テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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莫妄想

高山市 洞雲寺  住職 大森 俊道

新しい年を迎え一ヶ月半飛騨地方は一番寒い時期まっただなかです。岐阜県は北と南では気候が全然違いますね。

莫妄想という言葉をごぞんじでしょうか。『まくもうぞう』は妄想すること莫れと読みます。

生と死、善と悪、幸不幸など、その一方に執着して考えると苦しみ、迷います。

執着心が妄想といいます。

たとえ良い事をしてもそれに執着すれば、妄想という横道にそれた想いになってしまいます。

どうすれば妄想にならないのでしょうか、何事も比べない、執着しない、悩みや苦しみ、勝手に決めつけない、考えても仕方がない事は考えない、ミスをいつまでも引きずらない、事ではないでしょうか。

昔の中国の僧で無業和尚は、何を聞かれても莫妄想としか言わなかったといわれております。

妄想を断ち切ってしまえば、それがそのまま悟りの心境です。

私たちは、些細な事に不安を覚えたり、失ったものに執着したり、ネガティブに物事を考えてしまいがちです。それでは自分自身で負のスパイラルに陥ってしまいます。

変わらない事にではなく、変えられる事に目を向けましょう。失ったものではなく、今あるもを考えましょう。

小さなほとけさま

飛騨市光円寺 住職 大森 武徳

一面真っ白な雪景色になり雪の中で遊び、玄関の前には小さな雪だるまを作って飾ってある家を見ることが多くなりました。

きっと子供達は寒くても元気に精一杯遊んでいることを思い浮かべると雪国ならではの楽しみな事と、大変な事は紙一重のようにも感じます。

さて、そんな子供たちが通う保育園のお話です。

双葉保育園はもともと神岡町にある洞雲寺の庫裡から始まり今日に至り、慈悲の心や禅の精神に基づいて保育をしています。その一環として、毎月いちど保育園内で3歳児以上の園児を対象に坐禅会を行っています。

私は今、この坐禅会の指導を担当させていただいています。四月に初めての坐禅会を行いました。初めて経験する坐禅は、園児たちにはちょっと苦しかったかもしれません。五分もたつと、隣の子にちょっかい出したり、わざと咳をしたりします。咳の合唱が大きくなると坐禅は終了です。

しかし、どんなに騒がしかった園児たちも坐禅会を一年も続けると、ほとんどみんな静かにしっかりと坐ることができるようになります。幼い子は、無垢な心と大人にはない柔軟性で、ほんとに綺麗な姿で坐ることができます。園児が坐禅している姿は、まさにちいさな仏さまそのものです。

仏教の教えの中に、人は生まれながらにそのまま仏であるという教えがあります。屈託のない思いで仏さまに手を合わせたり、無垢なこころで坐禅をしている園児たちの姿は、私たちにそのことをおおいに物語ってくれます。私たちは長い人生の中で、多くのものを身につけてきた一方、大切なものを忘れてしまっているような気がします。子供たちは信じるという大切な心をいつも教えてくれる尊い先生なのです。

貪り・怒り・愚痴

飛騨市 円城寺 住職 大西 道隆

皆さんもよくご存じと思いますが、中国の明の時代に作られた「西遊記」という物語があります。

玄奘という三蔵法師が、仏様より妖怪の身から人間にして頂こうとする孫悟空、猪八戒、沙悟浄の三匹を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へお経の本をもらいに行くという物語です。

実はこの三匹には、深い意味合いがあります。

孫悟空はいつも感情的で怒ってばかり、

猪八戒は、性欲・食欲に目が無く、

沙悟浄はいつもブツブツ文句を言っています。

貪り、怒り、愚痴を三匹であらわしています。

懺悔文というお経には、

私が、過去に行ったあやまちは、全て始めもわからない身体の行い、口の行い、心の行いから生まれ起きた、深い貪り、怒り、愚痴の心によります。全てを、私は今、仏様に照らされて悔い改めます。

と書いてあります。

仏教では「貪ること・怒ること・愚痴をいうこと」この三つの煩悩を三毒といって人間が克服すべき悪の根本であると教えています。

「貪りの心」とは、自分の好きなもの、特に色欲や金銭欲に執着し、欲のために心が病気になる事です。

「怒りの心」は、自分の嫌いなものに対して反発したり、腹を立てたりする心のことを言います。

怒りの心が、どのくらい自分自身を苦しめるかは、喧嘩をした時の不愉快さを思い出してみればよくわかります。

さらに怒りが凝り固まって恨みとなると、怒りは人を損なうことが大きいけれども、反省して改めれば比較的退治しやすい煩悩と言われています。

「忍」の心で、腹を立てずに冷静に対処できる積極的な心を持つ事が大切と言われます。

「愚痴の心」とは、「道理をわきまえない愚かな心」と説明されています。

全てのことを自分の思い通りにしたい、

自分だけは年を取らず病気にならずいつまでも生きていたいなど、わがままな心のことを言います。

愚痴の心から貪りの心が起こり、

貪りの心あるところには必ず怒りの心がある、というように、さらに様々な煩悩に枝分かれしていきます。

愚痴の心に対しては、「道理をわきまえた明らかな知恵」が処方箋となります。

自分の好き嫌いに合わせて世の中を動かそうとするのではなく、世の中の道理に自分を合せること、それを精進といいます。

父母恩重経

恵那市 円頂寺 住職 市岡 宜典

家のお位牌には、両親、祖父母、その親以外にも知らない先祖様がいっぱい彫ってありますが、知らない人、今の我々と直接関係ない人まで先祖なのですか?と、たまに聞かれることがあります。どうお答えしたらいいものかと思っておりましたら、先日、大変興味深いお話を聞きました。

「三々五々」というお言葉についてです。

三々五々とは、辞書によりますとあちらに三人こちらに五人といった具合に、人があちらこちらに散りぢりばらばらにに存在する、言い換えれば、数えきれないほど沢山の人がいるということです。つまりパーティーだとか何かしらの催しで集まった大勢の集団が各方面へ散り散りに帰って行く様子を三々五々に帰って行った等と申します。

さて、日常のご法事、法要などで耳にする機会はあまり多くありませんが、親のありがたさを説いたお経で「父母恩重経」というものがございます。曹洞宗でも大切なお経の一つとして挙げられています。

「諸人よ思い知れかし己が身の誕生の日は母苦難の日」とどなたかの歌か存じませんが当に親は大変な思いでもって御子を産み育てるのでございます。

そのお経には様々な親の恩がかかれております。例えば、「親は子供と眠るとき快適な場所に我が子を寝かせ、自分は寝苦しい場所でも厭わない。」また「子を体に授かって十ヶ月の間、ただ一心に安産が出来ること、元気で生まれてきてくれることだけを思う。」等です。その他にもたくさん書かれております。お盆、先祖の命日、お彼岸等はどなたもお墓参りにいかれるでしょうが、冒頭申し上げた三々五々、どうかこころにとめてください。これは、一代で父母の二人の命があなたに受け継がれ、二代だと祖父母でも四人。この命を誰かが守り、誰かが育て、誰かが受け継いでくれてきました。二十五代前までさかのぼると33,554,432人の命とつながりあって、いま此処で生かされているたった一つの貴い命なのです。

このことから、この頭の数字が偶然かもしれませんが三々五々、ものすごく多くという意味です。ふとした機会に親の恩、先祖の恩、少しでも思ってみてください。その話を聞いて以来、「お位牌は、何代か前の先祖が道で拾ってきたワケじゃない、ちゃんと命を繋いできたのですよ。」と申しあてげております。

この、父母恩重経が読んでみたくなった方、気になった方はお近くの菩提寺様にお尋ねになってみてはいかかでしょうか?

ご法事やお墓参りしかお寺へ行くことがないという方はぜひ、和尚さんとお話しする機会に成れば幸いです。

年頭に当たり

曹洞宗岐阜県宗務所所長 岐阜市 本覚寺 住職 時田 泰俊

新年あけましておめでとうございます。平成29年が実りある一年であることを祈念申し上げます。

友人からの年頭の挨拶に「約束とは守るものではなく、実行するものだ」という一文が記されていました。なるほどと思いましたが、実行することの大変さ、更にそれを継続することの困難さは皆様の承知のことと思います。「しっかりと目標を持ち、それに向かって頑張れ」と、自分を鼓舞する意味もあると思いながら読ませてもらいました。

少し前『ハチドリの一滴』という短い物語とであいました。

森が燃えています

森の生き物たちは我先にと逃げて行きました

でもクリキンディーという名のハチドリだけは行ったり来たり

口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは

炎の上に落としてゆきます

動物たちはそれを見て「そんなことをしていったい何になるんだ」

と笑います

クリキンディーはこう答えました

「私は私に出来ることをしているだけ」

みなさまは何を感じとられたでしょうか?

何が私に出来るのか、考え実行できる一年にしたいと思います。

祖先崇敬の言葉

恵那市 萬光寺 住職 龍田 正宏

子孫は枝葉の如しと申しますが、現在、私たちが存在しているのは、父と母の間で私たちが生まれてきたというまぎれもない事実です。その父と母には、それぞれの父と母がいます。十代もさかのぼれば相当の数の父と母が存在する訳です。その中の1人が欠けても今の私たちは無いわけです。

そのことが、先祖供養につながっているという事を、日々、胸において、私たちは精進していかなくてはと思います。

親の恩

恵那市山岡町 林昌寺 住職 宮地 直樹

ゴブハサミムシという昆虫がいます。このメスは卵を生むと丁寧にそれを守り、さらに外敵からそれを守るために一切そばを離れません。孵化をすると自分の身体を子供たちに食べさせます。食べられている間にも外敵を気にしてその命が絶えるまで動き続けているのです。こうした営みがこの種を守ってきました。こうした営みは人間に置き換えれば大変残酷なようにも思えますが、これに近いような種を守るための営み、これは様々な昆虫、動物、そして我々人間にも当てはめることが出来ます。

『父母恩重経』というお経の中に「究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩」というのがございます。これはどんな状況にあっても親は子供のことを思い 憐れむというご恩であります。己、生ある間はこの身に変わらんことを思い、己、死にさいてはこの身を守らんことを願う。亡くなってもなお、あの世から残された私達を常に見守ってくれている。

姥捨て山伝説の中に「自分を担いで山に捨てに行く子供が、帰り道、道に迷わないようにその後ろで枝を折っていく」というシーンがございます。どんな状況にあっても自分よりも子供という親心であります。

そうした親の恩に報いるためにも、私達は親から学んできた学びというものを、後世に伝える役割がこざいます。そしていつかは我が身、残された我々をあの世から見たときに、悲しまない生き方、暮らしぶりをしていくということ。現在、社会が生み出す猟奇的な犯罪があとを絶ちません。こうした時代だからこそ、意識的につながってきた命に対して学ぶ必要があるのです。