テレフォン法話

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遠い目標を持ち、今、ここを頑張る

 

美濃市 安毛 永昌院 副住職 高橋 定佑 師

この夏、高校野球やオリンピックを夢中になって観た、という方は多いのではないでしょうか。私もその一人で、テレビにかじりつき、毎日毎日観戦をし、多くの選手の姿に元気づけられました。

なぜ、高校野球やオリンピックはこれほどまでに、私たちを惹きつけるのか。

それは、この一瞬のために必死になって力を尽くしてきた、彼らの努力を容易に想像することができるから。私たちは、オリンピックや甲子園といった「遠い目標を持ち、今、ここを頑張る」その生き方が、決して簡単ではないことを知っているし、それにどこか憧れを感じているからではないでしょうか。

以前、私が学校に勤めていた時、最も尊敬する先生の一人がこんなことを仰っていました。

「1位を目指して練習しても、1位になれるのはただ1クラス。目標を達成するのは困難なことだと分かります。でもその困難に向かって汗を流す人でありたい。本当のねらいはそこにあります。」

その先生が担任した学級は、体育大会や合唱祭で1位を取ることは一度もありませんでしたが、生徒たちの顔はいつも輝き、生き生きとしていました。思えば、彼らはもっと先を見ていたのかもしれません。

私たちは、目標の達成に向け頑張っていても、苦しいことがあると、辞めたいと思ったり、逃げ出したいと感じたりするものです。また残念なことに、望んでいた結果が得られないことが多くあります。しかし、私たちが生きていくうえで、本当に大切にすべきことは、1位になることなどの結果ばかりではありません。遠い目標に、困難に向かって汗を流す、その過程そのものが大切なのだと思います。

遠い目標は、漠然とした抽象的なイメージかもしれないし、鮮明で具体的な課題かもしれません。決して簡単ではないけれど、遠い目標に向かって、ただひたすら「今、ここを頑張る」。

この夏、懸命に輝いた選手たちから学べる生き方が、ここにある。そんな風に思います。

授かりし子供の行く末を考える

関市 富之保 満願寺 住職 酒井 能道 老師

「子どもは何年後につくるつもりだ」とか「三人ぐらいはつくりたい」などと、まるで引き出しから物を出してくるような言葉をよく耳にします。しかし、昔の人が言うように子どもは「授かる」ものだということです。

私達が今生きているのは、見たこともない何百万年も昔の祖先の生命が一度も途切れることなく続いて自分たちに至っているのであり、祖先の誰一人でも欠けていたら私達は存在しないのです。当然のことながら、出産、育児については「お前たちに子どもを授けるから、しっかり育てろ」と祖先が命じているのです。ここではっきりしておきたいのは「しっかり育てろ」と命令しているのは祖先なのであって、決して生まれてきた子どもではないという点です。私達の子孫である子どもが、祖先である親に命令することはあり得ません。ところが子どもはとても可愛いので、あたかも天使であり、その命令に従わなければならないかのような錯覚を持ってしまうことがあるのです。しかし子どもは天使でもなければ祖先の使者でもありません。放っておいたら楽な方へしか行かない可愛い小あくまなのです。うっかり振り回されると、その時から命令は祖先からではなく、この小あくまから発せられるようになってしまい「オレを育てろ」と子どもに迫られる事態になるのです。子どもからの命令が日常的になると、そのには順位というものがなくなって、無秩序な家族が出来あがっていきます。親はとめどなく子どもの要求をのみ、子どもに常に丁寧語を使うまるで同居人のような親へと退化していくのです。これは、子どもの人権を尊重しているのとは違うし、自由や独立を保障しているのではありません。だから子どもが思春期を迎え、自己主張が強くなってくると、子どもの要求をのむにも限界が出てきます。こうなると自分の体裁を押しつけ、説教しか出来ない親に変貌するしかないのです。

「いただきます」ということ

関市 天徳寺 住職 水野 弘基 師

こんにちは、今日は食事の時の挨拶、「頂きます。」についてお話ししたいと思います。

先日、ある食堂で食事をしていると、ダメージジーンズと言うのでしょうか穴の開いたジーパンに耳に3個鼻に1個ピアスをした二十代と思われる青年が隣に座りました。これはまたチャラい奴が来たなぁと思って見るとは無しに気にしていたら、いざ食事が運ばれてくると、しっかり手を合わせて「頂きます。」小さい声ではありますがしっかり言っていました。耳を疑ったというか、外見だけで人を見下していた自分が恥ずかしくなりました。

十年ほど前でしょうか、ある小学校で御父兄から、うちは給食をめぐんでもらっている訳じゃない。正当な対価として給食費を払っているのだから、子どもに頂きますと言わせるのはおかしい。とクレームが出たというニュースがありました。皆さんはどうお感じになりましたでしょうか?この人はタダで物を貰った時にだけ使う言葉だと思っていたのでしょう。

頂きますの元々の語源は神様に御供えした供物を下げて食べる時、位の高い人からご褒美や御すそ分けを貰う時、額に押し頂いて食べたり貰ったりした所から「食べる」「貰う」の謙譲語として「頂く」という言葉が生まれ次第に食事の前の挨拶として定着していったようです。

食事の時の頂きますには、2つの意味があると思います。

一つは、食材である野菜や食用肉、あるいは魚介を生産してくれた方、またその食材を美味しく調理してくれた料理人に対しての感謝の言葉。

一つは、私の肉となり血となり生きていくために野菜や動物・魚の命を頂きますという感謝の言葉。

子どもに、ちゃんと頂きます。と言いなさい。と躾けてきた我々大人たち。学校の給食や家ではさておき、町で食堂・レストランで「頂きます」をしている大人が何人いるでしょうか?私も何十年も生きてきましたが、街中で頂きますをしている大人はほんの数人しか見た事がありません。

子どもにはやらせるけど大人はやらなくていいのでしょうか?恥ずかしいからやらないのでしょうか?はたまた先の父兄の様にお金を払っているからする必要が無いと思っているのでしょうか?

先日出会ったあの青年、格好いいと思います。我々も格好いい大人でありたいものです。

 

「地域で見守る」

関市 小屋名 円通寺 住職 岡田 英賢 老師

ある朝のことです。通学路で子供達とすれ違うと「おはようございます」と大きな声で挨拶をしてくれました。子供達が元気に挨拶をしてくれることに嬉しい気持ちになりました。地域の交通安全委員の方が「◯◯くん、いってらっしゃい」と声をかけてみえました。子供達は、地域の方々に見守られて、共に活動することで、地域の人や、物、行事に興味を持って地域の一員となって成長していきます。

曹洞宗を開かれました道元禅師様は「利行は一法なり普く自他を利するなり」とお示しになりました。利行とは相手に見返りを求めない行いのことでございます。互いに相手のことを思いやる行い、そこには優しい心が育まれます。人に優しくする人は、自分が困った時に必ずたくさんの人が助けてくれます。相手のことを思いやる心は、つまりは自分自身を幸せにしてくれることにもつながります。

子供達が家庭や学校という枠を超えて、さまざまな人たちと交流をし、関わることで、地域の一員としての誇り、地域への愛情が生まれてきます。そして互いに助け合い、認め合うことを学ぶことで、自らを幸せな豊かな人生へと導いていくことにもつながります。この地域への愛情こそ、より良い社会を作る第一歩となるのではないでしょうか。

子供達の素晴らしい未来のために、地域や社会で子供達を見守る。そして、私たち大人がこの「利行」行いを率先して実践できる日々にしていきたいものでございます。

徳あるは讃むべし徳なきは憐むべし

関市 倉知 大龍寺 住職 竹山 玄道 老師

人間が生活していく上で、もっとも大切なことは自分以外の人とのコミュニケーションではないでしょうか。今テレビや新聞などを騒がせている痛ましい事件の多くはコミュニケーション不足が原因になっています。私たちは生まれてからこれまでに大変多くの人々のお世話になって、今日の生活が成り立っています。その中で幸せに日常生活を送っていくには人とのコミュニケーションは不可欠といえるでしょう。

修証義の経本の第四章に「徳あるは讃むべし徳なきは憐むべし」という一文が記されております。家庭においても、学校においても社会においても、人として、素晴らしいことを行った人は、その功績を誉めましょう。当たり前のことですね。ですが、徳のない人に対してはどうでしょう、例えば、嫌なことを言われたり、腹の立つことをいう人に対しては、当然怒りや、憎しみを抱き、時には立ち直れないほど、傷つきます。でも、そうではなく、憐みの心で接しなさいと、道元禅師様は、説かれております。怒りや憎しみ、悲しみのマイナスの想いは、そこに、その人がいない時にもあたかも、今目の前にいるかのように反復して自分を蝕みます。ですが、当の相手は全く関係ない時間を過ごしているのです。そんな、過去の怒りに無駄な時間を費やすのではなく、ああこの人はこんな言い方しかできない憐れな人なのだと思い。徳を無くしているのだと、憐みの心を持てば、おのずと生活の中に、マイナスの感情が消えていくでしょう。

私たちの周りには日々色んなことが起きます。それを、どうとらえるのかは自分しだいです。

簡単なことではありますが実はとても難しいことだと思います。当たり前の生活の中にこそ仏の教えはあるのです。

修行って何?

加茂郡 白川町 洞雲寺 住職 尾関幸憲 老師

「私たちの毎日は、絶えず修行である。」といろいろな方々が、申されておられます。

では、なぜそのようなことを言われるのでしょうか?。

修行をしていろいろなことがわかってくるならば、それ以上修行する必要が無い様に思われます。「私はこれまで十分修行をしてきたから、もうこれでいいだろう。もう修行をする必要なんか無い。」と思いがちです。

「修行で学んだ事は絶対だ。間違っていない。」と、勘違いしてしまうのです。しかし、その事が大きな迷いを生む原因となるのです。その時は、正しい答えでもそれに執着してしまうと、その一つの事が自分自身を縛ってしまうのです。

私達の知らないことは山ほどあります。

道元禅師様は「本来、人は皆仏であるとするならば、なぜ人は修行をしなければならないのか?。私たちが皆仏であるならば、修行をする必要は無いのではないか?。」その事で大きく迷われたのです。

一つのことが分かったならば、それはとても良いことです。しかし、それにとらわれてしまうとそれは大きな迷いを生む原因となるのです。迷いは分かったことから始まります。だからこそ修行が大切なのです。「人は本来、誰もが仏となる要素を持っています。」

ただし、その意味はお釈迦様がおときになった教えを、この生活の中で役立てていくこと。それを実践していくこと。自分の考えを捨て、お釈迦様の教えに従うことなのです。

すなわち、お釈迦様の教えられた行動を学び自らがそれを実践していくこと事こそが、仏様なのです。それが、修行なのです。「わかったと言う迷い」に囚われないよう大切な人生、お釈迦様のみ教えに従って、自らを省みて暮らしていきたいものでございます。

高齢化社会を生き抜くために

岐阜市 東林寺 住職 川村尚文 老師

私は平成21年11月から岐阜市民生・児童委員をやらせていただいています。

今、日本は高齢化が進み、65歳以上の高齢者が総人口に占める割合は平成26年10月で26%を超えました。

因みに、私の担当している地域も例外ではなく、昔からの集落では66軒のうち65歳以上の人がいない家は、僅か5軒です。

また、昭和40年代に開発して建てられた、100戸近くと50戸ほどの二つの団地は、子どもは成長し他県や県内の便利の良い市街地に移ってしまい、空き家や高齢の親のみが生活している家が目立ち、校区の高齢化率は33%を超えています。

そんな100戸程の団地の中で昨年6月に孤独死がありました。

団地の一画に住んで居られたYさん、脚が少し不自由な70代の奥さん

平成22年最初に訪問した時は、御主人は、大垣市内で建築業を営んでおられて、Yさんは、御主人の会社の経理を自宅で手伝っているとのことでした。

それから、2年程して、ある調査で訪問した時「ご主人が亡くなり、喪儀を済ませたところです。」とのことでした。その時に自分が僧籍があることからか、ふと「喪儀は、どこのお寺でなさったのですか?」とお尋ねし、市内の浄土真宗○○寺と訪問日誌にメモをしました。

そして、昨年6月12日夕方 自治会長さんから「Yさんが自宅で死亡が確認された。Yさんの身内の方の連絡先を知りませんかと電話があり、Yさん宅へ駆け付けると、警察の方も居られて、色々聞かれましたが、結局 先の訪問日誌「浄土真宗○○寺」のメモを手掛かりに、その後も身内の方が見つかり、6月26日「○○寺」さんの導師で喪儀が行われ、Yさんは無事 荼毘に付されました。

曹洞宗東海管区教化センター 統監老師の新年所感にありましたが、疲弊した現代社会を生き抜くためには「おすそ分け・思いやり・おもてなし」といったものを絶やさないようにして、地域の人で地域を守っていくことが大切だと思います。

私たちのお経「修証義」にあります「布施」、物でも 心でも 惜しみなく分かち合い、お互いに生かし合うことを実践していきましょう。

 

良き人生の為の行動を

揖斐郡揖斐川町 月桂院 住職 杉山秀峰 老師

団塊世代の退職時期に入り、年金で生活している方が多くいらっしゃいます。退職後も仕事に就ける方は良いのですが、誰しもが就けるとは限りません。その日を何となく過ごしている人をよく見かけます。

曹洞宗の経典『修証義』第五章の中に「徒らに百歳いけらんは 恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり」という言葉があります。「たとえ百歳という長寿に恵まれたとしても、欲望だけを追い求めるような無為な日々であるならば、それは悲しむべきことである」という意味です。

私達は、これといった予定もなく、何をするでもないような一日を過ごしてしまった時、「ああ、今日は一日無駄な時間を過ごしてしまった。」と思ってしまうことはありませんか。「人生に無駄なことはない、何かの役にたっているはずだ」と、言い聞かせてみても、「うーん、やっぱり無駄だったかな」と思ってしまうのはなぜなのでしょう?

それは年齢を重ね、日々死に向かっている事実を少なからず肌で感じる中、「今日は、これをやった、あれもやった」といえるような事をしないと、つい無駄な時間を過ごしてしまったと思ってしまうのかもかもしれません。人の命には限りがあり、それぞれに与えられた時間を生きています。限りある時間であるならば、人生を長い短いで片づけるわけにはいきません。私たちが生きているのは、昨日ではなく、明日でもありません。今を生きているのです。

それでは、かけがえのない今を、今日一日を大切にするためには、どうしたらよいでしょうか?それは若者のように、興味や関心、好奇心を持ち続けることではないかと思います。

何かを始める事です。けして大げさなことでなく「笑顔で挨拶をしよう」とか「毎日散歩に出かけよう」時には「読書をしよう」など、どんなことでもよいのです。何かをしてみようという思い、その思いから生まれる行動力こそが、今日一日を大切に過ごし、良き人生に繋がっていくのではないでしょうか。

良き人生の始まりに、遅いということはありません。今から何かを始めてみましょう。

もう一つの修行

不破郡垂井町 薬師寺 住職 松原義範 老師

私たちの曹洞宗は修行というものを大切に考えています。お坊さんは仏の道をめざし出家して仏道修行に励みます。みなさんもご存じのように修行の中心は坐禅です。一本の線香が煙る約40分の間、静かな部屋で姿勢を正して無心に坐ります。

では、お檀家さんの修行は何でしょうか。皆さんの子供さんはこの現実の世界の中で活躍されていると思います。最近は学校を出ただけでは上手くいかず、パソコン操作ができないと就職にも不利になると聞いたことがあります。お檀家さんの方々も新しい知識や技術を習得するためにがんばっています。

さて、曹洞宗の高祖道元禅師様は坐禅やパソコン研修も大切な修行であるがもう一つの別の修行が重要であると述べておられます。『修証義』第四章のはじめに「菩提心を発すというは己れ末だ渡らざる前に一切衆生を渡さんと発願し営むなり」とお示しです。その意味は、自分の事はさておき他の人々を第一に考え行動する、という教えであり、坐禅や研修とは異なる別の修行です。

数年前タイガーマスクと名乗る人々が児童養護施設にランドセルを贈りました。彼らは養護施設にいる子供に思いをよせ、子供たちが来年の4月になると、小学校に入学することを知りランドセルが必要になることに気づき、児童養護施設にランドセルを贈りました。

この行いこそもう一つの修行なのです。この修行によって、お坊さんは坐禅修行を深め、お檀家さまは現実の生活を豊かにすると思っています。

「相手を思うこころ」を育てよう

岐阜市 林陽寺 住職 岩水龍峰 老師

縁あって、青少年育成市民会議のお役をいただき、地域の安全・安心を守るべく活動をしております。そうしたお役には充職があり、最近では教育委員会から小学校や中学校の評議員の辞令をいただき、授業参観などを通して、親目線でない視点からのお話を求められます。

子ども達からは通学途上や学校の中で、大きな声で「おはようございます」「こんにちは」などと声をかけられ、運動会などで一緒に走ると、年を取るのを忘れてしまいます。とても有り難いことです。

さて、どの学校にも教育目標があります。「だれにも笑顔で学校生活を送れる〇〇小学校」「自ら学び 心豊かに たくましく生きる子」さらに「相手を思う」具体的には「あいさつ・そうじ・伝え合い」などの標語が、廊下などに掲示されています。

学校に掲示されていると、我々が大切にしようとしている禅の教えと異なるように思いますが、なんと、同じですね。

夏休みに各地で「子ども禅の集い」が開かれます。そこで使われるテキストに「つどいのしおり」があります。

『修行』って何!難しいことのように思いますが、実は「本当の自分と向き合うこと」、「一瞬一瞬を大切にすること」それは「ふだんの生活の中でしている何気ないことを大切にしていくこと」だよ・・・等と教えます。

具体的には、一つ、大きな声であいさつをしよう。二つ、生活の一つ一つを大切に。三つ、みんなと積極的に話をしよう。等です。

相手を思い、相手をお互いに認め合うことです。そして、掃除をしたり、一緒に食事を作ったり、ゲームをしたり、具体的に活動をしていくのです。

このようにお寺でも、学校と同じように子ども達を育て上げるような場があるのです。皆さんも、どうぞ、夏休み等にお寺を活用していただき「他に人を思う、相手を思うこころ」を育てていただきたいと思います。