと生きています。

その根は長いもので70センチから1メートルにもおよび、大地の栄養分をしっかりと吸収しています。タンポポの本タオは花ではなく地面の下の長い長い根っこにあります。何千年何万年と続く進化の過程でタンポポの御先祖様が蓄えてきた力なのです。

人や車に踏みつけられても、すぐに立ち上がり、たとえ、その花が折り取られても、しばらくすると脇から新しい花芽が出てきて、生きること、子孫を残すことをあきらめることはありません。誠に辛抱強く、したたかに生き抜いています。

さて私たち人間は少しのつまずきですぐに悲観したり、もう駄目だと諦めたり、努力もしないで人に文句を言ったり、あるいは鬱になったりしていませんか。どんなに厳しい環境でも、どんなに運命に踏みつけられても、生き抜く力は私たちにも備わっているはずです。私たちの命の根っこも何千年、何万年と続く御先祖様から受け継いだ命ですから、苦しくても立ち上がって花を咲かせ、どんな場所でも強く生きていける力があるはずです。タンポポの花のように。

雨宿り

岐阜市 自福寺 住職 古川元弘 師

私は住職になる前、郵便局で配達の仕事をしていました。それはまだ就職して1年目の事です。暑い夏の日、私はいつものように配達の仕事に就いていたのですが、突然、夕立に遭いました。ひどい土砂降りにあった私はあわてて近くの民家の駐車場に入ったのですが着ている服はずぶ濡れで、持っていた郵便物も濡れてしまっています。とりあえず雨合羽を着て郵便物が濡れないようにしましたが、雨の勢いはさらに増し、とてもバイクで走れるような天候ではありません。

するとそのお宅の70歳くらいの女性が土砂降りの中こちらへ向かってくるではありませんか。「郵便屋さんそんなずぶ濡れでどうしたんよ。風邪ひくからとりあえず家の中入りゃー」そう私に声を掛けて下さり、玄関の中へと招き入れて下さいました。土間が水で濡れてしまうこともいとわず、さらには タオルまで貸していただき「助かった」私は心からそう思いました。実はこの女性の行動は、無財の七施のなかの房舎施という布施にあたります。雨や風をしのぐ場所を提供することです。雨宿りをさせていただいた私は無事にその日の仕事を終えることが出来ました。

さらに、その後もその女性からはたびたび畑で取れた野菜を分けていただいたり、暑い日には冷たいジュースをいただいたりしました。社会人1年目の私にとっては、うれしかったという記憶が今でもあります。

修証義というお経の中に「布施というは貪らざるなり」と言う一文があります。「見返りを求めず誰かの為に尽くしてあげる」という意味です。いただいた物を皆で分ける、混んでいる電車で席を譲る。ありがとうとお礼を言う。これらはすべて布施にあたります。 どうぞみなさん、まずは自分の出来ることからこの布施をはじめてみましょう。

「行ってらっしゃい」の一言

岐阜市 龍雲寺 住職 梅村季弘 師

朝出掛ける時、「行ってらっしゃい」と声を掛けていますか。出掛けに忙しくて、声を掛けられなかった事。日常のことなので、つい、してしまいがちなことのひとつです。しかし、出掛けるときの「行ってらっしゃい」の一言や笑顔はとても重要だとは、思いませんか?

以前に働き盛りの男性が仕事に出掛け、帰宅途中に不慮の事故により、亡くなられた事がありました。その方のお悔やみの席での奥様から出た言葉が、昨夜喧嘩をしてしまい朝「行ってらっしゃい」も言わなかった。と、とても悔みながら涙を流されていました「なぜ、今日なのか。なぜ、昨日、喧嘩をしてしまったのか」奥様の悲痛な叫びでした。

人との別れというのは、今に生きている私たちには、必ず訪れるものです。この今の時の次には、相手との別れが、待っているのかもしれないのです。それは、死ぬ事かもしれないし、ずっと会わなくなる事かもしれません。そう思うと、今一緒にいる人との時を常に大切にすごしたい、と切に思えてくるのです。この今という時は、次の今とは、また異なる今です。出掛ける時、相手の人への気遣いの「行ってらっしゃい」の一言。この言葉を掛けることによっての 「今」そして、次の「今」の相手との関係性・ご縁を大切にし、また自分自身をも、大切にすることに繋がるのではないのでしょうか。そして、相手に「行ってらっしゃい」の一言で、相手のまわりにも良い空間が生まれ、自分自身にも気持ちの良い空間が、生れるのです。

いつまでも続けたい

羽島市 本覚寺 住職 大橋 陵賢 師

花の季節になりました。春は別れと出会いの季節です。先日、祖母が他界しました。母代りに私を育ててくれた祖母です。元気な間にもっと沢山の孝行がしたかった。ですが最近は忙しさに身を任せ祖母の為に時間を作ることが出来ませんでした。しかし旅立った後では私にはしっかりと手を合わせ読経することと、祖母の為に葬儀を滞りなく準備する事しか出来なかったのです。

お釈迦様は「産まれたら死ななければならない」と言う苦しみを解決するために修行に出られ、人は産まれたら死ななければならないことがどうにもならない事であることを悟られるのです。

何時までも元気で生きていくことは出来ません。故人が旅立った後では「孝行」もままならないのです。ですが私は「供養」と言う形で祖母にしてあげられなかった孝行をさせていただく事が出来ました。曾孫と共に身体を洗い、丁寧に清め納棺し、しっかりと手を合わせ読経し、心を込めて見送ることが出来たのです。それは葬儀の各仏事に込められた故人に対するその思いを信じているからです。

いつかは死ななければならない。その現実に向き合い「いま、ここ」を大切にし、元気な間にできなかったその思いを「供養」という形で今後も続けていきたいと強く思う出来事でした。

 

雪裏の梅花

高山市丹生川町 慈雲寺 住職 小林 孝明 老師

一年で一番寒い大寒を迎えようとしています。

一面銀世界となったこの季節、子供の頃は雪や寒さをむしろ歓迎するかの如く、冬の遊びに明け暮れたものでした。しかし、歳を重ねますとそんな思い出も遠い昔、ストーブやコタツのお守をする毎日です。

私の地方では、この季節の雪はサラサラで固まらず、雪合戦をするのも苦労しました。しかし、三月に入り気温が上がりますと、昼間に溶けた雪が夜の寒さで硬く締まってきます。

『かたゆきかんこ しみゆきしんこ』今でもこの言葉を口ずさみながら、雪の上を歩くのが楽しみのひとつです。足が落ち込まないので、どんな場所にでも歩いて行けるからです。どこか違った世界に迷い込んだような錯覚を覚え、心も体も浄化されていくのを感じます。

道元さまの愛した言葉に『雪裏の梅花』があります。お釈迦さまが、菩提樹の下で悟りをひらかれたその一瞬を、道元さまは雪のなかに咲く梅の一枝と表現されました。

厳しい雪の中に咲く梅の花にこそ、三世諸仏に一貫する仏法の真実があるとし、師から弟子へと受け継がれている正しい仏法の姿、魂の継承を讃嘆しておられます。

山や川、草や木々という無生物にも仏性が宿り、大自然の一瞬一瞬が姿を変えながら私たちに生きる喜びを与えてくれるのが『雪裏の梅花』と言えるでしょう。

お彼岸のこと

飛騨市神岡町 金龍寺 住職 杉崎 良憲 老師

昨年の秋、ノーベル物理学賞を受賞された梶田先生が、研究を重ねた施設、スーパーカミオカンデがある、東茂住の金龍寺住職です。

私のお寺では、春・秋の彼岸の中日には、彼岸会を勤修しています。彼岸会とは、お彼岸中に行う供養会の事です。

お釈迦様は、『彼岸へ渡れ』と、説いておられます。彼岸とは『人々が欲や煩悩から解放された世界』の事です。その逆に、我々が住んでいる世界を『此岸』といい、欲や煩悩にまみれた世界であります。

お釈迦様の住んでおられた地域の言葉の、サンスクリット語では、彼岸を『パーラム』渡るを『イター』といい、彼岸に渡るは、『パーラミター』と言います。『パーラミター』『パーラミター』『パーラミター』・・・・

お経をお聞きになった方々や、お唱えされている方々は、どこか聞いたことのあるような気がしませんか?

そうなんです。般若心経の一節の『波羅密多』の事なのです。般若心経の般若とは『仏の知恵』という意味です。

欲や煩悩にまみれた世界にいながらも、般若を身につけ・実践し、此岸にいながら、彼岸の世界の境地となり、心の満たされた人生を、過ごすことができるというわけです。

『仏の知恵』とは、人に尽くす心・他人を思いやる心・嘘偽りのない心・自らの行いを見つめ直し改める心、のことです。

解った‼ではだめなんです。実践しなければ絵に描いた餅と同じです。まずは、身近な日常生活から始め、よい習慣として、身につけることに、心がけましょう。

般若心経の最後に、『ぎゃーてぇー・ぎゃーてぇー』と、お唱えますが『さあー始めましょうよ。始めましょうよ』という意味なんです。

たもちかた

飛騨市宮川町 洞泉寺 副住職 栃本 孝規 師

諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽、お葬式の祭壇の上に掲げてあるのをご覧になったことはありますか。これは、「物はみな移り変わり、現われては滅びる、生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる。」と言うことです。

その時は、残された人々は、悲しみ、憂いを抱き、手を合わせます。しかし、皆行く道です。そこでもう一度考えて下さい。

仏教には無生法忍という言葉があります。あらゆる現象や存在が、生じることも、滅することもないと認め知って安らぐの法です。

あるがまま、そのまま全部「もとこちら」

あるがまま、そのまま全部「あたりまえ」

あるがまま、そのまま全部「ちょうどよい」

あるがまま、そのまま全部「たすけあい」

あるがまま、そのまま全部「いかしあい」

あるがまま、そのまま全部「すばらしい」

あるがまま、そのまま全部「ありがたい」

ああ、ありがたい、ありがたい。

もとは命、もとは自分・・・いかがですか。

「信心銘」の至道無難、唯嫌揀擇よりいただきました。

仏様にそのままをお任せしましょう。

身と心が楽しくなりましょう。

身・心・真

飛騨市古川町 寿楽寺 住職 栃本 和孝 老師

永平寺の道元禅師様は、仏の面目を、花のごとく美しく、春日のごとく温かく、月光のごとく清く澄みきって。真を誠を申す。・・・それは、お釈迦様の真を拝み、仏々祖々、あらゆる人々の真を拝むことに、一瞬一刻も怠ることなく祈り続けられております。そしてそれは、私たち一人一人の心へ届くようにです。

人間は、自分に身のあることを知っています。心のあることを知っています。命のあることを知っています。が、真のあることを忘れている人が少なくありません。

真というものが、皆様の身にも心にも命にもいきわたる。その人独特の姿を働きをなさしめています。生きているのあかしです。この身には、頭があります。胸があります。腹があります。手足があります。そして、これは、極めて大切なものでありますのに、それを忘れ無茶苦茶にこき使ったり、いつまでもほったらかしにしておいたりするようなことが、ありはしないでしょうか、真を大切にする方法は坐禅です。どんな場所でも少しの時間があれば出来ます。禅法にこだわらづ、静かに目をつむって身を正し鼻で息を静かに長く、落ち着きのあるように致してください。それが、身と心と命を真を大切にする基盤になるのです。

坐禅のギリギリは、その呼吸を天切宇宙のあらゆるものと和み親しみ合い、自分の真を拝むことなり、素晴らしい人生となる事を念じます。

仏教徒としての自覚

飛騨市古川町 林昌寺 東堂 中川鐵哉

皆さんは御自分の家の宗教を御存知ですか?又、御自分も信ずる宗教がありますか?日本人は、大抵仏教徒であると答えます。さらに宗派はとの問いに、「禅宗」「真宗」「日蓮宗」

「真言宗」等とだいたい答えます。その本尊様はとの問いに「南無釈迦牟尼仏」「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」等と答えますが、さらに仏教の教えは何かとの問いに、ほとんどの方が答えに窮してしまいます。キリスト教の信者の方は、はっきりと私達はキリストの愛を信じています。又、キリストの奇跡を信じていますと答えられます。

私達仏教徒は、はっきりと、仏の慈愛を信じていると言える方は少ないのです。世界の宗教は皆「人間愛」を説いています。しかし日本人の日常の生活には、日の出を拝み、日の入りを拝み、自然を大切にし、いろんな物事に対し、尊敬し、感謝し、礼拝することに何の違和感もなく生活してきました。知らず知らずに「仏教の教え」を実践してきたのです。近年生活が豊かになり、何でも手に入る時代に生活する私達は、礼拝する世界から遠のき、仏教をなおざりにし、迷い、それがあたりまえの時代となってきました。

今こそ、日々の暮らしの中に、仏教徒としての自覚を持ち、お寺へ行き、又、自宅の仏壇の前で手を合わせ、その大切な行持として「三帰依」をお唱えすること。

「南無帰依仏」仏様に帰依致します。

「南無帰依法」仏様の教えに帰依致します。

「南無帰依僧」仏様のすべての弟子に帰依致します。

この三帰依を実践することによって、仏教徒となり、各自が「仏教徒としての自覚をもつ」「意識する」ことから正しい生活が始まります。